The End of Takechan

 

充足理由律 ないし 幾何学的神 という仮説

 

 (P. 209)
 充足理由律 [principle of sufficient reason ラ principium rationis sufficientis
 名はいかめしいがつぎのような規則。《すべてモノゴトが存在する(または:真理である)ためには、そのモノが存在する(真理である)ための十分な理由がなければならぬ》ということ。~~。
( O )

 

 (PP. 419-420)
 決 定 論  Determinism
 自然界は正確な法則に従っており、将来に何が起きるかは過去の任意の時点の世界の状態から、その必然的結果として定まるという原理。
もしこの観点を全面的に受け入れるならば、偶然に生じたように思われる事象も、それをもっと良く知っていたならば完全に理解されるものであり、一見自由な人間の思考や選択の結果も説明可能であり、それらは原理的に神経科学の言葉で予言できることになる。より緩い意味での決定論の場合には、精神の自由というものは一般に想像されているよりもはるかに強く制約されていると主張する。人間精神に対するこうした挑戦に応えて膨大な哲学的書物が著されており、そのほとんどが、個人の選択の自由と責任の必要性を擁護している。
 物理科学における決定論についての考察を、哲学上の問題から切り離して行うことはできない。すなわち、哲学的問題がこの考察に重要さを加え、これを高度の批判的精神のもとに進めるのである。
 量子論以前の考え方
 この世界が定まった力のもとで一定の法則に従って動く原子から組み立てられているという考えは、これをギリシャの哲学者レオキッポスにまでさかのぼることができる。彼は紀元前 5 世紀に何事もでたらめに起こるものは無く、すべてのことは原因があって必然的に起こると書いていた。後代の世紀になっても、この必然性の観念が絶えて失われることはなかった。そしてこの観念はとりわけ 17 世紀の思想家ルネ・デカルト (Renè Descartes) によって高く掲げられ、彼の影響で広く世に知られるところとなった。アイザック・ニュートン (Issac Newton) はこのデカルト的科学研究の構想の大きな部分を遂行した人物である。~~。
 ニュートンより 1 世紀も後に、ピエール=シモン・ラプラス (Pierre Simon Laplace) は、もし現在の宇宙の状態の正確な知識を備えた万能計算機械があれば、それは未来のすべてを予言できるであろうと論じた(➡古典力学、ニュートンの運動法則

 


 

ニュートン『自然哲学の数学的原理』 (Issac Newton, 1687)

  一般注 〔再掲 (抜粋)〕
 6 個の主要な惑星は、太陽のまわりに、太陽と同心の円周上を、同じ向きの運動でもって公転しており、しかもほとんど同一平面内にある。地球、木星および土星のまわりには、それらと同心の円周上を、同じ運動方向で、かつほとんどそれら惑星の軌道面内において、10 個の月が公転している。しかし、彗星は思いきり偏心的な軌道に沿って、天空のあらゆる部分にわたっているのであるから、単なる力学的な原因がこれほどにも多くの規則正しい運動を生みだしえたとは考えられない。~~。太陽、惑星および彗星という、このまことに壮麗な体系は、叡智と力とにみちた神の深慮と支配とから生まれたものでなくてほかにありえようはずがない。そしてもし諸恒星が他の似たような諸体系の〔それぞれの〕中心であるならば、これらも同じ叡智の意図のもとに形づくられたものであって、やはりすべて「唯一者」の支配に服さなければならない。わけても、恒星の光は太陽の光と同一の本性をもち、光はおのおのの体系から他のすべての体系へと通ってゆくからである。また諸恒星の諸体系がそれらの引力によって相互に落下しあうことのないように、神はそれらの体系を相互に茫漠として果てしない隔たりに置かれたのである。
 この〔全智全能の〕神は、世の霊としてではなく万物の主としてすべてを統治する。そしてその統治権のゆえに「主なる神」( παντοκράτωρ )あるいは「宇宙の支配者」とよばれるのが常である。なぜなら、「神」というのは相対的なよび名であり、僕[しもべ]に対してかかわりをもつものであって、「神性」とは、神を世の霊であると空想する人びとが考えるように、神自身の体へのその君臨ではなくて、僕[しもべ]の上に及ぶ支配だからである。至高の神は、永遠、無限、かつ絶対に完全な存在者である。しかし、たとえどんなに完全であっても、支配を欠く存在者は主なる神とはいえない。~~。神は仮想的にだけ遍在するのではなくて、実体的にも遍在するのである。なぜならば、実体なしでは効能は保てないからである。万物は神の中に含まれ、かつ動かされているが、しかも他に対して何らの影響をも及ぼさない。神は物体の運動から何の損害をもこうむることはないし、物体は神の遍在から何らの抵抗をも受けない。~~。われわれが随時随所に見いだす自然の事物の種々相は、すべてこれ必然的に存在する神の想念と意志とから生じたものにほかならない。ところで、比喩として、神は見、語り、笑い、愛し、憎み、望み、与え、収め、喜び、怒り、闘い、考え、働き、造るといわれる。それは、神についてのわれわれの観念はすべて、完全ではないが、それでもなおいくぶんかは似たところのある人間の様式から一種の類推によって得られたものである。また以上は神に関することがらであるが、事物の諸現象から神について語ることは確かに自然哲学に属することなのである。
 これまで、われわれは天空とわれわれの〔地球上の〕海の諸現象を重力によって説明してきたのであるが、この力の原因をまだ指定してはいなかった。たしかにその力はある原因から生ずるものでなければならない。それは、その力を太陽や惑星の中心にまで少しも減少させることなく透入させ、また(ふつう機械的な原因がそうであるように)物体の各微小部分の表面〔積〕の大きさに従って作用させるのではなく、それが含む立体的物質の量に従って作用させ、かつその効果を常に距離の自乗の逆比に従って減少させながら、あらゆる方向に、しかも広大な距離にまで伝えるような、そういうものなのである。~~。しかし、私はいままでに重力のこれらの諸性質の原因を、じっさいの諸現象から発見することはできなかった。そして私は仮説をつくらない。というのは、じっさいの現象から導き出されないものはすべて仮説とよばれるべきものだからである。そして仮説はそれが形而上的なものであれ、形而下的なものであれ、また神秘的性質のものであれ、力学的なものであれ、実験哲学においては何らの位置をも占めるものではないからである。この哲学では、特殊の命題がじっさいの諸現象から推論され、のちに帰納によって一般化されるのである。このようにして物体の不可入性、可動性および衝撃力、また運動の法則や重力の法則が発見されたのである。そしてわれわれにとっては、重力がじっさいに存在し、かつわれわれがこれまでに説明してきた諸法則に従って作用し、かつ天体とわれわれの〔地球上の〕海のあらゆる運動を説明するのに大いに役立つならば、それで十分である。

 


 

デカルト『方法序説』第五部 (René Descartes, 1637)

〔再掲〕 こういうぐあいで神が最初はこの世界におそらく〈カオス〉以外の形は与えなかったにしても、〈自然〉の〈法則〉を打ち立てたうえで、自然がいつものようにはたらくために神が協力を与えてやりさえすれば、つぎのように信じても、創造の奇跡を傷つけることにはなりますまい。つまり以上のことだけによって、純粋に物質的であるどんなものでも、この地上で時とともに、現在私たちが見るとおりのものになっていくことができただろうということです。

 

ラプラス『確率についての哲学的試論』 (Pierre Simon Laplace, 1814)

「確率についての哲学的試論」〔再掲〕 与えられた時点において自然を動かしているすべての力と、自然を構成するすべての実在のそれぞれの状況を知っている英知が、なおその上にこれらの資料を解析するだけ広大な力をもつならば、同じ式の中に宇宙で最も大きな天体の運動も、また最も軽い原子の運動をも包括せしめるであろう。この英知にとっては不確かなものは何一つないし、未来も過去と同じように見とおせるであろう。

「確率論の応用について」〔再掲 (抜粋)〕 真理の探求の際に、われわれを先導することのできる最も確かな方法は帰納によって現象から法則へ、法則から力へとのぼることにある。~~。そしてもしも厳密な分析で法則が、その最も微細な点まで含めて、この原理に源を発していることがわかり、また多岐にわたり数も多いならば、科学は最高度の確実さと、到達し得るかぎりの完璧[かんぺき]さを獲得する。万有引力の発見によって天文学はこのようなものとなっている。~~。原因へさかのぼるのを待ちきれぬ想像力は仮説を創り出すことを好むもので、自分の創り出したものの中に事実をおしこめようとして、その性質を曲げてしまうことがしばしばある。そうなれば仮説は危険である。しかし現象から法則を発見するために、現象を相互に結びつける手段としてのみ仮説を考えるならば、また仮説に現実性は与えないで、絶えず新しい観察によって修正してゆくならば、仮説はわれわれを真の原因にまで導いていくことができるか、あるいは少なくとも観察された現象は、与えられた状況のもとでは起こるはずの現象だと結論するようにさせるであろう。
 現象の原因について設けることのできるすべての仮説をためしてみて、不適当なものを取り除いてゆけば、ほんとうのものに達するであろう。

 

 (PP. 1500-1501)
 レウキッポス Leukippos c. 480— ? B.C.
 ギリシアの哲学者。ミレトスの生まれ。エレアに行ってゼノンに学んだといわれるがその説もこの系統をひくものである。真にあるものはパルメニデスのオンのように不生不滅であるが、ただ無数にあり、しかも運動すると考えた。さらにこの無数にあるものはアナクサゴラスの場合のように質的差別はなく量的差別があるだけである。このようなものが原子アトモイ(分割できないもの)とよばれる極微の物質であり、こうしてかれは原子論の創始者となり、さらにこまかい仕上げをしてこれを完成したのはデモクリトス。著書は二つ知られているが、このなかから原子論の術語のほかにただ一つの断片「いかなるものも原因なしには生ぜず。すべては一定の根拠から必然的に生ずる」がのこっているだけ。
〔参考文献〕 J. Burnet : Early Greek Philosophy, 1892, 新版 1957. H. Diels : Die Fragmente der Vorsokratiker, 1903, 11 1961—64.

 


 

Early Greek Philosophy

第九章 ミレトスのレウキッポス

 (P. 497)
 ~~。ただひとつ残存するレウキッポスの断片は、偶然を紛れもなく否定している。「いかなるものも、理由なく生じはしない。しかしあらゆるものは、必然によって原因から生じる」とかれは言った(3)
 (3) Aet. i. 25, 4 (Dox. p. 321. DK. 67B2), Λεύκιππος πάντα κατ᾽ ἀνάγκην,τὴν δ᾽ αὐτὴν ὑπάρχειν εἱ μαρμένην.~~.

第一〇章 折衷主義と復古

 (P. 520)
 ディオゲネスが、宇宙無数説を唱えたことは十分に理解される。というのはそれは古いミレトス人の考えであったし、アナクサゴラスやレウキッポスによって現に再生されていたものであったからである。~~。

 


Die Fragmente der Vorsokratiker

 

 第 67 章  レウキッポス (B)
 (P. 25)

『知性について』1

  1 本章 A 28 ff., 68 A 33, B 5 e 参照。
2
アエティオス
 レウキッポスによれば、すべてのものごとは必然によって、すなわち運命によって生ずるとされる。なぜなら、彼は『知性について』においてこう言っているからである。「いかなるものも何気なく生ずることはなく、すべてのものごとは理路(ロゴス)にもとづき、必然によっているのである1。」
(『学説誌』I 25, 4 [Dox. 321] )
  1 「レウキッポスがこう論じているのは、感覚は、必然性をもって働く原因に帰着せしめられねばならない、とするからであろうと推測される。」(Diels)

 

※ Dox. = H. Diels, Doxographi Graeci, Berlin 1879.

 

 (P. 723, l-r)
 充足理由律 〔ラ〕principium rationis sufficientis
 〈理由なしにはなにものも生じない〉という伝統的原理を主題化し、自らの哲学体系の根幹としたのはライプニッツである。人間の思考は〈矛盾律〉と〈理由律〉という二大原理に基づき、前者によって数学などで真偽を判定し、後者によって、どのような存在にも十分な理由 (ratio) が存することを知る。「われわれは、事実がなぜこうであってそれ以外ではないのかということの十分な理由がなければ、いかなる事実も真であることが、あるいは存在することができず、またいかなる命題も真実であることができない、と考える。もっとも、このような理由は、ほとんどの場合われわれには知ることはできないが」〔モナドロジー、32 節〕。~~。
〔酒井 潔〕

原子 ( ἄ-τομος – atomos – ) じゃなくて 単子 ( μονάς – monas – )

 

「小 品 集」

ライプニッツ
 (PP. 510-511)
 モナドについて
  ――ワーグナーへの手紙(1)

 

 魂の本性に関する御質問にたいして、喜んでお答えします。というのも、今度御提出の疑問からもわかることですが、私の考えはまだ十分にはあなたに理解されておらず、しかもそのことはある種の先入見から生じています。~~。
 あなたの言うところによれば、私(ライプニッツ)はこの論文で、物質にたいして能動的力を十分認めたから、私が物質に抵抗を認めるかぎり、その物質に反作用を、したがって一つの能動性をも認めたことになる。そこで能動的原理が物質のいたるところに存在することになれば、動物の機能にとってはこの原理(だけ)で十分であり、動物が不滅の魂を必要とすることはないように思われる(これがあなたの主張です)
 これにたいして答えます。第一に、私の場合、能動的原理はたんなる質料すなわち第一質料にたいして認められるものではありません。~~。
 第二に、私はこう答えます。たんなる(第一)質料の抵抗は作用ではなく、たんなる受動性です。~~。
 第三に、こう答えます。この能動的原理、原始的エンテレケイアはほんとうのところ生命の原理であって、さきに私が述べた理由から表象する力を与えられており、不減なものであります。私が動物における魂と見なすものはまさしくこれです。このように、私は物質のうちにいたるところ付加されている能動的原理を認めるから、物質をつらぬいていたるところに生命の原理すなわち表象の原理がひろがっていると考えます。これはモナドであり、いわば形而上学的アトムであって、部分をもたず、自然的には生じたり滅びたりすることのないものです。
 (1) ルドルフ・クリスティアン・ワグナーは、二年間ほど(一六九七~九九)ライプニッツの秘書をしていた人で、後年ライプニッツの推薦により、ヘルムシュテット大学の数学、物理学の教授に転じた。この手紙(一七一〇年六月四日)は、モナドに関するワグナーの質問に答えたものであり、表象についての比較的くわしい説明と、体系全般にわたる説明からみて、『モナドロジー』の解明に資するところが大きい。
 (P. 513)
 ~~。同時に私は、天使というものが「非常に微妙な身体、しかも操作に適した身体を与えられた精神」であると考えます。この身体を天使はおそらく自由自在に変えることができるでしょう。~~。
 しかし、神は純粋な能動者ですから、神だけがほんとうに質料をいっさいまぬかれています。神には受動的力はまったくありません。この受動的力というのは、質料を構成しているものなのです。実際のところ、神に造られた実体はすべて不可入性をもち、この性質によって一方が他方の外にあるとか、侵入がさまたげられるといった事態が自然に生じてくるのです。
 私の原理は非常に普遍的であって、動物にも人間にもひとしくあてはまるけれども、人間はなんといっても動物よりもいちじるしくすぐれていて、天使に近づいています。~~。

 

 (PP. 514-515)
 だから、この(私の)説から危険な帰結が出てきはしないかと怖れる必要はありません。というのは、啓示的真理に矛盾しないばかりか、この真理をなみなみならず支持する真の自然神学というものが、むしろもっともすばらしい仕方で私の原理から証明されるからです。
 ところが、動物にたいして魂を認めず、質料の他の部分にたいして表象や有機性をいっさい認めない人たちは、神の尊厳に関する十分な知識をもつとはいえません。なぜかというと、この人たちは何か神にふさわしくないもの、無秩序なものを念頭に置いているからです。つまり彼らは、完全性や形相の空隙[くうげき]があると考えています。これは形而上学的空隙と称すべきものですが、それは物質の空隙あるいは物理的空虚と同様に、非難に値するものです(1)。~~。
 (1) ライプニッツの自然学では、不可弁別者同一の原理にもとづいて、真空の存在が否定されている。

 

La Monadologie 》 ― 単子論 ―

 

Principes de la philosophie ou Monadologie. 1714

「モナドロジー〈哲学の原理〉

西谷裕作=訳

 

 (P. 206)

 

    一――これから論じられるモナド●1とは、複合的なものに含まれている単純実体に他ならない。単純とは、部分がない●2ということである。(一〇節)
 (P. 211)

 

    一八――すべての単純実体つまり創造されたモナドには、エンテレケイア●36という名前を与えることもできよう。モナドは自分のうちにある種の完全性をもっている(|ἔχουσι τὸ ἐντελές)からである。モナドには自足性(ἀυτάρκεια)があって●37、そのためにモナドは自分自身の内的作用の源となり、いわば非物体的自動機械●38となっているのである。(八七節)
 (PP. 216-223)

 

    三一――われわれの思考のはたらきは二つの大原理に基づいている。その一つは矛盾の原理で、これによってわれわれは矛盾を含んでいるものをと判断し、偽と反対なもの、偽と矛盾するものをと判断する●62(四四、一六九節)
    三二――もう一つの原理は十分な理由の原理●63で、これによってわれわれは、事実がなぜこうであってそれ以外ではないのかということに十分の理由がなければ、いかなる事実も真であることあるいは存在することができず、またいかなる命題も真実であることはできない、と考えるのである。もっともこのような理由は、ほとんどの場合われわれには知ることはできないけれど。(四四、一九六節)
    三三――真理にも二種類ある。思考の真理と事実の真理である。思考の真理は必然的でその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的でその反対も可能である●64。真理が必然的である場合には、その理由を分析によって見つけることができる●65。すなわちその真理をもっと単純な観念や真理に分解していって、最後に原始的な観念や真理にまで到達するのである●66(一七〇、一七四、一八九、二八〇-二八二、三六七節、論争摘要異論三)
    三四――そこで、数学者の場合、理論上の定理も応用上の規範●67、分析によって定義や公理や公準に●68還元される。
    三五――そうして最後に、定義することのできない単純概念がある。また、証明することができず証明する必要もない公理や公準、一口でいえば原始的な原理がある。これらは自同的命題で、その反対は明白な矛盾を含んでいる●69
    三六――しかし、偶然的真理すなわち事実の真理の中にも十分な理由がなくてはならない。つまり被造物の世界にあまねく行き渡った事物の関連のうちにも、十分な理由がなくてはならない。この場合、自然の事物が極めて多様であり物体は、無限に分割されているから、個々の理由に分解してゆくと限りなく細部に到ることになる。過去現在の形や運動が無数にあって、それらがいま私が書いていることの作用因をなしている。また、私の魂には現在や過去の微小な傾向や気持ちが無数にあって、それが私の目的因をなしている●70(三六、三七、四四、四五、四九、五二、一二一、一二二、三三七、三四〇、三四四節)
    三七――ところで、どのこうした細部にも、それに先立つあるいはより細微な偶然的要素のみが含まれていて、その要素のそれぞれに理由を与えるためには同じような分析がまた必要となってくる。だからいくらやっても、少しも進んだことにはならない。そこで、十分な理由すなわち最後の理由は、偶然的要素のこうした細部がたとえどれほど無限でありえても、やはり細部の関連つまり系列の外にある、としなくてはならない●71
    三八――●72そうすると、事物の最後の理由は一つの必然的な実体の中にある、としなくてはならない。この実体の中にはさまざまの変化の細部が、あたかもその源泉の中にあるごとくただ卓越的●73●74存している。その実体こそわれわれが神と呼ぶものなのである●75(七節)
    三九――さて、この実体はすべてのこうした細部の十分な理由であり、またこの細部はいたるところでたがいに連関しているので●76神は一つしかない、かつこの神だけで十分である。
    四〇――さらに次のようにも考えられる。この最高の実体は●77、唯一の、普遍的必然的な実体で、それに依存しないものは他に一つもなく、また可能的存在からの単純な帰結であるのだから●78、この実体には限界などありえず、可能なかぎり多くの実在性が含まれているのでなくてはならない。

  1モナドはギリシア語 μονάς に由来し、「一」、「一なるもの」を意味する。『形而上学叙説』(以下『叙説』と略称)で「個体的実体」、「実体的形相」などと呼ばれ、以後「エンテレケイア」、「能動的力」、「原始的力」、「真の(統)一」、「形而上学的点」などと呼ばれてきたものが、一六九六年頃から「モナド」と呼ばれるようになった。
  2物体とか運動は部分をもつ。モナドはこうした空間的規定を受けるものとは、次元を異にした非物質的、非延長的なものである。
 36アリストテレスによる造語。完成態、完全現実態などと訳される。存在に関して可能態、潜勢と現実態、現勢との区別を考えるとき、①現実態と同じ意味に、あるいは②可能態の現実化の作用、過程に対して、完全に可能態が実現化された状態を指す。そこで実体を形相と質料の複合物とすれば、無規定的受動的な質料に規定を与え現実化する形相が、さらに現実化が完成し質料が形相化されつくした状態を意味する。ライプニッツは、魂、原初的力、実体形相、モナドなどと同義としているが(『弁神論』三九六節)、とくにモナドが自己を実現させてゆく力、それも妨げるもののないかぎりおのずから作用に移ってゆく傾向力、単なる潜勢力と実現作用との中間に位するものとされている。
 37草稿には、「モナドは自分のうちに τὸ ἐυτελές (完全性すなわち ἀυτάρχεια)をもっている。モナドには完全性、自足性 (suffisance) ἀυτάρχεια があって……」とある。
 38スピノザ『知性改善論』(八五節)に、「魂はある法則に従って働き、いわば精神的自動機械である。」とある。ただしライプニッツの場合、重点は自動的ということにおかれている。つまり、モナドはまったく自発的にはたらくのであり、しかもそれが法則に則している。
 62矛盾の原理は、次節の十分な理由の原理とともに、精神の思考の原理にとどまらず、形而上学の原理でもある。この点以下の諸節で明らかとなる。矛盾の原理・矛盾律の定式化、またそれと表裏一体をなす同一・自同の原理つまり自同律との関係について、ライプニッツの叙述は必ずしも一定ではない。たとえば、「矛盾の原理すなわち自同の原理、つまり命題は同時に真であり偽であることはできない。したがってAはAであって非Aではありえない、という原理」(クラーク宛第二の手紙→本巻参照)。また『新論』(第 4 2 1)によれば、理性の原始的な諸真理は一般的に自同的といわれるもので、その肯定的な形は、つまるところ A=A の形で表わせる命題である。否定的な形での自同性は矛盾の原理……である。矛盾の原理は一般には、命題は真であるか偽であるかであるということであり、これには二つの真なる命題が含まれている。その一つは、真と偽とは一つの命題において両立しえない。つまり命題は同時に真でありかつ偽であることはできないということ、いま一つは真あるいは偽の反対ないし否定は両立しえない。つまり真と偽の間には中間項がない、命題は真でもなく偽でもないことはありえない、ということである……。
ただライプニッツは真理の条件を、主語-述語形式の命題に即して考える。「あらゆる肯定的な真なる命題においては、……述語の概念は何らかの仕方で主語の概念のうちに含まれている。Praedicatum inest subjecto 述語ハ主語ニ内在スル。もしそうでないなら、私には真理が何であるか分からない。」(アルノー宛書簡一六八六年七月一四日)。つまりカント的な意味で分析的であることが、命題の真理性なのである。このことは、自同的な命題、つまり主語またはその一部分を述語とする命題( A = A だけでなく AB = A のような場合を含めて)では判然としている。そうでない場合は、名辞を分析、定義して、主語の一部分が述語と同一であることを示す論証、つまり自同的命題への還元を必要とする。必然的真理、とくに数学の命題は、分析により矛盾律と自同律とに基づいて論証が可能である、とされる。
 63principe de la raison suffisante 充足理由律、あるいは単に理由律、根拠律とも訳される。(ここでは便宜上理由律という語をつかう。)また決定理由の原理ともいわれることがある。存在や認識について「なぜ」という問いは哲学よりも古いものであろうが、ライプニッツはこの問いを哲学の原理的問題として扱い、「なぜ」なる問いに対しその理由・根拠を示す答が可能であり、説明を与えることができるとした。そこで、論理学ひいては形而上学の大原理、矛盾の原理に並べて、理由律をいま一つの大原理として確立した。そしてこの原理は、さまざまの形をとりつつ彼の哲学全体を貫いており、彼の哲学、彼の合理主義といわれるものに際立った特徴を与えているものである。この原理についてはごく初期の頃から考察がつづけられ、「理由のないものは何もない。」Nihil est sine ratione という周知の命題も早くに見られる。
本文に見られる通り、この原理は事実の存在非存在と、命題の真偽とにかかわっている。そして次章の事実の真理あるいは偶然的真理と不可分の関係にある。この原理の定式化は、手近かには『叙説』、アルノー宛書翰に見られる。「偶然的命題は、それが真であるというア・プリオリな証明をもっている。」とし、それは「事物の偶然性の原理すなわち事物実在の原理に基づく。」(『叙説』一三章)アルノー宛には、前節註 62 のように書いた少しあとで、「命題の主語述語の結合には、それらの概念のうちにその基礎が存している、(つまりア・プリオリな証明をもっている)といい、「これこそが私の大原理であり、……その系の一つが、〈理由なしに何も起こらない〉とか、〈なぜ事物がこうなって、ああはならないかを常に説明することができる〉という通俗的な公理なのである。」と言っている。
そこで偶然的命題が真であるかぎり、この命題は真理性の条件、述語の主語内在を満たしていなくてはならず、分析により明示できなくても、潜勢的には分析的命題、自同的命題であり、自同的命題に還元可能なものでなくてはならない。これを保証するのが理由律である。そこで、クーチュラー(『ライプニッツの論理学』)がいうように、矛盾律によれば「自同的命題(述語の主語内在)は真である。」し、理由律によれば「真なる命題はア・プリオリの証明をもっている。つまりその命題で述語は主語に含まれている。」だから、この二原理は論理的逆命題である、という彼の主張は、論理的あるいはこれらの原理の形式的側面に関してはその要点をついている。しかし、偶然的命題が分析的であるとはいえ、その真なることの論証は分析が無限に及び終局点がないことから不可能である。直線とそれへの漸近線による比喩は、二本の線が無限の彼方で交わる(命題の分析が無限に進めば自同的な命題に帰着する)ことをいっているのではなくて、矛盾律による数学的論証をもってしては二本の線が交わることは証明しえない、ということである。神ですら、終局がないゆえに論証により偶然的真理を知るのではなく、「誤りなき直観」をもって述語が主語に含まれていることを知るのである。人間の理性の場合、命題の分析が果たしうるかどうかで二大原理の適用範囲が定められ、無限の神の悟性にとってはこの原理の区別は必要なし、というのではない。
「ものが偶然的といわれるのは、われわれの認識の欠陥以外には理由はない」というスピノザ(『エチカ』一部定理三三註一)の必然論に対し、ライプニッツは、偶然的命題もそれ自身真であることの理由をもち、さらには現実存在自身が偶然的でありつつ、しかもその存在理由をもつということを理由律を楯に反論するのである。そこで理由律は、形式的に矛盾律の逆命題であるにとどまらない。真なる偶然的命題における主語述語の内的結合の理由は、矛盾律による分析をもってしては与えられなかったのであるから、その理由をかの内的結合の外に求めることを要求する。
話を先取りすれば、この全体的にして究極的な理由は神ということになるが、(三八節なお、三三節註 64 参照)しかし特殊的な事実や命題に関しては、上述のごとくその理由を知ることはわれわれにはできない。わずかに数学におけるような必然的命題の真なる理由は、矛盾律に基づきわれわれに知られうるのである。
 64思考の真理はさきに必然的真理、永遠真理とよばれたもの、事実の真理は偶然的真理ともいわれる。そして大筋として、思考の真理は矛盾の原理にしたがい、事実の真理は十分な理由の原理にしたがうといえる。(この二種類の原理と真理との関係について、ライプニッツの考えは必ずしも明確ではない。次註参照。)
偶然が「非必然的」であるかぎり、その反対は可能であり矛盾を合まない。そこで「シーザーがルビコン河を渡った」と「ルビコン河を渡らなかった」(『叙説』一三章)とは、歴史的事実との関連を度外視して単なる命題として考えられるかぎり、可能的な命題としては同じ資格をもち、したがって両方とも真でも偽でもない。~~。ところで、シーザーのルビコン渡河が起こらなかった世界を考えることは、十分に可能である。しかしその世界は、ルビコンを渡河したシーザーといわばワン・セットとなっているこの世界とは違う、別の世界でなければならない。そこでこの現実の世界以外に無数の可能的世界が、可能的なるもの、事物の可能性としての本質の領域たる神の悟性のうちに存することになる。神はそのうちの一つを選んで(ここにも理由律が働くが)、これに現実存在を与えた。すなわち創造である。これについては、五三節以下を参照。
したがって、この世界の存在理由、それとともに偶然的命題の真なる理由は神、この世界を選んだ神にある。この場合、可能性すなわち本質は存在に先行し、この世界を可能性という形で含んでおり、いわばその範囲は存在より広いのである。そこで可能性即必然性を説くスピノザに対し、この世界はそうでないことも可能である(ゆえに偶然的)が、しかしこうである理由がある(理由律)、偶然性は認識の問題ではなく存在論の問題である、として必然論を斥けるのである。
なお、クラーク宛第二の手紙でライプニッツは「形而上学から自然学に移行するには、……いま一つの原理……十分な理由の必要な原理を要する」と書き、『原理』九節では、モナドや生物についての議論は自然学者としてのものであり、形而上学に登るためには大原理「何ものも理由なしに起こらない」を使うとある。つまり形而上学と自然学、必然と現実の偶然を媒介するのが、他ならぬ理由律なのである。
 65必然的真理もそれが真である理由をもつ、という点にのみ、理由律がかかわっている、その論証は矛盾律にしたがって行なわれる、と両原理の関係を考えることができよう。
 66このことは、次に続く二つの節で数学(幾何学)の例をもって示される。
ところで、一切の真理が原始的観念にまで分解可能であり、逆にこれらの観念の結合によって既知の真理の整序のみならず、未知の真理をも発見しうる、というのがライプニッツの幼少の時以来、生涯抱いていた考えである。すでに二〇歳のときの大作『結合法論』は正面からこれを論じたものである。概念の分析を、これを定義し、その定義の部分部分にも定義を与え、単純な部分すなわち定義不可能な名辞にいたるまで行なう。これが本文でいわれている「原始的な観念」に相当するが、彼はこの名辞の数が有限であり、これに適当な記号を与えて結合することにより一切の真理が表示されると考え、これらは「人間思想のアルファベット」をなすという。~~。
 67canon 特殊な問題を解くのに役立つ、問題の一般的な解法。演算の諸規則などをも含む。
 68ユークリッドの『原論』を範とする、幾何学のいくつかの基本命題(そこからすべての定理が演繹されてくる)の分類。それによれば、定義とは点、直線などの基本概念の特性の記述、公準とは直観的に与えられた幾何学的図形相互間の基本的関係を表わす命題、公理とは一般的な論理的基本命題のことである。~~。
 69三三節註 64 参照。観念の分析が究極にまで達した十全な認識は人間にとりまず不可能で、数の概念がそれに近いとライプニッツはいう。デカルト流の明晰判明に知られるものは真という明証説は安全ではない。「最大速度の運動」という観念は、即座に理解されるが、この観念は矛盾を含んでいる。したがって、公理や公準といわれるものが、厳密な意味でそうなのかという吟味が必要であるとし、みずからもこれを試みている。彼の努力は公理体系の整備など多くの影響を残したが、平行線の公理を証明しようとする企ては、却って後年非ユークリッド幾何学を生むに到った。
 70物体の自然的世界とモナドの形而上学世界、物質と精神とは判然と分かたれている。「この点で私はまったくデカルト派の説に賛成する」(『新論』序文)。なお一七、一八節参照。しかし、ライプニッツはこの両者を延長と思惟というまったく本性を異にする独立の実体とは見なさない。延長、形、運動は色や熱といった感覚的性質ほどでなくても、やはり想像力(これはここでは共通感覚として、数や図形等の数学的観念を対象とする)にかかわり、われわれの表象に相対的なものとして、延長物体の実体性を否認する。物体は延長しているものとしてのみ表象され意識される。つまり意識に対する現象なのである。しかし単なる仮象ではなく、力の概念を媒介に実体の世界に裏づけられている。そこに作用因の因果律が支配する近代科学が成立する領域が、もっばら知性の対象であり、完全性をめざして自己発展を努めつつあるモナドの目的論的世界とともに、それぞれ独立し完結したものとして確立される。そしてこの二つの世界の対応も予定調和の一例である。なお七九節照。
 71もし偶然的事物の理由の系列の果てに最後の理由があるとすれば、これについても理由律によりなおその存在の理由が問われうる。カントは、最高存在者に自分はどこから来たか、と自問せしめている。そこで理由の系列をはなれた。その存在にもはや他の理由を必要としないもの、「その存在の理由をみずからのうちにもち、ゆえに必然的で永遠なるもの」(『弁神論』七節)、すなわち神が事物の究極的理由なのである。
 72草稿にはまず「そして、これがその中に細部が卓越的にのみ存する実体である。」とあり、抹消、本文のようになる。
 73草稿には括弧して「(潜勢的つまり形相的)」と補足し、あとで抹消。
 74卓越的に、 éminemment スコラ哲学の用語。結果のうちに存する完全性は、その原因のうちになくてはならない。もし原因と結果とが同様の完全性をもち、種を同じくするとき(人間が人間を生む場合のように)、原因には完全性が形相的に formellement 含まれる。しかし原因と結果とが同じ種に属せず、原因には結果の完全性がより高い仕方で含まれているとき(太陽の中に太陽の力によって生じるもの、たとえば樹木の姿がある場合のように)、卓越的に含まれているという。~~。
 75結果から原因へと因果系列を辿って究極的原因としての神の存在を証明する、いわゆる宇宙論的証明であるが、三七節註 71 にあるごとく存在論的証明が援用されている。
 76物質の充実空間における結合とモナドの宇宙表現について、六一、六二節を参照。ライプニッツは宇宙の調和が神の存在を証する、とも言っている。
 77草稿とA写本には「実体は」以下「すべての可能的な完全性を有し、ありうる最完全な仕方ではたらく」とあり、後に抹消。
 78「必然的存在者が可能、つまり矛盾を含まなければ存在する。」という存在論的証明の一つの定式は、四四、四五節で扱われる。

 


 

解説
 (P. 242)
    いわゆる『モナドロジー』は、ほぼ同時に書かれた『理性に基づく自然と恩寵の原理』(以下『原理』と略称)とともに、彼の最晩年の思想を全般的かつ簡潔に示したものであり、彼の「哲学的遺書」といわれている。
    ~~。
    ライプニッツは、必要あるときは「予定調和説論者」という筆者名を使い、自分の学説を「モナドロジー」と呼んだことは一度もなく、本書の草稿類も標題をもっていない。この名の由来は、一七二〇年ケーラーがみずから作ったと思われる写本をもとにして、本書のドイツ語訳を『モナドロギーについての教説』という標題のもとに発表したことによる。一七六八年のデュタン編の著作集には、これに基づくラテン語訳が『哲学原理』の名で収められており、フランス語の原文は『原理』とともに、一八四〇年エルトマンによる著作集に初めて公刊された。

 

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