抗議の自殺、その力

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渡瀬康英局長については、7月7日に自殺してから匿名化している媒体が大半であり、実名をあげる人がほとんどいない。とはいえ、自殺する前と後で別の時空に住んでいるわけではあるまいし、連続性を持った生き物であろうから、ストーリーの欠落を埋めるために名前を出してつなげるしか無い。自殺してから全国メディアが食いついたので、7月7日が誕生日みたいなことになっているが、それはよろしくあるまい。さて、今回の渡瀬康英の自殺くらいに効果的な抗議の自殺はそうあるまい。仮に自殺してないとすれば、実名で珍妙な主張を続けるしかなかったし、実際、これだけ騒いでも斎藤知事のスキャンダルは出てこないので、かなり旗色が悪かったはずである。もし、生きていたとしたら、渡瀬康英に正義などない。だから卑しい動機で自殺してみたのだろうが、ずいぶん不思議なことが起こっている。抗議の自殺にこれだけ快刀乱麻の切れ味があるなら、どんどんやった方がよいのかもしれないが、今回はたまたま愚民が釣られただけであるし、たいていは犬死にである。抗議の自殺で世の中を変えることは出来ないし、だから、今回の出来事を見て、「自分も自殺してみよう」と考えたりしてはならない。本当に気の毒な人が抗議の自殺をした場合、それは自然淘汰として扱われる。無辜の民が刑場の露として消えるのを見送られる風情であり、まあ弱肉強食、仕方ない、ということなのだ。わたしが今回の件で、愚衆に強い憤りを感じているのは、そのあたりの嘘臭さ故である。なんでもいいから政治家を辞任させたい、辞任させたら民衆の勝利だという安直な物語である。本当の希望を孕んで、新時代が芽吹くならよいが、怒れるネット民が自室で革命の疑似体験をして射精するだけでは虚しい日常の繰り返しである。マスコミが悪いのはもちろんだが、昨今では個人でも発信手段があり、完全に口を塞がれていた昔とは異なる。今回は斎藤知事が東大卒であることがむやみに強調されていたりして、かなり低質なルサンチマンでもある。渡瀬康英は京都大学卒なので、学歴格差として捉えるのは筋違いだが、これも本人が自殺して匿名化されたがゆえのことである。人が死んだというが、死にもいろいろあるし、大戦末期の特攻隊と、児玉誉士夫にセスナ機で特攻したポルノ男優では背景が異なるであろう。渡瀬康英はテレビゲームのキャラクターではないのだし、都合よく現世に出たり入ったりしているのではなく、様々な欲を持った生身の人間として60年くらい継続して生きていて、死を選ぶまでは実名で告発していたのだから、英霊化せずに、その闘争の連続性を捉えることが重要である。
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