なぜ統一教会・勝共連合が「右翼民族派」と連帯できたのか? 超大物の証言でわかったこと

八千矛社・犬塚博英代表

絶対に退かない原理研

「(大学闘争で)新左翼の連中と我々がぶつかり合い、どんなに激しい乱闘になり、殴られ蹴られても、絶対に退かないのが原理研(原理研究会)の連中でした。腕自慢の体育会系の空手、合気道の奴らは、信念がないからすぐに逃げる。そういう意味ではり原理研は信頼がおけて頼もしかった」

こう語るのは、右翼民族派として知られる犬塚博英・八千矛社代表である。八千矛社は戦前のクーデター未遂「神兵隊事件」に連座した中村武彦氏が立ち上げ、弟子の犬塚氏が後を継いだ。新右翼団体「一水会」を創設するなど戦後右翼運動を語るに欠かせない犬塚氏だが、その原点は50年以上前の大学紛争が激しかった頃の長崎大学学園正常化運動である。

学生といえば左翼が当たり前で、ベトナム反戦運動などで機動隊などとの衝突が繰り返されていた68年、長崎大学では唯一、右翼学生が主導権を握り、左翼学生を排除した。それを担ったのが長崎大学学生協議会で、中核が新興宗教・生長の家の信徒や子弟で結成した生長の家学生会全国総連合と世界基督教統一神霊協会(統一教会)系大学内組織の原理研究会だった。

「私は68年に入学。その年の12月に『学生会館を自主管理する』ということで(新左翼の)反帝学評と中核派が占拠しようとした。それに反発した民族派が学生協議会で連携して立ち向かい、武闘派の私が学館を取り戻す会の委員長になったんです」

こう犬塚氏は続けるのだが、「右翼」が「左翼」に打ち勝つのは全国初。以降、長崎大学をモデルとして生長の家学生会、原理研究会、日本学生同盟などの民族派学生が学生協議会を結成するケースが増えた。それが全国学生自治連絡協議会(全国学協)として新左翼と対峙する勢力となり、犬塚氏は書記長を務める。

犬塚博英氏

統一教会の政界への浸食が話題になるなか、犬塚氏に聞きたかったのは日本に統一教会が進出する際、「反共」の国際勝共連合、あるいはその学生組織の原理研を使ったのではないか、という点だった。

「確かに巧みでした。生長の家と原理研。互いに勉強しようと、私は原理研の合宿所に行ったことがあります。彼らは10人ぐらいで集団生活を送っていましたからね。そこで、勝共理論ではなく統一原理を講義された。私にはまったく興味がないし理解も出来ない。聞き流すだけに終わりました。

 

そうすると彼らは無理しない。『体育会系の犬塚はオルグ対象外』となって、そこからの付き合いは学内闘争だけ。まだ勝共連合とはいわない時代でしたが、『共産主義はサタン』ということで、その戦闘力は高かった」

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