第56話「第二夫人との時間」
テネブラエ魔族国、暁の宮の地下で盟友の変わらぬ姿をしばし見守った後、私は地上に出た。
サタンの帰還からまだ7日も経っていない。まだまだ見守っていたいが、私にはやらねばならぬことがある。
ツェフテ・アリア王国へと赴き、赤星の煌めきを研究する者を探し出して女神とやらの正体を掴み取らねばならない。
遠回りなのは確実。だが、短期的な方法で奴を見つけ出すのは不可能だ。
恐らく、人間の中に紛れてどこかにいるのだろうが、その理由は一体何なのか。
まさか、私と同じく敵国の様子を探るためというわけでもあるまい。
奴が末期の雫と魔導生物、そして次元の裂け目に関係している以上、キアロ・ディルーナ王国に絡んでいる可能性は高い。
だが、判断材料が乏しい。もっと何か、決定打となるものがあれば良いのだが、事はそう単純にはいかないらしい。
好戦派の王族が抱いているような破壊衝動は私の中でも燻り続けている。それこそ、魔術大国もルーガルもゼナンも跡形もなく消し飛ばせばその正体の尻尾くらいは掴み取れるのではないかもしれないと何度考えたことか。
だが、その衝動に囚われていてはいけない。
奴の目的の1つに、我らが魔族の破壊衝動を目覚めさせて戦場へ向かわせるというものがあるのは間違いない。
衝動の赴くままに動けば、その時点で女神の思惑に乗せられることになってしまう。
結局は、人の姿を取って今一度この国を出なければ話にならないのだ。
出立は明朝と既に決めている。
またしばらくこの国から離れるにあたって、私は自室へと赴いた。
扉を開けると、黒髪を長く伸ばし、フリルがふんだんにあしらわれた黒いドレスを着ている少女がベッドに座っているのが目に入った。
彼女は赤い瞳を私へと向け、穏やかに微笑む。
「おかえりなさい、あなた」
「ジゼル……」
ジゼルは自らの膝を手でぽんぽんと叩いた。
私はまるで吸い込まれるようにして、彼女の膝に頭を乗せ、身体をベッドに横たえた。
「お疲れさま」
「……ああ」
ジゼルの優しい言葉が耳朶を打つ。
その瞬間、今まで全身にへばりついていたような疲労感が一気に全身を苛んだ。
「しばらくの間、テネブラエで休んでいた方がいいと思うわ」
「それは、出来ん……」
「あなたの身体の傷はすぐに回復するけれど、心はそうもいかないもの」
「私を前にしてそのような心配をするのは、お前くらいだな」
「……ふふ。鈍感さん」
「ん……?」
「何でもないわ。お気になさらないで」
くすくす笑うジゼルに頭を撫でられる。
その心地良い感触に身を任せて、そのまま何もかも忘れてしまいたくなった。
この心地良さには抗いがたい……。頭を撫でる手指の感触に強い安堵を覚え、優しく囁きかけられる言葉が脳内を甘く満たしていく。だが。
「ジゼル、私は明日にはこの地を発つ」
「……あなたが決めたことなら、止めたりしないわ」
私が姿勢を変えて見上げると、ジゼルの胸が目に入った。
レナと同じく大きいそれに手を這わせようとする。
「久しぶりに、じっくりとお前を味わいたいのだがな」
「私はいつでも歓迎するけれど、あんまりその気じゃないのがすぐにわかるわ。ふふ、ルミエルと過ごしていたのだから無理もないかしら」
「何度か我を忘れかけたが、今回ばかりは自制した……。だからこそ、お前を……」
私はそう呟いたが、ジゼルの胸に手を触れることなく、腕を下ろした。
脱力感が私の全身を襲っていた。
「無理をなさらないで。あなたの身体の昂りを癒やすのはルミエルとレナの方が得意だから……私はせめて、あなたの心を少しでも支えてあげたい」
「私が、不安定だとでも?」
「大事な親友は今も深い眠りに就いていて、好戦派の王族の意見を一身に受け止めて、ゆっくり休む間もなくまた他の国へと赴こうとしている。居場所もわからない仇敵を求める気持ちもわかるけれど、少しだけでもいいから何も考えずに休む時間も必要よ。たとえ、あなたが最上位の魔神だとしても」
慈しみの表情を浮かべているジゼルを見て、私はふっと口許を綻ばせた。
腕を伸ばして、ジゼルの頬を撫でる。
「生意気な口を利く女だ。もしも、今ではなく、昔にそんなことを言われていたら――お前もルミエルやレナのように手籠めにしていたかもしれんぞ」
「私はそれでもいいわ。愛するあなたになら、何をされても構わないから。たっぷり弄ばれた後に、私の方から求愛したかも……なんて」
私の手を両手で包み込みながら、自らの頬に押し当てたジゼルは穏やかに告げる。
「――愛してる。ずっとずっと前から、今も、そしてこれからも。私はあなたを愛し続けるわ」
「私の愛も変わらない。だが、私には他にも愛する女がいる。みな平等に愛しているつもりだが……ルミエルやレナはそれだけではどうにも不満らしい。お前はどうなんだ、ジゼル。愛すべき夫に他の女がいて、何か思うところはないか」
「私はあなたを一番愛しているけれど、ルミエルもレナも私の大事な家族だから。あなたがあの子たちを愛でてくださるのは、私にとっては嬉しいことよ?」
ジゼルは、今度は自分から私の頬にそっと手を伸ばして撫でてきた。
「それとも、やきもちを妬かない女は魅力的じゃないかしら?」
「そんなことはない。お前の存在は私だけでなく、あいつらにとってもかけがえのないものだ。これからも私の傍にいてくれ」
「……あらあら。ふふ」
急にくすくす笑い出すジゼルを見て、私が不思議に思っていると、彼女は私の唇を指先でなぞった。
「あなたはテネブラエ魔族国の主。そんな身分のお方が、ただの女に『傍にいてくれ』とお願いするの? 『傍にいろ』じゃなくて?」
「……ジゼル、揚げ足を取るとは生意気な」
「ごめんなさい、ふふ、ごめんなさい」
私は起き上がって、ジゼルを押し倒し、その唇を乱暴に奪った。
ジゼルのフリルつきの黒いカチューシャが形を乱すのも構わず、頭を引き寄せて何度も彼女の唇を弄ぶ。
されるがままのジゼルをひとしきり堪能した後、ゆっくりと唇を離した。
まったく、このままもっと乱暴に扱ってやろうかと気を抜いた瞬間、ジゼルが強引に私の首を引き寄せてキスをしてきた。
背中に腕を回してきて、ぎゅっと強い力で抱きしめられる。
私もまた、先程の彼女のように身を任せた。
ジゼルのキスは甘い。最初こそ強引に唇を奪われこそしたものの、その後は小鳥が木の実をつつくようにちょんちょんと触れるような口付けを繰り返してきた。
そして最後に、少しだけ長くキスを交わした後、唇を離した彼女はくすりと笑む。
「あなたの驚いた顔、かわいい」
「……お前のやることは予想外過ぎて困――」
ジゼルは私の頭を引き寄せて、その豊満な胸に抱き寄せた。
ドレス越しにもわかる柔らかな感触に、脳髄が溶かされるほど甘い気分にさせられてしまう。
せめて最後まで言わせろと抗議のために口を動かそうとするが、豊かな胸と密着しているせいで上手くいかない。
「あなたは色んな顔を見せてくれるわ。いつもは冷静で大胆不敵で何に対しても動じないのに、たまにこういうことをすると慌てちゃったり。そういうところが堪らなく愛おしい」
「……むぐ……」
「あら、くすぐったい。何か言ってる? わからないわ、ごめんなさい。ふふ」
くっ、私の威厳やらなんやらが色々と台無しだ。
この光景だけはルミエルとレナには見られたくないな……。
だが、不思議と逆らう気にはなれない。
「ねえ、覚えてる? 私がこの国にやってきてまだ間もない頃のこと」
もはや口を動かしても意味がないので、頭を動かして頷くよりほかない。
「まだ幼かった私の手を引いて、あなたはテネブラエの色々な場所へ連れていってくれた。あの頃の私はまだまだ臆病で、レヴィの死霊の宮に連れられていった時には亡霊の怨嗟の声を怖がってあなたに抱きついたまま動けなくなっちゃったわよね。その時、あなたは泣きじゃくる私を抱きしめてくれたの。私が泣きやむまで、ずっと」
そんなこともあっただろうか。
幼いジゼルを連れて各地を色々と回ったのは覚えているのだが、細部の記憶となると怪しい。
「他にも、天象の宮を訪れた時、激しい気象の変動から私を庇うように抱きしめてくれたし、マモンの殺意を込めた一撃をその背に一身に受けながら、私を見つめて『大丈夫だ』って言ってくれた」
マモンは人間に対しては容赦がない。
無論、天使に対してもそうだ。故に我が夫人たちにはマモンには近寄らせないようにしている。
私が傍にいればどうということもないのだが。
「……私はね、あなたを愛しているし、あなたに憧れてもいるの。何者からも守ってくれるようなあなたの包容力に強く惹かれて、いつか私も誰かを優しく包み込んであげられるようになりたいってずっと思ってきた」
私はジゼルの柔らかさに名残惜しいものを感じながらも、ゆっくりと顔を離してその愛らしい顔を真正面から見据える。
「お前はもはやこの国で誰よりも包容力があるさ。もう少しだけ力も備われば、いっそお前が玉座に座った方がいいのではないかと思ってしまうくらいにはな」
「私はそんな大役を任されるような器じゃないわ。ただ、あまりにも重いその役を請け負って魔族の安寧を願うあなたの支えにはなりたい。いつか、魔族を悩ませる病にも等しい破壊衝動をなくす方法を見つけたら、その時にはあなたと一緒に穏やかな時間を過ごしたいの。平和に仲良く、いつまでもみんなで暮らしたい――」
「ふっ、血気盛んな魔族には似つかわしくない言葉だ……が」
私はそのような光景を脳内に思い描いてから、呟いた。
「また一時期のようにお前とのんびり過ごすのも、悪くはないかもしれんな」
「ええ。テネブラエにも景色がいい場所はたくさんあるもの。あなたと湖畔で寄り添い合ったり、丘の上にある木の下であなたに膝枕をしながら過ごしたり、今は使われていない宮殿の中をあなたと手を繋ぎながら見て回ったり――。でも、あなたにとってはそういうものは退屈?」
「この身を侵食するような破壊衝動さえなければ、愛おしい女と過ごす時間を退屈だとは思わん」
私の中の破壊衝動が強く疼き出したのは、いつ頃からだったろうか。
それを忘れるために愛欲に耽る日々を続けていたが、それも限界を来たした。
あれから短期間で色々あったな――。
「だがな、ジゼル。今はそうも言っていられない。『女神』という、魔族に対する明確な脅威がどこかに潜んでいる以上、私は必ずそれを滅殺しなければならん」
「ええ、わかっているわ。でも、これから先、あなたがあの人間の姿のままでいるだけではどうにもならないことが起こると思うの」
「……そうだな。テオドールの姿では、デュラス将軍には勝てん。恐らくは他の5大英雄たちと渡り合うことすら難しいだろう」
ハーフエルフのリューディオ・ランベール中将のことを思い出した。
あの男は末期の雫事件の果てに展開された天魔召喚術式を、自らの魔法の力によって破壊した。それは術式の構造を理解したと同義。ただのハーフエルフがあのような高等魔法の術式を破壊すること自体が異常だ。
だが、それがあの男の限界点のようには到底思えなかったのもまた事実。
テオドールの姿であの男と戦った場合、どうなるか。
恐らく、私の剣が届く前に魔法で消し炭にされるのがオチだろう。
末期の雫事件で破壊した高等魔法院で、水晶の力によってあの男が大部分の魔力を制御されていた時ですら、底知れないものを感じさせられた。
だからこそ、奴と戦ってみたいとも思ったものだが……。
「これから先、どこで何が起こるかわからん。しかし、私は人間の姿でいなければこの殺人的な魔力を抑えることが出来ん。どうしたものか」
「それなら簡単。私が、ルミエルとレナが同時に行った封印よりも、もっと位の高い術式であなたの身体を制御してあげる」
そういえば、私を人間の姿に固定していた封印術式は簡単に砕け散った。
ルミエルもレナも禁術程度であればかなり高度な術式を使えるが、ジゼルはこと魔導に関してなら我ら王族に匹敵する力と知識を持っている。
禁術の枠組みを超え、魔法の領域すら超えつつある術式を使い――いずれは大魔法へと至るに違いない。
「どうするつもりだ? 人間の身体では、どうしても限界というものがある。デュラス将軍のような規格外の存在は、強大な加護を与えられたが故のもの。他者から力を借りていない私を人間という矮小な器にしてしまう以上、力の劣化は避けられないが」
「いつもは今まで通りに過ごすだけでも平気。ただ、本当に強い相手が出てきて、他に頼れる存在がいなくてあなた1人で立ち向かわなければならない時に、人間の姿のまま魔神の力の一部を発揮出来るようにすればいいわ」
「ずいぶんと簡単に言うが、そう上手くいくものか」
「ええ。私が調整してあげる。だから、今は私の胸の中でゆっくりやすんで? 朝には、もう終わっているから」
ジゼルは再び私の頭を抱いて、優しく囁いた。
「おやすみなさい、あなた」
「……ああ……」
私はまるで催眠にでもかけられたかのように、あっという間に深い眠りに落ちた。
私の意識がまどろみをたゆたっている間、2人の女の会話が聞こえてきた。
「ルシファーさまの寝顔……はぁぁ、可愛らしいです……!」
「レナ。興奮し過ぎて襲いかかってはダメよ?」
「うぅ……私の前では、こんなに可愛い寝顔を見せてはくださらないのに。私もいずれはジゼルさまのような、包容力のある夫人になってルシファーさまをメロメロにしてしまいたいです」
「もう。レナったら……あなたはあるがままでいいのよ?」
「と仰いますと?」
「ルミエルは明るく無邪気に、レナは真面目で献身的に。そして私は陛下の疲れを癒やすように。私たちにはそれぞれの役割があると思うの」
「な、なるほど……! 勉強になります!」
「誰かを真似る必要なんてない。自分に出来ることで、これからも陛下を支えていきましょう。もちろん私と一緒に、ね?」
「はい!」
ぼんやりとした意識で様子を窺うと、私はジゼルの腕枕で眠りこけていたらしい。
瞼を開くが、まだ重たい。
霞がかかったような視界で、ふとジゼルと視線が合うと、彼女に優しく頭を撫でられて――私は再び、眠りに就いてしまった。
更新が遅れてしまい申し訳ございません。
週末から大きく体調を崩してしまい、しばらく執筆出来ませんでした。
残り1話となりますが、なるべく早く更新出来るようにしますのでお待ち頂ければ幸いです。
また、先日の話となりますが久しぶりに本作のレビューを頂きました。
既にメッセージにてお礼の言葉をお送りしましたが、ここでも改めて。ありがとうございます。