(3) | Aet. i. 25, 4 (Dox. p. 321. DK. 67B2), Λεύκιππος πάντα κατ᾽ ἀνάγκην,τὴν δ᾽ αὐτὴν ὑπάρχειν εἱ μαρμένην.~~. |
1 | 本章 A 28 ff., 第 68 章 A 33, B 5 e 参照。 |
1 | 「レウキッポスがこう論じているのは、感覚は、必然性をもって働く原因に帰着せしめられねばならない、とするからであろうと推測される。」(Diels) |
魂の本性に関する御質問にたいして、喜んでお答えします。というのも、今度御提出の疑問からもわかることですが、私の考えはまだ十分にはあなたに理解されておらず、しかもそのことはある種の先入見から生じています。~~。
(1) | ルドルフ・クリスティアン・ワグナーは、二年間ほど(一六九七~九九)ライプニッツの秘書をしていた人で、後年ライプニッツの推薦により、ヘルムシュテット大学の数学、物理学の教授に転じた。この手紙(一七一〇年六月四日)は、モナドに関するワグナーの質問に答えたものであり、表象についての比較的くわしい説明と、体系全般にわたる説明からみて、『モナドロジー』の解明に資するところが大きい。 |
(1) | ライプニッツの自然学では、不可弁別者同一の原理にもとづいて、真空の存在が否定されている。 |
一――これから論じられるモナド●1とは、複合的なものに含まれている単純実体に他ならない。単純とは、部分がない●2ということである。(一〇節)
一八――すべての単純実体つまり創造されたモナドには、エンテレケイア●36という名前を与えることもできよう。モナドは自分のうちにある種の完全性をもっている(|ἔχουσι τὸ ἐντελές)からである。モナドには自足性(ἀυτάρκεια)があって●37、そのためにモナドは自分自身の内的作用の源となり、いわば非物体的自動機械●38となっているのである。(八七節)
三一――われわれの思考のはたらきは二つの大原理に基づいている。その一つは矛盾の原理で、これによってわれわれは矛盾を含んでいるものを偽と判断し、偽と反対なもの、偽と矛盾するものを真と判断する●62。(四四、一六九節)
1 | モナドはギリシア語 μονάς に由来し、「一」、「一なるもの」を意味する。『形而上学叙説』(以下『叙説』と略称)で「個体的実体」、「実体的形相」などと呼ばれ、以後「エンテレケイア」、「能動的力」、「原始的力」、「真の(統)一」、「形而上学的点」などと呼ばれてきたものが、一六九六年頃から「モナド」と呼ばれるようになった。 |
2 | 物体とか運動は部分をもつ。モナドはこうした空間的規定を受けるものとは、次元を異にした非物質的、非延長的なものである。 |
36 | アリストテレスによる造語。完成態、完全現実態などと訳される。存在に関して可能態、潜勢と現実態、現勢との区別を考えるとき、①現実態と同じ意味に、あるいは②可能態の現実化の作用、過程に対して、完全に可能態が実現化された状態を指す。そこで実体を形相と質料の複合物とすれば、無規定的受動的な質料に規定を与え現実化する形相が、さらに現実化が完成し質料が形相化されつくした状態を意味する。ライプニッツは、魂、原初的力、実体形相、モナドなどと同義としているが(『弁神論』三九六節)、とくにモナドが自己を実現させてゆく力、それも妨げるもののないかぎりおのずから作用に移ってゆく傾向力、単なる潜勢力と実現作用との中間に位するものとされている。 |
37 | 草稿には、「モナドは自分のうちに τὸ ἐυτελές (完全性すなわち ἀυτάρχεια)をもっている。モナドには完全性、自足性 (suffisance) ἀυτάρχεια があって……」とある。 |
38 | スピノザ『知性改善論』(八五節)に、「魂はある法則に従って働き、いわば精神的自動機械である。」とある。ただしライプニッツの場合、重点は自動的ということにおかれている。つまり、モナドはまったく自発的にはたらくのであり、しかもそれが法則に則している。 |
62 | 矛盾の原理は、次節の十分な理由の原理とともに、精神の思考の原理にとどまらず、形而上学の原理でもある。この点以下の諸節で明らかとなる。矛盾の原理・矛盾律の定式化、またそれと表裏一体をなす同一・自同の原理つまり自同律との関係について、ライプニッツの叙述は必ずしも一定ではない。たとえば、「矛盾の原理すなわち自同の原理、つまり命題は同時に真であり偽であることはできない。したがってAはAであって非Aではありえない、という原理」(クラーク宛第二の手紙→本巻参照)。また『新論』(第 4 部 2 章 1)によれば、理性の原始的な諸真理は一般的に自同的といわれるもので、その肯定的な形は、つまるところ A=A の形で表わせる命題である。否定的な形での自同性は矛盾の原理……である。矛盾の原理は一般には、命題は真であるか偽であるかであるということであり、これには二つの真なる命題が含まれている。その一つは、真と偽とは一つの命題において両立しえない。つまり命題は同時に真でありかつ偽であることはできないということ、いま一つは真あるいは偽の反対ないし否定は両立しえない。つまり真と偽の間には中間項がない、命題は真でもなく偽でもないことはありえない、ということである……。 ただライプニッツは真理の条件を、主語-述語形式の命題に即して考える。「あらゆる肯定的な真なる命題においては、……述語の概念は何らかの仕方で主語の概念のうちに含まれている。Praedicatum inest subjecto 述語ハ主語ニ内在スル。もしそうでないなら、私には真理が何であるか分からない。」(アルノー宛書簡一六八六年七月一四日)。つまりカント的な意味で分析的であることが、命題の真理性なのである。このことは、自同的な命題、つまり主語またはその一部分を述語とする命題( A = A だけでなく AB = A のような場合を含めて)では判然としている。そうでない場合は、名辞を分析、定義して、主語の一部分が述語と同一であることを示す論証、つまり自同的命題への還元を必要とする。必然的真理、とくに数学の命題は、分析により矛盾律と自同律とに基づいて論証が可能である、とされる。 |
63 | principe de la raison suffisante 充足理由律、あるいは単に理由律、根拠律とも訳される。(ここでは便宜上理由律という語をつかう。)また決定理由の原理ともいわれることがある。存在や認識について「なぜ」という問いは哲学よりも古いものであろうが、ライプニッツはこの問いを哲学の原理的問題として扱い、「なぜ」なる問いに対しその理由・根拠を示す答が可能であり、説明を与えることができるとした。そこで、論理学ひいては形而上学の大原理、矛盾の原理に並べて、理由律をいま一つの大原理として確立した。そしてこの原理は、さまざまの形をとりつつ彼の哲学全体を貫いており、彼の哲学、彼の合理主義といわれるものに際立った特徴を与えているものである。この原理についてはごく初期の頃から考察がつづけられ、「理由のないものは何もない。」Nihil est sine ratione という周知の命題も早くに見られる。 本文に見られる通り、この原理は事実の存在非存在と、命題の真偽とにかかわっている。そして次章の事実の真理あるいは偶然的真理と不可分の関係にある。この原理の定式化は、手近かには『叙説』、アルノー宛書翰に見られる。「偶然的命題は、それが真であるというア・プリオリな証明をもっている。」とし、それは「事物の偶然性の原理すなわち事物実在の原理に基づく。」(『叙説』一三章)アルノー宛には、前節註 62 のように書いた少しあとで、「命題の主語述語の結合には、それらの概念のうちにその基礎が存している、(つまりア・プリオリな証明をもっている)といい、「これこそが私の大原理であり、……その系の一つが、〈理由なしに何も起こらない〉とか、〈なぜ事物がこうなって、ああはならないかを常に説明することができる〉という通俗的な公理なのである。」と言っている。 そこで偶然的命題が真であるかぎり、この命題は真理性の条件、述語の主語内在を満たしていなくてはならず、分析により明示できなくても、潜勢的には分析的命題、自同的命題であり、自同的命題に還元可能なものでなくてはならない。これを保証するのが理由律である。そこで、クーチュラー(『ライプニッツの論理学』)がいうように、矛盾律によれば「自同的命題(述語の主語内在)は真である。」し、理由律によれば「真なる命題はア・プリオリの証明をもっている。つまりその命題で述語は主語に含まれている。」だから、この二原理は論理的逆命題である、という彼の主張は、論理的あるいはこれらの原理の形式的側面に関してはその要点をついている。しかし、偶然的命題が分析的であるとはいえ、その真なることの論証は分析が無限に及び終局点がないことから不可能である。直線とそれへの漸近線による比喩は、二本の線が無限の彼方で交わる(命題の分析が無限に進めば自同的な命題に帰着する)ことをいっているのではなくて、矛盾律による数学的論証をもってしては二本の線が交わることは証明しえない、ということである。神ですら、終局がないゆえに論証により偶然的真理を知るのではなく、「誤りなき直観」をもって述語が主語に含まれていることを知るのである。人間の理性の場合、命題の分析が果たしうるかどうかで二大原理の適用範囲が定められ、無限の神の悟性にとってはこの原理の区別は必要なし、というのではない。 「ものが偶然的といわれるのは、われわれの認識の欠陥以外には理由はない」というスピノザ(『エチカ』一部定理三三註一)の必然論に対し、ライプニッツは、偶然的命題もそれ自身真であることの理由をもち、さらには現実存在自身が偶然的でありつつ、しかもその存在理由をもつということを理由律を楯に反論するのである。そこで理由律は、形式的に矛盾律の逆命題であるにとどまらない。真なる偶然的命題における主語述語の内的結合の理由は、矛盾律による分析をもってしては与えられなかったのであるから、その理由をかの内的結合の外に求めることを要求する。 話を先取りすれば、この全体的にして究極的な理由は神ということになるが、(三八節なお、三三節註 64 参照)しかし特殊的な事実や命題に関しては、上述のごとくその理由を知ることはわれわれにはできない。わずかに数学におけるような必然的命題の真なる理由は、矛盾律に基づきわれわれに知られうるのである。 |
64 | 思考の真理はさきに必然的真理、永遠真理とよばれたもの、事実の真理は偶然的真理ともいわれる。そして大筋として、思考の真理は矛盾の原理にしたがい、事実の真理は十分な理由の原理にしたがうといえる。(この二種類の原理と真理との関係について、ライプニッツの考えは必ずしも明確ではない。次註参照。) 偶然が「非必然的」であるかぎり、その反対は可能であり矛盾を合まない。そこで「シーザーがルビコン河を渡った」と「ルビコン河を渡らなかった」(『叙説』一三章)とは、歴史的事実との関連を度外視して単なる命題として考えられるかぎり、可能的な命題としては同じ資格をもち、したがって両方とも真でも偽でもない。~~。ところで、シーザーのルビコン渡河が起こらなかった世界を考えることは、十分に可能である。しかしその世界は、ルビコンを渡河したシーザーといわばワン・セットとなっているこの世界とは違う、別の世界でなければならない。そこでこの現実の世界以外に無数の可能的世界が、可能的なるもの、事物の可能性としての本質の領域たる神の悟性のうちに存することになる。神はそのうちの一つを選んで(ここにも理由律が働くが)、これに現実存在を与えた。すなわち創造である。これについては、五三節以下を参照。 したがって、この世界の存在理由、それとともに偶然的命題の真なる理由は神、この世界を選んだ神にある。この場合、可能性すなわち本質は存在に先行し、この世界を可能性という形で含んでおり、いわばその範囲は存在より広いのである。そこで可能性即必然性を説くスピノザに対し、この世界はそうでないことも可能である(ゆえに偶然的)が、しかしこうである理由がある(理由律)、偶然性は認識の問題ではなく存在論の問題である、として必然論を斥けるのである。 なお、クラーク宛第二の手紙でライプニッツは「形而上学から自然学に移行するには、……いま一つの原理……十分な理由の必要な原理を要する」と書き、『原理』九節では、モナドや生物についての議論は自然学者としてのものであり、形而上学に登るためには大原理「何ものも理由なしに起こらない」を使うとある。つまり形而上学と自然学、必然と現実の偶然を媒介するのが、他ならぬ理由律なのである。 |
65 | 必然的真理もそれが真である理由をもつ、という点にのみ、理由律がかかわっている、その論証は矛盾律にしたがって行なわれる、と両原理の関係を考えることができよう。 |
66 | このことは、次に続く二つの節で数学(幾何学)の例をもって示される。 ところで、一切の真理が原始的観念にまで分解可能であり、逆にこれらの観念の結合によって既知の真理の整序のみならず、未知の真理をも発見しうる、というのがライプニッツの幼少の時以来、生涯抱いていた考えである。すでに二〇歳のときの大作『結合法論』は正面からこれを論じたものである。概念の分析を、これを定義し、その定義の部分部分にも定義を与え、単純な部分すなわち定義不可能な名辞にいたるまで行なう。これが本文でいわれている「原始的な観念」に相当するが、彼はこの名辞の数が有限であり、これに適当な記号を与えて結合することにより一切の真理が表示されると考え、これらは「人間思想のアルファベット」をなすという。~~。 |
67 | canon 特殊な問題を解くのに役立つ、問題の一般的な解法。演算の諸規則などをも含む。 |
68 | ユークリッドの『原論』を範とする、幾何学のいくつかの基本命題(そこからすべての定理が演繹されてくる)の分類。それによれば、定義とは点、直線などの基本概念の特性の記述、公準とは直観的に与えられた幾何学的図形相互間の基本的関係を表わす命題、公理とは一般的な論理的基本命題のことである。~~。 |
69 | 三三節註 64 参照。観念の分析が究極にまで達した十全な認識は人間にとりまず不可能で、数の概念がそれに近いとライプニッツはいう。デカルト流の明晰判明に知られるものは真という明証説は安全ではない。「最大速度の運動」という観念は、即座に理解されるが、この観念は矛盾を含んでいる。したがって、公理や公準といわれるものが、厳密な意味でそうなのかという吟味が必要であるとし、みずからもこれを試みている。彼の努力は公理体系の整備など多くの影響を残したが、平行線の公理を証明しようとする企ては、却って後年非ユークリッド幾何学を生むに到った。 |
70 | 物体の自然的世界とモナドの形而上学世界、物質と精神とは判然と分かたれている。「この点で私はまったくデカルト派の説に賛成する」(『新論』序文)。なお一七、一八節参照。しかし、ライプニッツはこの両者を延長と思惟というまったく本性を異にする独立の実体とは見なさない。延長、形、運動は色や熱といった感覚的性質ほどでなくても、やはり想像力(これはここでは共通感覚として、数や図形等の数学的観念を対象とする)にかかわり、われわれの表象に相対的なものとして、延長物体の実体性を否認する。物体は延長しているものとしてのみ表象され意識される。つまり意識に対する現象なのである。しかし単なる仮象ではなく、力の概念を媒介に実体の世界に裏づけられている。そこに作用因の因果律が支配する近代科学が成立する領域が、もっばら知性の対象であり、完全性をめざして自己発展を努めつつあるモナドの目的論的世界とともに、それぞれ独立し完結したものとして確立される。そしてこの二つの世界の対応も予定調和の一例である。なお七九節照。 |
71 | もし偶然的事物の理由の系列の果てに最後の理由があるとすれば、これについても理由律によりなおその存在の理由が問われうる。カントは、最高存在者に自分はどこから来たか、と自問せしめている。そこで理由の系列をはなれた。その存在にもはや他の理由を必要としないもの、「その存在の理由をみずからのうちにもち、ゆえに必然的で永遠なるもの」(『弁神論』七節)、すなわち神が事物の究極的理由なのである。 |
72 | 草稿にはまず「そして、これがその中に細部が卓越的にのみ存する実体である。」とあり、抹消、本文のようになる。 |
73 | 草稿には括弧して「(潜勢的つまり形相的)」と補足し、あとで抹消。 |
74 | 卓越的に、 éminemment スコラ哲学の用語。結果のうちに存する完全性は、その原因のうちになくてはならない。もし原因と結果とが同様の完全性をもち、種を同じくするとき(人間が人間を生む場合のように)、原因には完全性が形相的に formellement 含まれる。しかし原因と結果とが同じ種に属せず、原因には結果の完全性がより高い仕方で含まれているとき(太陽の中に太陽の力によって生じるもの、たとえば樹木の姿がある場合のように)、卓越的に含まれているという。~~。 |
75 | 結果から原因へと因果系列を辿って究極的原因としての神の存在を証明する、いわゆる宇宙論的証明であるが、三七節註 71 にあるごとく存在論的証明が援用されている。 |
76 | 物質の充実空間における結合とモナドの宇宙表現について、六一、六二節を参照。ライプニッツは宇宙の調和が神の存在を証する、とも言っている。 |
77 | 草稿とA写本には「実体は」以下「すべての可能的な完全性を有し、ありうる最完全な仕方ではたらく」とあり、後に抹消。 |
78 | 「必然的存在者が可能、つまり矛盾を含まなければ存在する。」という存在論的証明の一つの定式は、四四、四五節で扱われる。 |
Leibniz — La Monadologie — |