斎藤知事を自殺させるマスコミ運動であった

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われわれの世の中は損害賠償リスクが上がっており、とても生きづらい。今日において損害とは、加害者と被害者という関係ではなく、管理責任に刃が向けられている。池田小事件の日になるたびに学校の責任問題が特集されるが、宅間守という犯罪者の名前はほとんど記事に出てこない。学校に殺されたという具合なのである。あまりにも馬鹿げた話である。宅間守に支払い能力がないので、税金で払わせようという弁護士の入れ知恵であるが、こういう入れ知恵に、法廷外でお付き合いさせられているのが今日の社会である。斎藤知事の問題にしても、遺族遺族と言いたいだけであろう。棍棒として使いやすいのである。これによって社会秩序が守られているらしいのである。これを息苦しさと感じるか、治安の良さと感じるか、そこは個人差があるだろうが、愚民による魔女狩りである。自殺した渡瀬康英についてはお気の毒だが、もし生きていたら、愚にもつかない怪文書の執筆者として、それはそれで恥ずかしい人間である。百条委員会というのは、要するに国会の証人喚問と同じで、呼ばれる人間を晒し者にする刑罰である。証人喚問で真相が解明されたことなどない。百条委員会も同じことである。渡瀬康英は7月19日に百条委員会で証言する予定だった。なぜ7月7日に死んだのかというと、生きていると分が悪いからである。自殺すれば、愚民たちが遺族のために棍棒を持って決起するということなのだ。実際にこの二ヶ月くらい行われてきたことは、斎藤知事を自殺させるための運動であった。自殺が嫌いなのか好きなのかどっちなのか、実のところ正義の仮面の裏にある素顔は屍体愛好家であり、死臭に惹かれて一同に介しただけである。斎藤知事の自殺が見たいという愚民の欲望が背景にあるだろうし、マスコミだけが悪いわけではあるまいが、やはりマスコミあってこその愚民であるし、このような魔女狩りを教唆するマスコミを許してはならない。
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