アーカイブ「話の肖像画」

コメディアン・志村けん<3>マヨネーズで飯を食った下積み時代、金なくても楽しく

2006年3月22日付の産経新聞に掲載した連載「話の肖像画」のアーカイブ記事です。肩書、年齢、名称などは掲載当時のまま。

バカ殿様のコント魂

≪昭和42年、高校在学中にザ・ドリフターズの付き人になった≫

――付き人時代の生活は?

ギャラは月5千円なのに源泉徴収され手取り4500円。さすがに食っていくのもしんどくて、いつもひもじかったですね。お風呂はないし。そのくせ、食うものが欲しいからパチンコをやる。で、負けると食えない。マヨネーズだけで飯を食ったりしてました。

――仕事の内容は

そのころ、ザ・ドリフターズはテレビ番組が週1本で、あとは地方の営業回りとジャズ喫茶出演でした。新宿や池袋の有名な店に出ていました。ジャズ喫茶は階段が狭いうえに、あのころの楽器がでかいんですよ、エコーマシンとかは重いしね。一番きつかったのが新幹線を使う移動。停車時間が1分しかない。その間に付き人2人でドラムセットとか20数個の荷物を全部降ろす。1分間戦争ですよ。

――なんだか、下積み時代の話は楽しそうですね

もちろんつらいし厳しかったけど、それは承知の上でしたから。仕事が大変で金がなくても、まあ面白く楽しくやってました。

――両親はそういう生活に何も言わなかったのですか

オヤジは交通事故の後遺症で記憶障害が出ていましたから。おふくろは今でも踊りをやったりしていますが、どうやら芸事が好きだったみたいです。

――付き人時代はどのぐらい続いたのですか

自分の中では、3年たったら独立しようと決めていたんです。長くやってもしようがないですからね。でも1年半たったころ、ほかの仕事を何も知らないことに、どうしようもなく不安になってね。毎日決まった仕事ってどんなものか知りたくなって、いかりや長介さんに「1年間だけ時間を下さい」とお願いしたら、「だめ」と言われて。相棒の付き人に「1年たったら戻ってくるから」と伝言して辞めたんですが…。

――そうしたら

1年後にちゃんと戻ったら、おれが逃げたってことになっている。それで、いかりやさんじゃなくて、加藤茶さんのとこに行ったんです。加藤さんが、「前にいた志村が、どうしてもまたやりたいらしい」と頼んで戻してくれました。

――加藤さんのおかげで首がつながったのですね。

落語家の弟子とかはすごく厳しいじゃないですか。でもドリフってそういうしきたりや前例がないのがよかった。仕事だけぴしっとやっていれば、それ以外はわりと自由だったんで、加藤さんと2人でバカやってふざけたりできた。次はそれをいかにスタッフに見えるところでやるかです。「あいつら面白いじゃないか」と言わせるまで、やっていました。

(聞き手 田窪桜子)

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