正義は正義感をぶっ壊す。
縄文時代を愛する学者さんにお会いした。全員肌艶がよかった。好きなことをやっている人は全員、肌艶が良い。彼らは「こうあるべき」とか言わない。正義を振りかざす暇があったら、ロマンを追う。彼らは「自分を愛する」とか言わない。自分を愛する暇があったら、縄文を愛する。彼らは「観察する」とか言わない。冷静に観察している暇があったら、興奮しながら同一化する。対象と同一化して「俺がお前でお前が俺で」状態になる。本当に好きなものを前にした時、冷静でなんていられない。人の心を感動させるものは、観察なんてことをさせない。
感動は一線を越える。一線を引かせない。対象と距離を置き「うまいですな」とか「立派ですな」などと品評をさせない。冷静さを剥奪し、熱狂と興奮を巻き起こして「うおおおおお」とさせる。なんだかよくわからないけど、今、俺はすごいものを見たと言う気持ちにさせる。そのべらぼーさを前に、ぶったまげる。ぶったまげた人は「こうあるべき」とか言わない。逆に「なんでもありなんだな」と思う。一線を超えてくるものを前にした時、滅茶苦茶だなと一旦引いた後に、なんだか楽しくなってくる。その後に「ああ、この世の中はなんでもありなんだな」と思って自由になる。精神性が拡張する。
昔から、正義感を持った人が苦手だった。正義と正義感は違う。縄文を愛する人々に正義感はない。彼らにあるのはロマンだけだ。だから、安心して一緒に楽しむことができる。教育者になりたがる人は、正義ではなく正義感で動く。昔だったら「お国のために死になさい」と言ってこどもたちを戦場に送り出し、今なら「たくさん働いて、たくさん税金を納めなさい」と言ってこどもたちを戦場に送り出す。それが常識であり、常識に従わないものは非国民と罵倒されて、村八分の憂き目に遭う。正義と正義感は違う。正義感は、簡単に他者を裁く。場合によっては殺人も行う。こいつは叩いてもいい人間だとなった途端、全員総出でその人を叩く。正義は誰も叩かない。正義は正義感をぶっ壊す。
正義感は「こうあるべき」とか「ちゃんとするべき」などの言葉を好む。正義感を振りかざして、正義感に従わない自分や他者を裁き倒す。感動は正義。可愛いは正義。楽しいは正義。自分の好きなことをやるために、正義感は要らない。正義は正義感をぶっ壊す。正義感が壊れると楽になる。生きるのがつらいのは、つらいのではなく「つまらない」のだ。足りないものはロマンである。金を稼ぐためとか、有名になるためではなく「これのためなら、金なんか要らねえ。車も要らねえ。女も要らねえ」となる。誰に何と言われても、自分の心が「最高だ」と思えるものを目指して、天真爛漫に爆発する。
感動は一線を越える。一線を引かせない。もっと自分を出して見ろと、挑発する。肉薄する。自己肯定感と自己肯定は違う。自己肯定感なんて聞き飽きた言葉とは異なる、自己肯定そのものを促す。誰といる時に、自分は一番幸せなのかを思い出させる。私の心を動かした人たちは「ちゃんとしろ」なんて一言も言わなかった。彼らが一番ちゃんとしていなかった。ちゃんとなんてしないまま、誰よりも楽しそうに生きている姿を見せてくれた。誰よりも調子に乗っている姿を見せてくれて、誰よりも一線を超えて私の心を挑発してくれた。肉薄してくれた。一線を超えて「もっと自分を出して見ろよ」と、言ってくれた。傍観者になるなよ。一線を超えて来いよ。もっとぐちゃぐちゃになれよ。もっと自分を出して見ろよ。ロマンを追うために、正義感は要らない。ロマンそのものが正義だ。
おおまかな予定
9月22日(日)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
コメント