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広瀬いくとの発掘!B面ドラゴンズ史

仁義なき戦い…主砲・森徹と濃人監督の不仲は引退問題に発展

2021年8月27日

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ホームランバッターとして名をはせた森


東京オリンピックで放送された全競技のうち最高となる世帯視聴率37.0%(関東地区)を記録するなど、日本中が熱狂した侍ジャパンの決勝アメリカ戦からわずか数日後。今度は悪い意味で野球界に激震が走った。長きにわたり日本ハムファイターズの看板を張る中田翔が後輩選手に暴力行為を働いていたことが発覚。一、二軍全ての試合について出場停止処分が下されたというのだ。その後、中田は巨人にまさかの電撃移籍。処分に関するルールの甘さを含めて激しい論争を巻き起こしている。
いかつい強面に派手な金ネックレスを巻いた中田の風体は良くも悪くも昭和のプロ野球選手を彷彿とさせる。近年はプロ野球も様変わりし、かつてのような “殺るか殺られるか” 的なギラついた空気感が無くなって久しい。後輩に暴力を働くのは論外だが、昔は首脳陣やフロント相手に食ってかかる選手もめずらしくなく、それらは “球界スキャンダル” などと呼ばれてたびたび世間を賑わせてきた。
今回はちょうど60年前に勃発した、ドラゴンズの監督と主力打者による仁義なき闘争について振り返ってみたい。選手の名は森徹。一年目から23ホーマーを記録するなど誰もがその将来を嘱望した若き4番打者である。

“早稲田の杜(森)” は鳴り物入りでドラゴンズへ


生まれも育ちも函館。誕生日が明治節(文化の日=11月3日)だったため、六大学野球では何となく明治大をひいきにしていたそうだが、東京への憧れなどはなく、高校も地元の野球強豪校・函館西高へ進学するつもりでいた。そのトオル少年が早稲田学院高へと進んだのは、母親の手引きだった。
「おふくろが東京から帰ってきて、急にーー早稲田の規則書あるでしょう、あれ持ってきて、どうせ高校へ行くんなら東京の学校に行ったらいい。どうせ勉強するなら都(みやこ)で勉強しろといわれて、早速決めちゃって東京へ出てきた」(『ベースボール・マガジン』1955年8月号)
父を亡くして以来、女手ひとつで家計を支えてきた母・のぶを森は心から慕っていた。
背は高くないが寸胴な体型を活かし、野球だけではなく柔道でも実力を発揮。小学生の頃から神社の奉納試合に出場するなど腕を磨き、早稲田学院高では著名な柔道家の渡辺利一郎に師事した。早大に進学してからもリーグ戦のない冬場に柔道部を訪れ、部員と手合わせすることがあったというから並大抵ではない。
しかし目立ったのは、やはり野球での活躍だった。早大在学中に3度の優勝に貢献し、ベストナインにも4度選出されるなど六大学を代表するスラッガーとなった森は、同学年で立教大が誇るスーパースターの長島茂雄とツーショットで雑誌のグラビアを飾ることもあった。まだプロ野球よりも六大学野球の方が格上だった時代。森の人気ぶりがうかがえる。

大学時代の森


森が大学球界を沸かせていたのと同じ頃、ドラゴンズはちょうど過渡期を迎えていた。1954年の日本一を支えた選手たちがこぞって衰えを見せ始めていたのだ。特に中心打者に関しては既に30代に突入していた西沢道夫、杉山悟の二枚看板に代わる後進の育成が急務だった。強打の外野手・森はまさにドンピシャの存在。自由競争の下、破格の待遇で契約にこぎつけ、ドラゴンズは待望のスラッガー補強に成功したのである。このときの森の身元保証人があの力道山だったのはよく知られた話だ。満州出身の母の繋がりで、森と力道山は義兄弟の関係にあった。

中日入団にあたり、小山ドラゴンズ会長と握手する森、森の右は母・信さん


当時、おとなしいチームカラーのドラゴンズに豪傑が入ってきたと喜ぶ関係者もいたようだが、無骨なルックスとは裏腹に森は学生時代から合宿所でジャズのレコードを聴いたり、体罰に関しても「ぼくは反対ですよ」と公言し、「練習のあとで説教なんて、汗かいたあとでしょう。身体が冷えちゃう。だから下級生にも悪いし自分にも悪いから、ぼくはさっさと帰っちゃうんですよ」と語るなど、意外にも合理的なタイプだった。
六大学のスター達が揃ってプロ入りしたことで、かつてないほど大きな注目を集めた1958年のペナントレース。その開幕戦、新人としては異例の「4番ライト」で先発出場した森は、広島の大エース・長谷川良平から広島球場のバックスクリーンに突き刺さる400フィートの大アーチを放つ鮮烈デビューを果たした。かの有名な長島4三振デビューの陰に隠れがちだが、中日ファンならば森のデビュー戦アーチは押さえておきたいトピックスである。

1年目から23本塁打、73打点という好成績を残した森はあっという間にドラゴンズの新しい看板選手になった。それでも浮かれることなく、バットのグリップエンドには遠き故郷で暮らす母の名を書き込み、苦しいときにはそれを眺めて気持ちを鎮める北国育ちの純朴。2年目には早くも31ホーマーでホームラン王と打点王の二冠に輝き、夢のオールスターにも初選出された。今のドラゴンズにこんな若手が出てきたら万々歳どころの騒ぎではないだろう。
気力体力ともに充実、まさしく順風満帆の森に試練が訪れたのはプロ入り4年目のことだった。一寸先は闇とは言うが、森にとってはドラゴンズの新監督に濃人渉が就任したのが闇の入り口だった。ここに至るまで2300文字。ようやっと本題の始まりである。

不仲は引退問題に発展


「三冠王めざして頑張って」ーー。開幕直後の雑誌の企画では人気絶頂の双子デュオ、ザ・ピーナッツと対談をおこなうなど周囲の期待も大きく、誰もがその活躍を疑いはしなかった。ところが開幕してみると、どうにも調子があがらない。肝心のホームランも5月を終えて2本と豪打は鳴りを潜め、同月28日には開幕から守ってきた4番の座を後輩の江藤慎一に明け渡すと、その3日後には屈辱のスタメン落ちも味わった。
「森は情熱を失ったようだね。彼はめったなことでは闘志を失うような男じゃないのに、どうもおかしいね」とは前年までヘッドコーチを務めた天知俊一の談話だ。小指が折れても出場をやめなかったほどのガッツマンに一体何があったのか? 発端は前年秋まで遡る。

濃人監督


就任間もない濃人が森をキャプテンに指名したが、森はこれを「責任ある立場を与えて、気に食わない自分を黙らせようという思惑だ」と拒否。なぜそう捉えたのかは不明だが、おそらく濃人が二軍監督を務めていたシーズン中から何かしらの軋轢があったのではないだろうか。さらに生え抜き主力選手の岡嶋博治、伊奈努が相次いでトレード放出されたことに憤慨した森は、年明けの応援番組に生出演した際、司会者に「今年こそタイトルを奪回して優勝も……」と水を向けられると、濃人監督がいる隣で「体を大切にしてテキトーにやりますよ」と投げやりに答えたのである。
それでも一旦は気を取り直して野球に向き合ったが、前述のスタメン落ちやチャンスで代打を送られることがしばしばあり疑心暗鬼におちいった。そんなある日、決定打とも言えるできごとが起こる。濃人監督が「森は今まで甘やかされてきたので、根性を叩き直してやる」と話しているのを偶然聞いてしまい、不信感が極に達した。
「それを聞いたとき本当の話、頭にきたね。ぼくは今まで甘やかされはしない。知ってのとおり名古屋のファンは非常にキツイので、不振のときは身に染みる罵倒を浴びせられた。甘やかされるどころか毎試合が必死の連続だった」

シーズン中、両者は事あるごとに衝突した。そもそもの打撃不振の原因は、ホームランは多いが併殺も多い森の打撃スタイルを嫌った濃人監督が、確実性のあるアベレージ打者への転向を要求したことだとも言われている。当初はそれに応えて3割を超える打率をキープしていたが、一方で豪快な打棒に期待するファンからは「森! ホームランを打たんか!」と激しい野次が飛び、その板挟みに悩んでスランプに陥ったというのだ。そうして成績が落ちるとともに、上述のスタメン落ちやチャンスで代打を送られることもしばしばあって、一旦は持ち直した森の闘志が再び消えてしまったというわけだ。
やがて両者の不仲は周知の事実となった。そうなるとマスコミが色々と囃し立てるのは昔も変わらない。現代なら当事者たちも言葉を濁すのだろうが、当時は容赦なく本音を吐き出すのが当たり前だった。
「濃人監督のもとで野球をする気は毛頭ない」
「あんな選手を使わなくても勝ってみせる」
メディアを通じて舌戦を繰り広げる両者の雪解けなど、もはやこれ以上望むべくもなかった。

シーズンも終わりを迎えようとしていた10月上旬、広島に本社を持つ中国新聞に「森、井上(登)、吉沢(岳彦)をトレードに出す」という中日高田代表の放言とも取れるコメントが掲載された。まことしやかに噂されていた森放出が遂に表面化。その後南海とのトレードが決まりかかったが、「どうしてもと言うならユニフォームを脱いでもいい」と森が態度を硬化したことで一時は引退問題に発展する。
ここに後見人の力道山が参戦したり、鈴木龍二セ・リーグ会長が仲介に立つなど紆余曲折を経た末に、ようやく大洋への移籍が正式に決まったのが12月16日のこと。森も「濃人監督への感情のわだかまりは一切ありません」と、大人の態度で対立に終止符を打ったのだった。

ところが運命とは奇妙なもので、それから5年後の1966年。森にとって3球団目の東京オリオンズでヘッドコーチを務めていたのは濃人その人だった。トラウマ上司との転勤先での再会。サラリーマンなら最も避けたいシチュエーションに森は直面した。
事もあろうに翌年には前任者の解任を受けて、濃人はシーズン途中に監督昇格。1968年の森は怪我をしているわけでもないのにわずか7試合出場という露骨な仕打ちに遭い、この年限りで引退を決意した。
かつて六大学を沸かせ、名古屋に希望を与えた若きスラッガーの野球人生は、濃人との出会いによって大きく狂わされたといっても過言ではない。当事者たちがとうに亡くなっている今となっては、真実は過去記事などから推察するしかないのだが、二人の仲が悪かったことだけは紛れもない事実であろう。

晩年の森


その後森は、世界規模の野球リーグ「グローバルリーグ」創設に参与。自身が監督兼選手も務めた日本チームに「東京ドラゴンズ」という名称を付けたのは、それだけ中日への思い入れが深かったからだろう。晩年はプロ野球OBによるマスターズリーグ・名古屋80D'sersの選手としても活躍した。
もし中日を離れていなければどれだけの通算成績を残したのだろうか。歴史にifは禁物だが、どうしてもそちらの世界線を見てみたくなる選手の一人である。

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