彼女は援軍の巻物を読んだ   作:きりり

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三十四話 傷だらけになっても

 不覚にもカルカとレメディオスのやり取りに感動したケラルトは、貰い泣きして目を潤ませていた。

 姉であるレメディオスの状態は妹のケラルトから見ても酷いものだったし、回復したことが心の底から嬉しかったので、感情を隠せなかった。

 らしくないと自分でも思うが、それだけレメディオスは大切な存在だったのだ。

 だが、レメディオスが妊娠したのはエローナのせいらしい。

 

「おそらく、カルカを私がペット……仲間にしたことで、レメディオスが知らないうちにカルカのペット……仲間という扱いになっていたのではないかと思うの。私の故郷では縁を切った仲間が冒険者となることもあったし、逆に冒険者を仲間にすることもあった。冒険者であるということはこの際重要ではなくて、大事なのはペット……縁を切った仲間が私から見て孫のような関係の、新しい仲間を加えることがあるということ。故郷では元となるペットと縁を切ることで成立していたのだけれど、どうやら今の私はそれができないらしくて、縁を切らないまま成立してしまうようなのよ。そして私が知らない間に、クーデリカとウレイリカが仲間になっている。これらを踏まえると、レメディオスが妊娠できた理由も、自分からカルカの仲間になっていたからとしか思えない。私たちは種族も性別も関係なく結婚するし子どもも作れるから、私からその特徴がカルカに伝わって、それがレメディオスにまで広がっていたのだと思う。たぶん今は、ケラルトもそうなっているのではない? ふたりとも、カルカの親友でカルカと主従関係にあるのでしょう? 条件は満たしていると思うわ。だから、謝らせて。私は意図せずあなたたちを作り変えてしまった。ごめんなさい」

 

 ちょっとエローナの説明は意味不明で、聞いている全員が、真理に無理やり到達させられた原始人のような顔になって固まっている。

 とにかく何だか凄いことが起きたということだけは、ケラルトも理解した。

 看過できない内容だったような気もするものの、流した。

 今だけは、姉が無事に再起してくれた喜びに浸っていたい。

 ただ、しっかり記憶はしておく。

 

「良かったです、姉様」

「ケラルトか。お前にも、心配をかけてしまったな。心身共に無事とはいえないが……どうやら私は、生き永らえることだけはできたようだ。……名も知らぬ魔法詠唱者よ。改めて感謝申し上げる」

 

 抱きついて泣くケラルトを受け止め、アルシェにもう一度頭を下げると、レメディオスは居住まいを正して振り返る。

 しっかりとカルカを見て、笑みを浮かべた。

 かつて見せていた笑みとは比べ物にならないほど弱々しい笑みだったが、それでも気丈にレメディオスは振る舞った。

 

「そして、カルカ様。……再会が叶いとても嬉しく存じます。もはやなまくらに過ぎない錆びた剣となってしまいましたが、今一度お仕えすることを許していただけますか?」

「許可するわ! 何度でも! あなたが傍にいてくれるだけで、私は……!」

 

 抱きつこうとしたカルカだったが、何かに気付いたように寸前で止まった。

 その視線は、臨月にまで膨らんだレメディオスの腹部に向けられている。

 

「……子どもを、堕ろしたい?」

 

 カルカに問われ、ぎこちなく、レメディオスは自らの腹に手を当てた。

 小さな、内側から腹を蹴ってくる感触がある。

 己の体内で、命が育まれている証。

 

(気味が悪い。おぞましい。反吐が出る。亜人とまぐわい、子を孕まされたなど。……これが、私の末路か)

 

 どうしようもないのが、レメディオスは否定的な心に混じって、少しだけ、愛おしく感じている心があるのを、自覚しているということだ。

 気の迷いだとは思う。

 支配と魅了を受け続けた後遺症かもしれない。

 亜人は殺すべきだ。

 聖王国の領土を護るために、亜人に襲われる聖王国の民を守るために、そうしなければならない。

 

(亜人は殺す。たとえ私の子であってもだ)

 

 今もその考えに変わりはない。

 それでも、妊娠が判明してから臨月になるまで成長を見守ってきたことも、事実で。

 魅了の魔法による偽りの感情だったとしても、注いでいたのは、確かに愛だった。

 

(……そう、思っていたのに。どうして、私の手は動かん)

 

 全てを助けてこそ正義だ。

 知っている。だからこそ、カルカの理想にユメを見た。

 でも、力が足らず掲げた理想を守れなかった。

 全てを助けることなどできない。

 分かっていた。だからこそ、せめて聖王国の民だけは死なせまいと、誰よりも率先して亜人を殺めてきた。

 なるべく多くの人命を、この手で掬い上げるために。

 レメディオス自身に自覚はなくとも、カルカが即位してからずっとそうして生きてきたのだ。

 今のレメディオスでは、亜人の命どころか、人間の命ですら救えない。

 だから。

 遠慮がちに、レメディオスが言った。

 

「カルカ様。どうか、堕胎を許していただけないでしょうか。このままでは戦うことができません。それに、亜人の子を出産することにはやはり、抵抗があるのです」

「許可できないわ」

 

 きっぱりと、カルカはレメディオスの懇願を退けた。

 ケラルトが驚き、レメディオスも悄然として傷ついた表情を浮かべ、食い下がろうとする。

 今までのカルカは指導者として情を排した決断をすることは難しかった。

 それができるようになったのだから、ケラルトとしては喜ばしく思うべきなのだろうが、聖王女としてのカルカをよく知っているからこそ、その選択肢を選ぶようになったのが信じられなかった。

 同じようにレメディオスがカルカの決断に、反発した態度を見せるというのも意外だった。

 カルカのいうことなら何でも全肯定してきたのが、ケラルトの知るレメディオスだったから。

 おずおずと、ケラルトがカルカに尋ねる。

 

「理由を窺ってもよろしいでしょうか」

「その赤子に、利用価値があるからよ」

 

 以前のカルカなら、絶対に口にしなかった言葉。

 らしくない。自覚はある。

 あまりにも非情で、人間味のある判断ではない。

 言っているカルカですらそう思う。

 でも感情を排さないとすぐ己の心に振り回されてしまうから、カルカは自分を戒めなければならなかった。

 

(……私は、馬鹿ね)

 

 冷静になったカルカは、人間牧場の惨状を見て動揺し、完全に心に振り回されてしまっていたことを自覚していた。

 何度もエローナに諭されてきたのに、何なら現場で直前に忠告もされていたのに、憎悪に突き動かされて戦闘を選んでしまっていた。

 エローナがついている以上、絶対に負けはないと思っていた。

 虎の威を借る、あまりにも卑怯な考えだった。

 私情を優先して、軽率な判断をしてしまった。

 救えないのは後悔すると同時に、その選択に昏い喜びを感じていたことだ。

 今ならば、感情に振り回されて動くことがどれほど愚かしいことかよく分かる。

 分かるのに。

 ナザリックと魔導国が報いを受ける未来を想像するだけで、カルカは歓喜の感情が、憎悪混じりに湧き上がってくるのを止められないのだ。

 どうか苦しみ抜いて、己の所業を後悔しながら死んでくれと願ってしまう。

 醜い、それこそ牧場にいた悪魔たちのような心だった。

 おぞましい。

 

(どんどん、自分を嫌いになっていく。そういう意味でも、私は聖王の器ではなかったのよ)

 

 口をついて出てきそうになる自嘲の言葉を飲み込んだ。

 今度こそ間違えるわけにはいかない。

 汚れた選択を嫌がることなどできない。

 しっかりとレメディオスに視線を合わせた。

 

「命は貴いものだからなどという綺麗ごとはもう口にしないわ。私が確認した限りでは、亜人の子を孕むことに成功したのはあなたひとりでした。だから、少なくとも同じ症例が出るまでは、希少性があります。あなた自身も、あなたの子も、魔導国に対するカードとして使えます。そのために、産んで欲しいの」

「何故、そのようなご判断を。カルカ様は、そのような非情な決断をされる方ではなかったはずです」

「あなたの言うとおりよ。……レメディオス。やはりあなたは、私のことをよく見てくれていたわね」

 

 嬉しそうに、カルカは笑う。

 その笑顔だけは、レメディオスが記憶していたものと同じで。

 笑顔のままカルカが俯くと、影で表情が見えなくなった。

 独白に、どろりとした感情が混じり始める。

 荒れ狂う自分の感情を抑え込もうとしても、中々それができずにカルカは苦しんでいた。

 ふとした拍子にすぐ溢れ出してしまう感情の汚泥を、コントロールできずにいる。

 

「弱者でも幸せになれる世を作りたいから。聖王国を誰も泣かないで済む国にしたいから。その一心で十年間必死に努力してきたけれど、私が弱かったせいで誰も救えずに終わってしまいました。国の指導者たる者にとって、弱いというのはそれだけで罪となります。私はそれを、あの戦いで悟ったわ」

 

 ヤルダバオトを倒したとしても、カルカが聖棍棒にされたという事実が消えるわけではない。

 あの時の恐怖が、絶望が、跡形もなく消え去ってくれるなどということがあるわけない。

 今でもカルカの心は血を流したままだ。

 この世界でヤルダバオトと魔導国が繋がっていると気付いてしまって、傷口はむしろ広がってきている。

 偏見を抱いていなかったカルカだからこそ、真実を暴くのは、怖い。

 アルシェの世界での魔導国もそうだということが、分かってしまうから、余計に。

 感情を心の奥底に抑え込んで、蓋をするべきだ。

 そのうえで、二度と奪われることのないように、聖王国を強い国にしなければならなかった。

 

「優しくするだけではついてきてくれない人たちがいました。聖王国を停滞させたことが、魔導国に飲み込まれつつある今の結果に繋がっているのなら、国を守り国と共に強くなるためにもう手段を選んでいられない。次代を担うお兄様と、聖王国の民たちのため。今は心を鬼にしなければならないのよ」

 

 ……そしていつか。許されるのなら、もう一度あの理想を掲げたい。

 口をついて出ようとする言葉を、カルカは理性を総動員して押し留めた。

 この瞬間、心底カルカは自分を嫌った。

 唾棄すべき存在だと、自らを断じた。

 それほどの憤激を、自身の甘さに抱いた。

 己の優柔不断で八方美人な暗愚さが聖王国の現状を招いた。

 同じ轍はもう踏まないと、決意したはずだった。

 

(今さら。今さらだわ。あれほど間違いだったと思い知らされたのに、どうして私は諦められないの)

 

 情けなかった。

 あの戦いで死んでいった者たちの犠牲に報いるためにも、捨てなければいけないはずだ。

 でも、迷いと未練が、掲げた理想を完全に降ろすことを許してくれない。

 結局は。

 あれほど理想が幻想に過ぎないことを悟っても。

 絶望の底で無力さを噛み締めても。

 カルカには捨てることなど、できないのだ。

 ただ、甘いままではいられなかった。

 それで、大きな犠牲を出してしまったから。

 力が必要だった。

 聖王国に向けられるあらゆる理不尽を跳ね除けられるほどの、絶対的な力が。

 もう誰も聖王国に手を出せなくするような、圧倒的な力が。

 レメディオスは、握り締められたカルカの両手を見た。

 泣かないカルカの代わりに泣くかのように、血を流すその様子を見た。

 

(──ああ。カルカ様も、酷く心を傷つけられたのだな。それこそ、考え方を変えてしまわれるほどに)

 

 得心して、レメディオスは想像する。

 あの時。

 棍棒のように振り回されて。

 誰にも助けられなくて。

 そのまま、ヤルダバオトにどこかへ連れていかれて。

 カルカはどれほど絶望したことだろう。

 死に怯え 苦痛を受けていただろう。

 

「……カルカ様は、ケラルトのように蘇生していただいたのですか?」

「いいえ。ヤルダバオトに武器として振り回され、身体が千切れて上半身だけになって死を待つのみでした。……でも、助けていただいて生き延びることができたわ。代償に、下半身は少しだけ人から外れてしまったけれど」

 

 ゆっくりと、カルカは鎧を脱いでいく。

 年頃の女性らしい美しい上半身は肩や背中、腹にかけてところどころが鱗に覆われている。

 下半身は全体が変貌しており、二本の足も固い鱗に包まれた異形に変わっていた。

 女性らしい曲線美こそ描いているものの、強靭な筋肉が発達した足の先には、鋭い竜の爪がついている。

 臀部からは、ドラゴンのような尻尾まで生えている。

 尾がゆるりと動き、ベルトのようにカルカの腰に巻きついた。

 その姿に、レメディオスは酷くショックを受ける。

 

「……そんな。これでは、まるで、亜人ではないですか」

「そうね。亜人みたいになってしまったわ。でも、これでも骨格をかなり人間に似せてもらったのよ。……ほら、こうして隠してしまえば、人間にしか見えないでしょう?」

 

 どこか困ったように、カルカは笑って、鎧をつけ直す。

 尻尾は鎧の中に収納される仕組みのようだ。

 確かに、鎧を着ている状態では異形の部分が完全に隠れるため目立たない。

 

「利用価値があるとは言ったけれど、もちろん道具として扱うつもりはないわ。あなたと子どもを使うのは、本当に最後の手段にするつもりよ。子どもにも、きちんと愛情を注いで育てます。……そういえば、性別を聞いていなかったわね。どちらですか?」

「……男の子です」

「あら。なら、レメディオスに似て凛々しく育つでしょうね。きっと、とても可愛いわ。もう一度お願いします。あなたの子どもを、産んでくれませんか?」

 

 穏やかな色の瞳を向けながらレメディオスに歩み寄り、視線を顔に合わせ、そっと優しく己の腹を撫でてきたカルカを、レメディオスは戸惑って見つめた。

 必死に、レメディオスは今まで働かせてこなかった頭を一生懸命使って考えた。

 カルカの言っている産むというのは、実質育てるのと同義だ。

 常識として、ここまで育った以上はどちらを選ぶにしても産むこと自体避けられないことぐらいは分かる。

 でも。

 産んだ子どもを生かすべきか。殺すべきか。レメディオスにはもう、選べない。

 仕える者として、主の命令には従うべきだ。

 レメディオス自身、できるならそうしたい。悩むことなくカルカの言うとおりにしてきたから。

 でも、どうしても、半分だけとはいえ亜人の子であることと、あの地獄の日々で孕まされた結果だという事実が、レメディオスを躊躇わせる。

 今までなら、迷わずカルカの命令に従うことができたのに。

 悩むレメディオスに、ケラルトが声をかけた。

 

「産むべきだと思いますよ、姉様」

「お前まで……私に育てろというのか」

 

 憔悴するレメディオスに、ケラルトは根気強く説明する。

 単純なレメディオスでも、理解できるように。

 

「これはカルカ様から教えていただいたのですが。ヤルダバオトに従わなかった亜人たちは、魔導国に下ったそうです、そして、ヤルダバオトに従った亜人の悉くは、先の戦いで殲滅されてしまったとか。魔導国のもと、亜人たちは団結していますが、自分たちが騙され嵌められたと分かれば、その連帯に付け入る隙が生まれるでしょう。その際に姉様の子どもを使って、我々が亜人に対して友好的になったことを示せれば、こちらの陣営に引き入れられるかもしれません」

 

 知恵熱を出す勢いで頭を働かせて、レメディオスはケラルトの言っていることの意味を理解した。

 そして、理解したうえで質問を返すという偉業を成し遂げる。

 

「だが、魔導国の力を見せられているのに、反逆を考えて実行に移せる亜人がいるのか?」

「まあより強大な力を示さなければ無理でしょうね」

 

 言いながらケラルトがエローナを見た。

 最初から、その人物のことをケラルトは思い描いていた。

 味方につけて、戦いに引っ張り出す理由を作ってしまえば、必ず魔導国との戦争に勝利できると、確信を抱いたから。

 ケラルトはカルカの理想を支持する理想主義者であると同時に、その道筋を実現可能な形に落としこむことのできる現実主義者でもあった。

 たとえ誰から非難されようと、聖王国とカルカのために、エローナに好意と献身を捧げることで雁字搦めにして、骨までしゃぶり尽くすと決めた。

 弱肉強食を肯定するケラルトだからこそ、その因果応報を受け心に傷を負ったところで、その芯は揺らがない。

 何度報いを受けても考えを変えることなく、不屈の意志で這い上がってくるだろう。

 

「そういえば、ひとりいましたね。うってつけの神様が」

 

 白々しくカルカがエローナを見た。

 助けられて、力を授けられ、ここまで歩みを進めてきたカルカは、エローナに対してもはや信仰とも呼べる深い信頼を寄せている。

 ここでエローナが自分たちを見放すような人間ではないと知っていた。

 また、甘えが顔を覗かせている。

 依存と呼び変えてもいい。

 中々人は変われない。

 それこそ、これまでの精神を粉砕してしまうかのような悲劇が、もう一度起きない限りは。

 

「というか、エローナしかいないわよ、そんなの」

 

 アルシェもまた、エローナを見た。

 何となく流れで協力を要請することに微妙な気持ちになりながらも、ケラルトとカルカの小芝居に付き合った。

 個人的な意見としては、あまりエローナの力は借りたくない。借りても最低限にしたい。

 力は充分つけさせてもらった。

 なら、自分の道は、自分で切り拓いてこそだとアルシェは思うから。

 最近エローナの力を頼り過ぎていて、自分でも良くないと感じている。

 付き合ってくれるエローナに申し訳ない。

 それでも、今のアルシェたちだけでは魔導国に勝てないのも事実で。

 

(すまない、エローナ。なるべく早く、独り立ちするから)

 

 心の中で、エローナに謝った。

 三人から視線を送られたエローナは、ため息をつく。

 

「……一度でも力を見せたのが運の尽きか。やっぱりこうなるのね。いいわよ、乗りかかった船だし。カルカの時間軸で暴れるだけなら、向こうの状況には関係ない。元より、私は救った責任として、あなたの願いを背負っているもの。聖王国のために動いてあげる。……カルカ。私を上手く利用しなさい。考えて私の力を振るうのよ。あなたの願いが復讐でも、苦しみ抜いて出した答えなら、私はそれを責めないわ」

 

 優しい眼差しを向けながらエローナがほほえみ、内心を読んだかのように忠告する。

 カルカが神妙な表情になると、深く、深く礼をした。

 

「ありがとうございます。聖王女として、神様の言葉を心に留めさせていただきます」

 

 礼をした体勢のまま目を閉じ、エローナへ向けて祈りを捧げる姿勢を取った。

 人間牧場でその戦い振りを見ていたケラルトは、予想どおり聖王国の戦力としてエローナを数えることができるようになったと踏んで、手応えを得た。

 

(段々エローナのことが分かってきました。これならきちんと聖王国のために動いてくれそうです。……ずいぶんと善性が強い人ですね。私の考えていることは読まれていそうですが、それでも付き合ってくださるとは)

 

 少し意外でもある。

 何しろケラルトにとってのエローナへの最初の認識は、予測不可能な判断をする怪獣で、その一挙手一投足に気が抜けないし、意味があるのかと考えてしまう危険人物だった。

 はっきりいって味方のうちはいいが、敵になることを想像したら絶望しかなかったし、今のカルカには、エローナへの甘えがかなり強く感じられるので、それが理由で切られる危険性を考えると余計に怖かった。

 でもそれが傷付いた心から生じていることも分かるため、指摘もし辛かった。

 心に傷を抱えている人間に正論をぶつけて自重を迫っても意味はない。頑なになるか、その場は抑えられても悪化して後で爆発するだけだ。

 時間をかけて回復を待つしかなかった。

 エローナがそんなカルカを利用して、何か企んでるのかもしれないとも疑っていた。

 それが蓋を開けてみればどうか。

 蘇生されたばかりで付き合いが浅いケラルトでも確信できるくらいの善人だった。

 こんな人物は中々いない。

 おそらく利用されようとしていることに気付いていながら、自分の思惑に乗ってくれるエローナへ、ケラルトは心からの敬意を示す。

 膝をついて額が床に触れるくらいにまで深々と礼をした。

 

「ありがとうございます。聖王国の人間として、カルカ様の臣下として親友として、あなたに最大限の感謝を示させてください」

 

 できればエローナとは敵対したくない。

 というか絶対に敵に回って欲しくないので、礼を尽くすくらい何でもない。

 さすがに信じられないのか、レメディオスは目を丸くしてエローナを見つめ、カルカを振り向く。

 

「……それほどまでに、この方は強いのですか?」

 

 無機質な瞳が印象的な、えらく美人な女性だ。

 あまり美に興味がないレメディオスから見ても、恐ろしいほど容姿が整っていることが分かる。

 レメディオスが人間牧場で見た女悪魔たちの誰よりも美しく、見ているだけでその瞳の中に魂が囚われそうになる。

 まるで魅了にかけられたかのように心が浮ついて、好意を抱き……それを自覚した瞬間レメディオスは恐怖した。

 

「や、止めろ! 魅了は嫌だ!」

 

 ベッドから転げ落ちるのも構わず逃げようとするレメディオスを、本人の容態とお腹の子に障るからと、急いでカルカとケラルトが二人がかりで押さえつける。

 ぎょっとして、アルシェはエローナを見た。

 

「……したの?」

「してないわよ。……魅力が高過ぎるのも考えものね。磨き過ぎたわ。私にその気がなくても、見られただけで他人を狂わせるなんて。信じてはくれないかもしれないけれど、本当にそんなつもりはなかったのよ」

 

 おそるおそる尋ねたアルシェに、さすがに気分を害したのか、つっけんどんにエローナが答え、ばつが悪そうに顔を背けた。

 本人の言葉のとおりにエローナも予想外だったようで、横顔に気まずさがある。

 申し訳なさそうな表情も浮かべていた。

 ケラルトが、控えめに確認する。

 

「可能では、あるのですか?」

「方法はある。手段も持ってる。でもトラウマになっている人にわざとやるほど外道じゃないつもりよ」

 

 答え、エローナは踵を返した。

 乱れた自分の表情を隠すかのように。

 

「私がいるとまたレメディオスを苦しめかねないから、部屋に戻る。後は任せるわ」

 

 扉を開けるためドアノブに手をかけ、振り返った。

 この時には既に、エローナの顔はもとの冷たい怜悧な美貌に戻っている。

 

「それに、もう夜更けよ。今日はお開きにして、明日まで時間をかけて考えてもらったらどう? その方が、彼女も心の整理ができるでしょう」

 

 小さく扉を閉める音を立てて、エローナは出ていった。

 アルシェも部屋の時計を見た。

 確かに普段なら寝ている時間だ。

 

「……私も戻る。今夜は三人で、ゆっくり休んで。トイレとか、備え付けのものとかはカルカが知っているから、彼女に聞いて。それじゃ、おやすみ」

「はい、おやすみなさい」

「あ。おやすみなさい」

 

 即座に挨拶を返したカルカと、そのカルカを見て慌てたようにケラルトも右に倣った。

 エローナがいなくなったことでようやく落ち着いたレメディオスは、出ていこうとするアルシェに複雑そうな表情で話しかけた。

 

「……心遣い、感謝する。彼女にもそう伝えて欲しい。それと、すまなかったと」

「いいけど、謝罪はもう一度本人に直接するべきだと思う。じゃあ、また明日」

 

 手をひらひらと振って、アルシェは部屋の外に消えた。

 三人になって、カルカとレメディオスとケラルトは、色んなことを話し合った。

 これからの自分たちのこと。

 聖王国の行く末について。

 レメディオスの子どものことも、もちろん話した。

 

「カルカ様。すみません。一晩考えさせてください」

「いいのよ。たっぷり時間を使えばいいわ」

 

 エローナはカルカの抱きつき癖を鑑みて、シングルベッドの他に、三人で寝てちょうどいいくらいの大きさの、キングサイズのベッドを用意してくれていた。

 それが、カルカには有難かった。

 助けられたばかりの頃、カルカは独りで寝るのは苦しく辛く、耐え難いものだったことを覚えている。

 今でもトラウマは消えない。

 夜になる度に、精神的に弱る度に、あの日の恐怖を思い出し続けるだろう。

 たとえ乗り越えることができてもそれだけは変わらない。

 きっとふたりもそうなると分かっていたから、少しでも自分の温もりが安心感を与えられたらと願う。

 いつか、エローナやアルシェがしてくれたように。

 右にケラルト、左にカルカで、真ん中のレメディオスを挟む形で三人ベッドの上に並び、横になる。

 

「おやすみなさい、レメディオス。これから辛い夜が続いていくと思うけれど、三人で乗り越えていきましょうね」

「はい。おやすみなさい、カルカ様」

 

 素直に頷くレメディオスとは対象的に、ケラルトはちょっと嫌そうだった。

 こういう寝方は、子どもの頃に卒業したつもりでいた。

 

「あの、それはいいのですが、本当に寝るのですか? 三人で、この歳で?」

「そうよ。この歳になって私は、あなたたちと一緒に眠りたいの。……私のお願いを、聞いていただけませんか?」

 

 そんな頼み方をされては、親友である以前に臣下であるケラルトは断ることなどできない。

 カルカはレメディオスと憮然とするケラルトを抱き締め、ぐっすりと眠った。

 静かなカルカの寝息を頬に感じて、レメディオスは張りつめていた気が抜けていくのを感じた。

 ようやく、実感する。

 

(……帰って、きたのだな)

(そういえば、こうして姉様と同じ寝台で寝るなんて何年ぶりだろうか)

 

 長い牧場生活で心身共に疲れ果てているレメディオスはもちろん、ケラルトも蘇生した直後の牧場襲撃参加で消耗が残っていたので、嫌がりはしたものの、精神的な安らぎを与えようとするカルカの気遣いは嬉しかった。

 自分たちが悪夢でうなされないようにしてくれているのだと、分かったからだ。

 そして、自らも悪夢から逃れようともしているのだと、夜中に悲鳴を上げて飛び起きたカルカによって知った。

 遠慮がちにカルカと抱き合い、レメディオスはカルカの早い鼓動に耳を澄ませた。

 

「……カルカ様も、苦しんでおられるのですね」

「大丈夫よ。最初の方に比べれば、今はかなり楽になったから。あなたの苦しみに比べれば、どうということはないわ」

「私も実は、首を刎ねられる瞬間がフラッシュバックして眠れませんよ。うっふっふっふ」

 

 発覚したばかりの悩みをおどけて打ち明けるケラルトも、カルカは一緒に抱き締める。

 

(気付かれましたか……?)

 

 実は空元気で元気そうに振る舞っているに過ぎなかったケラルトは、まるで内心を見透かされたように感じ身を強張らせる。

 どんなに心を強く保っていても、寝ているときの心は丸裸になってしまう。

 心の鎧を脱いでしまえば、ケラルトもただの小賢しい女性に過ぎない。

 ケラルトは、カルカから伝わってくる震えに気付いて、身体の力を抜いた。

 強張っていたケラルトの表情が、緩んでいく。

 

「こういう夜の過ごし方も、悪くありませんね」

「ふふ。三人でいれば怖くないものね」

 

 笑顔の裏に恐怖を隠し、身を震わせているカルカは、明らかに強がっていた。

 でも、レメディオスとケラルトは、その気丈さが有難かった。

 ふたりとも、レメディオスは牧場の悪魔たちを、ケラルトはヤルダバオトや自分の首を刎ねた悪魔の姿を、闇の向こうに幻視して、その度に怯えていたから。

 カルカの温もりがあれば、耐えられた。

 そしてカルカもまた、ようやく求めていたケラルトとレメディオスと再会を果たして、ようやく自分の故郷である聖王国に、帰ってきた気がしていた。

 

(……やっと。やっと、戻ってきたわ)

 

 アルシェの世界では、カルカはずっと向こうのケラルトやレメディオスに対して、どこか心の壁を作っていた。

 それはふたりと接するカルカの口調にも現れていて、今思えば正体を隠すことに一役買っていたかもしれない。

 

(ふたりとも。もう、離れないでね)

 

 万感の思いを込めて、カルカはふたりを抱き締める。

 三人は、悪夢に怯えながらも、しっかりと互いを守り合うように、身を寄せ合って眠った。

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