アーカイブ「話の肖像画」

コメディアン・志村けん<4>ドリフ最初の1年は無我夢中…東村山音頭で肩の力抜けた

2006年3月23日付の産経新聞に掲載した連載「話の肖像画」のアーカイブ記事です。肩書、年齢、名称などは掲載当時のまま。

バカ殿様のコント魂

――ザ・ドリフターズに加入する前はどんなことを?

付き人仲間と「マック・ボンボン」というコンビを組んでいて、最初のステージがザ・ドリフターズの前座でした。それから23歳までコンビ活動。沢田研二さん、天地真理さん、小柳ルミ子さん、鶴田浩二さんとか、いろんな人の前座をやりましたよ。

――苦しい生活は続いた?

渡辺プロダクションの新人はみな月給5万円だったはず。食事行ってメニューを開いても値段しか見なかった。とにかく安いものを選ぶだけでした。

《荒井注さんの脱退でザ・ドリフターズの見習メンバーとなり昭和48年から人気番組「8時だヨ!全員集合」に出演。翌年春、正式メンバーに昇格する》

――ザ・ドリフターズ加入で一躍注目されましたね

注目されている意識はなかったですね。「全員集合」もドリフ5人の中にゲストが入る形だし、どこに行くのも5人。個人の仕事は全くしていなかったので、ぼくの社会はあくまでドリフの中だけでしたから。

――「全員集合」に初めて出演したときの思い出は

それが、全く覚えていないんです。最初の1年ぐらいは無我夢中。ただ一生懸命やっているだけでした。まあ、その一生懸命さが今から思うとダメだったんですけどね。一生懸命が見えると、お客さんが疲れちゃうでしょう。そのことに、ある程度たってから気づきました。お客さんには「いいなあ。遊んで金もらって」ぐらいに見えて、実はしっかりお芝居しているぐらいがいいんです。

――頭で分かってもその加減は難しいですね

最初からは、うまく遊べないです。やり方を間違うと、「お客をなめてるんか!」となる。100パーセントの力があったとしても70か80ぐらいでやるのがいいんだけど、最初は50ぐらいの力しかないくせに、90も100も求めちゃっていた。

――力を抜けるようになったのはいつごろからですか

基本的には「東村山音頭」をやってからです。ぼくが出ていくだけでお客さんが笑ってくれた。そうすると肩の力も抜けてくるんです。お客さんが待っていてくれるようになれば、気分的には相当楽になります。

――「東村山音頭」は当たる予感はあったのですか

いやいや。ザ・ドリフターズで「はやらせよう」と狙ってやったネタは1回もないです。狙ったやつは失敗していますし。毎週、生放送だからすぐ反応がくるので、「受けたから来週ももう1回やってみるか」と続けた結果です。ヒゲダンスもネタに困って、「とりあえずやってみようか」とやったらすごく受けた。ならもう1週とやってるうちに、1年以上続いていったんです。

(聞き手 田窪桜子)

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