アーカイブ「話の肖像画」

コメディアン・志村けん<2>音楽好きで選んだドリフ、弟子ではなくバンドボーイに

2006年3月21日付の産経新聞に掲載した連載「話の肖像画」のアーカイブ記事です。肩書、年齢、名称などは掲載当時のまま。

バカ殿様のコント魂

――笑いにかかわる仕事をしようと思われたのは

小学校から中学のころ、父は小学校の教頭をしていて厳格でね。飯食ったらすぐ書斎に入って、家の中は暗くて楽しくない雰囲気だった。大家族で男3兄弟だから食事も競争だったしね。でも、人気喜劇人が出演する舞台「雲の上団五郎一座」の中継やクレイジー・キャッツさんを見てるときは家族が一緒に和んで、オヤジが笑っている。「このオヤジが笑うのか。この人たちってすごい」と、尊敬したんですよ。

――もともと人前に出たがる子供だったのですか

爺ちゃんの晩酌をもらっては、テーブルの上に乗って歌まねをしていたらしいですけど、あんまり覚えてないです。小学校のときは、友達の前で柳家金語楼さんの落語をコントに仕立ててやったりもしてました。高校は1期生で先輩がいないからすごく自由。仲間とコンビを組んで化学の授業の白衣を1日中着てたり、文化祭では必ず何かやってはいましたね。

――お笑い芸人は簡単になれる職業ではないですよね

高校2年のときに担任の先生に、「ぼくは進学しないで、お笑いの世界に行きます。でも、何もつてはありません」といったら、先生が、すごく遠い知り合いで喜劇俳優の由利徹さんを知っているからと紹介状を書いてくれたんですよ。すぐに由利さんの家を探していきました。

――大御所ですね

そうしたら弟子が2人に、家の手伝いなどをやる内弟子も2人いた。その下につくのも嫌だと思ってたら、やっぱり由利さんに「もう、4人いるからダメだ」と言われたんです。それで「大学は行ったほうがいいですか」と聞いたら、「4年間で気が変わっちゃうよ。大学なんて必要ねえ」って。それで高校3年になって、誰に弟子入りしようかと考えました。

――そのときに選んだのがザ・ドリフターズですね

最初はコント55号か、ザ・ドリフターズで迷ったんです。コント55号は動きが、ドリフは音楽を交えた笑いが好きだった。結局、中学時代からビートルズなどの音楽が好きだったから、音楽を絡ませた笑いをやりたいという思いがあって、いかりや長介さんをたずねました。

――すぐに弟子入りできましたか?

あのころは「弟子」ではなく、音楽をやっていたのでバンドボーイと呼んでましたね。いかりやさんは、「今はバンドボーイが定員の3人いるからダメだ。でも、ひとり辞めそうなのがいるので、もし辞めたら連絡する」と。それでぶらぶらしてようと思ってたら1週間後ぐらいに電話がきて、「後楽園ホールで本番やっているからすぐ来い」。楽屋に行ったら、「明日から東北の旅にいくから用意してこい」。考える暇もなく、うれしいやら緊張するやらでした。

(聞き手 田窪桜子)

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