伊豆の国市大仁に所在する「白山神社」を追究するにあたり、全国各地にある白山神社の起源について調べました。《真子@369edo3のX》には、小石川植物園の近くにある東京都文京区の白山神社についての情報がありました。『白山神社⛩ 文京区・東京十社の一つとされる。後土御門(ごつちみかど)天皇の文明年間に加賀国(石川県)白山比咩(しらやまひめ)神社から勧請されたとされる。御祭神は日本神話で夫婦喧嘩の伊邪那岐命(いぎなきのみこと)伊邪那美命(いぎなみのみこと)の仲裁役の菊理姫命(くくりひめのみこと)とされる三柱』。
山梨県の白山神社に関して《山梨デザインアーカイブ》には、『白山神社の起源は?この神社は、約五三〇年前、後土御門(ごつちみかど)天皇の文明年間に加賀国(石川県)白山比咩(しらやまひめ)神社から勧請されたといわれている。 社殿は、桃山時代の創建で文化的価値の高いものである。 御祭神は、伊邪那岐命(いぎなきのみこと)、伊邪那美命(いぎなみのみこと)、菊理姫命(くくりひめのみこと)の三柱である』と記されています。白山神社は、室町時代の後土御門天皇の時に、加賀国(石川県)白山比咩(しらやまひめ)神社から勧請され全国に置かれたようです。
同様に、伊豆の国市大仁に所在する「白山神社」も室町時代の後土御門天皇の時に置かれたと捉えています。後土御門天皇の情報はwikiに記載されています。『後土御門天皇(1442年-1500年)は、日本の第103代天皇(在位:1464年-1500年)。諱は成仁(ふさひと)。後花園天皇の第一皇子。生母は藤原孝長の女で大炊御門信宗の猶子の大炊御門信子(嘉楽門院)。[生涯]生母である伊与局の出身身分が低く、当初は将来は出家させるつもりで父である後花園天皇の実家である伏見宮家にて育てられていた。
しかし、後花園天皇に他の男子が生まれなかったために、生母を公卿である大炊御門家の養女ということにして、皇位継承者として定められた。康正元年(1455)、14才になると侍読に中原康富が付き学問を学んだ。他に吉田兼倶、一条兼良、清原宗賢らから和漢の講義をたびたび受けた』。後土御門天皇の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「鬱病とか気の病持ちの人」と伝えられました。また、伊豆の国市大仁の白山神社の所在地(伊豆の国市白山堂365)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」と伝えられました。
白山神社の地は、エゴ・金・工作の闇を司る金春アヌンナキに封印されていました。また、金春アヌンナキは、闇の精霊を操る術師の宇宙人でもあります。後土御門天皇も闇の精霊の影響を受けて精神の病を患っていたとも感じます。後土御門天皇の「御門(みかど)」と「吉田兼倶」に着目しました。まず、「御門(みかど)」については、実は、伊豆の国市大仁(旧・田方郡大仁町)には、「御門」という地名があるのです。《コトバンク》によると、御門とは、「天子・天皇の位。また、天皇の尊称」「御殿。特に、皇居」などとあります。
御門の他に「田京」「葛城山」の地名もあります。伊豆の国市大仁は、過去に天皇が所在した場所であることが示唆されます。それ故に、伊豆の国市大仁には、天皇を頂点とする支配層の拠点があったと感じます。《田京(たきょう/伊豆の国市 田京)》には、伊豆の国市大仁の田京(旧・大仁町)は「飛鳥京」のモデル原点、伊豆の国市の伊豆長岡(旧・伊豆長岡町)は「長岡京」の原点、伊豆の国市の古奈(旧・伊豆長岡町)は平城京(奈良の都)のモデル原点、伊豆の国市大仁の御門は「藤原京」のモデル原点であった説を唱えています。
『稲作文化を中心に国家体制を構築して来た日本人にとって、田京(たきょう)はある意味、「日本史の原点のひとつだ」と思える地名である。田京一帯は、古くから伊豆の国(いずのくに)における「政治・文化の重要な場所であった」と言われており、この事を示す多くの古墳が残されている。また、御門(みかど)から田京にかけては条理制(じょうりせい=大化の改新の際に行われた土地の区画法)の址も見られる。・・田京の隣には御門(みかど)の地名もある。御門は統一倭の国々の王(臣王/おみおう・大国主)の表記に使われていた。
田京の西正面に見えるのが、伊豆葛城山である。葛城山は王城の山で有り、奈良飛鳥の西正面にも同じ葛城山がそびえている。奈良県北葛城郡にある広瀬神社(廣瀬大社)と同じ名前の広瀬神社が、この伊豆の国(いずのくに)・大仁田京にもある。伊豆大仁・田京が飛鳥京のモデル原点であれば、伊豆大仁・御門は新益京(あらましのみやこ/藤原京)、その北に位置する伊豆長岡は正に長岡京の原点、伊豆長岡・古奈は平城京(奈良の都)のモデル原点の可能性が出て来る』。後土御門天皇が講義を受けていた「吉田兼倶(よしだかねとも)」は吉田神道の創始者です。
吉田兼倶の情報はwikiに記載されています。『吉田兼倶(1435年-1511年)は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。卜部兼名の子。官位は従二位・非参議。本姓は卜部氏。吉田神社の神主。吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者。兼倶が吉田神道を唱えた背景には、両部神道や伊勢神道に対抗する意図があった。兼倶は、吉田神道の主張を通じて、様々な教説にわかれていた神道を統合しようとし、室町幕府にも取り入って権勢を拡大し、神道界の権威になろうとした』。
《吉田神社のワークが示唆する朝鮮半島・キリスト教と表の藤原氏・裏の秦氏の八咫烏》には、吉田神社(吉田神道)が八咫烏の源流に深く絡んでいることが記されています。また、吉田兼倶のワークから純粋な八咫烏だったと見ています。吉田家の源流の卜部氏(うらべうじ)は、古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた「卜部」を氏の名とする氏族です。術で精霊と人を操る術師だったと捉えています。卜部とは亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を職業とした品部です。
伊豆・壱岐・対馬の卜部氏は神祇官の官人に任ぜられました。卜部氏の拠点の1つに「伊豆」が入っているのです。卜部氏の拠点である伊豆・壱岐・対馬は、古くから流刑地となっており、本来、光の精霊が多く存在する光の地を松取りによって闇の精霊に変えて闇のエネルギーとして利用してきたと推測しています。次に、伊豆の国市大仁(おおひと/旧・大仁町)の源流を調べると「大仁(だいにん)」のwikiに行き着きました。そこには、『大仁(だいにん)は、604年から648年まで日本にあった冠位である。冠位十二階の第3で、小徳の下、小仁の上にあたる。
[概要]推古天皇11年12月5日(604年1月11日)に制定された。大化3年(647年)制定の七色十三階冠制により、翌大化4年(648年)4月1日に廃止になった。13階のどこに引き継がれたかについては2説が対立する。大仁と小仁を13階中第8階の小錦にまとめたとする説。13階中第9階の大青一つに対応するという説である』。「大仁」は官僚の地位を表す冠位の1つでした。wikiの「大仁の人物」には、『史料に見える大仁は12人いる。鞍作鳥(くらつくりのとり・飛鳥時代を代表する仏師で渡来人の一族) 小野妹子(おののいもこ・飛鳥時代の官人・遣隋使) 秦河勝(はたかわかつ・秦氏の族長的な人物)
犬上御田鍬(いぬかみのみたすき・最後の遣隋使および最初の遣唐使を務めた大和朝廷の中級官吏・外交官の一人) 薬師恵日(くすしのえにち・飛鳥時代の官人・医師・高句麗系渡来人・徳来(とこらい)の5世の孫) 上毛野形名(かみつけののかたな・飛鳥時代の武人・蝦夷征討の将軍)・・』と記されています。「大仁」の人物には、八咫烏の源流の1人となる秦河勝の名前があります。以上のことから、伊豆の国市大仁の地には、昔、支配層・八咫烏の中心的な拠点があり、八咫烏の配下で松取りの現場作業をするサンカ・同和・反社の人たちが暮らしていたと推測します。(つづく)