今年1月に起きた航空機事故 安全への教訓となっていたのは…
今年1月、羽田空港に着陸した乗客・乗員379人を乗せたJAL516便が海上保安庁の小型機と衝突した。衝突した516便はエンジンから炎上。乗務員たちが的確に指示を出し、脱出口8つのうち3つのドアから18分の間に379人全員を脱出させた。それは訓練の賜物だったという。
日本航空が長きに渡って受け継いできた空の安全。今年新社長に就任した鳥取三津子氏は「これは絶対に風化してはいけないもの」と、鳥取氏が入社した39年前の事故の教訓でもあると語った。
それは大型旅客機が墜落したJAL123便墜落事故。ジャンボジェット機の123便に一体なにが起きたのか。それを知る大きな手掛かりがブラックボックス。これには、航空機事故の原因を探るためコックピット内の音声が録音されたボイスレコーダーと高度、機体の傾き、操縦桿の操作量など、64項目が記録されたフライトデータが入っている。それらと生存者たちの証言などを元に、事故発生から墜落までを再現ドラマで紹介した。
1985年8月12日、この便はほぼ満席の509人。コックピットの運航乗務員は、昇格訓練を兼ねての乗務だった将来有望な副操縦士と、副操縦士席に座ったのが教官業務だった機長。後ろには、計器類の監視などを行う航空機関士。123便の操縦は副操縦士が担うことになっていた。
離陸してから12分。機体は巡航高度である2万4000フィート、約7300mに近づいていた。突然の衝撃音と煙が。そのとき、コックピットではスコーク77というなんらかの緊急事態が起きたことを航空交通管制部に伝える信号で、当時の運輸省が管理する救難調整本部(RCC)に連絡。空の異常事態は当時この救難調整本部から警察庁、海上保安庁、防衛庁に伝えられ共同で対策にあたることになっていた。
すぐに衝撃音の原因を探った。まずギア、つまり車輪の異常を疑うが5本のギアは全て上がっていて、ドアも閉まっており異常はない。
衝撃音の原因は全くわからなかった。機長は羽田に戻りたいと要請。そのとき機体は相模湾から伊豆半島に差し掛かった地点にいた。そして副操縦士は右旋回のため操縦桿を右に切っていた。だが機体は、その操作以上に大きく右に傾き始めた。副操縦士は操縦桿を逆に切ったが、機体が戻らない。安定した飛行に最も大事な垂直尾翼の約6割が吹き飛んでいたのだ。
123便の機体は操縦桿などの操作は油の圧力により遠隔でコントロールできる仕組みになっていた。例えば操縦桿を右に動かすと、油圧で力が伝わり、エルロンと呼ばれる補助翼が動き、右に傾き旋回する。だが、123便は垂直尾翼と共に油圧配管が吹き飛び油が漏れ出ていた。それにより思った通りのコントロールができなかった。それでもわずかに残った油によって、傾きは戻った。
123便の油圧は4系統あった。油圧に関しては2系統までは失われても着陸できるよう設計され、パイロットもそのように訓練していた。コックピットは緊急降下を宣言。管制官が緊急事態での確認をするも返答がない。このとき4系統の油圧が全て使えなくなっており、パイロットにとって前例のない状況だった。
突如起こったのは激しい横揺れ。それは、ダッチロールと呼ばれる現象だ。機体の傾きがブランコのように交互に振れ機首も左右に動いた。通常の飛行でも、気流の乱れなどで起こることがあるが、自動的にそれを制御する装置があり旅客機では現象として現れない。万が一自動制御できないとしても傾きの逆に操縦桿を操作し、機首の振れに対しては、垂直尾翼のラダーを動かせば揺れは収まる。しかし、123便は垂直尾翼の大部分が吹き飛び、加えて油圧を失ってしまった。そのためダッチロールを制御する術がなかった。
さらに、垂直尾翼を失ってから123便は高度7000m付近で上昇と降下を繰り返している。これはパイロットの意思とは全く関係ない動きで、フゴイド運動というものだった。
123便はエンジンに異常はなかったため、機長らは高度を下げるため出力を落とすことができた。すると、機首が下がって降下を始める。飛行機が降下していくと、重力の影響で滑り台を滑るように徐々に速度が増してゆく。速度が増すと、飛行機は浮こうとする揚力が増す。それにより機首が上がり勝手に上昇してしまう。だが、エンジンの出力は下げているのでやがて速度が落ちて機首が下がり、降下に転じる。そしてまた滑り台を滑るように再び速度が増していき、再び揚力で浮き上がる。これを繰り返すのだ。
本来操縦桿を前後に動かすことで機首の上げ下げを行っているため、フゴイド運動が現れることはない。だが、油圧をなくし機首の操作ができない中この便はフゴイド運動を抑えることもできなかった。
機長は操縦不能と管制官に伝えた。しかし、副操縦士はコントロールできていないことはわかっているが操縦桿を握るしか術がない。爆発音がした18時24分以降、操縦桿はずっと左右に激しく動いていた。激しく揺さぶられる客席。家族に宛ててメッセージを書き残す乗客もいた。
衝撃音から7分後、機体は駿河湾を超えたところ。機体は右へ旋回し北へ向かい始めた。このままUターンすれば羽田だったが、これはおそらくパイロットがコントロールしたわけではなく、このときのフライトデータから4つのエンジンの出力を見てみると、なぜか最も左のエンジン出力だけ少し高かったことによる。左が高ければ飛行機は右に旋回し、ダッチロールは激しさを増し、傾きは最大40度に達する。
123便はフゴイド運動によって高度約7000m付近から降下できずにおり、客室の酸素マスクの酸素量に限界が来ていた。また、コックピットの乗務員は最後まで酸素マスクをつけなかったと考えられた。事故調査報告書によると、酸素マスクをつけなかったことで低酸素症の症状が現れ判断力や操作能力が低下していたと推定している。
酸素マスクをつけなかった理由は明確にはわからないが、操縦不能の原因追求と、飛行姿勢の安定のため操作に専念していたからではないかと考えられた。しかし、フゴイド運動によって高度を下げることができない。そこで航空機関士が「ギアダウンしたらどうですか?」と提案をする。車輪を下ろし、その分の風の抵抗を受けることで降下時の速度を抑え、安定して降下しようというものだった。それは、電動でロックを外し車輪自体の重みで出すこと。一度出したら油圧がないため元には戻らない。バランスを崩したら墜落するかもしれない。それでも、やれることをやるしかなかった。
この時、123便は安定して降下。フゴイド運動もダッチロールも収まっていた。ただし降下の方が神経を使うため、管制とやり取りする余裕はなかったと考えられる。そのころ、米軍横田基地から無線が入る。横田基地は緊急着陸の受け入れ態勢を整えていた。このまままっすぐ行けば横田基地だった。だが機体は左へ旋回。横田基地からも羽田空港からも遠ざかっていく。この原因を、フライトデータから読み取ることはできなかった。
これまで主に右旋回していた123便は、風の影響なのか左に曲がり横田基地からも、羽田空港からも遠ざかっていった。機体をコントロールする術はなく、123便は降下しながら機首を御巣鷹方面へと向けた。そこは、2000m級の山々がそびえ立つ山岳地帯。山が迫ってきて、スピードを出して機首をあげるしかない。山から離脱するためエンジンは全開になり、機体は一気に約2100mまで上昇した。しかし急上昇によって機体が不安定になり、またしても激しいフゴイド運動とダッチロールが発生。姿勢の安定性が失われ失速し急降下。
時速は約500kmで、山肌まで数百mのところでギリギリで機首を上げる。上昇に転じたが、今度はスピードが下がりだす。速度が落ちて機首が下がれば再び降下に転じる。山岳地帯でのフゴイド運動が起きるがこのときクルーたちは対処法を掴みつつあり、エンジンの出力だけで機首を操作した。
副操縦士は「フラップは?」と聞いた。フラップとは、速度が遅い状況でも揚力を生む装置のことで、フラップを出せば上昇によって速度が低下しても高度を保つことができるかもしれなかった。そして電動で動かすことができる。しかし、ここでバランスを崩せば墜落する。ここで管制所とコンタクト。地上も不時着の態勢を整えていたため、このまま山を越えれば希望が見える。
しかし機体は一気に傾いた。ゆっくり下りていたフラップが急激に下り、しかも左のフラップだけが先に下りたと考えられる。すると左にだけ大きな揚力が生まれ、機体は一気に右に傾いた。傾きは80度に達しそして失速。一気に急降下を始めた。
速度は約630km以上、エンジン全開で機首を上げる。すると、ギリギリで機首を上げ始めた。そして123便はレーダーから消えた。123便がレーダーから消えてから18分後、近くを飛んでいた米軍輸送機が山肌から炎が上がっていることを通報。その6分後に航空自衛隊の戦闘機が確認のため緊急発進し、炎を報告した。
午後10時過ぎ、日本航空は墜落場所を公式に発表。その場所は長野県の御座山北斜面。それは後に異なっていたとわかる。その山がある北相木村の役場には対策本部が設置された。11時30分には陸上自衛隊約1000人が到着。捜索にあたったが、機体が発見できない。情報は入り乱れ、警察も自衛隊も各局の報道も混乱していた。当時は、ヘリや飛行機の位置の特定には基地局にあるTACANという無線から電波を飛ばしヘリなどが受信することで距離と方位から現在地の座標を割り出していた。だがTACANの位置情報には誤差があったのだ。翌朝5時ごろ、日の出とともにようやく正確な位置が群馬県だと伝えられた。
生存者は4人。10代の少女、20代の女性、30代の女性とその娘。123便は手前の稜線にエンジンをぶつけたことで逆さになり、機体前部は尾根に直撃したが後部は山肌を滑り落ちていた。事故調査報告書によると、直撃を免れたことで、機体の後の方にかかった衝撃は前方よりかなり少なかったと推測された。
一体なぜ123便は突如尾翼と油圧を失ったのか。事故から2年後、当時の運輸省が管轄する事故調査委員会は事故調査報告書を発表。そこで原因と推定されたのは、後部の圧力隔壁に空中で穴が開いたことだった。
飛行機は主に高度1万m程度を飛んでいて、そこは気圧が低く、空気も薄いため長時間いると酸欠になり気を失う。一方機内の空気は、地上の状態に近くするため圧縮されている。その圧縮空気が外に漏れないように壁があり、それが圧力隔壁と呼ばれるもの。これになぜか空中で穴が開き、機内の圧縮された空気が一気に噴き出たことで垂直尾翼を破壊したと考えられた。さらに、後部に集中していた油圧ポンプ4系統すべてを吹き飛ばしたと思われた。
では、なぜ圧力隔壁は壊れたのか。そのきっかけはこの事故の7年前に遡る。1978年6月2日、大阪・伊丹空港で後の123便の機体は着陸のとき機首を上げすぎて機体後部を滑走路にこする"しりもち事故"を起こした。この事故で死者は出なかったものの後部圧力隔壁の下半分が壊れていた。
その修理を担当したのは、飛行機を開発したボーイング社の作業員40人程。行ったのは、壊れた下半分の隔壁を取り換え上半分とつなぎ合わせるというものだった。指示書にはまず、上の隔壁と交換した下の隔壁との間に一枚の継ぎ板を挟み、ここに3点、リベットを打ち込むことで上下それぞれ2つのリベットで固定するよう書かれていた。
しかし実際に行われた修理は継ぎ板が切れていた。これでは当然補強強度が落ちてしまう。明らかな修理ミスだった。そして、7年間の金属疲労によって圧力隔壁のつなぎ目から亀裂が入り一気に破壊されたとみられる。
そして、そのミスを日本航空も点検で発見することができなかった。遺族たちは、日本航空、ボーイング、運輸省の幹部らを業務上過失致死傷で刑事告訴。その後書類送検されたが、結果は嫌疑不十分のため不起訴だった。不起訴になった最大の理由はボーイングからの事情聴取ができなかったことだった。アメリカの場合、航空機事故などが起きると再発防止のため摘発より司法取引をして真実を明らかにするのが一般的なため、その制度のない日本では難しかったという。その後ボーイングは「しりもち事故の修理ミスに対しては賠償義務を認める」とし、日本航空も責任を認め共に遺族に賠償金を支払った。
今年1月、アメリカで撮影された飛行中の機内映像には、ドアが空中で吹き飛んだ様子が。乗客7人と客室乗員1名が軽傷を負った。事故調査の暫定報告書によると、事故機にはドアを機体に固定するボルト4本がもともと取り付けられていなかった証拠が見つかったという。この飛行機はボーイングの最新機・ボーイング737MAX。ボーイング737MAXは2018年にインドネシアで、2019年にエチオピアで連続墜落事故を起こしていた。その原因は共に飛行機の制御システムが誤作動を起こしたことと考えられた。これらの事故を受けボーイングは制御システムを改修も、2022年に運航が再開されたばかりの時に今年の事故が起き、CEOは退任し安全対策を強化するため今後3年で少なくとも約730億円を投資するとした。現在、ボーイングは新たなCEOの下安全と品質を中心に据え立て直しに取り組んでいるという。
123便の墜落場所、御巣鷹の尾根と名付けられた場所は群馬県上野村にあり、犠牲者鎮魂のために去年御巣鷹の尾根の管理人たちが飾り付けた風車がある。
遺族たちは、事故の4か月後、8・12連絡会という組織を立ち上げた。会の目的は、遺族同士が支え合うこと、事故の風化を防ぎ空の安全を守ることだ。8・12連絡会が発行する会報誌「おすたか」は現在100号を超える。事故機体の残骸などを展示した安全啓発センターを日本航空が作ったのは連絡会の訴えが実った結果だった。日本航空は事故の後、教訓を生かし、整備・点検を強化して安全運航に努めている。さらに、日本航空グループでは社員も安全啓発センターと御巣鷹の尾根で研修を行い空の安全への意識を高めている。こうして日本航空の安全への意識は39年間受け継がれてきた。それが、今年1月の事故で乗客乗員が全員無事という結果に繋がったのかもしれない。