「結核患者を寺で預かってくれ」…大阪・釜ヶ崎の労働者と向き合う“覚悟”が試された僧侶の“決断”

劣悪な結核患者の状況

「あの街には優しい人が多い。ホームレス風の人と隣同士で飲んでいると、『兄ちゃん、身体大丈夫か。身体だけは大切にせなあかんで』って気を遣ってくれますもん。自分のほうがよほど大変やのに」

日雇い労働者たちと交流を深めた戸次に80年2月、難問が持ち込まれる。稲垣からこう相談されたのだ。

「結核患者を預かってもらえんやろか」

釜ケ崎の労働者と本気で付き合う覚悟はあるのか。それが試される局面だった。

衛生環境や栄養不良からこの地域では結核が広まり、患者は約1700人になっていた。稲垣は「釜ケ崎結核患者の会」を作り、患者が差別されずに治療してもらえるよう病院と交渉し、治療後の生活保護受給のため行政と掛け合っていた。

結核と診断された労働者は、大阪市民政局によって府内の公立・私立病院5ヵ所に入るよう指導される。そのなかには行政からの助成金をピンハネするだけで、ほとんど回診もせず患者を放置している病院があった。

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患者は病院に提出した要望書で、

  • 1週間に最低2度の回診
  • 1ヵ月に1度の病状説明
  • 血沈検査や尿検査の結果説明
  • 薬の副作用を防ぐための検査実施
  • ガードマンによる身体検査や物品検査の廃止
  • トイレでの専用げたやちり紙の設置

などを求めた。どれも至極当たり前の要求である。そうしたことさえ書面で求めざるを得ないほど、釜ケ崎の患者は劣悪な状況に置かれていた。

患者を「食いもの」にする病院から、20〜30人を「脱出」させる計画を稲垣は立てた。そして、患者を預かってもらえないかと、戸次に相談したのだ。