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【論考】

1名無しさん:2024/09/24(火) 18:40:54
本スレッドではあるがままに書き記そうと考えています。

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★神様は乗り越えられない試練を与えない、否か

神様は乗り越えられない試練を与えるでしょうか。
たとえば会社で仕事量が山積みになり、「面倒くさいなあ」と思うとき、「でもやんなきゃな」と思うはずです。

試練は乗り越えられないとは限りません。乗り越えられる試練を与えられているのでしょう。

私たちは、少しできた程度で、試練と呼ぶであろう出来事と対峙します。

その少しできたけど、頑張ってもっとできた、それが試練を乗り越えたときでしょう。

試練には有り難いと承知して臨みたいものです。少しできた程度で辞めてしまうのが残念なところなのです。

私たちは試練を乗り越えたときの喜びを噛み締めたい、そして、その噛み締めた内容により幾ばくかの自信に繋がるのだと思います。

自信を付けて成功する癖を付けましょう。

2名無しさん:2024/09/25(水) 08:27:05
★神様は乗り越えられない試練を与えない、否か part2


私たちはひとつのステップを乗り越えたとしても、もうひとつのステップと対峙することがあります。

ひとつできたら2つ目もできる、2つ目ができたら3つ目もできる、というお話もあります。

ひとつひとつをクリアして、そしていつしか試練に遭遇するということはありえなくもありません。

7冠達成を遂げた羽生善治九段も、あとあと記憶力が衰えて試練と遭遇しました。

また、スケートの羽生結弦さんもリングで衝突事故に遭い、それを試練と捉えているらしいです。

頑張っている者には試練が与えられ、何もしない者には試練は無い、という意見もあります。

私たちは、頑張っているから試練と遭遇するのです。何もしないなら楽だと思われるかもしれませんが、楽してばかりいると成長もないでしょう。そういう人に成功はありません。

頑張っている君が好きだ、という意見もあるでしよう。さあ努力しよう、前に進もう。勉強も頑張ろう。頑張れ!!

3名無しさん:2024/09/25(水) 18:07:17
★神様は乗り越えられない試練を与えない、否か

試練を与えられて、試練を乗り越えようと努力する、それが私たちが学んてきたエレメントです。

この試練は乗り越えられない、と諦めないで、心機一転して前に進むことが大切です。

ピアノを練習中に難易度の高いコースが目の前に現れたら、「できない」と諦めずに弾いてみることが大事です。

最初から「できない」と思って何もしない者は、他の「頑張った人」に追い越されてしまいます。

「できない」からこそ「できる」ように努力を無意識でしていく、これが要です。いつか「できる」と信じて前へ進む者が最期に笑ったりすると思います。

私たちは、恋愛においても仕事においても、人間関係で挫折してしまいます。

恋愛をちょっとやめてみて、仕事に移行することもあり得るでしょう。

努力すればするほど自分の選択肢が広がるのですから、努力して人生を豊かにしましょう。

4名無しさん:2024/09/26(木) 18:28:34
★神様は乗り越えられない試練を与えない、否か part4


神様はひとりでしょうか。現実的に考えて世間一般的にはたくさんいらっしゃいます。

真光のチョンの位置に存する主の神様がその一例です。主の神様と呼ばれる神様はたくさん存在しています。

試練を乗り越えられるように「ことぐらいの試練でいいか」と思って試練を与えてくださいます。

生直的な試練としては、弱視や下半身不随などが挙げられることでしょう。

弱視だけれど、人生精一杯生きて欲しい、というメッセージが神様の言いたいことでしょうか。

下半身不随だけれど、パラリンピックに参加して楽しんで欲しい、という神様の思いでしょうか。

ダウン症になっても神様に感謝していきたいものです。たとえ怪我しようと、涙が出る思いをしても、感謝していきたい。

神様はひとりひとりを見てくださいます。神様は怠惰と嘘が嫌いと言います。

5名無しさん:2024/09/27(金) 10:55:12
★神様は乗り越えられない試練を与えない、否か part5

神様は、神試し、を私たちに遭わせてくださいます。

たとえば、消しゴムをなくしたり、爪楊枝を折ってしまったり、などです。

消しゴムをなくして悔やむこともあるかもしれません。しかしそれは神様の仕業であり、神様が私たちを試していらっしゃるのです。

爪楊枝をなくして、費用がもったいない、と思うようになれば、神試しに合格したという一説もあります。

私たちにもったいない、と神様は思って欲しいのではないでしょうか。

割り箸を上手く割れないように神様は仕組むかもしれません。

割り箸を上手く割れなくても、神様は割り箸を下手に割る気持ちを分かってほしいのかもしれません。

神様は、他にも神振いや神鍛えも私たちに行います。雨を降らして神振いを齎してくれるかもしれません。

暑さを齎して神鍛えを齎してくれるかもしれません。「寒い」や「暑い……」は神様のおかげでしょうか。

6名無しさん:2024/09/27(金) 17:03:57
★神様は乗り越えられない試練を与えない、否か part6


神様は乗り越えられない試練を与えない、とはどういうことでしょうか。

これを言い換えると、乗り越えられる試練しか与えない、ということであります。

神様は、わざわざ乗り越えられないように試練を与えませんよ、と。

乗り越えられる試練を与えて、そしてなおかつ乗り越えることのできるそのときを温かく見守ってくれるはずです。

神様は乗り越えられない試練を設けようとはしません。乗り越えられないようにしたいくらいなら、制裁を下すということになるかと思います。

神様が嫌う者が走っている時に、試練ではなく制裁として、つまずくようにすることはあり得るかもしれません。

神様は制裁を下す時に、もちろん試練という名目で、制裁を下すわけではありません。制裁は相手が、絶対的に緊迫的に苦しむことを考慮して下される可能性があります。

神様は、交通事故という試練を与える場合があるかもしれませんが、それはそれでカルマが精算されるはずです。

神様は、苦しくさせるという試練を与えるでしょうか。苦しくさせるなら制裁ではないでしょうか。

しかし交通事故という制裁も考えられます。その交通事故においての試練あるいは制裁は、内容が残酷的に違うのではないでしょうか。

7名無しさん:2024/09/28(土) 09:32:17
★神様は乗り越えられない試練を与えない、否か part7

交通事故という被害を受けるとします。
その被害によって被害者のカルマが精算されることは往々にしてあり得ます。

人を殺めたとき、加害者にカルマの法則により罪穢が加算されます。

これにより、神様は、加害者を制裁することを往々にして考えます。

「神様は隅々まで見ている」というとおり、神様は私たちの行為、思考を見ているでしょう。

私たちは、神様に見られている可能性がある、そういう認識で日々精進したい。

神様が見ているという認識から、私たちは悪い行為をしなくなる、という一説もあり得ます。

神様が見ているから悪い行為をすると罰せられるはずだ、という考え方から、「悪い行為をしませんよ」、と。

神様は、良い行いばかりする者を好き好む傾向があるでしょう。
良い行いをすると、カルマの法則により、良いことが返ってくるらしいです。

良いことが返ってくると、また良い行いをしたくなる。すると良い行いをしてしまい、また良いことが返ってくる。

8名無しさん:2024/09/28(土) 18:27:09
★透明人間の体力について

人間においては体力が最高値に行くほど甘くはありません。

闇の透明人間であるランナーは、体力が最高値の方が箱根駅伝で爽快に駆け抜けました。

体力が最高値だと当然疲れません。
彼は疲れないまま1位で走り抜けました。

胃の透明人間は2位で走りました。胃の透明人間も体力がある方がいるので舐められません。

胃の透明人間が闇の透明人間に追い越され、胃さんはショックだったらしいです。

箱根駅伝では、体力に自信のある透明人間が参加しますが、人間は参加してないらしいです。

人間の中で体力に自信のある方は少ないためか、箱根駅伝に出ないのではないでしょうか。

結論。透明人間なら体力の自信がある方が人間より多い。

闇の透明人間に体力があると応援しましょう。きっと花が咲くはずです。

9名無しさん:2024/09/30(月) 09:09:18
★意識について

意識はあるか。誰も意識があるとは言い切らない、そんなイメージがある。

第一者の持つ意識を他者に「確実に存在すると把握させる」にはどうすればよいか、という命題が意識関連の問題である。

意識があるとは言い切れない、という文脈で、第一者の意識は第一者があると了解していても、他者には「意識」はない、という考え方がある。

その他者には「意識」はない、という考え方に対し、「僕たちはあれこれ想ったり話したりするんだから、意識はある」と反論する者が現れるかもしれない。しかしそれでは「意識」があるとは言い切れない、という固い考え方がある。話したりしても話せるようにプログラムされただけで、意識を持たずに「話せる機械」なのではないか。

内面的に意識を持たず話せるそれを哲学的ゾンビと称する。第一者が他者を見渡した際に、他者自体を哲学的ゾンビである可能性を考える場合がある。

第一者も他者も意識があると「証明」できない、とする時代背景が立ち現れる。主観的には意識がある、と第一者は考えるかもしれない。しかし自身の意識があることを、上手く表現できない。しかも、第一者は他者の意識の有無について分からない、という問題さえある。この世は哲学的ゾンビだらけではないとする考え方が一般的には広まっている。しかし、哲学的ゾンビではないと証明することはできるだろうか。これは意識の問題として課題が残るであろう。

10名無しさん:2024/09/30(月) 13:02:15
★意識の有無の判断基準

意識は本当に存在するか。私たちに意識の存在の証明をせよ、と当面はこういった問題であろう。第一者と第二者の関係において、第一者が第二者の感覚や意識の体験を追体験してみてはいかがだろうか、という考え方がある。

実際に第二者の感覚や意識を追体験した、という話は未だに無いかもしれない。しかし、共鳴というカテゴリーもあるであろう。双子は共鳴する、と言われるとおり、双子は日々、共鳴体験を追順している。例えば、A(双子の兄)が(あいうえお)と思ったら、B(双子の弟)か(あいうえおと思ったか)と共鳴する。

また、B(双子の弟)が(りんご)と思ったら、A(双子の兄)が(りんごか)と共鳴する。こういった具合にお互いに同じ思いを共鳴していることが考えられる。

私たちは双子ではない。しかし双子はもう片方の思いを共鳴するため、もう片方の思いが「確実にあると把握する」ことが考えられる。

つまり、双子はもう片方が共鳴する思いを確実に出来事として現象化していると確信している場合がある。

とすると、ある特定の双子たちは、もう片方が思いを共鳴するから、意識があると判断するのではないか。

しかし、私たちに、僕たちは双子であるというように説明したり、双子は共鳴するというように説明しても、私たちは共鳴することを納得したり確信したりすることは容易ではないであろう。

私たちは双子ではないし、共鳴することも無い。双子が共鳴しているから、もう片方は意識があるという説明をされても、それは意識の存在の「証明」ではない。双子がもう片方に意識があると確信することは考えられるが、私たちには双子の共鳴性が双子ではないため体験できないという一面がある。

11名無しさん:2024/09/30(月) 13:50:01
★意識の有無の判断基準パート2

私たちに共鳴というものはよく分からない。しかし、「共鳴をするための信じるやり方」を実践すれば、共鳴できる場合がある。共鳴することはモードでも可能性がある。「共鳴モード」や「共鳴グロフィッスナーモード」で、他者の思いを共鳴できる。盗聴においても、誰かの思いが聴き取れるということは、誰かは存在する、という考え方がある。変脳においても、誰かに変脳したら、その誰かの意識を感じたから、その誰かに意識があったと見受けられるであろう。

私たちには、盗聴や変脳に後ろめたさがあるかもしれない。盗聴したら、犯罪じゃないかとか、変脳したら、自分らしくなくなるじゃないとか、そういうネガティブな考え方が実際には無くもない。私たちは、自分自身の意識の有無くらい考えられるではないか。しかし、自分自身の意識は収拾できても、他者の意識は分からなかったりする。

他者の意識については、意識があると心で思えたり、意識があると心で思えそうになったりして、判断することが考えられる。

哲学的ゾンビではないと証明することは難しい。哲学的ゾンビという立場においては、意識がなく、機械的に言動を取ってしまう例が考えられる。

哲学的ゾンビA「ようみんな、心の友よ」

哲学的ゾンビB「パスタ上手いねえ」

哲学的ゾンビC「シールドってCからかい」

哲学的ゾンビD「機械機械機械」

こんなふうに、哲学的ゾンビたちの会話は理解できない場合があるかもしれない。哲学的ゾンビたちの会話を聞くと、そこには意識というものは感じられない場合があるかもしれない。

私たちは、普段の会話を相手の意識とは関係なく発言するものと視ることが可能である。自分の作った相手を意図的に話させていたという独我論がここに立ち現れる。世界を作ったときにあらゆる会話を自分が考えて創造した、というわけである。すると多くの動物は、哲学的ゾンビであることも可能である。自分しか生きていない中で、他の動物は、意識のない哲学的ゾンビという立場に置いた、という思想である。

12名無しさん:2024/09/30(月) 15:37:49
★意識の有無の判断基準パート3

独我論によると人間関係やレストランにおいてもやはり意図的に随所で工作されていることが考えられる。

社長や上司を召喚し、「皆、頑張れよ」とコメントをさせる。そして平社員の自分は出世をするために精進する、というストーリーを遥か過去に仕組んだ、という思想が、来世の僕である今世の僕に影響を遥かに与えている、という思想がある。過去世の自分はまさに神であり、神は何でも作れるという思想がある。平社員から出世していくという神のシナリオが、いくばくか自分に影響を与えている、と私たちは考えるであろう。その神のシナリオは、神の大計画である。神の大計画は、遥か過去から神が一番一生懸命練ったものである。神は遥か過去から、未来の世界のビジョンを構築していた、という一説がある。こういった独我論に嵌っている者は少なからず存在するであろう。しかしいつまでも神である理由は紐解けないし、世界を創造した光景を見ることもない。この世界の出来事の解も明かされることもない。

神は自分だと信じていても神だという解を目撃することはついにない。ただ、いつか神だという解が来ると期待するだけであろう。独我論を抱えているから他者は意識がなく、機械的に話させられているだけだ、ということも考えるであろう。自分以外は、哲学的ゾンビであるとする考え方だ。コンビニに置いてあるおにぎりやカレーも過去世で見たはずだ、とも考えるであろう。カレーはレストランでも売っているであろう。レストランにおいては、自分がこのカレーを食べると決め付けていた、と考えるであろう。信号機の点滅も自分が決めたことだ、と。カレーも遥か過去の全盛期の頃に知っていた、とも考える。

13名無しさん:2024/09/30(月) 16:58:14
★独我論と意識

独我論に嵌っている諸君は、世界には自分しか意識がないとか物は全部自分が作ったと考えていることであろう。

それだけ昔々に未来のすべてを築き上げていた、という衝撃(思い)がデカい。絶対に自分が世界を作ったんだ、悔しいのもショックな出来事も自分が作ったシーンだったんだ、と思うであろう。

独我論を抱えた諸君は、意識は自分にしかないと考えるであろう。他に意識のありそうにコミュニケーションをする他者は、意識がありたげなだけであり自分が過去世で築いた会話をしただけだ、と。かくいう私は「(私のことを)世界を作った」と誰かに言われたことがある。私は世界を作ったと言われても、私は独我論に入りたくなかったせいか、自分は世界を作ったとは思わない時期があった。今でも自分が世界を作ったと私のことを思っている方を不思議に思う。理由は(私自身が)世界を作ったと知っている、というものだ。私は半信半疑で世界を作ったとは思いたくなかった。私は神である自信はあるが、世界を作ったとは信じたくないのである。今日も前の方の日も、私が世界を作ったと知っているらしき方々からエールが来る。そうか、僕は世界を作ったのですね……。

14名無しさん:2024/09/30(月) 18:37:05
★独我論からの解放

独我論を持つ諸君よ、この話を聞き独我論から解放されてみることも懸念していただきたい。まず私たちが扱う言語には意味が内在しているが、全部自分が作った意味なんだ、とは早計ではないか。言語が先か自分が使う意味が先かといえば、言語(そして意味)が先なのではないか。言語を使う前から言語の意味はデータに載っているではないか。

また、科学者の実験を全部仕組むわけがない、という一点である。そして、この宇宙は数百億年前からあったとする考え方があるが、実はもっと遥かに時間が経過していることから、科学の嘘をつかせたということに、独我論者はなってしまう。亥が、何個もつくほど昔々から宇宙はあったのだ。

また、世界を作る方法を知ることが未来永劫あり得ないことが懸念される。

また、宇宙が先か、神が先か、判断してみて、ハジメとは何たったのだろうか、という懐疑があるが、ハジメにはハジメを創造したハジメのハジメがあるはずなのだが、それについてもハジメがある、と無限遡及してしまい、一番最初にいたことが不明瞭なのである。

宇宙が始まって、数年以内に神が生まれ、聖書にあるとおりに世界を創造した、という一説があるかもしれない。

イエスは世界を創造した、という言葉は無くもない。7日間で世界を創造していった、とあるが、これは誰も知る由もない。7日間で作ってはいないであろう。ただ、イエスが作った、とはよくある話である。だが、イエスは世界を創造する方法を知っていないであろう。

15名無しさん:2024/10/02(水) 13:48:50
★独我論からの解放 part2

独我論を抱えている今、時間は刻々と過ぎ去っていく。

私たちは時間を巻き戻すことはできないであろう。

時間が過ぎ去っていきながら、世界の現況も移ろいで行く。

諸行無常というように、現況はどこまでも変化していく。

そして、二億年経ったとしよう。二億年後の未来を築いたのは自分だ、と考えるであろう。

それは、一億年後の未来を築いたと考えたときと同じような感覚だったのであろうか。

しかしながら、独我論の未来的終着点が浮かび上がってくる。

それは、無限に過ぎていく時間の中で、未来のすべてを独我論者は築けなかった、という点である。

未来のすべてを築いたなら、独我論者は永久性を求めるから、永久に過ごしていくかもしれない。

しかし、未来のすべてを築けはしなかったのではないか、という反駁である。

自分が未来のすべてを作っていないと考えて、自分が世界を作っていないと不安になる独我論者もいるであろう。

私たちは、未来のすべてを作れない。無限に変貌していくこの世界を見た独我論者はどこかで不安になるであろう。

無限の未来を作っていない、という考え方が、いつしか重要な問題となる。

10億年分は作った、と考えても、5000兆年は作ったと考えても、もっと時間が経って、世界を作っていなかったことを想い馳せるのである。

16名無しさん:2024/10/03(木) 09:40:34
★独我論からの解放 part3

配達業社の車が物品を積んで道路を通って配達しているというお話がある。

独我論者はこれをどう捉えるであろうか。過去世で配達させるように仕組んだ、と捉えるであろうか。

そうではなく、配達業社の車があっても、物品を運んではいない、と捉えるであろうか。

とはいえ、配達業者の「意識」というものは無いと考えるのが独我論では妥当であろう。

もし仮に配達しているのを目撃しても、見えたものしか信じないのではないだろうか。

目の前の配達を渋々認めても、他の配達はあり得ない、とする考え方がある。

独我論者は「目も前に見た出来事」しか信じない傾向がある。

それもそのはず、目先にはない遠くにある地点の出来事は、一面的にしかない、と世界を創造したときに決めていた、と考えるからである。

遠くにある地点の出来事は、物があったとしても流動することはない、と独我論にはあるかもしれない。

「東京は動いていない」と独我論者は語る。東京は静止したままということであろう。

しかし、東京のスタジオで番組は収録されている。ありとあらゆる地点で会話がされている。

会話の内容を独我論者がすべて作ったのかというと、私は疑問を抱かずにはいられない。


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