目次>外松の歩み>創業~1951年
1932 年 (昭和 7年) | 創業者外松種二郎により |
当時は、盆暮れの休み以外は朝から晩までの業務であった。配達一つとっても、リヤカーや荷車を使って行い、谷川線ではスピードが出ないように押さえながら坂を降り、逆に堀割では坂を押し上げ、またその道を帰ってくるというように、今では想像もできない過酷なものであった。 |
1936 年 (昭和 11年) | 飛行機印温泉ヌガーの製造を開始 |
1940 年 (昭和 15年) | 2代社長外松淳が旧制中学を卒業して、家業を継承することに |
2代社長外松淳は、創業社長の3男として誕生したが、家業を継承することになった。但し、1942年春に徴用令が発動されたのを転機に、再び学生生活に戻った。その後、学徒徴兵で、1943年12月、舞鶴海兵団に入団し、海軍少尉に任官し、軍隊生活を送った。終戦後は、家業が休業状態の為に、九州大学経済学部に学び、1951年に再び外松に戻った。 |
1943 年 (昭和 18年) | 砂糖が配給制度となり、ヌガーの製造休止状態に |
1937年、日中戦争が起こり、1939年に第二次世界大戦が勃発し、1940年には、マッチ、小麦粉、米穀・肥料などが配給制となり、製菓原料も次第に窮屈になって、ヌガーも割り当てて売らなければならない程少量になった。更に、砂糖がなくなり、ヌガーの甘味に氷砂糖まで使って製造するという状態まで追い込まれ、最後は休止状態となってしまった。 |
1946 年 (昭和 21年) | 本町2丁目村沢商店跡を購入・移転 |
本町2丁目で砂糖屋をやっていた村沢商店の跡を購入する機会を得て、現在の外松ビルの土地が確保され、移転した。 |
1947 年 (昭和 22年) | 飯田の大火に見舞われ罹災 |
1947年4月20日、飯田市の市街地の3分の2を消失するという大火が発生し、当社も全焼の痛手を受けた。ただ、当時勤務していた店員の協力により、土蔵に家財を搬入し、そこだけは焼失を免れることができた。土蔵の中に大型桶1杯の水を入れておいたことと、扉の継ぎ目に味噌を塗ったこと、鎮火直後、土蔵の周辺に水をまいて熱気を抑えたこと等の機転によるものであった。 |
1947 年 (昭和 22年) | 砂糖の配給制の実施により、原料問屋としての機能が再開 |
戦後復興の過程で建物の大きさ等に建築制限があった為に、半二階の店舗を建築し、細々と商売が再開された。その後、戦前の取扱い実績に応じて数量を確定した砂糖の配給制が実施され、倉庫の新築が認可された。原料問屋としての機能の再開である。 戦後は、ヌガーの製造を再開せず、問屋業としての道を選んだ。徐々に製造され始めた菓子を入手すると、飛ぶように売れた時代であった。 |
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