ヘルメットはどうしようかと迷いましたが、結局二人とも持って歩く事にしました。
人通りは多く、自転車も行き交っています。
私はキョロキョロしながらヨシさんの後を付いて歩きます。
「ここ、昔住んでた所の近く」
「…うん」
「あんまり変わってないな」
でも、『懐かしい』という感情は湧いて来ませんでした。
前方を歩くヨシさんの後ろ姿を眺めながら、ヨシさんは変わったなぁとしみじみ思います。私と親しくなってからも、しばらく敬語が抜けなかったヨシさん。
今回のようにヨシさんがツーリング先を指定して来る事も、そもそも自分からツーリングに誘う事自体まずありませんでした。いつも私から発案し、ヨシさんはそれに乗る形でルートを作ってくれていたのです。
「ここだよ」
そう言ってヨシさんが立ち止まったのは、エメロード通りにある小さなお店の入口でした。
「ここって…」
「ちうさん、美味しいハンバーガー食べたいって言ってたでしょ? ここのハンバーガー美味いらしいよ」
「そうなんだ?」
薄暗い階段に多少の不安を覚えながらもゆっくりと登って行きます。怖々と扉を開けると、店内は広々としておりお洒落な空間が広がっていました。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
店員さんが言ってくれたので、私達は4人掛けのテーブル席に着席します。
他のお客様はいないようでした。
「わ、『生パンチェッタのハンバーガー』だって」
メニュー表を見ながら声を弾ませる私に、
「パンチェッタって何?」
とキョトンとするヨシさん。
「え~と…生ベーコンみたいな?」
「へぇ」
ヨシさんはレッドチェダーチーズのハンバーガーにすると決めたようでした。
「飲み物どうする?」
とヨシさんがグランドメニューを手渡して来ます。
「え」
まずヨシさんの顔を一瞥し、それからメニュー表に目を向けます。当然の事ながら、色んな種類のビールが書き連ねてありました。
パッと目に付いた文字に釘付けになります。
「桃…ヴァイツェンだって」
「ちうさん桃好きだもんね。それ頼んだら?」
「う…ん」
桃も好きですが、ヴァイツェンも昔は大好きでした。
でも、
「私、アルコールは…」
「飲みなよ」
ヨシさんが珍しく強めの口調で言ってきました。
「ちうさんさ、楽しみなよ」
もっと楽しんでいいんだよ、と重ねます。
あぁ、そういう事かと腑に落ちました。
私は一時期、経済的にも物理的にも、何より精神的にも大きなダメージを負ってしまい、一切の娯楽を受け付けなくなっていたのです。
『楽しみなよ』
これは友人からも家族からも、そして主治医からも言われてきた言葉でした。
ですが当時の私は頑なに、『そんな事を言われても!』と受け入れられなかったのです。
それはそうでしょう。
何よりもまず優先すべきは息子の教育資金、そして明日を生き抜くための生活費です。
私には、趣味に明け暮れている時間や余裕はないのだと思っていましたし、現実問題追い込まれてもいました。
バイクに乗る時間があるのならば息子の学費を少しでも稼がなければと焦燥感を抱き、何かを楽しもうとすると自分なんかにそんな資格があるのかと自己嫌悪に陥ったりもしました。
ヨシさんはそんな時期の私に何かを無理強いして来る事はありませんでした。
はるばるやって来ては、ただ黙って私が放置したままのセローのメンテナンスをして帰っていく事もありました。
少しずつ気持ちがほぐれ、バイク仲間達の励ましや気遣い、何より私とセローとの『絆』を感じる事で、バイクを再び楽しめるようにはなりました。
でも、アルコールは受け付けなかったのです。
以前は大好きだった筈なのに、スーパーの陳列棚を見ても気持ちはすんとも動かず、親族の集まりで杯を合わせる事はあっても、舐める程度で終わっていました。
息子がアルコールへの嫌悪感を抱いていたのも大きかったのでしょう。
それを今、ヨシさんは「楽しめ」と言っています。
「うん、分かった。じゃあ飲んでみる」
もし具合が悪くなっても、ヨシさんから送って貰えるんだからいいやという思いもありました。私は桃ヴァイツェンを、ヨシさんはジンジャエールを頼みます。
ハンバーガーは絶品でした。パンチェッタは自家製らしく、絶妙な柔らかさと燻製の香ばしさがじゅわりと舌の上で広がっていきます。
「美味し~い! 今まで食べたバーガーで、ベスト5には入るかも」
私が言うと、
「なら良かった。ここ、お昼は土曜日しか営業してないらしくてさ」
「あぁ。それで」
土曜日を指定してきた意味が分かりました。タンデムの理由も。飲酒運転は大罪です。
桃ヴァイツェンのグラスを手に取り、恐る恐る口に含ませます。
「う…」
「う?」
「うぉいしい…」
思わず涙ぐむ私を見て、「どんな喜び方だよ」と苦笑しつつも、それは良かったと優しく微笑みました。
桃の芳醇な香りと一切の雑味のない生きたビールの味わい。なんて贅沢な一杯なんだろうとしげしげと眺めました。
「こんな贅沢が…許されていいんだろうか…」
茫然と呟くと、ヨシさんがぷっと吹き出し、
「いいんじゃない?」
もう、そろそろさ。と言いました。
人を酩酊させ、時に精神や肉体を蝕む事もあるアルコール。今まで頑なに忌避して来たその飲み物が今、私の口の中で蕩けるように広がり、そして喉を滑り落ちていきます。
楽しもう。
ヨシさんのその一言に、私の中で封印してきた感情が、また一つ解放された気分でした。
たった一杯だけの小麦色の美酒。
それをゆっくりと味わいながら、私の中で新たなる何かが始まる予感を抱いたのです。
「あはは、やっぱり手足が届かなーい」
フューリーに跨らせて貰い、お酒の酔いも手伝って無駄にはしゃいでしまいました。
「大型バイクってやっぱりカッコイイなぁ」
ヨシさんの運転で帰路につきながら、私がポツリとこぼします。
『乗りたくなった?』
「ううん」
そこだけはきっぱり答えます。
「セローが一番、セローで充分。セロー以外は考えられなーい!」
最愛にして最高。
その存在を、その貴重さを。唯一無二の大切なものを。今この瞬間、胸に痺れるように実感したのでした。
『はいはい。酔っ払いさん』
「…ばか」
苦笑したように言うヨシさんのヘルメットを、後方からコツリと小突いたのでした。