序章
第3章開始です。
よろしくお願いします。
エルベリア帝国西方グランデン領を守護する大英雄クロード・デュラスの屋敷。
とある日の夜、ナスターシャはベッドの上に寝転がるシャルロットを見つめながら、上機嫌そうに囁いた。
「ねえ、私のシャルロット? いつもはお話をねだってくる時間なのに、今日はもうぐっすりなのかしら?」
すやすやと眠りこける青髪の少女の姿はとても愛らしかった。
毛布をどけて、仰向けになりながら、何か楽しい夢でも見ているのか口許に笑みを浮かべる少女。
いつまでも見つめていたい欲求に駆られながらも、まずは少女が風邪をひかないようにしてあげなければならないだろうと思った。
物音を立てないように、ゆっくりと毛布をかけてあげてからその無防備な姿の少女の頬に軽くキスをして、ナスターシャは踵を返した。
一歩。歩を進めた、その時。
「母さまー!!」
「きゃあっ!?」
後ろから何かが突撃してきてナスターシャは悲鳴を上げながら転びそうになるのを何とか堪え――自分の身体に抱きついている青髪の少女を見下ろし、すりすりと頬ずりをしてくる少女を引き剥がして、床に下ろした。
そして、そんな少女と視線を合わせるために膝を曲げて、少しだけじと目になりながら愛くるしい笑顔を浮かべているシャルロットに問いかける。
「シャルロット? いきなり何をするの?」
「母さまをびっくりさせようと思ったの!」
えへへと笑いながら返してくる少女。
あまりにも無邪気なその態度に、ナスターシャは「もう」と溜息を吐きながらも少女を抱き締めて言う。
「心臓が口から飛び出るかと思ったじゃない。シャルロットのせいで、危うく母さまは天に召されてしまうところだったわ」
その言葉を聞いて、シャルロットはちょっとだけ寂しそうに言う。
「う……ご、ごめんなさい、母さま。わ、わたし、ちょっとだけ母さまをおどろかせたくて……」
だんだんと泣きそうな声になってくる少女を力強く抱き締めながら、ナスターシャは娘の頭をよしよしと撫でる。
「ふふ、いいのいいの。怒ってないわ。シャルロットがイタズラ好きなのは今に始まったことじゃないもの。私はそんな風に、元気いっぱいなあなたが一番好きよ?」
「……ほんと?」
「ええ。でも、イタズラをして他の人を怒らせるようなことをしてはダメよ? 母さまとの約束。ね?」
「うん……!」
力強く抱きついてくる少女をかかえてベッドに横たわらせ、自分もベッドに入る。
すると、いつものようにシャルロットが興味津々とばかりに訊ねてきた。
「ねえねえ、母さま。今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
「ふぅむ……そうねぇ。母さまの目下の悩みどころはそれかしら。あなたに聞かせるお話で、何かいいものはないかって」
色々な神話や伝承を聞かせてきたが、それも毎日のように続くとあってはだんだんと話すことがなくなってしまう。
しかもこの少女は記憶力がいい。聞かせる話の内容に困ったナスターシャが、1年ぶりに話す内容をさも新しい話のように語り始めた途端に、少女は小首を傾げながら言うのだ。
『それ、前もきいたよ?』
思わずぐぬぬと唸ってしまうナスターシャは、その日の話の内容を選定するのに凄まじい労力を使ったのは言うまでもない。
時間をかけて思い出した、エルフの国の森にある湖の他愛もない伝承を思い出して語り始めた瞬間、シャルロットはうんうんと2回頷いたきり反応しなくなった。
どうしたのかと様子を窺うと、シャルロットはナスターシャの胸に顔を埋めてすっかり眠りこけていたのだった――。
その伝承は今の今まですっかり忘れていた。
今晩の話はそれにしようかとも思ったが、残念ながら内容は短いし、この幼くも聡い少女にとっては刺激不足だろう。
シャルロットも、成長した。
ならば、これまではあえて聞かせてこなかった類の話をしようか。
この少女なら、その話の内容に怯えて眠れなくなるということもないだろうから。
「ねえ、シャルロット。エルフの国のことは知ってるわね?」
「ツェフテ・アリアー! きれいな女王さまがいて、おっきな森があって、きれいな湖があって、精霊さんがいて……んー? エルフがいっぱいいる!」
「ふふ、そうね。そんな感じ。まあ、あの女王さまは、きれいというよりは可愛らしいという感じだったけれど」
「? なんのお話?」
「なんでもないわ。今夜は、あの国に伝わる神話を話しましょう。題名はそうね――『エルフの女王と、双子の邪神』」
「ほほー……」
感心するような、よくわかっていないような、そんな微妙な声を出すシャルロット。
ナスターシャは、娘の頭を優しく撫でながら語る。
「昔々、エルフの王国は大いに栄えていました。豊かな自然の恵みと、透き通るような美しい水に、精霊たちの加護、そして彼女らの主神である慈愛の女神『ミスティリア・ティスティ』さまによる祝福が、エルフたちを優しく包み込んでいたのです」
「ほー……」
「しかし、そんな栄華の陰から不気味な者が現れました。後に双邪神と呼ばれるようになる彼らは、2柱の神であったのです。しかし絶世の美女と謳われる主神とは違い、その巨大な身体はどろどろに腐り、至るところから骨が突き出し、鼻を突くような凄まじい悪臭を漂わせていたのだとか」
「えぇ……」
見目麗しいエルフたちの優雅な姿を思い描いていたであろうシャルロットは、突然現れた気味の悪い邪神の姿や匂いを想像して困惑したような声を出した。
「双子の邪神は、腐食の力を持ち、美しい大森林や湖をあっという間に腐らせてしまったのです。彼らの要求はエルフの美しい娘を生贄として捧げよとのものでした。エルフはそんな邪神たちを説得しますが、彼らは要求が受け入れられない限りはこの地を腐らせ、やがてはエルフの国全体をも腐食の力で呑み込んでしまうというのですから堪ったものではありません」
「……腐ってるの……?」
「それはもう。邪神の腐った身体には当然ハエが……こほん。さあ、話の続きをしましょうか」
「……」
シャルロットは「何故そんな話をした!」と無言で抗議の眼差しを向けてくる。
そんな彼女を宥めるように撫でながら、話を続けた。
「エルフは自分たちが非力であるということを嫌というほど実感させられました。それは彼女たちが崇める慈愛の女神の影響がエルフ全体に浸透しているため、相手を傷つけるのが難しいからというのも大きな理由の1つ。しかし、そんなことはお構いなしとばかりに腐食の範囲は拡がっていき……エルフは遂に生贄の娘を差し出すことにしてしまったのです」
「……かわいそう」
「美しいエルフの娘たちが生贄として捧げられ、彼女たちの親族や婚約者は邪神を倒そうとして返り討ちに遭ってしまいました。そんな日々が何年も続き、エルフの民たちは疲弊して、腐食の力を使わずとも国が滅びかねない事態に陥ったのです。エルフの女王は、遂に主神に『力を求めました』」
「力?」
「……そう。何者をも倒してしまうような力を。それは争い事を厭う主神を相手に決して願ってはならないようなことでしたが、国の惨状を見ればそんなことは言っていられません。何事も、綺麗事だけでは済まないこともあるのです」
シャルロットが少しだけ悲しそうに表情を曇らせた。
「エルフの女王は長い年月を祈ることにだけ費やし、そして――主神から、弓を授けられました。それは神剣とはまた違った、神が創りたもうた弓であり、神弓と呼ばれるようになりました。女王はそれを手に、軍勢を率いて双子の邪神を討伐することにしたのです」
「それでそれで?」
「数多くの犠牲を出しながらも、神弓の一撃を一身に浴び続けた双子の邪神はその腐った身体を崩壊させていきます。ですが、邪神には彼らの存在をこの世に顕現させると言われる核があるということを、その時のエルフたちは知らなかったのです」
大人しく伝承を聞くシャルロット。
ナスターシャは、物語を終幕へと導くかのように語り続ける。
「邪神たちはその身体が崩壊しても、核がある限りは再生してしまう。そのことに気が付いたエルフの女王は、最期の力を振り絞って双子の邪神の核を射抜き――そのまま、力尽きて倒れてしまいました。そして、邪神たちもまた核を射抜かれたことにより、とうとう身体を再生することも出来ずに朽ち果ててしまいました」
「相討ち……?」
「それなら、まだ良かったかもしれないわね」
娘の疑問に答えるべく、ナスターシャは結末を語った。
「エルフの女王の死に誰もが嘆き悲しみながらも、邪神の腐食による脅威も去ったことによってツェフテ・アリア王国の崩壊という最悪の事態は免れました。しかし、双子の邪神は自分たちの身体が完全に崩れ落ちる前にこう語りました。『腐食は終わらない』と」
「うんうん。それで?」
「お話はおしまいよ?」
「えっ……! なんでなんで! 邪神さんはいなくなったのに、どうして腐るのが止まらないの? ……あ、でも、今のエルフたちの国は腐ってないよ!」
必死に状況を飲み込もうとするシャルロットを微笑ましく思いながら、ナスターシャは呟く。
「あえて後日談を口にするのであれば、その後、エルフの王族たちは邪神が蘇らないように常に警戒しているのだとか、いないのだとか?」
「なんでそんなにいい加減なのー!! しんじゃったエルフの女王さまのがんばりは何だったのー!?」
「だって、私はそれ以上のことは知らないもの~」
おどけるナスターシャの態度を見て、シャルロットは頬を膨らませた。
「なんか、もやもやする~!」
「うふふ。悶々とした気分を味わいながら寝るのもたまには悪くないかもしれないわよ?」
「母さまの意地悪ー!!」
ぽかぽかと胸を叩いてくるシャルロットをあやしていると、彼女はだんだんと眠りの誘惑には抗えなくなってきたのか、ふにゃりと脱力してそのまま眠りこけてしまった。
その背中をとんとんと叩きながら、ナスターシャは呟く。
「――腐食の力は未だ衰えを知らない。王家の施した封印は既に力を失い、そう遠くないうちに邪神は復活するでしょう」
遥か彼方にあるエルフの国の方角を見やりながら、嘆息する。
「神弓の力を以てしても討伐するに至らなかった。そして、1000年以上も続く腐食の力。恐ろしいほどの力を持った邪神――そう呼ばれるナニカは、どうしてエルフの国を襲ったのでしょうね」
ナスターシャは「そもそも」と呟いた。
「どうして、そのような力を持った者が顕現したのか。その腐食の力は、エルフを支えた大自然の力とは逆のものといっていい。まるで、エルフたちの栄華を妬むかのように現れてそれを破壊しようとした邪神とは何だったのか」
ナスターシャは、眠りこける愛娘の寝顔を眺めた。
「エルフにとっての脅威は邪神による腐食だけに留まらず、500年前には『ミラの血潮事件』による『末期の雫』製造を発端とする天魔の発生が起きた。そして、いずれまた……」
ナスターシャは溜息を吐き、物憂げな様子でシャルロットを撫でる。
「……あの大森林はとても美しいところよ。いつか、あの人とシャルロットと私の3人で一緒に行きたい。そう願ってやまないわ」
今日は最愛の夫は帰ってこない。まだ軍務が落ち着いていないのだから無理もないだろう。
心の中でわかってはいても、それが何だかとても心細いような気がして、ナスターシャはそれからしばらくシャルロットの傍を離れることが出来なかった。
今後は投稿時間が7時固定からランダムになります。ご了承ください。