次の企画を立案すべく「死×●●」でインターネットを探索中、とあるファイルにたどり着いた。ゲーム研究者の井上明人さんが、90年代の家庭用ゲームを中心に「死」の表現の変遷をまとめたものだという。
例えば、超有名タイトル『ファイナルファンタジー』シリーズにおける、プレイヤーキャラクターが殺されたときの表現だけ見ても、「いのちをうばわれた…」「やられた」「しんでしまった」などと、作品ごとに変わっているのがわかる。
ゲームはいまや、映画や漫画、アニメ、小説などと並ぶメディアの一つと言っていいだろう。ゲーム内の死の表現には、その当時の社会がなんらかのかたちで投影されているかもしれないし、逆に社会になんらかの影響を及ぼしているとも考えられる。ぼくらの生と死をアップデートする手がかりにもなるのでは?
そのように考えて、今回は京都・立命館大へ井上さんを訪ねた。
あらかじめ断っておかなければならないのは、井上さんはあくまでゲームというメディアの研究者であって、死の表現の専門家ではないということだ。そこを無理を言ってお話しいただいたことは、皆さんも念頭に置いておいていただきたい。
はたして、ゲームを通じてしか味わえない死は存在するのか否か——。
戦闘か物語か。RPGが向き合う2つの死
——「ゲーム×死」でネットサーフィンをしていて、井上さんの作ったアーカイブにたどり着きました。なぜこのテーマで調査を?
この作業を行ったのは18年前の2004年6月。当時、大学院修士2年目だった私は、表現メディアとしてのゲームの特異性を論じたいと思っていました。どんなトピックを扱おうかとさまざま検討する中で、死についての議論は良さそうだと考え、調査を行うことにしたのです。
——死についての議論の、どんなところが適していたのでしょう?
ゲームを作る上では「GAME OVER」、つまり敗北条件をどのように設定するかが重要になります。
戦いのメタファをとったゲームがとても多い中、死は敗北条件として非常にわかりやすい。おそらくはこのような理由で、死の表現に関しては、ゲームを作っている側もさまざまな工夫を凝らしていますし、プレイヤー側からしても印象に残るシーンが多いです。
そこで、当時自宅にあったゲーム機を起動しつつ、どのような死の表現がなされているのかを一つひとつ確認していきました。
——調査の結果、わかったことは?
まず言えるのは、ロールプレイングゲーム(以下、RPG)には、戦闘によっての死ぬ・死なないと、物語上での死ぬ・死なないという、死に関する二つの要素が存在するということです。特に1990年代の一連のRPG作品は、この二つの死の表現をめぐる悪戦苦闘の歴史として整理できるのではないかと思います。
80年代から90年代の作品を流れとして見ていくと、古い作品であればあるほど、戦闘上の死が、そのままキャラクターの死に直結していました。
例えば、1981年に米サーテック社から発売された3DダンジョンRPG『ウィザードリィ』では、戦闘で死んだキャラクターは本当に死んでしまって、復活しません。正確に言えば、復活の魔法のようなものはあるのですが、そこで復活させ損ねると灰になってしまい、二度と復活はできなくなる。
この頃のRPG作品では、キャラクターにさほど物語上の役割が与えられていないことが多かったように思います。それにはおそらく、ゲームソフトの容量の問題も関係していたでしょう。80年代前半は、簡単なグラフィックとテキストを載せるだけで容量がいっぱいになってしまっていましたから。物語を描きたくても描けなかったところがあるのだと思います。
しかし時代が進み、マシンのスペックが上がるにつれて、物語上のキャラクターの役割が前面に出てくるようになります。
超有名タイトル『ファイナルファンタジー』(以下、FF)シリーズなどが典型です。戦闘で死んだからといって本当に死んでしまうと、物語が成立しなくなってしまうので、物語上の都合で死ぬ・死なないが決定されるようになっていきます。
ただし、物語上の死ぬ・死なないと、戦闘上の死ぬ・死なないのタイミングがあまりにも不一致だと、それはそれでプレイヤーからすると「なんなん?」ということになってしまう。この問題を解決しようとして、揺り戻しのように、再び「戦闘で死んだら、本当に死ぬのである」という方向に舵を切る作品も現れていきます。
「エアリスの死」が与えた衝撃
——RPGでよく用いられる「戦闘不能」という表現などは、戦闘上の死と物語上の死のあいだにどう折り合いをつけるかを考える中から生まれた、と言えるわけですね。
おそらくは。そして、そんな歴史の中にも多くの人の印象に残った記念碑的な作品というものがあると思うのですが、その意味で重要なのは『FF7』における「エアリスの死」です。
エアリスは、この作品のヒロインの一人。それまでのRPGの“お約束”からすれば、絶対に死ぬはずがない存在でした。つまり、育てたら育てた分だけ、必ず元が取れるということです。そのため多くのプレイヤーが、惜しみなく投資して、エアリスを育てたわけです。そうしたら、あろうことか途中で死んでしまうので、「あれ? 生き返らないの?」となって……。
ですから「エアリスの死」は、物語上の演出としても多くのプレイヤーにショックを与えたでしょうし、仮にエアリスというキャラクターをそれほど好きではなかったとしても、投資した分がすべて無駄になるという意味で、やはり大きなショックを受けたでしょう。
死なないと思っていた人が死ぬ。その落差が大きい分だけ、受ける衝撃も大きい。多くのプレイヤーが遊んだメジャータイトルだということもあり、当時の多くの人に印象的な出来事だったと言っていいのではないかと思います。
——死なないと思っていた人が死ぬことの衝撃というのは、ゲームをプレーしない人からしても理解できる感覚ですね。
私個人の同時代体験的なことを言えば、90年代中盤には『FF7』のほかにも、死をどう表現するかということについて、インパクトを受けた作品が結構ありました。
例えば、1995年にクエストが発表したシミュレーションRPG『タクティクスオウガ』。民族紛争による戦乱を描いた作品で、プレイヤーに相手勢力の虐殺に加担するかどうかを迫るシーンがあり、当時10代だった自分は大きな衝撃を受けました。
あるいは、1994年にスクウェアから出された『ライブ・ア・ライブ』。プレイヤーは7人の主人公を操作し、七つのシナリオをオムニバス形式で進めていくのですが、物語の最終盤に大どんでん返しがあり、やや文学臭の漂う死の表現を体験することになります。
——90年代中盤にそういう作品が多かったのは、当時の社会をなんらか反映している?
そう言い切るのはなかなか難しいです。
というのも、私より上の世代の人に聞くと『ウィザードリィ』に同じようなインパクトを受けたとおっしゃる方も多い。10代中盤の経験から受けるインパクトは誰しも大きいものだと言われますし、私の場合はたまたま、世代的にそれが90年代中盤に当たるというだけの可能性もあるでしょう。
私自身はあまり積極的には社会反映論的な立場はとりません。ただ、論者によっては90年代におきた事件、例えば地下鉄サリン事件や神戸連続児童殺傷事件などを象徴として、その終末期待的な空気が当時のコンテンツに影響を与えたとおっしゃる方もいます。先ほど紹介した『タクティクスオウガ』は、開発者の松野泰己さんが、ユーゴスラビアの紛争を意識したことを明らかにしています。
とはいえ、それぞれの時代ごとに、何かしらの悲劇はある。その時代の特異性をどう抽出できるかというのは難しい論点だと思います。
ゲームにおける死のリアルとは
——ゲームにおける死の表現は、2000年代、10年代になるとどう変わりますか?
80年代から90年代は、テクノロジーに関する変遷も含めて変化が明確なのですが、その後は明確に「こう変わった」と言えるポイントを見出しにくくなります。というのも、2000年代に入ると、日本の家庭用ゲーム機でRPG全盛の時代が終わる。そのため、90年代と連続した形で、全体像として語ることが難しくなります。
ですので、客観的な歴史記述のような話ではなくなりますが、印象深いものを挙げると、2000年にアスキーから発売された『L.O.L Lack of Love』はその一つです。
プレイヤーはちっぽけな生物となって、だだっ広いフィールドに放り出されます。周囲にはさまざまな種類のほかの生き物がおり、それらを「食べる」か、あるいは「友達になる」ことを繰り返して、進化していきます。
「食べる」と決めたら、大抵の場合は相手生物と戦う必要があり、勝てばその死体をもしゃもしゃと食べることができる。ですが、無謀にも自分より大きな生物に立ち向かおうとすると、潰され、殺されてしまいます。
とてもよくできた作品だと思うのですが、商業的にはあまり成功しませんでしたから、プレーしたことがある方は多くないかもしれません。
一方、近年、多くの人に印象を与えた作品を選ぶとすると、2015年にゲームクリエーターのトビー・フォックスが開発した『Undertale』は、インディーズでありながら、多くの人がプレーしています。「誰も死ななくていいやさしいRPG」というキャッチコピーの通り、バトルで必ずしもモンスターを倒す必要がない点に大きな特徴があります。
勇者に殺されるモンスター側の視点を描いた作品という意味では、『Undertale』以前にも1997年発売の『moon』がありますが、いずれも死の表現に関して、それまでのRPG作品とは異なるチャレンジをした意欲作ということができるでしょう。
——どういう点で、これらの作品が画期的と言えるのですか?
それまでの作品がうやむやにしてきた、ある種のリアルな死を描こうという意図を感じ取ることができます。
——リアルな死。
ゲームの死に関して、80年代中盤から90年代にかけて行われた典型的な批判の一つに「本当はそこにあるはずの死を隠蔽している」というものがありました。例えば「50のダメージを与えた。●●を倒した」という表現は、本当は殺しているのに、マイルドな表現に置き換えることにより、あたかも残虐でないかのように描いている、という指摘です。
こうした議論は、先行するメディアであるアニメや漫画に関して継続的に行われてきたものですが、ゲームもそれを引き継いでいるところがあるのではないか、というのです。
80年代中盤くらいまでは、それこそ『ウィザードリィ』のようにダイレクトに死んでいた作品もあるわけで、そうした指摘がどの程度正しいかはなんとも言えないところ。ですが、先ほど挙げたような作品は割と真摯に死というものと向き合い、隠蔽することなく表現することに挑戦しようとした作品と言えると思います。
——最近話題となった『ELDEN RING』のような、いわゆる「死にゲー(極端に難易度が高く、ゲームオーバーを前提に設計されているゲーム)」も、その延長上に位置づけることができる?
うーん、それはどうですかね。
というのも、ゲームにおける死の表現が批判されるのは、要するに「生き返れるじゃん」という話だと思うので。「死にゲー」というのは、基本的には何度死んでもやり直せる作品が多いじゃないですか。
『ウィザードリィ』のようなやり直しのきかない作品の死を「リアル」としたときには、必ずしもその系譜にあるとは言えないかもしれないです。
ゲームは死の理解を助けるか
——社会のありさまがゲームにおける表現に影響を与えていると言い切るのには慎重というお話でした。その逆に、ゲームが実社会になんらかの影響を与えていることはあるでしょうか?
まず、文化現象について言えば、ゲームの影響がないと説明ができないという例がここ数十年、たくさんあると思います。
わかりやすい話で言えば、ここ5、6年ほどの「異世界転生モノ」の大ブーム。ウェブ小説から始まり、そのコミカライズやアニメ化などが続いていますが、レベルの概念や技の概念など、ゲームをやっていなければ単純に意味不明な内容になっていますよね。
またそれとは別に、我々の日常生活や日常の感覚にゲームというものがどれくらい根付いているかという話で言えば、例えば「親ガチャ」のような表現が流通していることが挙げられます。
「親ガチャ」という言葉が指す概念自体はそれ以前からあったでしょう。けれども、世界を像として捉える際に、ゲームというものをメタファとして参照する人が増えていることは、たしかなのではないかと。
——この世界をゲームというメタファで理解する人が増えている。
もちろん、そのことによる問題がないとは言いません。
例えば、年収とか自分の社会的影響力とか、我々の人生の中にも、ゲームにおけるレベルやステータスのように、数字で測れてしまうものは結構たくさんあります。そして、そういうもので自分の人生の価値とか満足度みたいなものを規定しようと思う人もたしかに一定数いらっしゃる。完全にそこから逃れることは難しいとはいえ、そういう考え方があまり前面化しすぎると、ネガティブなストレスがきつい瞬間は出てくると思います。
一方でポジティブな話もあります。例えば、実生活のちょっと複雑な揉め事に対して、シミュレーションゲームを通してメタ的に捉えることが、理解の一助になることもある。そういうタイプの発想を与えてくれるゲームが、実際にたくさんあります。
——ゲームにおける死の表現がぼくらの死生観に影響を与える可能性も?
あるでしょうね。
ゲームはいまや、映画やアニメ、漫画、あるいは小説といったものと比べても特段劣ることのない、リッチな表現メディアの一つとしての地位を確立しつつあります。さらに言えば、インタラクティブであることや、システマティックに構造を捉える手助けになるなど、いくつかの面でほかのメディアにない特徴もある。
死の表現という意味でも、小説だの映画だのと比べても、ちょっと特異なものになるのがゲームだと思います。それこそ『ウィザードリィ』で何百時間かけて育てたキャラクターのデータが消失する、というような、自分自身が時間とコストをかけたものが一瞬にして失われるという体験は、ほかのメディアではなかなか起こらないことです。
——これだけ没入して死の不可逆性を味わえるメディアはたしかにほかにないかも。
何百時間もかけたデータが消失するということが、そのまま死そのものであるかと言われれば、もちろんイコールではないでしょう。ただ、そもそも死というものは、我々には体験できないものですからね。
死とは何か、死とはどういうものかというのは、いくつかのメタファ、いくつかの類似物を通して想像することしか、我々には許されていません。それを想像させてくれるものの一つとして、ゲームはやはり、強力なメディアだと言えるのではないかと思います。
ゲーム研究者
井上明人
現在、立命館大学講師。ゲームという経験が何なのかについて論じる『中心をもたない、現象としてのゲームについて』を連載中。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。開発したゲームとしては、震災時にリリースした節電ゲーム『#denkimeter』や『ビジュアルノベル版 Wikipedia 地方病(日本住血吸虫症)』などがある。
Twitter:@hiyokoya6
写真:本永創太
執筆:鈴木陸夫
編集:日向コイケ(Huuuu)