ブログNO・182
鹿児島で新たに六十八個の「九州年号」発見
継体天皇死亡のなぞなど貴重な証言も
筆者が「元会員」であった、東京の古代史研究グループ「多元の会」の会誌に寄稿した一文に若干の手を加えたものである。「九州年号」を創設した熊曾於族の「本当の継体天皇」の故郷・鹿児島で、新たに七十個近い「九州年号」が発見されたのだ。県別の発見例としては全国第一位になった。面目躍如と言えよう。筆者が独自取材したものと、地元の研究者の通報でわかった。
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九州倭(ヰ)政権の存在を証明する最も肝要な資料である「九州年号」については、一九八九年の『市民の古代』(新泉社)第十一集に掲載された「目録」が一つの一里塚となっている。「多元の会」の会員らが様々な古文書に眠っていた約三百八十個の年号を‶発掘〟し、斎藤隆一氏がまとめたものである。
「目録」で斎藤氏が予言しているように、その後多くの「年号」が発見された。筆者も部外者の一人として「目録」から漏れていた十個近い「九州年号」を西日本の各地で発見した。
その中で「なぜだろう」と不思議に思っていたことがある。それは、「九州年号」を創始したとされる「継体天皇」(袁本杼)は、筆者の調べで後に、九州は宮崎、鹿児島に本来の根拠地を持っていた「熊曾於族」の出身であったことが判明している(注1)。
だが「目録」では、その本拠地である「日向の国」や「薩摩の国」では、『開聞古事略縁起』(注2)などに残されたわずか八個しか採集されていない。「本拠地であったのになぜ発見例が少ないのか」が不審だった。
だが実際は、数多くの「九州年号」が眠っていた。四十二個プラス二十六個で合計すると六十八個もあったのだ。「面目躍如」であり、県別では全国でも最も多いと思われる。
「多元の会」の会員らは東京近辺に住んでいる人が多かった。古田武彦氏によって新たに目を開かれたのだが、『日本書紀』によるいかがわしい記述から抜け出すことはまだ不可能だった。『記紀』によって「熊襲・隼人、すなわち熊曾於族」はただの「蛮族」であると思い込まされていたからだ。
だから、鹿児島や宮崎までは調査の手が十分には及ばなかったのだろう。仕方のない事であった。ここでは「本当の継体天皇」はなぜ熊曾於族の人間だったのかを簡単に述べたあと、新たに発見した『入来院文書』と『田代宝光寺古年代記』に記された「九州年号」について報告しよう。
◇「本当の継体天皇」は、福井県出身の「男大迹」ではない
『古事記』によれば「継体天皇」は、本名を「袁本杼」という。国史学者らは名前を「おほど」と読み、『日本書紀』の「継体」と同一人物だとする。
だが「袁氏」は、その名を中国・紹興の鏡作り工人、そして日本で作られた「三角縁鏡」などに「袁氏作鏡真好」と、その名を残している。中国の名門一族の一人だ。
袁氏は『古事記』に前代の天皇「顕宗、仁賢天皇」(袁礽)としても名を遺す。おそらく二世紀前後に南九州、志布志湾などに漂着した中国からの「難民」だ。火山島・九州の鉄や銅など豊富な鉱物資源を利用して勢力を増大させ、最後は九州一円から全国に勢力を伸ばした。
そして「姫(紀)氏」勢力の「最後の天皇」であったろう「磐井」天皇を急襲してその地位を確実にしたと考えられる。
『日本書紀』に息子の「安閑天皇」は、「犬養部」を全国に設置したと記録される。熊曾於族の「犬祖伝説」に基づいた施策だろう。「犬祖伝説」は生活に欠かせない飼い犬と結婚したお姫様を「民族の始祖」とする。中国の少数民族を始め、多くのチベット系族が持っていた説話である。
また「継体」を担いでいたのは同じ熊曾於族の「三島氏」だった(京都大学・日本地理志料)。さらに熊曾於族の墓である「地下式横穴墓」や「横穴墓」とまったく同じ墓が、中国各地で「偏室墓」や「崖墓」などと称して今、数多く発見されている。
「本当の継体天皇」は福岡県朝倉市に都していた天皇であった。今『日本書紀』が、後の斉明天皇が作らせた都である、と偽っている「橘の広庭宮」がそうである。放射性炭素による年代測定で明らかになっている(注1 同)。『書紀』は「神武天皇」などと同様、大和の大王位についた人に九州政権の天皇に贈られていた諡号をパクって記し、歴史を改ざんしている(注3)。
◇『入来院家文書』
『入来院家文書・日本帝皇年代記』には計四十二個の九州年号が使われている。うち九個は重出である。国史学界のいかがわしい姿勢や、『記紀』とは違う伝承を多く含む内容から、積極的にその存在がアピールされなかった。
『文書』は、鎌倉中期に関東の相模国から鹿児島県薩摩郡入来(いりき)町周辺に地頭として下向した渋谷氏の一支流・入来院家に伝わる文書である。渋谷氏一族は南九州では島津家に次ぐ大族であった。文書が発見、公表されたのは一九二五年で、米エール大学教授の朝河貫一氏(後に東京大学史料編纂所長)の英文と和文両方によるものであった。
この『文書』がほぼ完成したのは一五五七~八六年の正親町天皇の時代で、引き続き一六四六年ごろまで加筆が続いたらしい。特に中世史の貴重な資料として注目されているようだ(注4)。
『記紀』や『帝王編年紀』など複数の文献も参考にして記述されているのではないかとみられ、「大和政権一元論」に沿った記述もある。しかし「神武」以後の‶天皇〟については即位年や没年、中国王朝との年代比較、特記事項を、「仲哀」以後の天皇については都の所在地なども加え、独自の記載もあり実に興味深い古文書である。
興味深いのは「天照大神」は「治天二十五万歳」、「彦火々出見」は治天下六十三万七千八百九十二年」など『日本書紀』にも記す長大な年暦が記されていることだ。いったいどんな数え方があったのか、わからない。が、単なる想像上の年暦ではなかろう。古代インドの経典にも長大で不思議な数字が躍っている。
その下段には「震旦」(オーロラ。中国のこと)として、「盤古首王元 一万八千歳」とある。「盤古」は「犬祖伝説」にも出てくる中国の少数民族の始祖犬の名前でもある。鹿児島は中国沿海部から渡来した熊曾於族の日本列島における故地であるからわざわざ書いているのだろう。さらに「黄帝有熊氏」「堯」「舜」「禹」など中国の神話上の名も連ねている。
◇神武天皇は紀元前後の人?
筆者は、『日本書紀』(以下『書紀』)は九州に実際にいた大王の諡(贈り名)をパクり、別人をそれぞれ「神武天皇」や「継体天皇」に仕立て上げて記述していることを‶発見〟している。現在出回っている『記紀』は実際に九州にいた「神武天皇」のことをいっさいカットしていると考えられる(注5)。
重要なことは『文書』でも「神武天皇」をはじめ「継体の前代・武烈」までは、古代天皇の年齢はすべて「二倍年暦」(注6)で書かれていることだ。
「継体天皇」までの各天皇の「治世」を合計すると計「千百六年」となった。
「二倍年暦」だからその半分が実際の年で「五百五十三年」だ。「継体」の死亡年について『文書』は「教倒元年(五三一年)」と記録している。
五百三十一年-五百五十三年=マイナス二十二年。すなわち、記された伝承に誤伝や書き間違いがなければ、「本当の神武天皇」は「紀元前二十二年ごろに即位した」こととなる。筆者を含め、「神武天皇」はこれまで『、記紀』に記す「神武天皇」であり、その実態は、「倭国の大乱」後、卑弥呼勢力に追われて大和へ逃げ、西暦百八十年前後に大和で大王位についたという「狭野命=神倭磐余彦」だった。『文書』でも独自の伝承と『記紀』の記載(例えば各天皇の宮など)が整理できずにごちゃまぜになっている様子も見受けられる。
実際は「神武天皇」と贈り名(諡)された人が二人いたのだ。『文書』中の「紀元前二十二年に即位した神武天皇」の部分は、九州倭(ヰ)政権の大王で、九州に多くの説話を残している「神武天皇」であり、即位の時期から見て、伊都(倭奴)国の大王の一人に贈られていた諡号であろう。
◇「継体」から「安閑」へ、異常な?権力移譲
『入来文書・日本帝皇年代記』は、「継体」から「安閑」への権力移譲についてこう記す
廿七(代)継體(「ケイテイ」とルビ)天皇 応神五世之孫彦主人(の)五男、諱男大迹、五十四歳(にて)受禅、元年丁亥(五〇七年)、治(世)廿五年、教到元年(五三一年)正月崩、八十三歳、山城国綴喜郡盤戸玉穂宮住、天皇生越前国、即位元年(は)梁武帝天監六年、後魏(の)永平二年(にあたる)・・・壬寅善記、治世第十六年年号始之、此の年南梁司馬達等来朝・・・丙午(五二六年)正智、延和元年 イ本(異本・「正和」の誤伝か)、辛亥教到(五三一年)二月継躰天皇崩、八十三歳、九州彦山立、無遊始・・・壬子 壬癸、前二年欠主(カッコ内は筆者)
文中の「山城国綴喜郡盤戸玉穂宮住、天皇生越前国」「辛亥教到二月崩」は「異本」=『記紀』に引きずられた記述であろう。が、最初の方では「継體(ケイテイ)天皇が死亡したのは『百済本記』と同じ辛亥(五三一)年の正月であった」と記している。
さらに重要な記述は最後の「壬子(五三二年) 癸丑(五三三年)、前(に記す)二年欠主」という記事だ。『記紀』は何も書かずに「継体」の死後、次の「安閑天皇」がすんなり跡目を継いだが如く書いている。が、『文書』では「二年間天皇位は空位であった」と伝える。
この記事に続いて「安閑」が記され、六十八歳で即位、治世は「二年間」としている。
筆者の以前からの疑念のひとつは、継体の后「手白髪姫」の正嫡である「欽明」がすぐに跡を継がず、なぜ媛腹でしかもかなり高齢の「安閑」が跡を継ぐことになったのかということだった。
『文書』の記載を見てハッとした。『記紀』は「欽明」らには正嫡の兄がいたことを記している。「大郎子(おおのいらつこ)」だ。何らかの事情でその兄が継げなくなり、二年間の空位を経て「安閑」「宣化」という媛腹の子に天皇のお鉢が回ってきたことが読み取れる。
宮廷内で激しい権力争いがあり、「尾張の連らの祖・凡連(おおし=太氏=のむらじ)」が宮廷に送り込んだ娘「目子郎女(めこのいらつめ)」(『記』)らが、自分の子である「安閑」「宣化」を天皇にするため、「継体の死」に乗じて「太子」や太子に組した「皇子」を殺害したのかもしれない。
現今の「和歌山カレー殺害事件」でも犯人が誰かを特定するのは難しい。「太子と皇子」殺害の張本人がどの勢力の仕業であったのかはっきりしないまま、「二年間」の暗闘の末、「凡連」らの勢力が何とか勝ちを得たのではなかろうか。
『百済本記』で使われた「天皇、太子、皇子≪崩薨≫」の字義は、彼らが事故や戦闘で死んだのではないことを如実に物語っている。
このほか『文書』については興味深い記述がいくつかある。機会を見て報告したい。
◇『根占・宝光寺古年代記』に二十六個
この文書は元来、大隅半島の現鹿児島県錦江町(根占)田代にあった宝光寺に伝わっていた文書である。寺は明治二年に廃寺となり、曲折を経て、現在東京都赤坂の個人所有となり「島津図書館」で展示しているという。
「大隅史談会」の理事で、同県錦江町の田代郵便局長であった篠原亮氏がこの文書について、同史談会の会誌「大隅」第31号(一九八八年)で報告している。
使われている「九州年号」は「善記」から「朱鳥」まで計二十六個で、各年号の干支と使用年数を付記している。使い方は「入来院文書」と同様で、大和政権の「延宝六(一六七八)年」までについて、宝光寺や大和の興福寺(「奥福寺」と誤記)や西大寺、九州の阿蘇山神社、甲佐神社の事を編年的に記録している。
主な著述を拾ってみると(文中の「年」は年号継続の年数)
◇壬寅善記 四年 継体天皇治世御時、百済国ヨリ五経博士渡ル
◇丙午正知〈「正和」の誤記〉五年 安閑天王廿八代二月即位 治世廿年
◇辛酉明要 十一年 百済国ヨリ仏像経巻渡ルト云々
◇壬申貴楽 二年 百済国ヨリ阿弥陀御長一尺五寸、観音、勢至各飛来給フ 今(長野)善光寺如来是也
◇乙巳勝昭 四年 用明天皇即位。新羅国軍兵、幡国赤石浦マデ攻来ル
実際に「新羅が攻め来った」とする記事は初めてみた。「赤石浦」は山口県の瀬戸内海側にあった赤石、或は兵庫県の「明石の浦」であろうか。
このほか、白頭(「白雉」の誤記か)、僧聴、光充、朱雀 白鳳などが記されている。ただ、最後の年号「大長」はない。
注1 当ブログNO.138など参照」)
注2 指宿市・枚開〈開聞〉神社に伝わる縁起。開聞岳の麓で亡くなった九州倭政権の本当の天智天皇と皇后・大宮姫の話を綴っている。維新政府によって「俗記であるから焼却せよとされ、書き直されたのが「略縁起」である
注3 拙著『熊襲は列島を席巻していた』=ミネルヴァ書房など 参照
注4 写真と解説は、山口隼正氏の著述「長崎大学教育学部『社会科学論叢』第六四号 2004年」によった
注5 当ブログ NO.13~15「継体・安閑」、NO.31「神武、その2」参照。NO.31に付け加えれば、熊本県高森町の草部(くさかべ)吉見神社近くに、神武天皇の長男「八井耳命」の墓という伝承をもつ古墳が存在する。本当の「神武天皇」は九州にいたことを示すひとつのデータと考えたい
注6 『魏志』に記された裴松之の注として「魏略に曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕、秋収を計りて年紀となす」とある。日本の多くの神社で行われる一年のけがれをはらう儀式・「大祓(おおはらえ)」も六月(夏越祭)と十二月の二回行われている。宮中でも「二倍年暦」廃止後も大晦日に行われる大祓の儀式を六月にも行うことが決められていた(「延喜式」並びに「続日本紀・養老五年七月紀」など)。「二倍年暦」が実際に行われていた名残であろう。