広島県三原市内のバス路線の
峠道には捨てられた昭和40年
代のバスがある。
市営バスなので市が放置して
いるという事になる。
もしかすると、バス停の待合
として古い車両を置いて利用
していたのかも知れない。
恵下谷(えげだに)という谷底
に民家が数軒あった頃に。
谷底から山肌に出来た新道ま
で徒歩で登って来てバスを利
用していた時代があったと三
原の古い人から聞いた事があ
る。
用していた時代があったと三
原の古い人から聞いた事があ
る。
まだ、谷川でサンショウウオ
が見られた頃の話。
現在は民家も無くなり、谷底
の未舗装道路は廃道となって
いる。大八車がやっと通れる
程の三原から真北に抜ける道
だった。
程の三原から真北に抜ける道
だった。
また、「恵下谷」というバス
停はこの放置車両とは別な場
所に設置されている。
所に設置されている。
谷底の道路はかなり古い道で、
多分中世には存在した。
なぜならば、その道路沿いに
は戦国末期に三原に城ができ
るはるか以前、鋳物職人工房
があり、寺の鐘に大工銘も残
っているからだ。
その川(小河川)は江戸期には
城下にかかる数少ない橋を持
つ城下町内を流れる川だった。
もっとも、恵下谷に人が住し
たのは、三原城が出来る前=
海岸線が今よりずっと内陸部
だった時代の中世の頃から昭
和中期までの事だ。
和中期までの事だ。
三原はただの海沿いの寒村で
あり、城も町も無かった。
「三原」という地名は三つの
原(山中村、駒ケ原、西原)
が合わさった場所が由来、と
する行政の説明通りだとする
と、戦国末期の築城埋め立て
以前はその三つの原は一つも
合わさっていないので「三原」
という地名さえ存在しない事
になる。旧時代に三原と呼ば
れた場所があったとしたら、
現在の三原ではない。これは
もう物理的にそうなる。
現在の三原は戦国末期に海岸
が埋め立てられて陸地が登場
する以前は、海にせり出した
屹立した山の上に中世武将の
山名氏の山城(桜山城)があ
ったのみだ。あとはすべて
海。
「三原」という地名は三つの
原(山中村、駒ケ原、西原)
が合わさった場所が由来、と
する行政の説明通りだとする
と、戦国末期の築城埋め立て
以前はその三つの原は一つも
合わさっていないので「三原」
という地名さえ存在しない事
になる。旧時代に三原と呼ば
れた場所があったとしたら、
現在の三原ではない。これは
もう物理的にそうなる。
現在の三原は戦国末期に海岸
が埋め立てられて陸地が登場
する以前は、海にせり出した
屹立した山の上に中世武将の
山名氏の山城(桜山城)があ
ったのみだ。あとはすべて
海。
今、その桜山の山麓は広島大
学附属幼小中の敷地になっ
ている。江戸期は武家屋敷
だった。
ている。江戸期は武家屋敷
だった。
三原市営バスは1942年に運行
を開始したが、時代の中で大
赤字の為に2008年に廃業に
なった。
なった。
その後、私営の芸備バスが業
務を移管されて運行している。
務を移管されて運行している。
バスが無いと近隣への高校の
生徒たちは通学できないし、
また、車を持たない、運転で
きない市民は困難極まる。
通常は民間企業が不採算部門
を切り捨て、公的機関が国民
の利益の為に採算度外視で運
営を続けるが、三原市の場合
は逆。
行政機関が市民の利益実現、
生活確保を放り投げ、私営
運行企業が実情を考慮して
助け舟を出したというパタ
ーンだ。
運行企業が実情を考慮して
助け舟を出したというパタ
ーンだ。
地方の僻地において、公共
交通機関の存続は経営的に
はかなり厳しいものがある
のは確かだ。
だからといって、路線バス
や鉄道を廃止してしまうと、
それしか利用できない児童
生徒、住民たちはどうしろ
というのか。
そういう問題。
三原市は投げ出した。
公務員の高額給与を大減額
すればいいんじゃない?
民間企業では考えられない
ような退職金とか月額給与
とか。
交通機関の存続は経営的に
はかなり厳しいものがある
のは確かだ。
だからといって、路線バス
や鉄道を廃止してしまうと、
それしか利用できない児童
生徒、住民たちはどうしろ
というのか。
そういう問題。
三原市は投げ出した。
公務員の高額給与を大減額
すればいいんじゃない?
民間企業では考えられない
ような退職金とか月額給与
とか。