序 文

 (PP. 11-12)
 ~~。コギトは何よりもまず方法論的機能を保持しているのである。ライプニッツはその時代に属している。彼は『省察』をほとんど引用しないし、コギトを同時代人たちとは別の仕方で解釈したりもしない。その代わりに、ことあるごとに『方法序説』の諸規則を批判し、自分自身の方法、すなわち自分の無限小算法が、デカルトのそれ、つまりは代数幾何学よりも優れていると自賛する。とりわけ、彼の攻撃は『哲学原理』へと向けられる。一六七一年一〇月二五日付のオルデンバーグ宛書簡であらましが述べられた批判は、一六七五年頃に、第一部の一三、二一、二五、二六、二七、二九、三六、四一、四七、五一の各節、および第二部の四、二〇、二一、二五、三〇、三六、三九、四〇の各節について取り上げ直され、その二ページは、一六九二年の『デカルトの原理の一般的部分に対する批評』の最初の状態を表している(48)。他方、『形而上学叙説』や、『学術通信』(Journal des Savants)、『学術紀要』(Acta Eruditorum) に掲載された諸論文は、デカルト自然学の顕著な誤謬を倦むことなく指摘し続けている。~~。

第一章 直観主義と形式主義

 (P. 32)
 ~~。なるほど、われわれは、自分の熟練に助けを求められるよりは自分の才能に助けを求められることの方を好む。だが、かりに代数的な解法が算術的な解法よりも容易であるにしても、だからといって代数が創意工夫を、場合によっては天分を必要としないわけではない、ということを知らぬ者はいない。しかも、ライプニッツにとっては、われわれが誤謬から自らを守る唯一の方策は、方法論的に懐疑を要請することなどではなくて、自分の行っていることに注意を集中することであり(55)、命題に対して、不可謬とまではいかないにしても、少なくとも九去法と同程度には確実な検証を加えることなのである。
  原 注/序 文
 48. この二ページ分のフォトコピー(リヴォーの目録番号 1171)が利用できたのは A. ロビネのおかげである。彼に謝意を表する。その注解、テクストおよび翻訳は、今後は、われわれの以下の書物で目にすることができる。『ライプニッツ研究』Études leibniziennes, Paris, Gallimard, 1976.
  原 注/第一章
 55. 『デカルトの原理の一般的部分に対する批評』(Animadversiones in partem generalem Principiorum Cartesianorum)〔以下、『批評』と略〕、P. IV, p. 356、第 5 節および第 6 節について:「〈意志の思うままになるのは、注意と努力とを命じるという、この唯一のことである、とわれわれは認める。そういうわけで、意志はわれわれのうちに何らかの見解を生ぜしめることはないけれども、間接的にそれに寄与し得るのである〉」(pp. 356-357)

 

Cartésiens 》 ― デカルト主義者 ―

 

8 デカルトにおける神の観念の精錬と、神の実在のア・プリオリな証明

持田辰郎[もちだ・たつろう] / 書き下し
 (P. 188)
 ライプニッツは、デカルトのア・プリオリな証明を一つの三段論法に纏め上げた。それは、「この存在者(=神)の観念はすべての完全性を含んでおり、実在はその一つなのだから、したがってそれは実在する(1)」というものである。この三段論法は、カントが「存在論的」と呼んだ証明の、あるいは少なくとも通常そのように解されているものの、一つの典型的な形式であろう(2)。私たちはこれを「ライプニッツの三段論法」と呼ぶこととする。~~。
 (P. 190)
 デカルトは、自らの論証を提示するたびごとに常に同様の条件を付加している。~~。すなわち、デカルトの三段論法、とりわけその小前提は、それに先だって、私たちが神の観念についての何らかの探求をすでに成就していることを明らかに要求しているのである。三段論法はその成果を受けとめ、それを論理的型式に包み込む。
 ところで、デカルトの三段論法は、神について新たなことを私たちに何も教えていないように思われる。したがって、とりわけそれがデカルト形而上学の地平から切り離された場合には、その論証としての資格が疑われるとしても自然なことであろう。そこで、人々はデカルトの三段論法に満足できず、他の本当の論理を探し続け、そして幸いにも第五省察の中にそれを見つけ出した。――これがまさしくライプニッツや彼の後継者たちのたどった道である。彼らはデカルトの三段論法を良く知っていたのだが、ただそれに満足しなかったのである(6)。確かに、二つの三段論法は両立しうるのであり、ライプニッツの三段論法はデカルトの三段論法の小前提を補いうる。もしそうであるならば、ライプニッツの三段論法の方が本当の証明であろう。なぜなら、実在が神の本質に属することを私たちに実際に説得するのはライプニッツの三段論法だからである(7)。だがしかし、この解釈は一つの仮定に依存している。ライプニッツの三段論法はデカルトの論証の根幹を正しく表現している、という仮定である。
 (P. 210)
 デカルトのア・プリオリな証明は、ライプニッツが作り上げた三段論法によっては表現されない。すなわち、それが基づくものは、「完全性」という単なる概念ではなく、私たちの神の観念の「事物[もの]の必然性」なのである。第五省察のテクストは、一見したところとは違って、ライプニッツの三段論法ではなく、デカルトが先立つ省察において神の観念を練り上げるために歩んできた過程の要点を表現している。デカルトにとって肝要なことは、たとえ「証明」に際してであれ、証明の論理そのものではなく、神の観念の精錬なのである。
 (1) Leibniz, Discours de Métaphysique, 第二三節Die Philosophische Schriften von Gottfried Wilhelm Leibniz, hrsg. von C.J.Gerhardt, t.4, p.449,1.9-10.(ライプニッツからの引用はすべてこの著作集からであり、以下、GH-4:449:9-10 のように、GH と略して、巻、頁、行を : で結んで表示する。)さらに、GH-4:359:5-7 / 401:25-402:1 / 405:4-7 / 424:13-17 / GH-5:418:23-33 等を参照のこと。
 (2) カントの、いわゆる「存在論的証明」は、「絶対的に必然的な存在者 (absolut notwendigen Wesen)」に関する議論 (Kritik der reinen Vernunft, A 592-6 / B 620-624)と、「最も実在的な存在者 (allerrealsten Wesens)」ないし「最高の存在者 (höchsten Wesens)」に関する議論 (A 596-602 / B 624-30) に区別されるが、後者において批判される論証を再構成するならば、――すべての実在性 (Realität) をもつ最も実在的な存在者は、「すべての実在性のうちには現存在 (Dasein) も含まれている」がゆえに、その非存在は「それ自身において矛盾」である――となろう (A 596-7 / B 624-5)。二つの論証の区別については註(9)参照。第一答弁、第二答弁の幾何学的要約、『哲学原理』に登場する「必然的実在」(119:18-19 / 167:2 / AT-8-1:10:8-11) については、私たちものちほど検討する。
 (6) たとえばライプニッツは、Animadversiones in partem generalem Principiorum Cartesianorum において、まずデカルトの三段論法を(かなり手を加えて、ではあるが)紹介し、その直後に、「この小前提は以下のように証明される」(GH-4:359:5) と述べつつライプニッツの三段論法を提出している。
 (7) M.Gueroult, Descartes selon l’ordre des raisons, 1953,t.1,pp.349-350 参照。
The End of Takechan
Leibniz 》 ―― すべての現象には 必ず理由がある

 

Discours de métaphysique. 1686

「形而上学叙説」

西谷裕作=訳
 (PP. 160-164)
一三――各人の個体概念は、以後その人の身に起こる事柄をすべて事前に含んでいるので、その概念をみれば、それぞれの出来事の真理について、そのア・プリオリな証明や理由がわかる。つまり、なぜある出来事が起こって他の出来事が起こらなかったのか、ということがわかる。ただし、これらの真理は神と被造物との自由意志に基づいているから、確実ではあるが偶然的であることをまぬがれない。実際、神の選択にも被造物の選択にも常にその理由があるが、理由は傾かせるが強制することはない。
    しかし、もっと議論を先に進めるまえに、われわれが先に示した根拠から生じうる難問を解決するように努めなくてはならない。われわれは、「個体的実体の概念は、以後その実体に起こる事柄をすべて事前に含んでいて、この概念を考察すれば、円の本性のうちにその本性から演繹しうるすべての性質をみることができるように、その実体について真に述べうるすべてのことを見ることができる」と言った。しかしそうすると、偶然的真理と必然的真理との違いが失われ、人間の自由が成り立つ場がなくなり、絶対的な宿命がわれわれのすべての行ないとか他のすべての世界の出来事をも支配する、ということになりそうに思われる56。これに対する私の答えは、「確実なものと必然的なものとは、区別しなくてはならない。未来の偶然的な出来事は、神がこれを予見しているのだから確実であるということは、だれもが一致して認めているが、だからといって、それが必然的であると主張する人はいない」ということである。けれども、ある結論が定義や概念から間違いなすく演繹されうるのであれば、それは必然的である、(と人は言うかもしれない)。ところで、われわれが主張するのは、「ある人に起こるはずのことはすべて、ちょうど円の定義のうちにその性質が含まれているように、その人の本性あるいは概念のうちにすでに潜在的に含まれている」ということなので、難問は依然として残っている。~~。
    一つの例をあげてみよう59。ユリウス・カエサル(シーザー)60 が終身の独裁官になって、共和国の主となりローマ人の自由を失わせることになっているからには、こうした行為は彼の概念に含まれている。というのは、われわれの仮定によれば、述語が主語に含まれるように、つまり「述語ガ主語ニ内在スルコトガデキルヨウニ」すべてを包含している、というのが主語のもつ完全な概念の本性なのだからである。「彼がそうした行為をしなければならなかったのは、この概念あるいは観念のためではなく、神がすべてを知っているがゆえに、この概念が彼に属するにすぎないのである」と言うこともできよう。しかし、「シーザーの本性ないし形相はこの概念に対応している。そして、神がシーザーにこうした役割を与えたのだから、それ以後その役割を果たすことが彼にとって必然的である」と主張する人もあるだろう。私は未来の偶然的な出来事を例にとって、これに答えることができると思う。こうした出来事は、神の悟性と意志とのうちにしかその実在性をもってはいないけれども、神があらかじめそのような形相を与えておいたからには、やはり出来事はその形相に応じなくてはならないからである。
    ~~。
    こうしたシーザーの述語についての証明は、数とか幾何学の論証ほどには絶対的でなく、神が自由に選んだ事物の系列を前提していることがわかってくる。事物の系列は、常に最も完全なことを行なおうとする神の最初の自由な決定と、人間の本性について(最初の決定につづいて)神のなした決定、すなわち人間は常に最善と思われることを(自由にではあるが)すべきであるという決定とに基づいている。ところで、こうした種類の決定に基づく真理は、すべて確実ではあるが偶然的である。~~。
    そこで、「すべての偶然的命題には、こうであって他のようにはならない、という理由がある」ということ、あるいは(同じことなのであるが)「偶然的命題には、それが真であるというア・プリオリな証明があって、それがこの命題を確実なものとしており、この命題の主語と述語との結合はこの二つの語の本性のうちに基礎をもつことを示している61」ということ、しかし、「偶然的命題はそれが必然的であるという証明はもっていない。この命題の理由は、偶然性の原理すなわち事物の現実的存在の原理に基づいているにすぎず、言いかえれば、均しく可能な多くの事物のうちで最善であるものもしくは最善にみえるものに基づいているにすぎないからである」、これに反して、「必然的真理は、矛盾の原理と、本質それ自身の可能性もしくは不可能性とに基づき、その点で神や被造物の自由意思と何ら関わりはない」といったことをよく考えてみれば、この種の難間がどれほど大きく見えようとも、(実際にこうした問題を扱って来たすべての人々にとって、この難問は切迫したものであるが)解決することが可能であろう。
 56 事実そう思った人にアルノーがいる。彼は本章の要約を見て、個体概念は宿命論以上の必然性を含み、神の自由を否定するものとして激しく反発している。~~。
 59 草稿ではキリストを否認した聖ペテロを例に挙げている。議論の趣旨はシーザーの場合と変わらない。英訳は草稿を訳している。~~。
 60 歴史的に実在したシーザーはこの世界とは切り離せない。シーザーがルビコン河を渡らなかったとしても矛盾はないが、このシーザーを含んだ世界はこの現世界とは別のものとなる。とすると無数の可能的シーザーがしたがって無数の可能的世界が、本性上神の悟性のうちに存在している。歴史的事実への関連を度外視すれば、シーザーはルビコン河を渡った、渡らなかったという二つの命題はひとしく可能で、真でも偽でもない。しかし、シーザーの渡河を含むこの世界を神が選んだとき、ルビコン渡河は真理となる。それが真理であるのは、他の可能的世界をさしおいて神により選ばれたからであり、ゆえに偶然的真理は神の決定に基づく仮定的必然をもつにすぎない。
 61 充足理由律、根拠律などとよばれてくる原理。アルノー宛書簡九(本巻二七一頁以下)参照。また第 9 巻『モナドロジー』の註 63、64 をも参照。
一七――下位の準則すなわち自然法則の実例、それによると、デカルト派の人々や他の多くの人々に反して、神はいつも規則的に同一の力を保存していて、同一の運動量を保存するのではないことが示される。
    私はすでに、下位の準則すなわち自然法則について何度か言及した。その実例を一つ挙げるのがよいと思われる。一般に現代の新しい哲学者たちは、神が世界の中で常に同一の運動量を保存しているという、かの有名な規則を採用している。実際この規則はたいへんもっともらしいので、かつては私もそれを疑うべからざるものと思っていた。しかしその後、どこに誤りがあるかがわかってきた。その誤りは、デカルト氏やその他の有能な数学者たちが信じていたこと、すなわち「運動量つまり運動体の速度にその大きさを掛けたものは運動力とまったく一致する」としたこと、あるいは幾何学的に言えば、力は速度と物体67との積に比例する68としたことにある。ところで、宇宙においては常に同一の力が保存されるというのは合理的である。そこで、いろいろな現象を注意して見ると機械的な永久運動は行なわれないことがわかる。一つの機械の力は、摩擦によって少しずつ減少し、やがて尽きてしまうから、もし永久運動が行なわれるとすれば、その力は補なわれ、したがって外から何か新しい衝撃をうけることなしに、それ自身で増加することになるからである。そして人はまた、一つの物体の力はその物体に接している物体に、あるいは「物体の諸部分が別々に運動しているときは、それらの部分」に力を与える程度に応じて、減少するのにすぎないことにも気がつく。
    こうして、デカルト派の人々は、力についていえることが運動量についてもまた言いうると信じたのである。しかし、力と運動量との違いを示すために、「ある一定の高さから落下する物体は、もしその方向がもとの所に向かい、それを妨げるものがないとすればふたたびその高さに昇るだけの力を獲得する」と私は仮定する。たとえば振子は、空気の抵抗とか何らかの小さな障碍とかによって、その獲得した力をいくらか減少することがなければ、そこから降りてきたのと同じ高さに完全にふたたび昇るのである。
    さらにまた、「一ポンドの重さの物体Aを四トゥワーズの高さCDにまでもち揚げるのに必要な力は、四ポンドの物体Bを一トゥワーズの高さEFにまでもち揚げるに必要な力に等しい」と私は仮定する。これらすべては、現代の新しい哲学者たちも認めていることである。
    そこで、物体AがCDの高さから落下すれば、物体BがEFの高さから落下したのとまったく同じ力を得ることは明らかである。というのは、Fに達した物体(B)はEにまでふたたび昇る力をもっている(第一の仮定によって)から、四ポンドの物体つまりその物体自身をEFという一トゥワーズの高さにまで運ぶ力があり、同様にDに達した物体(A)はCにまでふたたび昇る力をもっているから、一ポンドの物体つまりその物体自身をCDという四トゥワーズの高さにまで運ぶ力をもっている。そこで、(第二の仮定によって)この二つの物体の力は等しいことになる。
    ところで今度は、この二つの物体について運動量もまた同じであるかどうかを見てみよう。すると人はここに、極めて大きな違いのあることを見つけて驚くであろう。なぜなら、ガリレイが証明したように、高さCDはEFの四倍であるが、落下CDによって得られる速度は、落下EFによって得られる速度の二倍である。そこで、物体A[の質量]を一としてこれにその速度二を掛けると、その積つまり運動量は二となるけれども、他方、物体B[の質量]の四にその速度一を掛けると、その積つまり運動量は四となる。したがって、点Dにおける物体(A)の運動量は点Fにおける物体(B)の運動量の半分であって、しかも両方の力は相等しい。そこで、運動量と力とのあいだには大きな違いがあり、これが証明さるべきことだったのである69
    このことからは、それが産み出しうる結果の量70、たとえば一定の大きさと性質をもった重さのある物体がもち揚げられうる高さによって測定されるべきであり、それが物体に与えられる速度とは大へん違うものであることがわかる。そして、物体に二倍の速度を与えるためには、二倍以上の力を必要とするのである。
    これほど簡単な証明はない。デカルト氏がこの点で誤りを犯したのは、同氏の考えがまだ十分熟していなかったのにそれをあまりにも信じたからにすぎない71。しかし、同氏の学派の人々がその後もこの誤りに気づいていないことに、私は驚いている。そこで私は、彼の学派の人々がアリストテレス学派を軽蔑しつつも少しずつその真似をしはじめて、彼らのように理性や自然を調べるよりも、むしろ師匠の書物のほうを調べることに馴れてしまうのではないかと恐れる次第である。
 67 ここで「運動体の大きさ」とか「物体」といわれているものは、物体の「質量」にあたる。
 68 静力学で、たとえば質量 m mʹ をのせた天秤の左右の腕木が釣り合っているとして、それに力を加えて上下させたとする。この上下する時間は左右とも等しいから、この上下する左右の高さは速度 v vʹ とみなされる。そこで力は mv (= mʹvʹ) で表わされる。
 69 つまり、保存されるのは質量 m と速度 v の積で表わされる運動量ではなく、mv2 で表わされる力である。これは後に活力とよばれ、さらに立ち入った力学の考察ののち、原始的力とよばれる実体から派生するものとみなされる。なお註 72 および 73 を参照。
 70 デカルトが静力学的考察を動力学に及ぼしたとき、速度は現在の一瞬間における速度と解された。物体の本質を延長として数学的幾何学的にとらえる立場からは当然であり、未来において産み出される結果によって測られる「力」のような、いわば潜在的力のようなものは否認される。ライプニッツはこうした力の概念を力学自身の研究から導入した。それは正確に計算可能ではあるが、そこに現われる速度の二乗という量は幾何学的直観では捉えられない幾何学以上のものである。
 71 ライプニッツはこの『叙説』を書いた一六八六年に『自然法則についてのデカルト等の著しい誤謬についての簡潔な証明』を書き、アルノー宛書簡九に添えて送った。またアルノー宛書簡一三、本巻二九九頁以下を参照。
二三――ふたたび非物質的な実体にもどって、神はどのようにして精神の悟性に作用するのか、また人は自分が考えているものの観念を常にもっているのかどうかを説明する。
    物体に関して、目的因とか非物体的本性とか叡智的な原因などについて考察するよういささか力説して、それらが物理学や数学にまで利用しうることを知らせるのが適当である、と私は考えた、それは、一方で機械論的哲学からそれに浴びせられている不敬という非難をぬぐい、他方いまの哲学者の精神を高めて、ただ物質的な考察のみを行なわないでもっと高貴な省察へと向かわせるためであった。ここで、物体から非物質的な本性、とくに精神へと立ち戻って、神はどのような仕方で精神を啓発したり精神に作用したりするのかということについて、いくらか論じておくのが適当であろう。この際、一定の自然法則もまた存在することを疑ってはならない。このことは、別にもっと十分に論ずることができよう。今はただ、観念についてすこし触れて86、われわれはすべてのものを神のうちに見るのかどうか、神はいかにしてわれわれの光なのであるかということを考えておけば、それで十分であろう。
    さて、観念の悪用から多くの誤謬が生じることに注意しておくことが適当であろう。というのは、人があるものを理性によって考えるとき、その人はそのものの観念をもっていると思っており、このことを基礎にして古今の哲学者たちは神の[存在]証明を組み立てたのであるが87、この証明はすこぶる不完全なのである。彼らの主張によれば「私は神を考える。しかし、観念なしに考えることはできない。だから、私はたしかに神の観念つまり完全な存在者の観念をもっていなくてはならない。ところで、この存在者の観念はあらゆる完全性を含んでおり、現実に存在することも完全性の一つである。したがって、神は現実に存在する」のである。ところが、われわれは不可能な空想、たとえば最高の速度とか最大の数とか、コンコイド88が底すなわち基線にまじわるとかを考えることもよくあるから、この推論は不十分である。そこで、問題となっていることが可能であるか否かにしたがって、真なる観念と偽なる観念89があるといえるのは、この意味においてである。そして、あるものの可能性について確信がもてたとき、初めてそのものの観念をもっていると誇らしく言えるのである。そこで上の議論は少なくとも、「もし神が可能であるならば、神は必然的に存在する」ということを証明している。現実に存在するために、その可能性すなわち本質しか必要としないということは、実際神の本性のすぐれた特権であり、これがまさにソレ自身ニヨル存在者と呼ばれているものなのである。
 86 観念 idée をめぐって当時激しい論争が行われていた。その由来は、プラトンにおけるイデアあるいは神における範型 exemplar という意味でのイデアという語を、デカルトがまったく新しい意味で使ったからである。イデーすなわち観念とは、ひろくは意識のうちにあるもの cogitatio のすべてあるいはその都度の意識の形相を、本来的な意味では意識における事物の像 imago rerum あるいは思惟の内的な対象を指すことになった(『省察』三)。永遠のイデアと事物の模倣という関係は、ロックによれば原型としての事物とそのコピーである観念 idea の関係に逆転される。そこでこの新しい意味での観念について、心理学的‐認識論的あるいは存在論的‐神学的な議論がさまざまに展開されてくることになる。本書では以下二九章まで、特にアルノーとマルブランシュの間に交わされた論争が念頭におかれている。二六章を参照。
 87 ライプニッツはこのいわゆる存在論的証明がアンセルムスに始まるとし、またデカルトがスコラ哲学中のこの証明を復興したと見ている。本章の以下の議論については、本巻所収の『認識、真理、観念に関する考察』を参照。
 88 点Oと直線が AB が与えられたとき、Oを通り AB と交る直線を引いて、その交点Pから PQ = l(一定)なる点Qを定める。このとき点Qの軌跡がコンコイドといわれる。~~。
 89 アルノーにマルブランシュを批判した『真なる観念と偽なる観念について』がある。

Correspondance avec Arnauld. 1686-90

アルノーとの往復書簡

竹田篤司=訳 酒井潔=注・解説
    一三…………ライプニッツからアルノーへ
 (P. 299)
    ではこれから、頂戴したご高見へ移りましょう。運動量に関するデカルト流の原理に私が異を唱えた、その点についてでしたね36。いえなに、アルノーさん、重さをもった物体の速さが増していくのは、なにか目に見えない流体の後押しの力によっているのだ。それはちょうど、船が風に押されて動くのに、最初ソロソロ、あとグングン、というのとおなじであるという。私だって、これに反対しているわけではない。ただ私の論証は、いかなる仮説の介けも借りる必要がないのです37。物体がいかにして目下のスピードに達したか。これはしばらく、お預けにしておくとして、私がつかまえるのは、いまこのときの速さである。そしてこう申したい。重さ一リーヴル38、速さ二ドゥグレ39の物体と、重さ二リーヴル、速さ一ドゥグレの物体をくらべると、前者は後者の二倍の力をもつ、と。なぜなら前者は、おなじ重さを二倍だけ、高くもちあげることができるからにほかなりません。次に私はこう考えます。物体同士が衝突したとき、どちらの物体にどれだけの運動がもたらされるかを論ずるさい、頭に置かなければならないのは、運動の量ではない。これについてはデカルト先生が、例の規則で頑張っておられますが40、違う。力の量です。でないと、つかんだものは機械的な永久運動になってしまう。~~。
 36 アルノーは第一一書簡で、物体の落下において、加速は内的力の存在によるのではなく、質量に比例した運動を物体に伝達しながらこれを押しているような、そういう見えざる分子の外的な作用によるものだ、と反論していた。これに対する答えの形でライプニッツは、一つには、アルノーの意見を取り除き、自分の証明が重力の本性についての凡ゆる仮説から独立であることを確認、もう一つには、物体の衝撃を直接に研究することによって、力と運動量の区別の新しい証明を展開するのである。Le Roy, 297.
 37 ライプニッツにとって、力と運動量の区別は、重力の本性に関する一切の仮説から独立である。ただし若い頃は、重力をエーテルの運動に依存させる説を認めていた。~~
 38 一リーヴル=五〇〇グラム。
 39 一ドゥグレ=一度。
 40 ライプニッツは、力と運動量の区別が、物体の衝撃現象の分析によって確証されるという。先ず、衝撃を力の観念を用いて定義すれば、恒常量における力の保存を理解できる。次に、もし反対にデカルトのしたように、運動の観念からのみ衝撃を定義するなら、人は衝撃に際し力の消耗ないし創造を認めざるをえない。故に、原因と結果の等しさという原理を損なわぬためには、力の観念による説明が必要だという帰結になる。力と運動量の区別は疑いをいれない。なおデカルトの衝撃理論は『哲学原理』第二部四〇-五三節に見える。ライプニッツがここまで述べている考えは、同じ時期では、カトランやマルブランシュとの論争において、また一六八六年三月『学報』誌上での『自然法則に関するデカルト等の著しい誤謬についての簡潔な証明』の公表を契機として展開された。その論争の本質的な部分は、ゲルハルト版第三巻四〇-五五頁にあり、後では『動力学論考』(Essai de dynamique, G. M. VI, 215-31)、『動力学試論』(Specimen dynamicum, G. M. VI, 234-54)、『デカルトの『原理』の総論への批評』(Animadversiones in partem generalem Principiorum Cartesianorum, G. P. IV, 373-84) 等の諸論文で展開されている。また、問題の全体については『叙説』第一七章参照。Le Roy, 297.

The End of Takechan

 

 

 ニュートンとライプニッツ
  「天才の世紀」が育んだ歴史の皮肉
松山壽一[まつやま・じゅいち]
 (P. 243)

 

「天才の世紀」に生を享けた二人の天才ニュートンとライプニッツは、その才と時代状況のゆえに論戦を交えることになった。微積分法発明をめぐる先取権論争と空間概念、神概念をめぐる自然神学論争である。まずは前者についてコメントしておけば、今日では、両人がほぼ同時期に(ニュートンが十年ほど早く)それぞれ独自に新しい算法を考案していたことが周知の事柄となっているが、当時においては、先取権に関するルールも未確立だったことに加えて、両人の性格の相違の問題やニュートンの取り巻きの関与などが複雑に絡み、論争の糸はもつれにもつれ紛糾することになった。

 

 (P. 245-248)

 

 ~~、まる一年、ライプニッツは、~~数学研究に没頭する。その成果の一つが「変換定理」の発見にほかならなかった。これによって、算術的求積すなわち有理数を用いた無限級数によって図形の面積を求めることが可能となる(14)。これは、ライプニッツの指摘するところによれば(ホイヘンス宛書簡、一六七四年十月)、「ヴィエトやデカルトが直線幾何学の問題を方程式による数の計算に帰することを示した」のに対して、「曲線幾何学の最重要な問題がどのようにその幾何学から数列による有理数の算術へと移されるかということを示す」(A. III, 1, 168 : 2, 144) ものであって、そこで活用されたのがパスカルの「四分円の正弦論」(『デトンヴィル宛書簡』所収)における「微小三角形」の手法であった。ライプニッツはそれに倣って、「曲線の外側に接線を引き、微小空間において、それが直観的に円弧に一致するという発想を取っている(15)」。三角形の斜辺が無数に分割された弧の断片になる」という、ライプニッツによって一般化された「特性三角形」(trianglum characteristicum) の発想は、今日われわれが見ることのできる史料中では、一六七五年末頃のものと推定されるデ・ロック宛書簡の下書きに登場する(16)
 ライプニッツがこうした着想を得たのは、今日知られているかぎりでは、特性三角形の発想を接線問題およびその逆に適用しようとした一草稿(一六七三年八月(17))以来の取り組みの成果であった。~~。新記号の導入を含むほぼ一年におよぶ試行錯誤(18)の末ついに、ライプニッツは次のような無限小解析すなわち微分積分に関する基本公式を確立するに至る。
 「  dxe
 dx 
 ⊓ exe-1, また逆に  xedx ⊓  xe+1
 e +1 
 」
 (GM. II, 140 : 2, 239. なお記号は今日の等号に相当する)
 一六七六年十月四日パリを離れ、ハノーファーに向かう途上(十一月)に執筆されたと推測される草稿「接線の微分算」中に、これが記されることになったのだが、ここに、微分積分に関する基本公式が記号法とともに確立かつ定着されていることをわれわれは確認できる。しかしながら、当時においては、実際にこうした成果が『学術紀要』誌上に公表されるのには時間がかかり、それはようやく八年後の一六八四年(「新方法」)および十年後の一六八六年(「深奥な幾何学」)のことであった。~~。
 ~~。
 ここに、公のものとしては初めて、積分記号ならびにいわゆる「微分積分学の基本定理」が登場するに至った。今日における微積分学の記号表記がライプニッツのそれに倣ったものであることは周知の事柄だが、今日の微積分学に連なる十八世紀末から十九世紀初頭における数学的洗練が、ニュートンによって『プリンキピア』に記された幾何学的表記、証明の代数記号化を介してなされたことも周知の歴史的事実である。~~。
  〔 ⏳ ☃ ✍ ⏳ 〕
 ライプニッツ同様、ニュートンも大学(ケンブリッジのトリニティ・カレッジ)では新しい数学や自然学の教育を受ける機会をもてなかった。当時においてもなお、大学では中世以来の旧態依然たるカリキュラムに基づく教育がなされていたためである(21)。ニュートンは自身の興味から先人たちの数学書や自然学書を読み漁り、独学によって「一世紀の間に達成されたものを自分のものにし、ヨーロッパの数学と科学の最前線に身を置いたのである(22)」。何とまだ二十二、三歳の無名の学生が「流率法」(すなわち微積分法)を発見していた。いや、それどころか、彼は同じ時期に重力の逆自乗法則をも発見し、新たな色彩理論まで打ち立てていたのだった。後年「驚異の年」(anni mirabiles) と呼ばれることになる「一六六五年から六六年のペストの二年間のこと(23)」すなわち大学の閉鎖期、故郷ウールスソープでのことである。
 ニュートンが「流率法」(methodus fluxionum) を発想した起点は、自身の回想によれば、デカルト『幾何学』ラテン語訳第二版(一五五九-六一年)に付加された論文で知った「フェルマーの接線法」にあった。これを、ニュートンは「正逆二つの仕方で抽象的な方程式に適用し一般化した」(MP. I, 149)(24) のだった。その際、彼は同じく同書の他の付属論文に登場するフッデの重根発見法におけるアルゴリズム(デカルトのアルゴリズムの簡素化)をも利用している(25)。いずれにせよ、一六六五年秋、ウールスソープにて執筆されたと推測される手稿に、「流率法の基本命題」と称すべき命題がはやくも登場する。~~。
 ~~。ここで決定的に重要なのは、新種のアルゴリズムを用いつつも、基本量が無限小解析における幾何学的直観の直証性を残したまま運動学的に処理されている点である。先に注目した自身の回想中、ニュートンは自身の流率法に示唆を与えた人物としてフェルマーの名のみを挙げているが、「連立方程式の重根条件によって接線を求めるデカルト・フッデ流の代数的方法と、接線を、曲線上の異なる二点を通る割線の「極限」とみなすフェルマーの無限小解析的方法、そして、曲線を運動する点の描く軌跡と捉え、接線を点の速度と関係づけるロベルヴァルの運動学的方法が共存していた(27)」当時において、ニュートンはこうした共存状況を「運動学的方法」に収斂したということになろう。「流量」および「流率」という術語もこうした態度から案出されるに至る。~~。
 (14) 林知宏『ライプニッツ』東京大学出版会、二〇〇三年、三八頁参照。ライプニッツ自身は「例の有名な算術的求積に思い至ったのは(思い出すことのできるかぎり)一六七四年」のことだったと回想しているが ( 晩年の草稿「微分算の歴史と起源」GM. V, 401 : 2, 320)、実際には彼は一六七二年末にはすでにこの問題に取り組み、翌年にはすでにその成果を得ていたことが判明している。林同書、四四頁注 19 参照。
 (15) 林同書、五五頁。
 (16) 「ここで私の与える定理〔変換定理による算術的求積〕は、あらゆる幾何学のなかで最も一般的で、最も可能性を持ったものの一つです。そしてそれによって放物面や双曲面を含めた既知のあらゆる図形の求積を幾何学的に証明するだけでなく、有名なウォリス氏が、最初帰納法によって確立しただけの無限算術の基礎を証明することができます」(A. III, 1, 361)
 (17) 当草稿の内容については林前掲書、六三-六五頁参照。
 (18) 一六七五年十月からパリを離れる翌年十月までの取り組み(「記号的洗練」に対する試行錯誤)については林前掲書、六六-七二頁参照。
 (21) 拙著『ニュートンとカント』晃洋書房、一九九七年、一八-一九頁参照。
 (22) R. S. Westfall, Never at Rest. A Biography of Isaac Newton, Cambridge : Cambridge University Press, 1980. p. 144.
 (23) ULC Add. 3968. 41. 85r. ( ニュートン自身の証言 ) Quated by D. T. Whiteside, “Newtons Mavellous Year : 1666 and all that,” in : Notes and Records of Royal Society of London, 21 (1966), p. 32.
 (24) MP は次の数学論文集の略記。The Mathematical Papers of Isaac Newton, ed. by D. T. Whiteside, 8 vol., Cambridge : Cambridge University Press, 1967-81. 以下同様。
 (25) 高橋秀裕『ニュートン』東京大学出版会、二〇〇三年、四四-四七頁参照。
 (27) 長岡亮介「ニュートンの数学」、吉田忠編『ニュートン自然哲学の系譜』平凡社、一九八七年、一一〇頁。

 


 現代論理学からみたライプニッツ
  概念論理から義務論理まで
三平正明[さんぺい・まさあき]
 (P. 303-304)

 

 ~~。たしかに、「普遍言語」という着想自体は、デカルトを始めとして、少なからぬ人がすでに抱いていた。しかし、ライプニッツがこうした人々と異なるのは、この着想を計算と結びつけて、実際に論理計算の構築に着手した点に他ならない。こうしてライプニッツは、現代論理学のいずれの潮流に対しても、論理学刷新のための共通目標を設定した。この意味で、現代論理学はライプニッツの導きの下で形成されたと言ってよい。
私は問題を熟考して、次の点に唯一の解決策を見出した。すなわち、概念あるいは思想を正確に表現する適切な記号を考案して、新しい記述言語を作るのである。この問題に対する真なる方法は、私の知る限り、今まで誰の心にも浮かばなかった。〔…〕しかしいつか、私が考えた通りにこれが実現されるならば、その効果は驚異的で、また用途は限りないだろう。〔…〕このような方法で人は誰でも計算だけで、現に最も困難な真理すら判断することになるであろう。以後、人々は、すでに手中にしているものについて、もはや論争することなく、新たな発見に向かうことになろう。
(工作舎版『ライプニッツ著作集』I, 94, 96 〔以下『著作集』と略〕)
 (P. 313-314)

 

〔運命の宮殿〕には、現に生ずるものばかりではなく、生じ得るものもすべて示されています。父ユピテルは、現実に存在する世界を初めてお作りになる前によく見直され、さまざまな可能性を幾つかの世界にまとめ上げたうえで、その中から最善の世界をお選びになったのです。
(『著作集』VII, 155
 神の観念のなかには、無数の可能性がある。だが、それらすべての集まりが可能世界なのではない。そうだとしたら、可能世界はただ一つしかない、それどころか、実際には一つもないことになる。なぜなら、ある事態とその否定は、たしかに単独では可能かもしれないが、しかし両立可能、すなわち「共可能」ではないからである。共可能ではない可能性を含む世界は、可能世界ではなく、不可能世界なのである。したがって、神は、現実世界を作る前にすべての可能性を見直して、矛盾を含まないように諸可能性をまとめあげ、無数の可能世界を構成した。そして、そのなかの「最善の世界」が、神によって現実世界として選ばれた。
 すると、必然的真理と偶然的真理は、次のように特徴づけられる。
このような〔必然的〕命題の真理は永遠的であり、世界が存続するあいだ妥当するだけでなく、神が別の仕方で世界を創造したとしてもまた妥当したであろう。他方、現実存在に関わる命題もしくは偶然的命題は、これとはまったく異なっている。〔…〕このような命題は、ある特定のときに真であるような命題である。
[18] 102
 すなわち、必然的真理とは、すべての可能世界で真となる命題であり、そして偶然的真理とは、現実世界で真であるが、しかし、別の可能世界では偽となる命題である。


Discours de métaphysique 『形而上学叙説』に いたる道 

 

Ⅰ ライプニッツ

   再刊の序
 (P. 3)
 本書は本来、昭和十三年に刊行された「西哲叢書」(弘文堂)の一冊であった。~~。
〔昭和五十八年七月〕
 (P. 11)
〔略語〕
G. ……Gerhardt, Die philosophischen Schriften von G. W. Leibniz, I-VII.
C. ……Couturat, Opuscules et fragments inédits de Leibniz.
F. N. ……Foucher de Careil, Nouvelles Lettres et opuscules inédits de Leibniz.
L. ……Lestienne, Leibniz, Discours de métaphysique.

 一 遍歴

 

 (PP. 14-15)
 ドイツ――我々の哲学者の郷国は、当時全欧州の戦場であった。灰燼に帰した村落や窮迫した都市から、もはや劫略すべき何ものもなくなって、ようやく三十年戦争は終結した。その二年前に荒廃のこの郷国に我々の哲学者は生まれたのである。~~。――既にイタリアはブルーノやカムパネラを出し、英国はベーコン、ホッブズを、フランスはデカルト、マールブランシュを、オランダはグロティウスやスピノザをもち、それぞれ新時代の哲学を樹てていた。ドイツには一人のこれらに匹敵すべき者をもっていない(1)。ドイツの大学ではこの十七世紀の半ばにおいてもなお依然として中世紀的なスコラ哲学が支配していた。~~。
 (1) もっともドイツが今まで哲学史において未開拓の地であったというわけではない。中世においてはスコラ哲学の錚々たる思想家を輩出していたことは、十二世紀にサン・ヴィクトールのユゴーがあり、十三世紀にはトマス・アクィナスの師アルベルトゥス・マグヌスがあり、十五世紀にはニコラウス・クザヌスがあったことを想起するだけで十分であろう。
 かかる変災の時代を環境として成長してゆかねばならなかった我々の若き知識人ライプニッツにとって、その課題となるべきものは既に荊棘の路である。~~。彼の前には百年の思想史的空白が臥っている。我々の哲学者はここに自ら新しき世界観の計画とその建設のために独りで百般のことに従わねばならぬ。法律、歴史、政治、国家学、新時代の数学、物理学、地理学、生物学、哲学、神学、――ドイツの全学問はこの一人の天才によって成長し、この一人の天才によって全欧の学問に対抗した。まさに天来の「時代の天才」でなければならない。ドイツの学問や哲学は初めて彼において近世史の舞台に登り得ることとなるであろう。そうして彼自らがドイツ哲学の「古典」となる――ライプニッツの綜合的性格はやがてドイツ哲学の伝統となる。ライプニッツに根源をもつこの伝統はヘーゲルにおいて最も偉大な後継者を見出すであろう。ライプニッツはドイツ哲学の「原型」であるだけでなく、実にその「典型」である。

 

 (P. 28)
 ~~。かくして一六七二年三月、二十六歳のライプニッツはパリに出発することになる。~~。
 (P. 29)
 ライプニッツ自身のパリ滞在の主たる目的はもっばら学問的享受にあった。これは彼のかねてよりの念願であった。~~。
 (PP. 31-32)
 ――彼が初めてパリに出て来た時には近世数学には全く無識であった。未だ無限級数やデカルトの「幾何学」やその解析的方法を知らなかった(そして事実上それがドイツの学問の水準に他ならなかった)。ロンドンヘ渡ってからいよいよ自己のドイツ以来の数学的教養が仏、英の学界の水準に比しはるかに低いことを自覚した。彼の数学的労作への没頭はロンドンから再びパリに帰ってきてからである。そして一六七六年には既に微分法の構想がほぼ成功した。彼は近世数学には無縁な者としてパリに来たが、数年にして近世数学の支配者となり、征服者として去った。ライプニッツのこの天才的な飛躍ほど目覚ましいものは学問の歴史の中にその比を見ないであろう。
 微分法の発見の意義は単に一つの新しい数学的方法ないしは数学の一分科の発見たるに止まるものではない。一般に、数学や物理学と形而上学とはこの時代――デカルトやライプニッツの時代においては、今日の如く分離ないし対立してはいない。かえって科学と形而上学とは本質的内面的な連関をもつ、あるいはむしろそれの限界が確然としていない如き「一つの哲学」である(1)。数学といえども未だ今日の如く抽象的な「純粋数学」でなく、「幾何学」であり、また単に一つの学問でなく学問一般の方法論たるかの如き指導的意味をもっている。デカルト以来、「幾何学的方法」(この時代においてそれは「数学的方法」というのと同義である)が学問の模範的方法となっていたことは、たとえば、スピノザの『倫理学[エティカ]』が「幾何学的方法によって論証」されていることを想起するだけで十分であろう。それ故、ライプニッツにおいても微分法の発見は単に数学的発見でなく、同時に彼の体系的方向を決定せしめるべき方法の発見であった。けだし言うまでもなく微分法は「無限」を計算的に処理する方法である。無限はこれまでの思想家には単に超越的なものとして、あるいは単に不定的なものとして、回避されるか、ないしは消極的にしか取り扱われていない。デカルト、スピノザにおいてもそうである。それ故、微分法の確立は端的に言えば、デカルト哲学を克服する新しき哲学、「ライプニッツ哲学」の方法論、論理学が自覚せられたことである(2)。後年彼はクリスティアン・ヴォルフに言っている――「君も元気な若い時代に哲学よりは物理学や数学に精を出すように。数学は哲学者の主要な媒介となるものである、自分自身にしてもまず運動の法則を確立しなかったならば〝調和の説〟をも発見していなかったであろう……」。ライプニッツはここに初めて自己の独創的な体系の論理学を自覚した。ライプニッツの生涯のプラン「普遍学」を単に空想的な計画たるに止めず、これを実現せしめる手段をこれによって見出したのである。古代の伝統に従う幾何学でない解析学――近世的数学はライプニッツにおいて初めて確立する。
 (1) ライプニッツの時代においては力学も神学と無縁のものではない。その新しい力学は弁神論と結びついている。これは単に力学に幾何学以上のもの――合目的性を認めねばならぬという「認識論的」意味に止まるものでなく、逆に神学自身が力学によって証しされる意味をも有するのである。神学や形而上学と科学との分離、すなわち方法と領域の原理的制限を自覚した「科学」の成立は十九世紀の事件である。この分離以後において組織された我々の哲学史は一般にこの分離を前提して描かれているように思える。従来のライプニッツ解釈も、一面には資料的制約によるものであるが、一般に同じ前提をもっている。このことはエルトマン、フィッシャー、ツェラー、ブートルー等の古典的著作において最も顕著である。この点に関する限りにおいてはラッセル、クーテュラ、カッシラーのライプニッツは確かに新しい貢献である。しかし同時にまた形而上学を見落す点にそれの制限をもっている。この分離――実は新しき形成であるが――はまさしく哲学の生成であり、展開の所産である。
 (2) 微分法のライプニッツにおける体系的および哲学的意味をおそらく初めて明らかにしたのはヘルマン・コーヘン (H. Cohen, Das Prinzip der Infinitesimalmethode und seine Geschichte, 1883) の功績であろう。
 (P. 34)
 微分法の着想と形成はこのパリ時代(一六七三-七六年)であるが、それから後十年の間、ライプニッツはほとんど何ものをも書いていない。そうして微分法が完成した形において発表されたのは一六八四年 (Nova methodus pro maximis et minimis) である。そして彼の確立した体系的思想を盛った最初の論文、有名な『形而上学叙説』(Discours de métaphysique) はそれから二年の後にできている。実際彼が「単純実体」、「単子」について語る純粋に哲学的な論文はすべて一六八五年以後に属する。この十年はカントの就職論文以後の沈黙の十年と同じ意味をもつものであろう。「発見」の確立、反省、享受したものの咀嚼、批判、綜合、やがてそれらの収穫への成熟――おそらく内的に最も緊張した時間であったであろう。『形而上学叙説』に続く数年にわたるアルノーとの論争はこの思想の洗練となる。
 いまや彼はもはや一ドイツ人でなく、完全に全欧州的な存在となった。ロンドンの王立学術協会は彼を会員に加えた――ニュートンが会員となった翌年(一六七三年)である。実際にライプニッツの名声が単にドイツ的範囲から出てヨーロッパ的になったのは確かにパリに出ることによって初めて可能となり得た。そうしてドイツ哲学もまたこれによって初めて近世の哲学史に登場することになる。~~。

 

 (PP. 37-38)
 この時代のライプニッツの仕事には驚嘆すべきものがある、ほとんどあらゆる方面の実際家および学者として間断なく労作に没頭している。~~。ライプニッツの「地球前史」(Protogaea)、「欧州王朝編年史」(Annales imperii occidentalis) はかくして世界史の、否、宇宙史の一部となるのである。ここに我々の哲学者はこの時代における最も卓抜な歴史家となる。
 これらの仕事と同時に、神学、形而上学、論理学、数学、物理学の全領域にわたる理論的学問の攻究とそれの統一が企図されている。――実際この時期にかの微分法も完成した形において公にされた (Nova methodus pro maximis et minimis, 1684)。デカルト派の数学をこれによって越えるとともにその自然哲学を越えた新しき力学の確立(一六八六年)、連続の原理の確立(一六八七年)、歴史研究の旅行(一六八七-九〇年)も、教会統一のためのフランスの宮廷およびその神学者ペリッソンやボシュエとの間の奔走も、学士院建設の計画も――すべてこの時期における同一の一人のライプニッツの仕事であった。そうしてこれらの裡において我々の哲学者はいまや彼の哲学体系の基礎を確立した。彼の形而上学の原理はその決定的な形をとった。一六八六年の『形而上学叙説』(Discours de métaphysique) がすなわちそれである(1)
 (1) 『形而上学叙説』はライプニッツの体系においても思想発展史においてもきわめて重要であるにかかわらず、これの発見公刊せられたのはようやく一八四六年に至ってである。
 一六八七年秋から三ヵ年にわたる前述の歴史研究旅行はその本来の使命の他にライプニッツ自身にとって種々の重要な機会を提供した。~~。なおこの旅行中ローマにおいて中国で活動したイエズス会派の宣教師と相識り、中国の文物に対する関心を刺戟された。またその途上、到る所で鉱山、冶金、貨幣鋳造を研究している。また『形而上学叙説』において確立した思想の展開たるアルノーとの論争もこの旅行前(一六八六年二月)から始まり、その旅行中に及んでいる(一六九〇年三月)。ニュートンの『自然哲学の数学的原理』(一六八六年終り頃出版)を初めて手にし、これに対して自己の研鑽になる力学の根本概念および運動の法則を論じた長大篇 (Dynamica de potentia et legibus naturae corporeae) を執筆したのもこのローマ滞在中(一六八九年十、十一月)である (G. IV. 412)

 二 計画

 

 (PP. 53-54)
 しかしライプニッツにおける「科学者」と「哲学者」との同時存在は、この時代にとっては格別のことではない。哲学と科学との原理的分離、すなわち「科学」の成立はむしろ十九世紀の出来事である。デカルトやライプニッツは偶然に数学者・物理学者にして、かつ形而上学者であったのではない。この時代の神学者は、たとえばアルノーやマールブランシュも、数学や物理学の素人ではない。倫理学を幾何学的方法によって論証することも、数学による神の存在の証明も別段奇異荒唐の感なしに行われたのである。むしろこの時代においては物理学(自然学)と形而上学とは哲学的学問の分科の差異であって、学問そのものの類的な相違ではない。ライプニッツにおいて「形而上学」に対立せしめられていたものは「数学」である(1)
 (1) 最も晩年の著作においてもそうである。たとえばクラーク宛第三書簡においても、「通常の言い方に従えば」数学的原理としての数・形態・算術・幾何学に対し、形而上学的原理として、たとえば原因と結果の概念が掲げられている (G. VII. 363)
 のみならず、科学そのものも必ずしも今日の如く自然科学と文化科学あるいは精神科学とに峻別されていない。さらに自然科学自身も技術と分離してはいない。ライプニッツは『単子論[モナドロジー]』の著者にして「微分法」の発見者であり、エネルギー保存律の発見者であると同時に、計算器や懐中時計の設計者であり、風車による排水工事の設計者にして監督者である。兼ねて神学者、法学者、歴史家である。もちろん、かくの如く多方面にして、しかも多産的であったのはきわめて稀有のことに相違ないが、しかしこれはライプニッツ独自のことではない。むしろ程度の差こそあれ、この「時代」の学問の性格である。「仮設を作らず」を標語としたニュートンが、同時にケンブリッジ・プラトン派の一人として哲学者、神学者であったことは単に私的な側面に止まるものではない。~~。

 

 (P. 56)
 ~~。ライプニッツの索めるものは普遍的原理である。或る存在の原理でなく全存在の原理である。それ故、デカルトやスピノザやホッブズがいずれもその方法の模範ないし原型を或る特殊な領域の原理から導いているのに対し――たとえばデカルトは「延長性」から、スピノザは「自然」から、ホッブズは「物体」から求めているのに対し、ライプニッツはこれを論理学に求めている。ライプニッツが憑依せんとする方法の原理は普遍的な論理学である。しかしこれはまさしく求められたる論理学である。既に存在する伝承的な「形式」論理学ではなく、「世界の論理学」――「普遍学」(Mathesis universalis) としてまさに新しく建設さるべき近世の論理学である。近世的学問一般の原理的性格とそれの自覚的形成を通じての近世論理学の組織の構成――これがライプニッツの哲学的努力の目標である。形而上学者にして同時に諸学の学者たるライプニッツにおいて初めてこの任に堪え得るであろう。

 

 (PP. 62-63)
 学問の方法論ないし認識批判の問題が出発点となり中心的動機となっているのは、この時代の哲学の特色である。しかしそれは今日のいわゆる「基礎づけ」でなく、新しき認識の追究である。発見の方法である。ライプニッツの先駆者ないし同時代においてほぼその哲学の動機と方向とを等しくするものは言うまでもなくデカルトである。そしてまた同時に著しい対照を示すものもまたデカルトである。デカルトは意識の分析から、ライプニッツは概念の分析から出発する。我々の哲学者の哲学的思索の出発点とした「結合法」の理念は、一般に「人間思想」を分析してそれの究極的要素を発見し、その要素の可能的結合を探究して、既知の認識の論証だけでなく新しき認識の発見を企図する発見法である。しかしかかる「分析」と「綜合」の方法は特に結合法に特有なるものでなく、ガリレイの metodo resolutivometodo constitutivo を典型とする、近世の学問一般を貫く普遍的方法である。いわゆる自然科学的方法はそれの所産である。しかしこの「究極的要素」を何において、またいかにして発見するか、まさにその点に近世哲学者の体系の性格的相違が成立する。デカルトは自己意識の分析から出発して明晰判明なる「単純者」において究極者を見出そうとする。すなわち明証性の直観を方法とする。我々の哲学者はこれに反して概念の分析から出発して「思想のアルファベット」を求める。すなわち心理的に明晰判明なるものを究極的なるものとせず、またスピノザの如く神の観念をもってただちに究極的なるものとせず、一般に直接的直観的なるものからでなく、逆にこれをも論証しようとする。したがってライプニッツにとって最高の概念は神の概念でなく真理の概念であり、その方法は論理的分析あるいは論証にある。「証明で行き詰まるといつも自分の観念を持ち出し、すべて明晰にして判明なる概念は正しいという原理を濫用する人々の方法を私はあまりいいとは思わない。我々は判明な認識の徴表を獲得せねばならぬ」(G. II. 52)。~~。

 

 (P. 70)
 記号法の考究はライプニッツが生涯関心した問題であり、また最も独自的な体系概念を発見する根本動機の一つとなった。ライプニッツはこの時代のいかなる思想家よりも記号法の意義と価値を自覚していた(1)。自らそれの完成に努め、きわめて多くの重要な記号を創案し(たとえば今日においても一般に用いられている微分法の記号もライプニッツに由来する)、多くの豊富な学問的発見がこの記号論から成立した。微分法そのものもその成果なのである。このことは彼自身が卓越した近世的数学者であり、最も直接的に記号的思惟を体験したからによるであろう。というのは近世数学は本来、古代数学の幾何学的なのに対して、代数学的なることを特色とする。図形的直観的なるに対し記号的分析的であることは、近世数学の最も著しい性格である。直截的に言えば、数学の記号化が近世数学の成立なのである。デカルトの「幾何学」(解析幾何学)が近世数学の出発点たる所以であり、未だそれが「幾何学」たるところに、やがて我々の哲学者が真の自覚的な近世数学の確立者となる所以がある。
 (1) D. Mahnke, “Leibniz als Begründer der symbolischen Mathematik,” Isis, 1927.

 三 反省

 

 (PP. 87-89) 〔【西哲叢書版 (弘文堂)(P. 125~)
 ライプニッツの省察は、デカルトにおける如く意識の分析から出発するのでなく、概念の論理的分析から出発する。したがって定義論や証明論が常にその中心である。認識の問題を最も包括的に取り扱った『人間悟性新論』においてもロックに対比して自己の所論を「acroamatique にして abstrait である」と言う (G. V. 42)。ライプニッツにおいては、「証明」とは判断の名辞を分析や定義によってそれの主語と述語との相等性あるいは一致を示すことである (F. N. 181)。したがって、たとえばパスカルの危惧した如く原理から原理へと無限に遡るという困難は存しない (C. 220)。かくして命題の論証は、それの主語を分析して述語を含むことを立証すれば完全である。結局、論証は命題の主語の分析に帰し、したがって主語の定義に帰する。論証は定義の連結に他ならぬ (G. I. 174)。しかし完全な定義はそれの最後の要素までの分析を要求する故に、主語が述語を含むことを示す論証よりもいっそう困難である (G. I. 392)。もとより定義は複合的な観念についてのみ可能である。複合的観念の定義はもはや定義されざる単純観念 (idées simples) を前提せねば循環論に陥る他ない。ライプニッツは定義し得ざる単純観念の存在を前提する (Monadologie, § 35)。ここに定義は単に恣意的であり得ないことになる(1)
 (1) 観念はライプニッツにおいては主観的心理的なるものでないことは前に注意した。七七頁以下参照。「単純観念に関する任意性はただ言葉の中にのみ存し、全然、観念の中には存しない。何となれば、観念はただ可能性を表出するのみである。たとえば親殺しがかつて存在しなかったとしても、……親殺しは可能的な犯罪であるであろう。したがってそれの観念は実在的であるであろう。というのは観念は神の中に永遠の昔から存在し、我々が現実的にそれを思惟する前に我々の中に存するのである……」(N. E. Liv. III. chap. 5. § 17, G. V. 279)
 この論証の基礎となっているものは、「およそ真なる肯定的命題には、全称的単称的、必然的偶然的命題たるを問わず、述語が主語に内在すること、すなわち述語の概念が主語の概念に何らかの仕方で含まれている」ことである (F. N. 179 ; L. § 8 ; G. II. 46, 56, etc.)。これはすべての種類の真理のアプリオリな原理である。これが「自同律」あるいは「矛盾律」に他ならぬ。それ故、一切の論証の原理となるものは自同律または矛盾律である (G. VII. 295)。ここに論証は自同律にもとづくことによって単に任意的な名目的主観的な定義に存するものでなく、実在的客観的なるものとなる。論証に真理性や必然性の性格を与えるのはこの自同律である (G. IV. 425)
 ライプニッツは「名目的定義」と「実在的定義」とを区別して、定義されるものの判明な特性を示すもの、それを他のすべてのものから判別せしめるものを名目的定義 (definitiones nominales) と名づけ、そのものの可能性あるいは実在性を表わすものを実在的定義 (definitiones reales) と言い (G. IV. 424 f., G. II. 63)、これのみが完全にして十全なる定義とみなし得るという (G. IV. 423)。~~。かくて実在的定義は単なる命名の如く任意のものでなく、真の本質、我々の気随に依存しない可能的本性に対応するものである。因果的定義や構成的定義はかかる実在的定義の特別な場合である。それ故、ライプニッツにおける可能性は単に論理的な意味に止まるものでなく、実在的な意味をもつ。それはいわば存在性の内的可能性を意味することに注意せねばならぬ。それ故またライプニッツは、「自同的真理を空虚な無用なものとするのは、これについて十分省察していないのによる」と言う (N. E. Liv. IV. chap. 2, G. V. 344)
 我々はここに真理論に関するデカルトとライプニッツとの大きな相違を見出すであろう。デカルトにとっては、真理の基準は観念の判明と明晰である。しかしライプニッツにとっては、観念が判明・明晰であっても不可能なるもの――矛盾を含んだ観念が存在する、たとえば――ライプニッツの好んで用いる例であるが――「最も速い運動」という観念は、判明ではあるが矛盾を含んでいる。何となれば、たとえば或る車輪が最も速い運動をすると仮定する、いまこの車輪の輻を延長すればそれの先端はより速き運動をなすはずである、したがってもはや最も速い運動ではない。それ故、「最も速い運動」という観念は判明には見えても実は錯雑している。それ故、真なる観念の基準は明証でなく矛盾を含まぬこと、すなわち可能であることの証明でなければならぬ。観念でなく判断が問題である(1)
 (1) この立場から、ライプニッツは、デカルトの神の存在論的証明の不完全なる所以は、神の観念の可能性すなわち非矛盾性が証明されていないところにあるという。そしてこの可能性が確立されれば、神の観念からその存在を導出し得るという (G. IV. 424)
 (PP. 94-95)
 ライプニッツは「永久真理」と「事実真理」、あるいは「必然的真理」と「偶然的真理」とを区別しながら、しかもそれにもかかわらず、すべて斉しく自同的(分析的)であること、すなわち論証し得られることを主張する。しかし事実真理を永久真理から区別せしめるものは、それが無限の分析を要求することにある。けだしすべての具体的な事物、個体的存在の概念は無数の要素あるいは制約を含むからである。実際上我々は実在的事物については、不完全あるいは不十全な概念――すなわち不完全にしか分析されていない概念しかもたず、それを単純要素にまで分析することができない。そしてこのことはまさに我々がこれらについては経験によってしか認識しないからである。無限なる悟性のみがかかる無限の分析を遂行し得、したがって個体的存在の十全な観念をもち得、したがってまた事実真理の直観的認識をなし得るであろう。それ故、神のみがこれらの事実真理をアプリオリに知り、それによって「常に述語が主語の中に含まれている」根拠を見るのである。我々にとっては分析を続けるに従って漸次接近し得るけれども、ただ無際限に確からしい蓋然性を獲得するのみである。したがって事実真理が蓋然的であるのは、ただ、我々にとってすなわち不完全な単に近似的な知識しかもたない我々に対してのみであって、それ自身においては理性的真理と同様に絶対的に確実である (Discours, § 13)。この意味においては、事実真理も永久的真理と同様に自同的(カント的意味における分析的)であり、少なくとも潜勢的に (virtuellement) 自同的である。かかるそれ自身としては必然的であるが、我々にとって偶然的な(すなわちそれの反対の可能なる)真理を基礎づける原理をライプニッツは「理由の原理」(le principe de raison) と呼ぶ(1)。ライプニッツは自らこれを「私の大原理」(G. II. 56) と言う。それ故、この有名な理由の原理は、普通解せられている如く単に目的論的形而上学的な前提、たとえば単に世界の合理性の独断的な前提として仮定されるのではなく、すべての真理は、偶然的真理すらも、合理化され得ねばならぬこと、すなわちそれの名辞の単なる分析によってこれを論証し得ねばならぬことを表明するものである。これが理由の原理の厳密な意味であって、「何ものも理由なくして存せず、また生ぜず」という如き通常の言い表わし方は、ライプニッツ自身言う如く「通俗的な言い表わし方にすぎない」のである (アルノー宛書簡、G. II. 56(2))。したがってこの原理は結局ライプニッツの真理の定義そのものの「系」あるいは必然的帰結である。
 (1) カビッツの研究によれば、理由の原理が Principium rationis として初めて現われているのは、ごく初期に属する「無神論者に対する自然の告白」(一六六八)ないし「抽象的運動論」(一六七〇)である (Kabitz, Kap. I. § 7)。しかしこれらの初期においては形而上学的宇宙論的意味を常に含蓄している。これが純粋に論理的に公式化され、体系的基礎的なるものとして自覚的に確立されたのは一六八六年前後の時代に至ってである。
 (2) 理由の原理がかくの如き論理学的意味を有することを初めて特に注意したのは、おそらくクーテュラの功績であろう (Bulletin de la Société Française de Philosophie, 1902, pp. 65-89)。これが「理由の原理」あるいは「決定理由の原理」あるいは「十分なる理由の原理」(principe de raison, ou de raison déterminante, ou de raison suffisante) と呼ばれるのは、それがすべての真理に理由(根拠)を与え得ること、すなわち分析によって論証し得ることを示すからである (cf. Couturat, “Sur la métaphysique de Leibniz,” Revue de métaphysique et de morale, 1902, p. 8)

Gottfried Wilhelm Leibniz
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