■■■前回記事では、「もしも『ベルセルク』の続きが、最大の元ネタであろう『青の騎士ベルゼルガ物語』に準じて進んでいったら?」という思考遊戯を行ったのですが、脱線を避けて“深淵の神”の辺りをあっさり済ませてしまいましたので、当記事ではそこをちょっとだけ詳細に書いておこうかと思います。

■その前回記事はこちら。

思考遊戯。もしも『ベルセルク』が、元ネタであろう『青の騎士ベルゼルガ物語』の通りにラストまで進んでいたら?
2024年09月18日
http://blog.livedoor.jp/gorovion/archives/10265294.html


■■■なお都合上、当記事には『サイボーグ009』の1960年代作品や、『2001年宇宙の旅』、『装甲騎兵ボトムズ』TV版等のネタバレがありますので御注意下さい。

■では情報が不用意に目に入る事を避ける為、少し間を開けまして…。















■■■さて、神話や宗教を含む古代からの創作史…となると膨大過ぎて手が付けられませんので、『ベルセルク』へと直接繋がっているであろう、比較的近代の“人類史に介入する超存在”が登場した作品を挙げてみますと。


■■■『サイボーグ009』(1966:カラー映画)
 同作品初のアニメ版。
「わたしはずうっと大昔から愚かな人間どもに戦争を起こさせてきたのだ」「第一次大戦も、そして第二次世界大戦も、みぃんなわたしの仕事なのだよ」「殺し合いの血と幸せの涙 そして人と人との憎しみとを栄養にして、わたしはだんだん強く大きくなった」…等と喋る巨大コンピューターが、まるで異界の存在であるかの様な演出で登場する。
009-1966com

■しかしながら、コンピューターは映画終了まで七分を切ってから何の伏線も無く現れ、訊かれもしないのに上記の自己紹介を行い、いつから存在したのかも、具体的にはどんな能力を持つのかも不明なまま、流れ弾一発で爆発して超アッサリ退場してしまい、全く深掘りは行われない。

■流れ弾一発で爆発といっても、洗脳された003と009が「特別製の電子銃」を巡って揉み合っている最中に、偶然発射してしまった一発が偶然当たり、それだけで爆発、という流れなので、しまらない事この上無い。

■コンピューターとはいうけれども、下に引用したコラムの伝聞によると、作り手はかなり観念的な存在として考えていた様ではある。
(後付けかもしれない。信憑性不明)

「編集長のコラム」 小黒祐一郎
第20回「平和の戦士は死なず」
http://www.style.fm/log/05_column/oguro20.html

最初の劇場版『サイボーグ009』のラストで黒い幽霊団の首領の正体が、コンピュータであった事が判明する(ちなみに、コンピュータの上に乗っているものが脳みそに見えなくもない)。そのコンピュータは、自分は黒い幽霊団の首領であるのと同時に、大昔から戦争を起こさせてきた存在であると語る。そして、自分を作り育てたのは人間の中にある醜い欲だ、と。調べてみると「東映動画長編アニメ大全集」(徳間書店)の中で、この作品の脚本を執筆(芹川有吾と共同)した飯島敬さんは「ブラック・ゴーストのほんとうの首領は、コンピューターだったわけですが、あれはいわば人間の欲望とか野心を、現代的に象徴化したものなんです」とコメントしている。
WEBアニメスタイルCOLUMN-h-20

■“人間の悪の心が実体化して人々を襲う”劇作は、有名作では『ジキル博士とハイド氏』(1886)~『禁断の惑星』(1956)辺りからだろう。
 この作品はそれらの系譜を少し変えて使い、高尚っぽく見える様に「反戦」を適当に貼り付けただけで、深い考えは無かったと思われる。


■■■『サイボーグ009 怪獣戦争』(1967:カラー映画)
 ボスの魔神像は前作のコンピューターと同一の存在であり、同じ口調で「殺し合いの血と、不幸せの涙と、そして人と人との憎しみと醜い欲がある所に、私はいつでも生まれてくる」等と喋るが、それらを表現する具体的なエピソードは、特に追加されていないまま。
009-1967majinnzou

■この魔神像は007が変身したスカンクのオナラで悶え苦しんだ後、カメラが切り替わると消えており、二度と姿は現さず声だけで敗北宣言を行う。
 制作側は適当な台詞を並べていただけで、“超存在”とは何かを全く考えていなかったのでは?
(少し上で引用した小黒祐一郎のコラムは、あまり信用し過ぎぬ方がよかろうか)
009-1967-007-01
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■■■『サイボーグ009 地下帝国ヨミ編』(1966~1967)
 週刊少年マガジンに連載された萬画版の一シリーズ。
 映画版二本とは相互に影響を受けているとされるが、ラスボスは恐ろしくはあっても“人類史に干渉する超存在”という訳では無い…筈。
(バージョン違い等で遺漏があるかもしれない。現在確認し切れず。この段に完全なる信頼性無し)

■最終決戦では、001の能力で魔神像内部に009一人が突入。


■■■『サイボーグ009』(1968年4月放送開始:白黒TV版)
 最終回『平和の戦士は死なず』にのみ、映画版二作と同一の存在が不気味な人形として登場し、人間や機械へ憑りつく、複数個所に同時に存在する…等の能力がある事が描かれる。
009平和の戦士は死なずningyou

※作中では、第二次世界大戦当時の実在の人物に憑りついて“あの行為”を行い、実際に起きた虐殺を「一番楽しめた」と固有名詞を出して明言されているのですが、当記事が巡回ボットのAI判定で凍結されたり、不適切な翻訳で誤解されるのを避ける為、今回は詳細を書かない事とします。


■■■『2001年宇宙の旅』(映画版1968年4月米日英公開)
 木星の衛星軌道に浮かぶ巨大モノリスと接触し、より高次元の生命体にして貰えるのはどちらなのかを賭けて、人間とコンピューターが殺し合う。
HAL2000

■この作品に登場する超存在は人類史に干渉しないが、主人公がコンピューターの中枢部分に侵入し、問答しながら基盤ユニットを取り外し続けてコンピューターを停止させる…という段取りが、『装甲騎兵ボトムズ』に援用されているので、この作品も記しておく。

■キューブリックは『2001年宇宙の旅』の制作前に、日本の『宇宙人東京に現わる』(1956)を含むあらゆるSF映画を観ていた事が記録に残っているが、当時北米に輸出されていた筈の『009』二作品を観ていたかどうかは不明。
 そもそも、東映にすら『009』北米版の資料は残っていないらしく、恐らくは追跡調査不可能。
009-1967kaigai


■■■『ルパン三世 ルパンVS複製人間』(1978)
 一万年以上前からクローニングを繰り返して延命し、人類史に干渉し続けてきた怪人物が登場。
 非常に不出来だった『009』の超存在へと、明確な人格と能力と目的を加え、整合性を取り、主人公との対比ドラマを与えたとも考えられる。

■監督と脚本は吉川惣司。


■■■『サイボーグ009』(1979:カラーTV版)
 制作会社もスタッフも変わり、映画版二本~白黒版に登場した超存在は登場しない。
(番組が続けば、オーディンがその役になったのかも?)
 この作品のラスボスは、石ノ森章太郎の別作品の主人公をアレンジした存在であった。

■監督は高橋良輔、脚本には吉川惣司も参加している。


■■■『装甲騎兵ボトムズ』(1983)
 時間や空間を超越してあらゆる機械に干渉する能力を持ち、銀河系単位で人類の歴史に介入する存在“ワイズマン”が登場。

■監督は高橋良輔、脚本陣の中には吉川惣司も。
 先年の『009』で使えなかった超存在のネタを、こちらで発表したものだろうか。

■今回は一次資料が発見出来無かったが、吉川惣司は「『ボトムズ』は『ルパンVS複製人間』でやり残したことがやりたかった」と述べていたらしい。

今夜『金曜ロードSHOW』で放送『ルパン三世 ルパンVS複製人間』を読み解く5つのポイント
2016年10月21日
https://www.excite.co.jp/news/article/E1477026956624/

脚本家としても活躍し、サンライズのロボットアニメにも数多くの脚本を提供。『戦闘メカ ザブングル』では当初監督が予定されていたが、吉川が多忙のために降板、富野由悠季が代わりを務めたというエピソードがある。『装甲騎兵ボトムズ』ではメインライターとして物語に深く関わっているが、後に吉川はインタビューで、『ボトムズ』は『ルパンVS複製人間』でやり残したことがやりたかったと語っている。

ルパンの前に現れたマモーは自分がクローン人間であることと、一万年前から人類の歴史に介入してきたことを明かし、今生きているお前は自分が作ったクローンかもしれないとルパンに告げる。
ルパンVS複製人間-エキサイトニュース


■■■そして『ボトムズ』の外伝として『青の騎士』が発表され、1987年に完結。
 1989年、『ベルセルク』連載開始。


■■■『画集ベルセルク』(1997)に掲載された三浦建太郎インタビューでは、
ガッツがパワーアップしないまま、「運」の要素でゴッド・ハンドに勝利する事が示唆されていまして。
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■…上記の三浦建太郎発言と、他作品の構成を潤色して使う『ベルセルク』の手癖から考えてみますと。

▼「運」によって何らかの弾丸が深淵の神に命中する。

▼深淵の神に通じる弾丸なので、ベッチーを左腕の義手大砲で撃ち出す予定だったか。

▼ベッチーには喚び水の剣と同様の加工が施されているとか。

▼初期構想ではベヘリットを集めて加工するのもガッツの役目で、使徒を倒す度にベヘリット弾が増えたり、ベヘリットナイフ的な武器を作ったりするルートがあったのかも。

▼フェムトが以前と同じ方法で義手大砲の弾を弾こうとするも、ベヘリットは破壊されず、弾道がそれて深淵の神に当たる。
 因果の流れの中に無い出来事。

▼ベッチー弾と「運」で勝利する展開は、路線変更後の現在でも使用可能。

▼構成方法によっては、ベッチーが開けた次元の穴からガッツ以外の誰かが深淵の神内部に侵入し、実は機械だった深淵の神の基盤ユニットを取り外し続けて機能を停止させるという展開にも。

▼ファンタジー世界の住人が、意味も判らないまま巨大コンピューターの基盤を外して騒いでいたら、絵面的にも面白いかもしれない。

▼イシドロが基盤を抜きまくって、自分が何をしたのかを永遠に知らないし判らない、というパターンとか。

▼深淵の神が停止した事により、ゴッド・ハンド達は普通の人間に戻る。

 …という辺りが、深淵の神とゴッド・ハンドの倒し方だったのではありますまいかと。
 『009』最初の映画版から、『2001年宇宙の旅』『ボトムズ』に繋げる流れ。
 前回記事でも書いた様に、途中で『スーパーマンⅡ』(1978)も入っているけど。


■■■前回記事は『青の騎士』準拠がテーマだったので、魔法の根源の力を使って、深淵の神やゴッド・ハンドを次元の彼方に追放するルートで書いてしまいましたが、『薔薇の名前』→『断罪篇』の様に、全くの別作品を混ぜてしまう予定もあったのかもと。

■当ブログでもずっと「深淵の神」とは表記してきましたが、その名称は漫画『クリスタル☆ドラゴン』(1981年連載開始)に登場する悪役「深淵の一族」からの発案かもしれませんし。

■『クリスタル☆ドラゴン』には、ベルセルク(本来の意味)の戦士の妻が妊娠するも胎児のうちに魔を引き受けてしまうとか、魔に蝕まれて病んだ谷の住人が居るとか、グリフィスという登場人物が居る…等々等々とかあったりしますので、気が向いた方は履修してみるのもよろしいかと。

■諸々あって、今後『クリスタル☆ドラゴン』が完結するとは思えず、いきなり「単行本を買え」とは言えませんので、ここではとりあえずウィキペディアを引用するだけに留めておきますが。

『クリスタル☆ドラゴン』
https://ja.wikipedia.org/wiki/クリスタル☆ドラゴン


■■■現時点では、思い付きをサックリ書いているだけの段階なので、もう少し考えれば、もっと面白い展開を思い付くかもしれません。

■ま、発想が降りてきたら、また何か書く事になるのでしょう。


■■■では、前回記事を含めた補遺を幾つか。


■■■正直言うと、前回記事を書いた段階では、ベッチーを義手大砲の弾にするアイデアは思い付いていませんでしたぞガハハ。


■■■今更思い付いたといえば。
 現在の『ベルセルク』公式設定がどうなっているかは知りませんが、ボイドの正式な綴りが「Void」なのならば、それはレグジオネータの本当の機体表面に刻まれていた地球の文字「Ⅴ」を意識していたのでしょうか。
 『青の騎士』の場合は、「ヴァン・ヴィール」の頭文字でしたが。


■■■うーむ、ボイドの正体が実は未来のガッツだった…とか、やらっかと思えば出来るけど、そーゆーのは誰も望んでいなさそう。


■■■前回記事では『ベルセルク』の続きをあんな風に書きましたが、ちと考えてみるに、42巻冒頭からはガッツとキャスカが共闘してグリフィスを撃退する流れにすれば、ガッツとキャスカの対話が始まるし、キャスカの復活を印象付けられるし、子供の情報の共有や愛情表現も出来るし、「もう再度と喪失ねえ」も回収出来るし、話も早く進められますな。

■キャスカの烙印に魔法防護を施す為に一時退場→剣士の姿で再登場してガッツに助勢…とやれば、アクションものとしても盛り上がるだろうし。
 会話無しで攫われるよりは、そういう展開の方がよいのでは。


■■■『青の騎士』にはあるけど『ベルセルク』では使われていない(翻案が困難で使い勝手が悪く、また似過ぎてしまう)大ネタに、主人公がクローマ・ツェンダーという偽名で戦うというものがあり、前回記事ではあえてそれを採用しましたが、やらない方がテンポいいかもしれませんな。


■■■『ベルセルク』は『青の騎士』の構成をバラバラにし過ぎているので、もう「メルキア製だぜ。偽物だ」と、その台詞が示すドラマは入りそうに無いです。
 足掻く主人公が、かつて使っていた最強の武器と、運命的に再び出会う…という、本来ならばやるべき話なのですけどね。
(メタ的に言えば、クローマと名乗ったのはそのギミックを活かすひとつ)


■■■シラットが人類側のリーダーになるよりも、キャスカが攫われず、バーキラカの隠れ里に集結した後に実力を示すエピソードを入れ、皆に認められてから人類側のリーダーに就任させた方が、もっと盛り上がったのでは?
(手遅れ)

■『ベルセルク』43巻収録予定回で、『青の騎士』のミーマの代役として、シラットが人類側のリーダーになるのだけれども、その展開に唐突以外の要素で違和感があるのは、シラットが読者にも作中人物にも、リーダーとしての実力を証明していないからだと思われます。


■■■今回、都合により『サイボーグ009』の最初の映画版から白黒TV版に触れましたが、それらは制作年代的に内容が未成熟なのはまだしも、作品内容が特定界隈の思想の垂れ流しなのが相当アレなので、とても人様には勧められないですね…。

■“人類史に干渉する超存在”が登場した白黒TV版最終回『平和の戦士は死なず』は、第十六話『太平洋の亡霊』の事実上のリライトなのですが、その『太平洋の亡霊』は、とにかく日本だけ悪い、日本だけ全武装を解除せよ、自衛隊を持つ事も許さん、米国白人は一方的な被害者、米国白人の悪行は一切見ないフリ、黒人は知らん、具体的な平和への道のりは示せないが憲法九条を礼拝せよ…という内容でしてな。
 フーン。

■『太平洋の亡霊』とそのコミカライズ版(全一巻)に関しては、以前に別の記事を立てています。

戦艦大和も復活して戦う『太平洋の亡霊』(1968)が、この2024年にコミカライズ開始されまして。
2024年05月03日
http://blog.livedoor.jp/gorovion/archives/10205898.html


■■■“人類史に干渉する超存在”を上手に描けないと、本当に行われた人間の行為を、勝手に創作内の出来事に矮小化し単純化してしまい、アイデアの値打ちがかえってマイナスになるものですが、『009』初期アニメ版がやってしまったのが、ソレ。
 割と有名なシリーズでありながら、具体的な内容が語り継がれていない事には理由があるのです。


■■■前回に引き続き明記しておきますが、当記事は二次創作では無く、論評として書いております。


■■■今回も何かゴチャゴチャ書いていますが、作者が逝去して三年が経過してさえも、『ベルセルク』の封印回が正式に公開される事は無いままなので、深淵の神周辺の話は、既に「無かった事」になっているのかもしれませんな。
 ナンボ何でも、ワイズマンそのまんま過ぎたのはダメだったでしょうし。

■まあその場合は、「運」をもってボイドにベッチー弾が当たった事にして、思考遊戯を続けておきましょ。