アルゴリズム社会の「統治者」、PF監視は責務 山本龍彦さん寄稿
デジタル空間のルール=アルゴリズムを「立法」し、「執行」するプラットフォーム(PF)。「新たな統治者」とも呼ばれるその強大な権力の監視が今、メディアに強く求められている――。朝日新聞パブリックエディターを務める山本龍彦・慶応義塾大学教授はそう指摘する。PFの実体はブラックボックス化しており、メディアにはその内部情報にアクセスする権利が必要だ。だが、そのためには、メディアが自らを可視化して「誠実さ」を示し、人々の信頼を取り戻さなくてはならないという。「Journalism」(朝日新聞社発行)1月号に掲載された氏の論考を紹介する。
山本龍彦(やまもと・たつひこ)
1976年生まれ。慶応義塾大学法学部を卒業、2014年に同大法科大学院教授。専門は憲法学、情報法学。司法試験考査委員、米ワシントン大学ロースクール客員教授なども歴任。20年4月から朝日新聞パブリックエディター。総務省「AIネットワーク社会推進会議(AIガバナンス検討会)」構成員。主な著書に「おそろしいビッグデータ」、編著に「憲法学のゆくえ」「AIと憲法」など。
寄稿 山本龍彦さん(Journalism1月号掲載)
私は、2020年4月から朝日新聞のパブリックエディター(以下「PE」)を務めている。PE制度は、朝日新聞社に寄せられた社外からの声をモニタリングしながら、デジタルを含む日々の報道を点検し、改善に向けた意見や要望を朝日新聞社の編集部門に伝えるものである。
本稿は、PEとしての経験を踏まえて、フェイスブック(以下「FB」。現「メタ」)やヤフーのようなメガ・プラットフォーム(以下「PF」)と新聞メディアとのあるべき関係を模索するものである。それは、デジタル時代におけるジャーナリズムの持続可能性――詰まるところそれは民主政の持続可能性を意味するが――を検討する上で不可欠な論点を構成すると考えるからである。「メディアの未来」を想像すること。それは、メディアとPFとの関係を想像することなしには不可能である。
「LINE問題」特報の意味
こうした論点を真剣に、深く考える契機となったのは、いわゆる「LINE問題」に関する朝日新聞のスクープであった。2021年3月17日、朝日新聞は、いまや重要な行政サービスまで担うようになったLINEが、日本人ユーザーの個人情報を、十分な説明のないまま委託先中国企業によりアクセスできる状態に置いていた問題などを報じ、反響を呼んだ。LINEの親会社であるZホールディングスが、この報道の直後に(3月19日)、本件事実確認等を行う「グローバルなデータガバナンスに関する特別委員会」を設置したこと(最終報告書は10月18日公表)、いつもは腰の重い個人情報保護委員会等の行政機関も迅速に対応せざるを得なかったことが(4月23日に指導)、その反響の大きさを物語っていた。私はそこに、PFなる存在の異様性――いまや我々の生活に不可欠なインフラなのだが、その実体がブラックボックス化した存在――と、デジタル時代における新聞メディアの新たな役割を見た。
私は、その思いを、5月18日付朝日新聞PEコラムで以下のように書いた。「米国の識者がフェイスブックやグーグルのようなプラットフォーム企業を『新たな統治者』と呼んだように、彼らが決める『ルール』次第で私たちの自由や民主主義が守られもすれば、侵害もされる」「だとすれば、デジタル社会において報道機関は、国家権力に加え、プラットフォーム権力という『新たな統治者』への監視役でもあらねばならない」「朝日新聞の3月のスクープは、プラットフォーム権力への番犬という、この新たな役割を期待させるものとなった」「報道機関が、巨大IT企業の情報管理の実態や権力構造を明らかにすることは、私たちの『知る権利』にもかなうものだ」
然(しか)る後、朝日新聞のスクープは2021年度新聞協会賞を取るのだが、その授賞理由に、「国内外の取材網を駆使し、プラットフォーム事業者が大きな影響力を及ぼすようになった社会に警鐘を鳴らした調査報道として高く評価され、新聞協会賞に値する」と書かれているところをみると、新聞業界全体が、「プラットフォーム監視」という新聞メディアの新たな役割を受容したようにも感じられる。実際、峯村健司(朝日新聞記者)は、受賞報告において、PF監視は「デジタル社会において新たな報道機関の使命となっている」と述べた(峯村健司「プラットフォーム監視の役割【寄稿】」ジャーナリズムの力・新聞協会賞受賞作から)。
こうした新たな役割は、今後ますます重要性を増していくだろう。例えばヤフーは、眞子さま・小室圭さん結婚報道に対する相次ぐ誹謗(ひぼう)中傷コメントを受け、同コメントが一定基準を超えた記事につき、コメント欄全体を自動閉鎖すると発表した(10月19日)。仮にヤフーが閉鎖基準を恣意(しい)的に決められるならば、同社が――まさに「新たな統治者」として――言論空間を強力にコントロールできることになろう。人権擁護のために閉鎖措置が必要だとしても、メディアは、基準の明確化や透明性を求めつつ、その運用を厳しく監視していかねばならない(朝日新聞11月17日付「〈Media Times〉ヤフコメ、丸ごと非表示に課題」は、こうした観点に立つものとして積極的に評価できる)。
また、FBは、10月28日、社名を「Meta(メタ)」に変更することを発表し、仮想空間「メタバース」に注力することを改めて強調した。かかる試みの成否は不透明だが、ポスト・コロナで我々の日常生活の多くが仮想空間へと移行すれば、同空間のルール=アルゴリズムを「立法」するPFの権力性が増すことは、言うに及ばない。Metaは、仮想空間における我々の一挙手一投足を、神(メタ)の視点からリアルタイムで捕捉し、自らが制定した「法」に基づき、我々の行動、時に感情・思考までをコントロールできる。メディアが、この代替世界の創造主――立法権と執行権とを同時に併せ持つ主権者――の権力行使を監視するのは、責務である。ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)は、9月以降、FBの元社員フランシス・ホーゲンの持ち出した内部文書に基づき、インスタグラムが10代少女のメンタルヘルスに悪影響を与えてきたこと、ユーザーのエンゲージメントを高めるために「怒り」を増幅するアルゴリズムを用いてきたことなどを報じてきた。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどの報道機関も、Facebook Consortiumを形成し、10月以降、FB問題を「フェイスブック文書(Facebook Papers)」なる共通タイトルの下で連日報じている。これは、彼らが「プラットフォーム監視」という新たな役割を重く受けとめていることの証左とも思える。このような「監視」責務は、PFが「世界」を支配していくほどに重くなっていくだろう。
近年、特に欧州では、「歴史的に憲法学は、権力というものを公的機関に与えられるものと捉えてきたが、アルゴリズム社会における権力のあり様はこの前提を動揺させている」との認識の下、国家(公)権力だけでなく、プラットフォーム権力をも射程に収めた立憲主義の構想、すなわち「デジタル立憲主義(digital constitutionalism)」が有力に提示されてきている(Giovanni De Gregorio, The Rise of Digital Constitutionalism in the European Union, International Journal of Constitutional Law19〈1〉: 41-70〈2020〉)。この構想の含意は、PFを、我々の生活に不可欠な公共インフラであると同時に、憲法的統制が必要な「権力」と捉えた上で、かかるPF権力と国家権力とを抑制と均衡(checks & balances)の関係に立たせようとする点にある。その関係は、どちらかがどちらかを一方的に押さえつけるようなものではない。メディアは、PF権力の肥大化に警戒しつつも、PFが国家によって――中国で起きているように――全面支配されないよう、国家権力による行き過ぎた規制にも目を光らせておく必要がある。メディアが注意すべきなのは、自由と民主主義のため、両権力が均衡を保っている状態、すなわちデジタル立憲主義が実現しているかどうか、なのである。
PFとの不均衡、是正を
新聞メディアにかような監視機能を確実に営ませるには、デジタル時代において新聞メディアをエンパワーする新たな法制度が必要になる。PFでは、ユーザーのアテンションないし消費時間(PV〈閲覧履歴〉やエンゲージメント)を獲得し、これを広告主に販売する「アテンション・エコノミー」(以下、「AE」)というビジネス・モデルが支配的だとされる。目下、新聞メディアも、こうした構造へと組み込まれ、そのなかで過酷な競争を強いられているが、この構造においては、硬派な調査報道が、センセーショナルな――時に真偽不明の――ゴシップ記事や「猫」動画のような「刺激物」と比して人々のアテンション(PV)を得にくいのは、実に見やすい道理である。新聞メディアが、丸腰で、刺激的コンテンツと勝負し、このアテンション市場を生き抜いていくことは本質的に困難であると言わざるを得ない。
ここで立ち止まって考えるべきなのは、そもそも新聞メディアは、丸腰で競争に参加しなければならない存在なのか、ということである。例えば、これまで新聞は、再販制(さらには独禁法上の特殊指定)によって、マーケットにおいて特別にエンパワーされてきた。いわば「特殊装備」をつけて戦うことが許された公共的存在だったのである。かように制度的に支援または保護されることで、権力監視という自らの責務に注力することができたとも言える。私は、デジタル言論空間においても、このような「特殊装備」が必要だと考える。さもなくば、新聞メディアはAEの論理にのみ込まれ、アテンションを引くことだけを狙った刺激的コンテンツをだらしなく垂れ流し続けていくことになるだろう。その末路は、信頼の喪失であり、ジャーナリズムの喪失であり、民主政の終わりである。
この点で、ニュースメディアとPF間の力の不均衡を是正するため、PFによるニュース使用料の報酬につき、メディア側の交渉力を強化する豪州の法律(「ニュースメディアおよびデジタルプラットフォームの義務的交渉規範に関する法律」。2021年3月成立)が注目される。先述のように、いまや多くのメディアが、PFの庭のなかで、あるいはPF事業者の掌(てのひら)の上でビジネスを展開せざるを得ない。丸腰では、庭の論理であるAEに自然と引きずり込まれるだけでなく、庭の「主」であるPFに忖度(そんたく)してしまう可能性がある。それは、PF権力を見張る「番犬」としての牙を抜かれるに等しい。豪州の方式が最善であるかについてはさらに突き詰めた検討が必要であるが、AEが一元支配しつつあるこの言論空間において、公共性を志向し、誠実な取材に基づき真実を追求しようとするメディアを、特にPFとの関係でエンパワーするための仕組みが早急に必要なのは火を見るより明らかである。
もう一つ、新聞メディアがPF監視という新たな役割を果たすには、同メディアが、PFの内部的な情報にアクセスできることが重要となる。周知のとおり、1960年代の米国で、市民団体がマスメディアに対する「知る権利」を主張し、学界でも「アクセス権」を肯定する見解が見られた。この権利は、マスメディアの表現の自由を萎縮させ、民主政をかえって弱めるとの理由で具体化されることがなかったが、PFに対するアクセス権ないし知る権利は、国家権力に対する情報公開請求権に類似するものとして、より積極的に肯定してよい。先述のように、PFは、デジタル空間の「法=アルゴリズム」を制定し、これを執行する強大な権力を有しているからである。FBの恣意的で操作的な権力行使に関するWSJの調査報道は、たまたま元社員のリークがあったために可能となったが、常に良心ある内部通報者が現れる保証はない。上記権力の常態的な監視には、少なくとも公共的なメディアが、ネット空間の「立法」や「執行」にかかわるPFの内部的な情報に特権的にアクセスできることが制度的に保障される必要があるだろう。
信頼は「中立」より「誠実」
新聞メディアをエンパワーす…