景福宮(ギョンボクグン)
1393年に樹立された朝鮮王朝は、1394年に首都を開城から漢陽へと移した。第1代王、太祖4年(13
95年)に朝鮮の正式な宮殿として景福宮(史跡第117号)を創建し、この宮殿を中心として漢陽の都市計
画を行った。景福宮は外殿と内殿が南北に整然と配置され、東西南北に大きな門があるという正式な宮殿
としての典型的な姿をしている。景福宮での儀式が行われる政殿は勤政殿、政治が行われる便殿は思政
殿と呼ばれた。景福宮の集賢殿と呼ばれる建物において、朝鮮第4代王、世宗25年(1443年)にハン
グルが創世された。また、景福宮の中には自動的に作動する水時計の一種である自擊漏や、世界初の
雨量計である測雨器などの科学器具が置かれていた。景福宮には朝鮮の代表的な建築物である勤政殿
(国宝223号)、慶会楼(国宝224号)、勤政門および回廊(宝物812号)、慈慶殿(宝物809号)、
交泰殿の庭園である峨嵋山の煙突(宝物811号)慈慶殿の十長生煙突(宝物810号)、風向きを知るた
めの旗を立てた場所である風旗台(宝物846号)等重要な文化財が保存されている。景福宮は1592年の
文禄・慶長の役で全焼し、その後273年もの間復旧されなかった。1865年興宣大院君によって建て直しが
始められ、4年間にわたる工事の末、7,225間の建物が荘厳な姿を現した。しかし、また近代において、
日本帝国の悪逆な侵略政策によって無惨に破壊された。日本帝国は1915年に朝鮮物産共進会を景福宮の
中で開催した時から、建物を壊しはじめた。1917年には昌徳宮で火事が起き寝殿が焼失したのだが、19
20年にこれを復旧するという名目で景福宮の康寧殿、交泰殿などを解体し、昌徳宮の大造殿と熙政堂の
復旧工事の材木として利用した。1926年には朝鮮総督府庁舎が勤政殿をさえぎる位置に建設された。勤
政殿は大韓帝国の国権を象徴する建築物であり、それを遮ることは、日本に対する独立闘争を抑圧すると
いう意味を持っていたのである。景福宮の復元は1990年から推進され、康寧殿、交泰殿丕顕閣などが再
建された。また、1996年に朝鮮総督府庁舎が撤去され、興礼門が復元された。現在傷跡を癒(いや)し、
民族の誇りを回復する復元事業が推進されている。
1900年代の光化門(グァンファムン)
1900年代の光化門(グァンファムン)
1926年に景福宮の中に建てた朝鮮総督府の庁舎
1996年まで光化門(グァンファムン)の後ろにあった朝鮮総督府の庁舎
最近の景福宮(キョンボックン)
最近の光化門(グァンファムン)
宮殿の守門交代式
興礼門(フンレムン)
永済橋(ヨンゼギョ)
勤政門(グンジョンムン)
勤政殿(クンジョンジョン・国宝第223号)
勤政殿は景福宮の正殿であり、朝鮮時代の最高かつ最大の建築物である。ここで、文武百官が王の新年
の挨拶をするちょうが「朝賀」という行事をはじめとする国家儀式や外国からの使者との接見等が行われた
。朝鮮第1代王、太祖4年(1395年)に最初に建てられたが、文禄・慶長の役で焼失し、朝鮮第26代王、高
宗4年(1867年)に再建された。第2代王 定宗、第4代王 世宗、第6代王、端宗 第7代王、世祖 第9
代王、成宗 第11代王、中宗 第13代王、明宗等、多くの王がここで即位した。勤正殿は高く広い石造
の上下基壇[月台]の上に築かれた2階建てのそうごん(荘厳)な建物である。建物の内部は上下階の区分
がなく、天井が高くて広い。中央に王が座る王座がある。勤政殿のまわりは2間の広さの回廊で囲まれてお
り、南側の回廊の中央に勤政門がある。勤政門の南側に興礼門、その南側に正門である光化門が位置して
いる。文禄・慶長の役以前、勤政殿の屋根には青磁の瓦が敷き詰められていてまるで青いガラスで作られた
ように美しかったという。勤政殿の基壇には四神(青竜[せいりょう→東]、白虎[びゃっこ→西]、朱雀[すざく→
南]、玄武[げんぶ→北])の像や十二支の像が方角にあわせて彫られている。また、想像上の動物ヘテの
雌雄(しゆう→めすとおす)一対の像があるが、幼い子供を連れているその姿は、慈悲深い母性愛を感じ
させる。勤政殿の基壇の石造彫刻は朝鮮時代彫刻史の貴重な国宝遺物である。
品階石 タプソク
玉座 屋根の線
勤政殿の天井
思政殿(サジョンジョン)
思政殿は王が臣下と国政を行った建物のうちの一つである。朝鮮第14代王、宣祖25年(1592年)から文
禄・慶長の役で焼失したものを朝鮮第26代王高宗4年(1867年)に再建したものである。建物は宮殿建築物
の配置方法に倣(なら)って、光化門・興礼門・勤政殿・康寧殿・と共に、南北お方向に一線上に並んでい
る。思政殿は東の万春殿、西の千秋殿と共に国政を行う建物として使用され、思政殿の裏門をでると、王
が生活していた康寧殿がある。
仰釜日晷(アンブイルグ) 大きさ:直径35.2cm(宝物第845号の模造品)
アンブイルグは朝鮮時代に使用された日時計で、影が映る面が窪んだ釜のような半球形をしているため、
こにような名前が付けられた。冬至(とうじ)から夏至(げし)に至る24節気が13の横線(緯線)で表され、
節気(せっき)が分かるようになっており縦線(経線)で時刻線(子午線)を表し、針は北極を向いてい
る。特に、当時文盲であった平民のために、字の代わりに動物の絵を使ったと伝えられている。朝鮮第4
代王、世宗16年(1434年)に最初に造られ、現在残っているのは17世紀後半に制作されたものである。
時差補正表(日時計の見方)
日時計の零針の影が示す時間はジン(真)太陽時である。現在私たちが使用している標準時は東経135°
を基準にする平均太陽時であるので、この二つの時間差から生まれる時差値を時差補正表(ほせいひょう)
と見て真太陽時を足せばいい。(例)7月1日の零時影(真太陽時)が12時を示す場合時差補正表の値が
35分なので、現在時間(平均太陽時)は12時に35分を足した12時35分になる。
修政殿(シュジョンジョン)
高くて広い石造りの土台の上に建てられたこの宮殿の場所には元来朝鮮第4代王、世宗の時にハングル創
製の場となった集賢殿と呼ばれる建物があった。朝鮮第7代、世祖1年(1456年)に集賢殿廃止され、そ
の後、この建物は文禄・慶長の役で焼失し、放置されていたが、朝鮮第26代王、高宗4年(1867年)に
新しい建物が建てられ、修政殿と名付けられた。現在は修政殿だけが残っているが、以前は周りに壁の役
割をした回廊が200間ほどの規模であり、周囲には政治に関連する様々な官庁があった。西側には宮中の
経書、文書の管理機関・諮問機関を担当した玉堂(弘文館)や、歴代王の残した文書や御璽[じ](or玉璽)
の保管や書籍の収集・出版を担当した検書庁が、南側には大臣や軍の官僚等が会議を行った賓庁、王の
命令伝達を担当した承政院(政院)などが、迎秋門のところまで整然と立ち並んでいた。
慶会楼(キョンフェル・国宝第224号)
慶会楼は重要な宴会を開いたり、外国からの使者を接待した所である。景福宮を創建した際、朝鮮第1代
王、太祖が建てた楼閣があったが、これを大大的に建て直し、周囲に四角い池を造ったのは、朝鮮第3代
王、太宗であり、慶会楼という名称を付けたのも太宗である。その後も何度も立て直された。四角い島の
周りを細長く整えた石で囲み、その島の上に慶会楼を建て、3つの石橋で岸とつないである。48本の石柱
(せきちゅう)に竜が彫られ、池の2つの島には松が植えられた。慶会楼は文禄・慶長の役で焼失した後、
朝鮮第26代王、高宗4年(1867年)に再建されたが、昔のように石柱に竜は彫られなかった。楼閣建造
物としては、慶会楼が国内最大規模である。
康寧殿(ガンニョンジョン)
康寧殿は王が生活していた宮殿の中心的な建物である。東西に「井」の字型9つの部屋があり、その中
央の部屋で王が休み、残りの8つの部屋には女官がひかえて(控えて)いた。この建物の室内には王の
身辺保護のために、家具を置かなかったという。康寧殿の東側には東小寝である延生殿、西小寝である慶
成殿、、延吉堂と膺祉堂(ウンジダン)付属建築物がある。この建物は日本帝国により撤去されたのを19
94年に復元したものである。
交泰殿(ギョテジョン)
交泰殿は王妃の寝室があった建物である。交泰殿の東側には元吉軒、西側には含弘閣、北東のほうには
「┓」の形をした健順閣がつながっている。健順閣は交泰殿の庭園である峨嵋山(アミサン)と交泰殿を
つなぐ役割をし、交泰殿の裏庭をこじんまりと囲み込んでいる。元吉軒と含弘閣、回廊は部屋と広い板の間、
台所で構成されている。康寧殿と同じように、この建物にも屋根のおおむね(大棟ヨンマル)がつけられてい
ない。この建物は日本帝国により撤去されたのを1994年に復元したものである。
峨嵋山(アミサン)
峨嵋山は人工的に造られた交泰殿の裏山である。韓国は昔から庭にはなぞの(花園)を造らなかったた
めにこのような形の庭園が発達したといわれる。峨嵋山は中宮殿の奥深い庭園で誰でも出入りできるような
所ではなかった。斜面には細長く整えた石を4段に積んで花階段を造り、その上には、梅、(メウァ)牡
丹(ぼたん・モラン)ゆすらうめ(梅桃・エンド)躑躅(つつじ・チョルチュク)や松、榎(エノキ・ペンナム)
、欅(ケヤキ・ノティナム)等を植えて林を造り、その間には、石盆・日影台・石蓮池(石はういけ)・洗心
台と呼ばれる装飾品が飾られている。
景福宮峨嵋山の煙突(宝物第811号)
峨嵋山の煙突は王妃の寝室である交泰殿のオンドル部屋とつながっていて朝鮮第26代王、高宗2年(186
5年)に慶福宮で建て直したときに造られたものである。現在残されている煙突は4本で、六角形の煙突の壁
には十長生(長寿して死なないと言う十種のもの(太陽・山・水・石・雲・松・不老草・亀・鶴・鹿)といわれる
長寿の象徴(鶴・不老草・松・鹿など)や、四君子(しくんし東洋画で梅・蘭・菊・竹・の称)と呼ばれる梅・
竹・菊・蘭、長寿や富を表す吉祥(きっしょう)柄、火魔(火事を魔に例えていう語)・悪鬼を防ぐ動物の柄
などがバランスよく配置されている。煙突の壁は蔓(つる・ドングル)・鶴・松等の柄を入れて焼いた煉瓦を
積んで造られた部分と、灰を塗って蔓の柄を入れた部分とで構成されている。煙突の上部は煉瓦で木造建
築物の形態を模倣(もほう)してあり、その上に煙が出て行くように「煙家」と呼ばれる粘土(ねんど)で
造った家の形の装飾が施(ほどこ)されている。煙突としての機能を果たしながらも、様々な柄や形、構
成が大変美しく、宮殿庭園の装飾物(そうしょく)として素晴らしい作品である。
慈慶殿(ザギョンジョン・宝物第809号)
慈慶殿は興宣大院君が慶福宮を再建した際に、交泰殿の東側、紫微堂(ザミダン)跡に先王の后、趙皇
后(神貞翼皇后)のために建てたものである。竣工(しゅんこう)後、火災により、焼失したため、再建し、
朝鮮26代王、高宗25年(1888年)に完工したのが、現在残っている建物である。慈慶殿は44間規模で、
北西(ほくせい)に福案堂、中央に慈慶殿、南東に淸讌樓(チョンヨンル)という構造になっており、 淸讌
樓の先に12間の協慶堂が付設されている。福案堂は必要なときに暖房が出来る寝室、慈慶殿は昼の時間
を過ごすための建物、淸讌樓は夏を涼しく過ごせる楼閣である。周囲に数十間の回廊や塀、柱2本の一角
門などがあったが、そのほとんどが失われた。慈慶殿の庭園に十長生と呼ばれる長寿の象徴の図柄が施
された家の形をした塀と、西側の花の模様が入っている塀が朝鮮時代を代表する美しい塀である。
慈慶殿の十長生煙突(シプジャンセン・宝物第810号)
塀の一面を一段前にでるようにして、煉瓦で煙突を造り、煙突の中央に長寿を表す十長生の柄を煉瓦で造
って並べ、その間には灰を塗った。塀に描かれた絵のうち、太陽・岩・亀・などの十長生と呼ばれるのは長
寿、葡萄(ぶどう)は子孫の繁栄、蝙蝠(こうもり)は富、鬼・プルがサリ(想像上の動物)などは悪鬼
を防ぐ動物を象徴している。煙突の上部は模様を入れた煉瓦で木造建築物の形態を模倣(もほう)してい
あり、一番上には「煙家」と呼ばれる粘土で造った家の形の装飾が10個施されており、煙が出ていくよう
になっている。煙突の機能をきちんと果たしながら、コッダムジャン(花壇)と呼ばれる壁の美しさをも生か
しているこの煙突は、朝鮮時代の宮殿の煙突の中で一番美しいものである。
香遠亭(ヒャンウォンジョン)
1873年に朝鮮皇帝高宗が乾淸宮を建てた際、その南側に池を掘り、池の真ん中に島を造って、そこに香
遠亭を建てた。そして島との間に酔香橋という木の橋を架け、ここで散策を楽しんだ。香遠亭は普通2階建
てとされるが、床の間の下の構造まで含めると3階建てとなる。六角形の東屋式建物で、欄干を外郭に設
置し、美しく飾った。酔香橋は1953年までは香遠亭の北側に架設されていた。それが韓国戦争の時壊れ
て復旧した際、南側に新たに架設された。もともとは橋の東側の岸に塀があり、塀には麟遊(インユ)門と
鳳集(ボンチプ)門という門があった。かつてこの池には現在より奥深く静かな趣(おもむき)があった。
風旗台(プンギデ・国宝物第847号)
朝鮮時代には風の強さと向きを知るための装置として風旗を使用した。この遺跡は風旗を立てていた八角
形の台で、御影石(みかげいし=花崗岩)でできている。風旗台には、風旗を立てる穴があり、この穴に
は水がたまらないように排水口が作られている。下の段の高さが80.8cm、上の八角形の台の高さ143.5
cm、全体の高さは224.3cmである。朝鮮第4代王、世宗の時以降、測雨器(ツクウキ・朝鮮王朝世宗2
4年「1442年」全世界ではじめて設けられた雨量計「うりょうけい」)で降水量を測定し、川や下水の水
量を測るなど、様々な観測技術が発達した。いつ頃から風旗で風向きを測定したのかについてはまだ明ら
かになっていないが、すくなくとも18世紀までには使われ始めていたことは確かで、この風旗台も18世紀
のものと思われる。18世紀の絵、東闕図(ドングォルド)にも、風旗台の上に長々と翻る(ひるがえる)風
旗が描かれており、当時の様子がうかがわれる。風旗の正確な大きさなどは明らかにされていない。しか
し、風旗で風向きは知ることができても、風の強さを正確に知ることは難しかったであろう。当時、ソウルの
重要な宮殿や觀象監(グァンサンガム)には風旗台があったのは確かだが、現在残っているのは昌慶宮の風
旗台とこの2ヶ所だけである。
集玉斎(ジプオクゼ)・協吉堂(ヒョプギルダン)・八隅亭(パルウジョン)
集玉斎・協吉堂・八隅亭は当初昌徳宮の咸寧殿(ハムミョンジョン)の別棟として建てられましたが、高宗が
1888年に昌徳宮(チャンドクグン)から景福宮に移った際、この場所に移築された。三棟は、廊下で互いに
つながっている。建物内には歴代王の真影(しんえい・肖像画)が安置されており、国王の書斎(しょさい)
として利用された。また外国使節(しせつ)の接見場所としても利用され、1893年にはイギリス、日本、
オーストリアなど各国の外交官との接見が5回行われた。このうち集玉斎(は当時新式と考えられていた中
国風の様式で建てられ、景福宮の他の建物とは異なる。
三棟は、廊下で互いにつながっている。
集玉斎(ジプオクゼ) 協吉堂(ヒョプグルダン)
八隅亭(パルウジョン) 集玉斎の天井
国立民俗博物館
この国立民俗博物館は1992年10月に装いを新たにして開館した。館内は3館15室の常設展示場と企画
展示室があり、韓国人の生活史や生活用具などを見ることができる。展示面積は2224坪で、展示品も4
300点を越える。
ジャンスン ドンザソク・ムンインソク
ドルハルバン ジャンスン
斉寿閤(ゼスハプ) 国立古宮博物 館