『スクリーマーズ』 ほか : フィリップ・K・ディック原作映画について
映画評:クリスチャン・ドュケイ監督『スクリーマーズ』ほか
『スクリーマーズ』は、フィリップ・K・ディックの原作映画の中で、メジャーとは言えないまでも、かなり評判の良い作品として、前々から気になっていた。
なにやら「地中から襲ってくる殺人機械と戦う、SFサスペンス映画」のようなのだが、そう言われても、ディック作品として、ピンと来ない。「ディックが、そんなアクションものみたいなのを書いているのかなあ?」という感じだったのである。
そのせいで長らく放置していたわけだが、先日、ディックの初期短編集 『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック 〈1〉』を読んだところ、そこに原作短編「変種第二号」が収録されていた。この原作名が、記憶があったのだ。
もちろん、原作そのままではないだろうとは言え、おかげで『スクリーマーズ』がおおよそどのようなお話なのかが、初めてわかった。なるほど、この原作短編は、映画にすると面白そうな、サスペンスフルな作品だったのである。
下のページに、『スクリーマーズ』の「全ストーリー」が紹介されているので、そのあたりはそちらにぜんぶお任せして、私はもっぱら、個人的な感想を書かせてもらうことにしよう。
まず、他に書いている人もいたが、この映画は「B級」作品とは言え、なかなか良く出来ているし、面白い。だから、見て損はない映画であり、オススメである。
ただし、個人的には、前記のとおり、直前に原作小説を読んでいたから、大筋で内容を知っていたし、「仕掛け」も知っていたから、意表を突かれて驚くことはできなかった。
映画が始まった途端「おお、舞台設定を、こんな風に変えたんだな。まあ、妥当なところだろう」なんて感じになってしまった。物語に入り込むのではなく、原作のどこがどう改変されており、その映画的な意図は奈辺にあるのだろうかと、そういったことを考えながら視ることになってしまったのだ。
その意味で、娯楽映画の鑑賞としては不幸であったし、原作を知らずに観る人とは、おのずと感じかたも大きく違っているだろう。「筋を知らなければ、きっと、もっと楽しめたはずなのになあ」と、視終わって後、いささか残念に感じられたのである。
しかしまあ、それを言っても仕方がないので、ここでは、ディック原作の映画について、考えてみることにした。本稿のサブタイトルが「フィリップ・K・ディック原作映画について」となっているのは、そのようなわけである。
○ ○ ○
『スクリーマーズ』の原作短編「変種第二号」は、アメリカとソ連という二大大国を中心とした「東西冷戦」体制の「未来」を舞台にしている。
だが、原作が書かれた時代とは違って、この映画は1996年の作品であり、現実の「ソ連崩壊」(1991年12月26日)以後の作品であったから、そうした原作の、今や「古くなった」背景的世界設定に変更を加えている。
では、その変更には、どんな意図や理由があったのだろうか?
まずは、単純に考えれば「そのままでは古くさい」と考えた、ということだろう。
それに、「現実にはならなかった未来」とは、「見込みがはずれた未来」だと理解され、いささかの「間抜け感」も無いではないので、まだしも「あり得る未来」に変更して、形式を繕った、ということだったのかも知れない。
しかしまた、「現実にはならなかった未来」というのも、それはそれで「パラレルワールド(平行宇宙)」感があって、悪くないと感じる人も、少なくないのではないだろうか。かく言う私が、そうなのだ。
ずいぶん前に読んだ、(映画にもなっている)荒俣宏の長編小説『帝都物語』では、実際の歴史どおりには「昭和天皇」が死なず、昭和が「昭和64年(平成元年)」よりもずっと先まで続く世界が描かれていた。
当然、時は既に「平成」に変わっていたのだが、「昭和」に生まれ「昭和」がずっと続くような感覚で育ってきた私は、その設定に、クラクラするような幻惑感を覚えたものであった。
ちなみに、昭和天皇は、危篤状態が長く続く中で「下血」をくりかえし、そのたびに輸血を行うことで何とか延命させられていた(そうした経過が、毎日のように報道されていた)のだが、そのせいで、世間では過剰な「自粛」が広がり、そんな時に浮かれ遊ぶのは「時宜をわきまえない」馬鹿者として、世間の顰蹙を買うことになった。コロナ禍にある今で言えば、マスクをせずに電車を乗る人のように、白眼視されたのである。
ともあれ、そんな「現実」を経験したせいであろう、『帝都物語』では「じつは、宮内庁は天皇の延命させるために、密かに秘薬である〝人肝〟を入手して、昭和天皇に供していた」という、中国あたりの古事に倣ったものとはいえ、いささか「不敬」で、だから面白いアイデアを盛り込んでいた。『帝都物語』は、伝奇オカルト小説なので、こういう設定が、作品世界にぴったりハマっていたのである。
で、話を戻すと、それと同じような意味で、現実には失われていた「東西冷戦体制の続いている、もう一つの未来」という設定も、かえって面白いし、むしろ設定としてわかりやすかったのだが、まあ、ソ連が崩壊して、まだ10年も経っていない時期の作品だし、そういう「今となってこそマニアックな設定」は、無難に避けられたのかもしれない。
『スクリーマーズ』を評して、『ブレードランナー』に『ターミネーター』と『エイリアン』を加えたような作品だとか、さらに『バタリアン』風味もあると評している人がいて、これはいずれも間違いではない。
原作者が『ブレードランナー』のディックだし、この映画の脚本家は『エイリアン』や『バタリアン』をやった、ホラーサスペンス的な作品を得意とするダン・オバノンであり、「人間そっくりなロボットが襲ってくる」という点では『ターミネーター』にも通づるお話だからだ。
また、ここにもうひとつ『遊星からの物体X』を加えいていた人もいるが、これも正しい。「誰が偽物か」というサスペンスにおいて、この作品は『スクリーマーズ』に通じるからである。
このように見てくると、フィリップ・K・ディックの小説というのは、意外に「映画向き」と言えるのかもしれない。
「いや、むしろそんなの常識だよ」とおっしゃる方もいるだろうが、私個人は、観念的で思弁性の高い後期の長編「ヴァリス三部作」(『ヴァリス』『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』)などが好きなので、ディックの作品というのは、ヴィジュアル向きではないという印象を持っていたのだ。
だが、ディック作品の特徴である、「幻覚」とか「偽物」とか「心を持つ人型ロボット(アンドロイド)」とか「戦争」とか「未来の管理社会」とかいった要素は、とても「映画向き」だったということに、今更ながら気づかされた。
具体的に言えば、「幻覚」とか「偽物」といった要素は、「何を信じて良いのかわからない状況」を惹起して、サスペンスを盛り上げるのにうってつけ。「心を持つ人型ロボット(アンドロイド)」は、多くの場合「禁じられた恋愛(ロマンス)」の問題と結びつけられるし、「差別」の問題と絡んで「感動的な物語」にしやすい。言うまでもなく、「戦争」は「極限状況」なので、緊迫感を演出しやすい。「未来の管理社会」は、「自由」を求める主人公の「冒険」を描くのに、うってつけの設定である。一一と、こんな具合である。
私の場合、ディックの映画というと、まず『ブレードランナー』であり、次が『トータル・リコール』であったから、両作は「続編映画」の方も観ている。
その一方、トム・クルーズの主演でスピルバーグが撮った『マイノリティ・リポート』は、人気監督による金のかかった作品で、なるほどビジュアル的に完成度が高く、娯楽作品としてよく出来てはいたのだが、そのスッキリとした仕上がりには、かえって「ディックらしさ」が感じられず、公開時に劇場まで足を運んで観たにも関わらず、まったく愛着のわかない作品になってしまった。
あと、キアヌ・リーブス主演で映画化された『スキャナー・ダークリー』は、『現実と幻覚とを曖昧にする表現手段として、俳優を撮影した実写映像をトレースしてアニメーション化するロトスコープという技法によって制作された』(WIKIpedia)、実験的な手法を取り入れた作品なのだが、私はそれ以前に読んでいた原作長編『暗闇のスキャナー』(小説邦題)がイマイチ楽しめなかったので、映画の方も、若干気にはなったものの、結局はスルーしてしまっていたのである。
したがって、私が、ディック原作映画だと知った上で、気になりつつも、これまで観る機会のなかった作品は、『スクリーマーズ』だけだったと言っていい。
だから、それを観てしまった以上、ディック映画は「もうこれで、おしまいにしていいかな」とも思ったのだが、他にどんな映画があるのだろうかと検索してみたところ、日本で上映されていないようなマイナー作品は別にして、
『クローン』(2001年)
『ペイチャック 消された記憶』(2003年)
『ネクスト』(2007年)
『アジャストメント』(2011年)
といった、「こんな映画、あったなあ」という作品がいくつも見つかった。
しかし、これらの作品は、公開時にその「予告編」を見ても、ディック映画だという印象がまったくなく、単なる「SFアクション映画」として、あっさりスルーしてしまったもので、ディックの原作映画だと知った今でも、観たいという気にはならなかった。
では、なぜ『ディックの原作映画だと知った今でも、観たいという気にはならなかった』のかというと、それは「ディックらしさ」を、それらの映画の「予告編映像」なりポスターなどに感じられなかったからだろう。
では、それらの作品に感じることの出来かった「ディックらしさ」とは、何なのだろう?
そこで私が思い至ったのは、「幻覚」とか「偽物」とか「心を持つ人型ロボット(アンドロイド)」とか「戦争」とか「未来の管理社会」とかいった「表面的で形式的な要素」ではなく、私が惹かれるのは、たぶん、ある種の「暗さ」や「古風さ」なのではないか、ということだった。
つまり、スピルバーグ作品に象徴されるような「垢抜けした作品」にしてしまっては、「道具立て」がディック的であったとしても、それではディックらしくならないのではないか、ということだ。
例えば、『スクリーマーズ』に登場する「スクリーマー」と呼ばれるロボットは、当初は爬虫類的なかたちをした、いかにも「メカメカしいもの」であり、これが自己進化して「人間そっくり」になるわけなのだが、それでも、それが銃撃などで破壊されると「中からは機械的構造物が表れる」といった、原作どおりの表現がなされている。つまり、こういった「アナクロニズム(時代錯誤)」感があってこそ、「ディックらしい異世界感」も出るように思うのだ。
しかし、それでは、名作『ブレードランナー』はどうなのか、と問われるかもしれない。
『ブレードランナー』に登場するアンドロイド(人型ロボット)である「レプリカント」は、生体部品で作られているから、寿命や記憶などの制限があるとは言え、物理的構造としては、人間と少しも違わないものとして描かれているのだが、しかしそれでは「ディックらしくない」ということにはならないのか、ということだ。
けれどもそれは、「東西冷戦体制が続いた未来」と同じで、単に「レトロ」感があれば良いということではなく、「あり得た未来」としてのレトロ感あるいは「既視感(未来に投影された過去)」のようなものが、今となっては、私に「ディックらしさ」を感じさせる、ということなのではないだろか。
『マイノリティ・リポート』のような「洗練」ではなく、「雨の降りしきる猥雑な街」といったところにこそ、『ブレードランナー』における「ディックらしさ」があるように、私には感じられるのだ。
そしてこうした観点からすると、(映画本編を観ていないのだから、あくまでも「予告編」などから受ける「イメージ」について言うのだが)私が興味を持てなかった『クローン』『ペイチャック 消された記憶』『ネクスト』『アジャストメント』といった作品は、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』ほどではないとしても、やはり、現代風に「洗練」されている分、「ディックらしさ」が感じられなかったのだと思う。
結局、私が観たいのは、「ディック的な道具立てを持ったSF映画」ではなく、「ディック的な匂いを持ったSF映画」なのだ。
だから、懸案であった『スクリーマーズ』を観てしまった今、もう、観なければならない「ディック原作映画」は無いと言っても過言ではない。その暇があったら、ディックの未読作品を読むべきなのだろう。
ただ、『スキャナー・ダークリー』は、比較的評判が良いようなので、ディック映画ということではなく、実験的な手法を駆使したSF映画として、「観てもいいな」という気にはなっている。
ともあれ、私にとって、「ディック原作映画」として重要なのは、いかにも「ディックらしい道具立て」ではなく、その独特の「ちょっと古風であやしげな匂い」なのだと思う。
だから、今後、ディック原作の映画を作る人には、そういうところを意識して欲しいと思うし、極端に言えば、ディックの「原作映画」ではなくても、「ディックらしさの匂う映画」なら、それでこそ楽しめるのだと思う。
そしてその場合、そんな「ディックっぽい作品」とは、決して「ディック映画の偽物」ではない。
そもそも、「ディック作品」においては、「本物にこそ、価値がある」などという価値観は、あきらかに間違いだからである。
(2023年1月26日)
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・
コメント