鬱になる構造がわかった。
気持ちのいい人に会った。一人はフラダンスをやっている女性で、一人は格闘技をやっている男性。フラダンスをやっている女性はキムタクに会いたいと言った。キムタクに会って「好きです」と言いたいと言った。横浜流星君にも会いたいと言ったが、横浜流星君には恥ずかしくて「好きです」とは言えないと思うと言った。一緒にいて気持ちのいい人は、嫌いなことよりも、好きなことについて語ることが多い。愚痴や不満を語る時も、生命力たっぷりに語る。そんな人と飲む酒は美味いし、心の栄養になる。
格闘技をやっている男性は、仕事に疲れて悩んでいる人を見ると「俺と一緒にスクワットしましょう」と言う。頭ではなく、体で突破する。鬱病になった男性が、どれだけ本を読んでも人に会っても症状はよくならなかったのに、木こりの知り合いと一緒に巨木をチェーンソーで倒したら完全復活を遂げた話を思い出した。鬱病の元凶は「なりたくないものになろうとする」ことにある気がする。本当は普通になんてなりたくないのに、普通にならなければ生きていけないと思い込まされて、普通になることを自分に強いて、無理をして倒れる。心が「そっちじゃないよ」と、病気になることで教えている。
一緒にいて楽しい人と、一緒にいて苦しい人がいる。自分の好きがわからなくなると、一緒にいて苦しい人といても「苦しいと思う自分が未熟なんだ」と思って、我慢をしたり努力をしたりするようになる。あるいは、何も感じないように自分の心を麻痺させる。嫌いを殺すと、好きも死ぬ。一緒にいて苦しい人との時間を減らすと、一緒にいて楽しい人が現れる。嫌いに満たされた心に空白ができると、余白に「好き」が舞い込む。どれだけ多くの人が「この人はダメだ」と思っている人でも、一緒にいて楽しいならその人は正解。どれだけ多くの人が「この人は立派だ」と思っている人でも、一緒にいて苦しいならその人は不正解。ナビゲーターは自分の心。もう一度会いたい人とは、憩える人。
格闘技をやっている男性から、日本で戦争が起きたらどうするか聞かれた。男性は、もしものために畑をやっていると言った。卑怯者の私は「畑をやっている人の友達になる」と言った。自給自足には憧れるが、自分が後先を考えられる人間だったら、こんな生き方はしていない。死んだら死んだでそこまでである。運の尽き。かと言って、死にたい訳ではないから、意識を不食に切り替える。食べないと死ぬと思うと、本当に死ぬ。食べなくても別に死なないと本気で信じることができたら、きっと、死なない。格闘技をやっている男性は「肉体は本体ではない」と言った。格闘技をやっていない私も「本当にその通りである」と同意した。意識と呼ばれるもの、気と呼ばれるものが、現実を作る。
男性から「男として生まれたからには、何か大きなことをやりたいと思うことはあるか」と聞かれた。私は「大きなことをやるというより、大きなことを言いたいと思う」と答えた。非常時になると、様々な人々がジタバタする。失ったものを嘆いたり、未来を恐れて不安になる。そんな時に、何も根拠がないまま「俺が来たから大丈夫だ」と言いたい。日本には坂爪圭吾がいると言いたい。根拠のある大丈夫ではなく、根拠のない大丈夫を言いたい。根拠のある大丈夫は、根拠がなくなった時に脆い。だが、根拠のない大丈夫は、根拠がないから無敵である。大事なことは、どれだけ本気で信じているかである。信じることのできていない言葉を口にすると、聞く人は、嘘を見抜く。恐れを見抜く。私の仕事は、私たちは大丈夫であるということを、心の底から信じることである。信じられた度合いだけ、私の働きは加速度を増して、衆生の人々を救うのである。私は鬱病にならないと思う。鬱病になる前に、お迎えが来ると思う。
おおまかな予定
10月4日(金)福岡県福岡市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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