なぜ櫻井よしこは自分のことを書かないのか? | 考え方が固まっていませんか  Are you stuck thinking?

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  なぜ櫻井よしこは自分のことを書かないのか?


  なぜ、櫻井よしこは自分のことを書かないのか。これは、多くの人にとってわからないことだと思う。これは、彼女にとって触れられたくない真実が含まれているからだ。日本テレビでニュース・キャスターとして一時代を築き、ジャーナリストとして活躍した彼女が自分の半生を書かないのは、自らに責任のない悲劇、しかも、彼女が誇りとしたい日本、そして父親もその悲劇に大きく関与しているからだ。彼女はジャーナリストとして真実を追究するために全力を傾けてきた。彼女はその知性と行動力、そして美しさで多くのことを、正義を、知識を世の中に与え続けてきたことは間違いない。ここで、少しだけ休もう。話をどう展開するかはとても難しいからだ。


 1945年10月、ベトナム・ハノイの野戦病院で日本人の両親の間に生まれた。第二次世界大戦が終った直後のことだ。現在の私たちにはピンとこない。もしかしたら、ベトナムというとフォーという料理しか思いつかない人も多いかもしれない。戦後65年も経過した今、過去のものになりつつある。65年前に生まれた人はもちろん当時のことの記憶があるはずがない。ゼロ歳の赤ちゃんだからだ。当時二十歳のひとが今生きていたら85歳になる。二十歳の人がどれだけ社会を理解していただろうか、人生経験も少なく、今のように情報があふれていなかったからだ。そのころのベトナムのハノイで生まれた少女の話。


彼女はハノイで生まれた。


彼女は1945年10月ベトナムのハノイで生まれた。日本がアジア太平洋戦争を起こしアジア各地に大きな惨禍を残した挙げ句、連合国に対し無条件降伏をしてからちょうど2ヶ月後であり、何故ベトナムなのか良く解らないが、父親のビジネスでハノイに家族全部がいたという事だ。さらに、戦争中であってもベトナムに滞在している限り、日本軍の占領地域における日本人の暮らしは当然一般ベトナム人とは大きく違う富裕のものであったに違いない。


なぜ彼女は父親について語らないのか。ベトナムでなにがあったのか。


1945年にベトナムで起こった惨劇についてのルポルタージュ


 早乙女 勝元 『ベトナム“200万人”餓死の記録』―1945年日本占領下で

1945年、日本占領下のベトナム中北部で未曽有の大飢饉が発生して、「200万人以上」が餓死したという。ベトナムでは周知のこの飢餓に、日本はどう関係したのか。大惨劇の実像を示す数十葉の写真と共に、歴史の暗部に迫る。*

ベトナム“200万人”餓死の記録―1945年日本占領下で/早乙女 勝元
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「第1章「外米」で飢えをしのいだ日々」では著者の少年時代の思い出を交えつつ戦時下の内地における食糧難を描き出す。だが、いかに慢性的な食糧不足に苛まれようとも戦時下の日本では飢餓による死者はいなかった。「外米」によってなんとか飢えをしのいだ戦時下日本人。だが、そんな「外米」はどこから運ばれてきていたのだろうか?著者の丹念な取材は第二章以下において1945年の日本占領下ベトナムにおける大量餓死を克明に描き出す。そこからはフランス・日本による支配やコメの強制買付け、南部仏印から北部へのコメの輸送の停止、食用作物からジュートなどへの転作の強要などといった要因が重なり「200万人餓死」につながっていく構図が浮かび上がってくる。P171「私たちは、まちがいなく、ベトナム人民の血の出るようなとぼしいコメや、汗の結晶ともいうべきトウモロコシを多量に食べて、なんとか飢えをしのぎ、戦時下の厳しい食糧難時代を生き延びたのだ。このことは、何びとも否定できない事実である。かわりにベトナム北中部で、どのような大惨事が起きたかなどは、夢にも知らされずに・・・」



著者が取材の過程で入手した惨劇の写真の数々には戦慄を禁じ得ない。南京事件、ヒロシマ・ナガサキや東京大空襲など戦争の悲劇は数知れず存在するが本書に描き出されるベトナムにおける200万人餓死はそれらに勝るとも劣らない惨劇であるにも拘らず、今でも一般的に知られているとは言い難い。日本軍が直接殺害したわけではないので「戦争責任」としてはなかなかクローズアップされにくいのかもしれないが、近年注目を集めつつある「植民地責任」論を考える上でも、戦時下日本人の苦難もそれがベトナムにおけるさらなる大惨劇の上に成り立っていたこと、被害と加害の錯綜する帝国の戦争について考える上で本書は古いけど今でもなお色褪せない必読の書である。


 櫻井よしこは占領地のベトナムを拠点にして貿易を営んでいたと考えられる。

 日本にベトナムの米を大量に輸送したのにかかわっていたはずだ。

 ハノイの街が終戦当時どういう状態だったのか。彼女は語りたくないだろう。


 ここで、日本がベトナム侵攻して終戦を迎えるまでの経緯をウィキペディアより引用しよう。歴史は大まかな流れと小さな記憶を積み重ねないと見えてこない。


北部仏印進駐


1940年9月、日中戦争により日本と交戦中の中華民国の蒋介石政権に対して行われていたイギリスやアメリカ合衆国などによる軍事援助ルート、いわゆる援蒋ルート」を、インドシナ半島において遮断する目的で行われた。


ヴィシー政権のフィリップ・ペタン首相とドイツのアドルフ・ヒトラー総統(1940年)この進駐は、第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏した結果、1940年7月に成立したフランスの親ドイツ政権であるヴィシー政権との外交交渉の結果得られた成果で、現地の両軍司令部間での軍事協定も結ばれていた。しかし、進駐を開始した9月23日から数日間、ドンダン要塞など各地で、ヴィシー政権の決定を受け入れず、日本軍の進駐に反対する一部のフランス軍との間で戦闘[1]が発生し、停戦までに数百人の死傷者が出ている。


この日本軍による一連の行動は、当時、タイを除く東南アジアのほとんどの地域を植民地として領有していたイギリスやアメリカ、オランダなどの警戒と反発を招いた。


実際に、当時ドイツと戦争状態にあり、ヴィシー政権を「親独傀儡政権」とみなし承認していなかったイギリスのほか、ヴィシー政権を承認[2]していたアメリカも日本軍の進駐を「正当な交渉結果」とは認めず、対抗手段として英領ビルマにルートを建設することで、蒋介石への援助を続けた。


また進駐直後に、日本がイギリスと戦争状態にあったドイツとイタリアとの間に日独伊三国軍事同盟を締結したことによって、日本は、イギリスとその同盟国であるアメリカと完全な敵対関係に立つ。アメリカはただちに屑鉄の対日禁輸を決定し、翌1941年(昭和16年)に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。また蒋介石政権へは資金・物資両面から多大な援助を行った。


なお進駐後のインドシナでは統治権はフランス側に残され、フランス軍と日本軍の共同警備の形態がとられた。日本軍は、軍事協定にもとづいてフランス側から提供された飛行場を拠点とし、中華民国南部への空襲を開始した。


またこの北部仏印進駐は、仏印との間で領土問題を抱えていた東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国をも刺激し、同年11月のタイ・仏印紛争勃発のきっかけとなった。


南部仏印進駐


1941年7月2日の御前会議において仏印南部への進駐が決定し(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)、日本軍はヴィシー政権の許可を得て7月28日に仏印南部への進駐を開始した(南部仏印進駐)。南仏印進出は、政治的駆け引きの一端で、①米国が新たに開設した援蒋ルート(ビルマルート)を仏印・シャム軸を通じ牽制すること、②米英蘭が戦争を決意し南仏印に強固な拠点が築かれた場合、日本が戦争完遂のための物資を確保するために東南アジアへ進出することが不可能になることを恐れ、保険的な意味合いで実施された。


これに対して英米は、進駐が行われた場合には貿易制限を強化することを宣言していたが、無視して強行された。結果として、在英米蘭の日本資産凍結、日英通商条約廃棄、アメリカの対日石油禁輸などの強力な制裁が発動され、これは日本側の予想を上回るものとなった。一方、8月25日には、イギリス、ソビエトはイラン帝国に侵攻したが(イラン進駐)、アメリカはレンドリース法を継続するなどして、イギリス、ソビエトを支援している。その後、日本とアメリカ合衆国と外交交渉を重ねたが、アメリカが突き付けたハル・ノートを日本政府が受け入れることができず、開戦へ向かうこととなった。12月8日に日本はイギリスやオランダやアメリカなどに宣戦布告し、ここに太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発することとなる。


太平洋戦争開始後も、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。もっとも、念のための処置として、フランス駐留軍の軍備は制限され、主要海軍艦艇の武装解除などが行われている。


1944年にヨーロッパ大陸に連合国軍が再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍によってフランス国内からドイツ軍が追い払われたことで、同年8月25日にはヴィシー政権が解体されることとなった。その後も1945年の初頭まで日本は仏印政府の統治を認めていたが、ド・ゴールによるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われたことを受け、仏印政府の立場が完全に連合国(自由フランス)寄りとなり、日本軍に攻撃を仕掛けてきたことから、3月9日に『明号作戦』を発動し武力によってこれを制圧した。


作戦終了後、仏印政府の下で辛うじて命脈を保っていた阮朝のバオ・ダイ(保大帝)がベトナム帝国の独立を宣言、また、カンボジア、ラオスもほぼ同時期に独立を宣言した。しかし、同年8月14日に日本が連合国に対して降伏を予告すると、3日後の8月17日にベトナム八月革命が勃発し、日本が降伏文書に調印した9月2日には、阮朝は打倒されてベトナム民主共和国が樹立された。同時に、日本の降伏によって、日本に勝利したフランスは植民地支配を復活させた。


 歴史を見つめるのは辛いことかもしれない。しかし、今、戦後65年が経過し、多くのことが過去のものとなりかけている現在、知ろうとする努力は失いたくない。歴史の解説を櫻井よしこにゆだねてよいのだろうか。本当は櫻井よしこさんに取り組んでもらいたいのだが。



 ベトナムでの日本の戦争だけでもこれだけ複雑で、どのような流れの中で起こってきたのかを理解するのは難しい。下記に読売新聞が作成した日中戦争関連年表を見てみる。
 

教科書でならった満州事変から終戦までの大まかなながれ。

ここに、明治維新以降の流れ、戦争の実情:さまざまなものがからみあっている。

解きほぐすのは簡単ではないし、不可能かもしれないが、それでも、進めよう。


     《日中戦争関連年表》
15年戦争 日中戦争 太平洋戦争

1931・ 9・18 柳条湖事件(満州事変の開始)
  32・ 1・28 第1次上海事変
      3・ 1 満州国建国宣言
      5・15 5・15事件。犬養毅首相射殺
     10・ 2 リットン調査団報告書を公表
  33・ 2・17 関東軍、熱河省へ侵攻
      3・27 国際連盟脱退を通告
  34・12・29 ワシントン軍縮条約を破棄
  35・ 8・ 1 中国共産党、抗日救国宣言
  36・ 2・26 2・26クーデター事件
  37・ 7・ 7 盧溝橋事件
      8・13 第2次上海事変
      9・23 第2次国共合作
     12・13 南京を占領(南京事件)
   38・1・16 日本声明「国民政府を相手とせず」
     10・27 武漢を占領
   39・5・11 ノモンハン事件。ソ連軍に大敗
      9・ 3 ドイツ軍のポーランド侵攻に対し、
           英仏が宣戦布告(第2次世界大戦)
   40・9・23 日本、北部仏印へ進駐
      9・27 日独伊3国同盟調印
   41・4・13 日ソ中立条約調印
      6・22 ドイツ、ソ連を攻撃
      7・28 日本、南部仏印へ進駐
     11・26 米国、ハルノートを提示
     12・ 1 御前会議で対米英蘭戦争を決定

太平洋戦争   

     12・ 8 日本が真珠湾、マレー半島・香港を奇襲
           

 
   45・8・14 御前会議でポツダム宣言受諾決定
      8・15 終戦の玉音放送


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