50代になってもなお「モテ期」は健在!?…酒と男から足を洗えない《伝説のストリッパー》の望みとは

1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第102回

『落ちぶれて酒に溺れた“伝説のストリッパー”が「大阪市議会選の“推薦人”」になれたワケ』より続く

50代なのに...

稲垣と釜ケ崎の付き合いが深まったのは71年ごろである。大阪・天6(天神橋6丁目)でアパートを借り、仕事を求めて毎朝、釜ケ崎に通った。

建設現場で働くと1日2300〜2400円、土木作業なら1日2500〜2600円になった。稲垣はこの労働者の街で知人を増やし、労働者の権利擁護活動に携わる。75年に始めた「炊き出し」活動は今も続く。調理師を夢見た彼はいつの間にか、仕事にあぶれた人々に雑炊を作るようになっていた。

一条がストリッパーとして人気絶頂のとき、稲垣は釜ケ崎で労働者支援に乗り出し、彼女が和歌山刑務所から出所、扇町でスナックとクラブを開いていたころ、炊き出し活動を始めていた。そして2本の糸が交錯したのが91年、屋台「きくちゃん」だった。

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大阪市議会の選挙運動をきっかけに一条と交流するようになった稲垣は、彼女が50代になってもなお、男性にもてたことを記憶している。

「可愛いし、優しいしね。そりゃ、もてましたわ。何人もの男が彼女を取り合いするんやから。彼女と話した男は、ころっといくんやね。池田(一条)さんが身体を悪くして、入院するでしょう。自分も一緒に入院させろ、という男もおりました。『あんた、どこも悪うないのに入院できるはずないやろ』と言いましたけどね」