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十四世紀の歩兵革命? 『軍事革命』論とRMA(軍事における革命)の視点から

中世盛期は騎士の時代であった。しかし一般的に、十四世紀以降、その潮流に変化が見られて、騎士以外の平民で構成される歩兵の存在感が大きくなり始めたとされている。これは『歩兵の復興』として知られる現象であるが、ここではその始点に『軍事革命』あるいはRMA(軍事における革命)があったと唱える『十四世紀の歩兵革命』について考察する。

十四世紀の歩兵革命とは

 十四世紀の歩兵革命は、二十世紀末に一部の軍事史学者たちによって主唱された近世以前の中世後期にあたる十四世紀に騎兵の優越が突如として崩れて、歩兵が遂にその力を取り戻したという概念である。実際、フランドル市民からなる歩兵がフランス騎士に勝利したコルトレイク(1302年)、スコットランド人たちが長槍兵を巧みにもちいてイングランド軍に勝利したバノックバーン(1314年)、スイス独立派の農民歩兵がハプスブルク家の騎士たちに勝利したモルガンテン(1315年)やゼンパハ(1386年)、同じくスイス独立派の歩兵と下馬騎士がハプスブルク家の後援を受けた騎士と歩兵からなるフリブール連合軍に勝利したラウペン(1339年)、そして何よりも有名なイングランド軍の長弓兵と下馬騎士がスコットランドやフランスの騎士たちを相手に成し遂げたダプリン・ムーア(1332年)、クレシー(1346年)、ポワティエ(1356年)の勝利の数々は、この概念に強い説得力を持たせるものである。またそれらとは別の文脈でイギリスでは、早くも十九世紀からイングランドの長弓を革命的とする概念があり、他にもブリタニカ百科事典第十五版においては1200年から1500年までの歩兵の進化を表現して「歩兵革命」という表現がもちいられていた。そして、このような前提の上で、歩兵の進化の強調点を特に十四世紀に置き、二十世紀後半の軍事史学界で議論を呼んでいた『軍事革命』論と関連付けたのが、合衆国陸軍士官学校の歴史学教授であるクリフォード・J・ロジャースである。彼は1994年に論文「百年戦争の軍事革命」(以下、第一論文)[1]を発表してこの学説を世に広めた。

 ロジャースが第一論文で提示した主張と、彼以前の概念の大きな違いは、彼が十四世紀に発生した一連の歩兵を主力とする野戦軍の勝利を、近世に起きた軍事的発展が西洋による世界的支配を成し遂げたとする、いわゆる『軍事革命』論の最初の第一歩に位置付けたことにある。彼は「1500年以降の世紀に注目することは、ヨーロッパの軍事状況に発生していたもっとも劇的で、正真正銘の革命的変化が起きた時代の重要性を不明瞭なものにする」と述べて十四世紀の重要性を強調した[2]。そして彼は、この十四世紀の歩兵革命を、以後五百年に及ぶ軍事上の飛躍的発展の始まりであったと位置付けた。つまり、最初に十四世紀の歩兵革命があり、スイスの歩兵、そしてイングランドの弓兵たちが数世紀の長きにわたり支配的であった貴族層で固められた重装甲騎兵を打倒した。続いて砲兵革命が攻囲戦における長きにわたる防禦側の優位をひっくり返して、フランスやスペインが中央集権になる主要因となる。その後イタリア式築城によって砲兵革命を無効化する要塞革命が発生し、これに反応する形で軍事教練と軍事行政そして軍の規模の拡大をもたらす軍制的な革命が発生していくという概念である。ロジャースは、一つの革命的変化に囚われるのではなく、断続的ではあるが一繋がりになった諸革命が相乗的に組み合わさることで西洋の軍事的優越が形成されたのだと述べる。加えて彼は五百年という長期間に及ぶ軍事的発展を説明する上で、これは一般的な進化では説明できないとした。彼に従えば「進化とは無限に近い極小な変化が連なる」モデルである[3]。しかし軍事革命のモデルにおいて、各革命には「「革命」期の前後で、ある程度のゆっくりとして、安定した進化の局面」がある[4]。ロジャースはこれに注目して進化生物学の理論モデルの一つである「強調点をはさんだ均衡(断続平衡説)」が援用できることを主張した[5]。これは短期間の劇的な変化と長いほとんど均衡した時期が相互に繰り返される概念である。この軍事革命についての解釈は幅広く受け入れられ、特に軍事学の世界に大きな影響を持つものとなった。

 次いでロジャースの主張における重要な点は、この歩兵革命におけるイングランドの役割、特にその長弓が果たした貢献を強調したことにある。彼は十四世紀以前においても歩兵は重要な役割を果たしていたことを認めつつ、それは剣士の決闘にたとえるならば「楯に相当するのが歩兵であり、剣に相当するのが騎兵」になり、「歩兵は極めて重要であるが、敵がそれに頭を打ち付けないかぎり、敵を打ち破ることができないものである」と述べる[6]。つまり歩兵の役割はあくまでも、騎士たちが乗馬襲撃の準備を調えるまでの「壁」すなわち防禦でしかなかったことを強調する。一方で彼は、中世盛期が終わるまで重装甲騎兵たる騎士は常に勝利を決定づける働きをしてきたとする。そしてこれが一変したのは、イングランドにおいては長弓の発達によるところが大きいとロジャースは主張した。まず彼は十四世紀最初の十年間における歩兵の勝利を過大評価するべきではないとする。何故ならば、それらの勝利は地形の優位がなければ成り立たないものであったからである。そしてようやくラウペンの戦いでスイス人たちが長柄武器を手に地形上の優位がない平原で勝利をおさめ、続いてイングランドの勝利が始まる。ロジャースはイングランドの下馬した騎兵と長弓兵の組み合わせは、近世中盤までの戦術を表す常套句『Pike and Shot(長槍と銃)』の先駆けであり、以降において騎兵の優位は崩れて、フランスですら騎兵は下馬して攻撃するようになるのだと結論づけた。つまり彼の説においては、長弓こそ歩兵が攻撃力を得て「楯」あるいは「壁」でなくなる鍵となる要素であり、かくして歩兵革命が成し遂げられてヨーロッパの戦場は歩兵が支配するところとなる。

 また、ロジャースは歩兵が戦場において支配的になることで戦場が血なまぐさくなったことも重要であるとする。中世の騎士道は、騎士たちの間に敵味方を超えた規範を生み出した。ロジャースに従うならば、これが生まれ、普遍化した理由は、彼らが財産を持っていたことから殺すよりも捕虜として身代金を手に入れた方が都合が良く、しかも騎士たちが好んだ個人ごとの白兵戦闘や優れた防具も死者を出さずに捕虜を取るのに適していたからである。しかし財産のない一般の人々が歩兵として戦う戦場は、この想定とはまったく異なるものだった。彼らには財産がなく騎士道に従う理由はなかった。手にした弓や長柄武器は集団戦に適しており、それぞれに捕虜を取るような勝手な振る舞いは許されるものではなかった。この結果ロジャースは、歩兵が主役となった戦場は流血を招きやすいものとなり、それを恐れない戦争の流儀が発展し、西洋の軍事的発展に欠かせない要素を生み出したと見なした[7]。

 ロジャースのこの第一論文は、英米の軍事史学者たちの間で非常に好意的な評価を受けた。例えばアメリカ軍事史学会は、1994年に学会誌に掲載された最上の論文であると評している。しかも湾岸戦争における圧勝の理由と、その軍事的優勢の維持を最大の関心事としていた二十世紀末の軍事学にとって、この理論は非常に相性が良かった。長弓という技術開発が大きな影響力を発揮した歩兵革命から始まる軍事革命の「強調点をはさんだ均衡」モデルは、現下で発生している急速な軍事的環境の変化を矛盾なく説明する下地を与えるものであると思われたからである。更にこの説は、クレシーの戦場で騎士の時代に終焉が告げられたという一般的なイメージを補強する内容でもあり、大衆的な受けも良かった。こうして十四世紀の歩兵革命は新しい定説として幅広く流布することになる。しかしロジャースの説は広まるや否や、大いに批判された。批判の論点は大別すると次の二つである。『軍事革命』論の見地に立つものと、RMA(軍事における革命)としての見地に立つものである。次の二節において、それぞれについて解説する。

『軍事革命』論として

 前述したように十四世紀の歩兵革命の特徴は、『軍事革命』論をその根底において論を展開したことにある。しかし現在、『軍事革命』論は様々な挑戦を受けて、議論を呼ぶところとなっている。ここではまず、この『軍事革命』論について概略を追い、次いで議論の内容を説明して、その上で『軍事革命』論としての歩兵革命の問題点を明らかにする。

『軍事革命』論は1955年にマイケル・ロバーツがベルファストにあるクイーンズ大学で歴史学教授に就任した際におこなった就任講義により提唱された学説である。彼は1560年から1660年の間に、火薬技術の進歩などが促した軍事における革命が起き、これに対応するために集権的国家つまり近代国家の枠組みが形成されたと主張した。この理論の根底には「戦争が国家をつくった」あるいは「戦争の手段と手法の変革が国家をつくった」とする主題があった[8]。つまり『軍事革命』論とは、一文で表すならば、ある短期間に、軍事技術の変革に伴う大規模な人的かつ物的資源の調達を社会に要請することを通じて集権的な国家経営の原点が築かれた、とする理論である[9]。ロバーツの『軍事革命』論は1976年にジェフリー・パーカーによる挑戦を受けて、その年代設定を十六世紀に移動することになるが、この主題は否定されることなく、常に一貫された。それどころか新たに『軍事革命』論の担い手となったパーカーはむしろ「がんらいあれほど小さく、天然資源にもほとんど恵まれていなかったヨーロッパが、どのようにこの不足を補うだけの優勢な陸海の軍事力を築き上げたのか」[10]と問いかけて、その答えを十六世紀に発生した攻城砲に対応した稜堡式要塞、いわゆる「イタリア式築城」と呼ばれる軍事技術の革新に端を発する軍事革命が軍の規模の拡大を生じさせ、これが集権化を促進して西洋による世界的支配を成し遂げる近代国家の誕生を促したとした。彼は、より「軍事技術の革命から国家の変革」という因果関係を明確に示したのである[11]。

 このようなパーカーの理論もまた批判にさらされた。論点は大別すると二つである。年代設定に対する議論、技術決定論であるとする批判を含めた国家形成との因果関係に対する検討である。ロジャースの歩兵革命論はこの内の年代設定に対する提議の一つであるとともに、後の論点に対しては『軍事革命』論の枠組みを受け継いでいることから、批判を受ける立場にあった。続いてこの二つの論点についての概略を説明する。

 年代設定についてのロジャースの批判については既に述べた。彼は軍の主力が騎兵から歩兵に移行した時期は百年戦争中であり、これがすべての始まりであるとした。既に彼の論文が発表される以前に、西欧の軍事力がそれ以外の世界に対する優位を確立した十八世紀を重視するべきとの意見が開示されており、革命の重点がどこにあるのか、あるいはこのような長期間を革命と呼ぶべきなのかとの疑念が示されていた。ロジャースの「強調点をはさんだ均衡」モデルは、これを説明するものである。大久保桂子はこのモデルを、発生した出来事に対する説明として「もっとも真実に近いにちがいない」と評価する[12]。しかし残るもう一つの論点は、この年代設定の議論を根底から覆すものである。つまり、パーカーが確立しロジャースも援用した『軍事革命』論の枠組みを大きく揺るがせるものであった。

 まず技術決定論であるとする批判の骨子は、騎兵の優越が中世ヨーロッパにおいて成立した理由に鐙を持ち出した「鐙論争」の場合とほとんど変わらない。技術だけを導入しても、それは意味がないとする見識がそれである。J・ストーンは、軍事上の技法や技術が「戦争の特性を様変わりさせたばかりでなく、広範囲な社会的発展を促した」とするパーカーやロジャースの立場に対して、技術と社会が相互に影響しあう概念に立てば「軍事技術の革新は、幅広い社会政治的変化の原因であると同じく、その結果である」とした[13]。実際、「イタリア式築城」を導入したマントヴァ公国の事例[14]や、西欧の軍事改革の結果を導入したポーランド=リトアニアの事例[15]は、技術や技法のみを導入しても、『軍事革命』論が想定する近代国家の形成に結びつかないことを示している。

 そして、この技術決定論であるとの批判に続いて、そもそも「戦争が国家をつくった」とする軍事と国家形成の関係性について本質的な指摘がなされるようになった。デイビット・パロットはフランスの事例研究を通して、近世ヨーロッパの国家は「軍事力を集権化する能力と意思を欠いていたこと、さらにその財政負担すら放棄したがったこと」を明らかにした[16]。また、他方において近年の歴史学の発展は近世における国家形成について新たな姿を描くようになった。それは「封建社会の動揺から絶対主義→市民革命→産業革命、そして単一不可分の国民国家」という一直線の道筋を大幅に見直すものであった[17]。その中では絶対主義と呼ばれた国家が実は絶対的ではなかったことや、近代国家への道筋の本流とされて必然的な役割があてがわれてきた絶対主義が「歴史的偶然」でしかなく、「近代国家へといたる歴史には複数の道があったに違いない」ことが論じられ[18]、諸身分や支配地域との関係がもっと複雑であった社団国家や複合国家、礫岩国家と呼ばれる近世の国家像が描かれるに至っている。つまり、ヒンツェ的な軍事防衛の組織化と政治的諸制度の構築とに明白な連関を認めて、軍事技術の変革から発せられた要求により絶対主義的な集権国家が生まれたとする『軍事革命』論のような枠組みは、もはやそのままでは成り立たなくなってきているのである。中でも近世における「恒常的な戦争状態」を論じたヨハネス・ブルクハルトは、それが国家形成期における戦いであったことを強調しつつ、「軍隊の維持が行財政の発展をもたらし、国家形成に対してさまざまな功績をあげたことについてはよく強調されるが、その一方で、こうした軍隊行政を正規の国家行政へと統合するのは甚だ困難、かつ長い時間を要し、不十分であったこと、いやそれどころか、軍隊行政が国家の機構にほとんど拘束されない特殊な地位をしばしば保ち付けたこともまた、やはり考慮せねばならないだろう」[19]と述べてパロットの見解を支持し、『軍事革命』論的思考から脱却した近世ヨーロッパ史を体系的に把握しようとしている。

 また『軍事革命』論が自明としていた、近世までに西洋が他の地域に対して軍事的優勢を確立したとする考えについても、近年の研究結果は否定的である。例えばグローバル・ヒストリーの論者たちは、東洋と西洋の力関係が明確に逆転したのは、もっと後代であったことを確信して、経済や資源の問題をより重視している。国際関係を論じる立場も、この見解を支持する。J・C・シャーマンは『軍事革命』論の視座は深刻なヨーロッパ的偏向の影響を受けていると非難し「産業革命以前の西洋の拡大は、現地人からの支援や同盟を獲得することができたヨーロッパ人たちの能力によるものであるとするのが最も適した説明であるが、取り分け非西洋の強力な諸国家に対する恭順によって説明されるものである」[20]とする。

 このような昨今の研究を前にして十四世紀の歩兵革命論を見たとき、軍事だけを取り上げて十四世紀という早い時期に、これを主因として西洋が優位に立つ契機を得たとする基本概念は、もはや陳腐化してしまっている。歩兵革命は軍事だけを重視する『軍事革命』論の枠組みをそのまま利用しているからである。そのため、まず時代設定においてパーカーの『軍事革命』論の修正を唱えた部分に関しては、事実上意義を失ったと見て良いだろう。一方で十四世紀のみに焦点を絞り、戦場における歩兵主体の軍の勝利を『軍事革命』とする考えに関しては、若干の考察が必要となる。ロジャースは社会への影響という視点において歩兵革命によって戦場での重要性を勝ち取った一般の人々が、政治的にも影響力を強めたとして、民衆が力を持ち始める契機となったと考えた[21]。しかしストーンが述べるように、これは何故に彼らが戦ったのかを説明できていない。ブルクハルトが近世における「恒常的な戦争状態」を論じて、その何故を説明したように、ストーンもまた中世後期における社会と政治の変化に目を向けるべきであると批判する。そしてストーンは歩兵革命の契機となったとされたフランドルにおけるコルトレイクの戦いを取り上げてこれを論じた。この視点に立てば、コルトレイクで戦うというフランドル人の決断は、経済と政治環境の変化の結果であった。十一世紀以来の経済発展と都市内部における社会的対立の先鋭化はフランドル諸都市を不穏な情勢下に置き、封建君主であるフランスとの間に軋轢を生んでいた。つまり、歩兵革命が起きたから一般の人々が力を持ったのではなく、一般の人々と従来の封建支配層の利害が戦争でしか解決できないほど対立したから両者の間で戦いが発生し、勝利するために一般の人々は、歩兵の強みを生かした戦い方を選択したのである[22]。もちろん、ストーンも認めるように、このような考え方は出来事の一面しか捉えていないし、他の地域に対する目配りも欠いている。例えばロジャースが主に論じたイングランドにおける平民の台頭においては、イングランド王国が負担した百年戦争の財政的問題により目を向けるべきだろう。ロジャースもこの点については無視していないが、国王の要求に対してのイングランド下院の対応は、決して平民が手にした軍事力のみで論ぜられるものではないだろう。つまり、ここで想定される事象は、軍事上の技法や技術が直接的に、かつ最も重要な要素として社会を変革させたとする『軍事革命』論の射程を超えた複雑なものであり、その意味で「戦争の要求はイングランドの社会の性格に大きな影響を及ぼした」[23]と見なすべきなのである。

 以上のことから十四世紀のみに焦点を絞った『軍事革命』論としての歩兵革命もまた、近世の『軍事革命』論と同様に、少なくともそのままでは成り立たないと評価せざるを得ない。ホワイトの鐙理論にしろ、近世の『軍事革命』論にしろ、軍事技術の変革と社会の関係を論ずるにおいては、常に、なんであれ単一の要因で説明しようとする態度は間違いに繋がるだろうことを念頭に置かねばならないのである。

RMA(軍事における革命)として

 前節の研究動向を踏まえると『軍事革命』論としての歩兵革命の歴史学的な意味は一段落ちるものとなっている。ロジャースもこれらの潮流を意識して第一論文から七年後の2001年に発表した「イギリスにおける14世紀RMA」[24](以下、第二論文)においては、社会的な影響に対する主張を薄めると共に、技術決定論との厳しい批判を受けていた主に長弓を意識した軍事技術の役割を重視する主張についても、技術は「全く決定的ではなかった」と明確に記して軌道修正を図った[25]。そして彼は改めて、この第二論文で、歩兵革命の射程を軍事の領域だけに絞り、それをRMA(軍事における革命)として位置づけた。

 RMAはしばしば『軍事革命』論と混同されることが多い。そして確かにロバーツの『軍事革命』に触発された思想でもある。しかし、この概念は、それだけではなくソビエト連邦の軍事思想家たちの間で生まれた『軍事技術革命』の思想からも強い影響を受けており、その結果『軍事革命』論と一線を画して、その射程は純粋に軍事学に限られたものとなった。すなわちRMAの議論は、前節で取り上げたような歴史学の動向とは無関係に『軍事革命』論で着目された軍事上の諸改革ならびに優位性のみに着眼することができる枠組みを提供するのである。そこで本節においてはRMAの概念を説明した上で、歩兵革命がRMAであったのかについて考察する。

 まずRMAとは何であろうか。RMAの基礎概念を固めた一人であるクレピネヴィチはこれを「多数の軍事システムに新技術が適用され、それが争いの性質と戦い方を根本的に変容させるような方法で、革新的な運用概念と組織的受容が組み合わさった時に起こるもの」であり、「これは-しばしば桁違いのあるいはそれ以上の規模となって-軍の潜在的な戦闘能力と軍事的効率の劇的な向上を生み出すことによってなされる」と定義する。そして、それは「技術的変化、システムの開発、運用面の革新、組織的受容」の四つの要素によって構成され、これに当事国の国際関係および戦略等が関わるものであるとした[26]。また、強い影響を受けた「軍事技術革命」の言葉が示すように、しばしば技術に偏重する向きがあるものの、「これらの要素のそれぞれは、軍事における革命を特徴付ける軍事的有効性における大幅な進歩を実現するためにおいて必要条件であるが、それ自体で十分条件となるものではない。とりわけ、技術面での進歩は概して軍事における革命を保証するものであるが、一方でそれだけで革命が構成される訳でもない。技術的革新は劇的なものであるが、しかしこの現象は、それよりも及ぼす範囲と結果において遙かな広がりを持つものなのである」として、各要素単独での理解を戒めている[27]。もっとも、クレピネヴィチ本人ですら無自覚に技術を重視した議論を展開しており、この傾向はなかなか改められるものではなかった。

 このようなクレピネヴィチらが固めたRMAの概念において特に重要なことは、彼らが先行して発表されていたロジャースの第一論文の「強調点をはさんだ均衡」モデルを取り入れて、革命に対して次の革命が反応していく多数のRMAの存在を認めたことにある。例えばクレピネヴィチはロジャースが唱えた歩兵革命を筆頭に、一繋がりとなる十回のRMAがこれまでに発生したと主張した。その中にはロバーツが唱えた十七世紀の軍事革命や、パーカーが唱えた十六世紀の軍事革命(要塞革命)も数えられている[28]。歴史的な役割を横に置くことで『軍事革命』論の年代設定への議論と革命という用語への批判をRMAの概念は受け止めたのである。実際のところRMAがどのような条件や要因で発生するかについてはまだ議論が足りておらず、その存在を疑うことを含めて研究する必要がある。しかし歴史的意義から少し離れて、各時期の戦場で何が起きていて、それぞれがどのように関係するのかを考察するにおいて、RMAの有無については脇に置くとしても、その概念は、有益な枠組みを提供するものであろうと考える。

 では、その上で十四世紀の歩兵革命はRMAであったのだろうか? クレピネヴィチとロジャースは前述の通り、これを是とする立場である。まず、クレピネヴィチはロジャースの第一論文を基にイングランドの勝利を評価して、長弓という技術だけでなく戦術的な革新があったとし、歩兵革命は「戦場における重騎兵の支配的な役割を歩兵に置き換えるものであった」と述べて、これをRMAとした[29]。またロジャースの第一論文が歩兵革命の特徴とした、歩兵が戦場の主役になったことで戦闘がより血なまぐさいものになり、戦場における損耗率が上昇したことについても肯定した。次いでロジャースは第二論文において、このクレピネヴィチのRMA定義と評価を受けて、改めてエドワード三世治下のイングランドで起きた事象を「真に劇的な「革命的軍事改革」(RMA)」と位置づけた[30]。彼はイングランド軍が数的劣勢を覆して圧倒的な勝利を連続して成し遂げたことがその事実を端的に示しているとし、『軍事革命』論との関連を残しつつ、戦争遂行能力における著しい変化が現れたと考えた。ロジャースは長弓が果たした貢献度合いは大きいとしつつも、このイングランド軍のRMAは、下馬した騎士と長弓を組み合わせた戦術と、「巧みに作られた戦略、軍部指導者の優れたグループの人的な貢献と組み合わせ」で構成されたとした[31]。これはクレピネヴィッチのRMAを構成する四つの要素を意識した評価である。

 以上の十四世紀イングランド軍の圧倒的な戦果、彼らが保有していたフランス軍に対して戦術的優勢は、おそらく誰もが認めるところであろう。しかし彼らが主に評価したのはあくまでもイングランドのみの事例であった。これは十四世紀ヨーロッパ全体の歩兵革命に対する評価とするには、余りにも他の地域への目配りを欠いていると言わざるを得ない。例えばイングランドの圧倒的な戦果に目を奪われがちであるが、フランドルの市民軍はコルトレイク以後、フランスの騎兵を主体とした軍に敗北して成功は短期間で終わった。しかもフランドルもスイスもスコットランドも、イングランドとは全く異なるアプローチで歩兵を主力とした軍を形成しており、イングランドの戦術はヨーロッパ世界の標準とはならなかった。つまり各地域の事例はそれぞれの置かれた環境に強く影響されており、十四世紀に起きた歩兵主体の軍による勝利を軍事的に一つの事象にまとめるのは無理があるように思われる。加えてロジャースの「強調点をはさんだ均衡」モデルについても疑義がある。彼は騎士の戦術への反応として歩兵革命を位置づけているが、単純に騎士による衝撃戦術への対抗策として歩兵革命が生じたとするには、ストーンが指摘するように、どうして反応が生まれるのに2世紀もの時間が必要であったのだろうか、と言う疑問が生じてしまう[32]。ロジャースはイングランドが成功したことが、フランドル槍兵の部分的成功と相まって、スイスを始めとする広範な地域で効果的な歩兵が誕生する原動力になったとする。しかしこのような単純化は、十四世紀の歩兵たちと同じように市民からなる歩兵が騎士を打ち破ったレニャーノのような事例がどうして連鎖的に広がっていかなかったのかとする疑問への配慮が欠けている。既に『軍事革命』論として考えた際に述べたように、その理由は社会的背景への考察を通してのみ得られる。もちろん各地域がそれぞれ独自にRMAを起こしたとして、十四世紀の各事例は独立し無関係であるとすることもできる。しかし、その場合十四世紀の事象は、それぞれを単独で扱うことを認めねばならず、総体としての『歩兵革命』は成り立たず、バラバラのRMAが存在するだけとなる。そこで次に単独の事例として十四世紀のイングランドでRMAが起きていたのかについて考察しよう。

 果たしてそれぞれが単独の孤立した事例であると仮定した上で、イングランド軍はRMAを成し遂げたのであろうか? まず従来の弓兵との違いにおいてロジャースは「中世後期イングランドにおける長弓の発達と技術決定論」[33](以下、第三論文)を記して、詳細な反論を繰り広げている。彼は長弓がそれ以前の弓に較べて格段に威力が増していたことを説明し、その発達は「少なくとも歩兵革命にとって重要で、これに貢献すらするもの」であると述べる[34]。その上で技術決定論との批判に対しては、第二論文での立場を繰り返して、長弓の発達は現象の十分条件ではなく、不可欠な「決定的原因」でも「単一の原因」でもなかったとする[35]。その上で「長弓がポワティエあるいはアジャンクールにおけるイングランド軍の驚異的で一方的な勝利に必要な条件」であり、これなくば「イングランド軍はほぼ間違いなくこれらの戦いに勝利できなかったであろうし、もし勝ったとしても、ここまで圧倒的に勝つことはなかったであろう」とした[36]。弓と下馬した騎士を組み合わせて、防御的な布陣を取った場所に敵があえて攻撃を仕掛けざるを得ないようにするイングランドのやり方をより効果的にして、RMAと評価できる大勝利を生み出した点でロジャースの長弓についての弁明は正しいと思われる。しかし彼が第三論文で弁明しなければならなかったのは、その前段のイングランドのやり方と、後段の戦場に与えた影響であったように思われる。

 まずイングランドが採用した作戦機動である『騎行』は中世の戦争様式において一般的な消耗戦略の一つであり、目立った革新性はない。次いで当時のイングランドの戦術を見ると、そこでの歩兵は相変わらず防禦的な布陣の中で役割を果たすものであることは明白である。ロジャースの表現を借りるならば楯に頭を打ち付けるような行動を敵が採用しなければ効果を発揮することができなかった。そして止めの攻撃は多くの場合、騎兵の襲撃であり、ポワティエでは特に騎兵の効果的な側面攻撃がなければ勝利は覚束なかっただろう。つまり楯としての歩兵と剣としての騎兵という役割分担は、従来と大差ないのである。しかも、その組み合わせ自体にも目新しさはなかった。ブラッドベリーはヘイスティングズ以降の十二世紀の戦術には「三つの共通要素がある。歩兵と共に下馬して戦う騎士たち、一般的に前方配置された弓兵、そして普通は決定的な一撃のために後置される騎兵である」としている[37]。これは基本的に十四世紀にイングランド軍が採用した布陣の構成要素とまったく同じである。加えて彼は、この組み合わせが「1106年における新しい試みでもなければ、イングランドとノルマンディーに限定されたものでもない」であろうことを解き明かして、それは「通常のフランク人たちの戦争技法から発展した戦術」の影響を受けたものであるとしている[38]。ここにおいて重要なのは、整然とした重装甲騎兵による乗馬襲撃という当時最高の攻撃手段に対する反応として、重装歩兵と弓兵、そして騎兵を協同させて対応することが既に発生していたことである。つまり純軍事的に見るならば、十四世紀のイングランド軍の戦術は、従来の軍事的パラダイムを覆したとするよりも従来のパラダイムの内で最も効率的な形の一つを完成させたと評価する方が適当なのである。そして、それはロジャースが想定したような短期間の劇的な変化ではなく、時間をかけた進化、あるいは変容であったとする方が相応しいものである。例えばバート・S・ホールは「中世の戦術の多くと同様に、長弓を重騎兵と調整させて用いる用兵術は徐々にしか発展しなかった」と述べている[39]。

 更にロジャースは「続く数十年、騎兵の大きな戦いは稀となった。フランス軍の騎兵ですら徒歩で戦うことを選んだ」[40]として、イングランド軍によるRMAの結果、騎兵の時代が終わったかのように述べているが、これも近世初頭における重装甲騎兵の有効性を無視するものである。最初の近代的軍隊と評されるフランスの勅令軍の中核が重装甲騎兵であったことは周知の通りである。結果として、百年戦争の経験を経たフランスの重装甲騎兵は恐れられる存在であり続けた。防具の板金化を進め、戦術的に進化し、その衝撃戦術は長弓や火器に対抗してなお発展した。バルベーロはこれらを踏まえて十四世紀における歩兵の成功を過度に評価するべきではないとしている。彼は「軍事史の叙述は馬から下乗し徒歩立ちとなった兵士が、騎兵部隊に対し勝利した諸合戦の重要性を、しばしば過度に強調してきてしまった。(中略)かかる勝利らは孤立したエピソードでしかない。これらの戦いでの騎兵隊の敗北は、その没落を決定づけたというより、むしろその技術や戦術の進化の刺激となったのである」と述べている[41]。しかもバルベーロは「一四世紀半ばから一五世紀半ばにかけてのこの時期、野戦軍における歩兵の割合は前代に比し、すっかり減少していたのである。事を別の側面から見れば技術的・組織的改良の努力は、交戦においてその優越をいやが上でも打ち固めるべく何に増して騎兵隊へと傾注されていた」と、近世への展開を結論づけている[42]。つまるところ十五世紀において、騎士は「かつて以上に戦場の華と目されるように」なっていたのである[43]。

 以上の事実を踏まえるならば、少なくとも十四世紀のイングランドの事例を、クレピネヴィチが定義するRMAであるところの「争いの性質と戦い方を根本的に変容させる」ものであると評価するのは、行き過ぎのように思われる。確かに百年戦争におけるイングランド軍はRMAと評価できるほどの大勝利を何度も成し遂げた。クレピネヴィッチが求める必要条件の四要素もある程度備えてはいる。しかし、達成した戦場の勝利の規模だけをもって革命的とするならば、革命的な事例は世にあふれすぎてしまうだろう。そしてRMAの議論を概観するとき軍人的思考が、何かしら過去に類のないものが突然に出現して戦争を一変させることへの期待や恐怖を持ち過ぎていると感じざるを得ないのである。

終わりに

 歩兵は確かに中世を通して重要な兵種であり続けたが、その役割は二次的であり、良く知られているように中世盛期の戦争は重装甲騎兵の支配的役割によって特徴づけられるものである。一方で、十四世紀ごろから騎士以外の平民で構成される歩兵の存在感が大きくなり始めたこともまた、『歩兵の復興』として知られ、概ね一般に受け入れられている史観である。しかし既に見たようにこれを過度に重く受け止めたり、過去に類のない革新的な出来事と捉え過ぎたりすることは誤解の元である。ましてや騎兵の時代が直ちに終わったと考えることは間違いである。これらの歩兵の勝利は基本的に、有効的な指揮統制の下で地形的有利を活用し、槍で守りを固めて長弓や弩などで重装甲騎兵の隊列を乱して勝ち取るものであり、騎兵を永続して二次的な立場に追いやれるほどのものではなかった。要するに、それらの戦術は軍首脳部の優秀さや、古くからある戦術の漸進的発展として捉えるべきものであり、軍事的パラダイムを一新するものではなかった。

 なお、歩兵が存在感を増したとされる言説の中においては、騎兵の下馬戦闘が余り意識されていないことを注記しておく必要がある。実際のところ、騎兵が下馬して歩兵となることは中世を通して珍しいものではなかった。ホールは「後世の軍事評論家はしばしば、中世の騎兵は攻撃的役割だけでなく防御的役割も演じたという事実を見落としてきた。中世の賢明な指揮官の多くは、自軍の騎兵に馬から下りて徒歩で攻撃を迎えうつように命じ、それによって防御戦を戦う方を選んだ」と述べている[44]。恐らく我々はもう少し中世における歩兵への印象を改善するべきであろう。しかし多くの議論において、主題とされるのはやはり、平民あるいは騎士ではない兵士たちからなる歩兵の活躍である。何故ならば、彼らこそが近世において主役となる歩兵の出身母体であったからである。それが故にフランドルの市民兵やイングランドの長弓兵、そしてスイスの山岳民が立て続けに騎兵に対して勝利を収めた十四世紀から『歩兵の復興』が始まったと見なされるのである。

 これを踏まえた上で、どうして十四世紀ごろから、一般の人々から構成される歩兵の勝利が頻発したのであろうか、という疑問に触れておく必要があるだろう。ストーンはフランドルにおける事例研究において中世後半に発生した市場経済の活性化が新しい社会構造を生み出し、伝統的な封建制に基づく関係性を打破していく過程にその理由を見た。だがストーンはその上で、このような考え方は技術決定論の代わりに経済を原因としてすべてを説明できると考える別の決定論に陥る危険をはらんでいると警句も発する[45]。確かに経済の活性化は人口増加を生み出し、それに沿った農業技術の発展を促しただろう。そして地方の農産物が十分な余剰を生み出さなければ都市は生存できない。一方で地方の農業的な繁栄は、そこに依拠する強力な軍人的な地方貴族を支えるものである。要するに封建制度に基づく軍事制度は、外敵の侵入を防いで、経済活動を守った。ストーンは「甲冑を纏った騎兵の成功は、最終的にその内部において自身の社会的かつ軍事的地位を脅かす環境を醸成する手助けをした」と述べる[46]。しかし、このような評価をしつつも「このような環境の起源は、いかなるものであれ単純で単一の要因による変化として説明することができないほど複雑で、広範なものである」とするのである[47]。

 実際、ストーンの警句が示すように十四世紀の動揺は様々な視点で語ることができる。たとえば宗教的な観点からR・W・サザーンは「都市生活の不満は農村地帯のそれに較べ激烈であった。俗人が信仰について口にする(中略)破壊的な見解は都市で芽生えた。このことは次に説教師と組織家たちを刺激し、時にそうした俗人の見解に形式とまとまりを与えさせ、時に反論し避難させたのである。十四世紀までにはこうした動向は、押さえ込むにはあまりに強力になり過ぎた」として「十四世紀が示しているのは、聖職者と俗人は、相手が頂点にたつことを互いに認め合う余裕をもたずには生きられない敵どうしであるということであった」などと述べて、中世的な一つのヨーロッパが崩れ始める契機がこの時代にあったことを示している[48]。また、黒死病を代表とする疫病や飢饉、そして戦争により地方基盤が破壊されて領主層が没落していく、いわゆる『十四世紀の危機』は、既存の体制に対する平民側の叛乱が一つの焦点となる現象である。これらの観点から経済を抜き取ることはもちろんできないが、経済だけで語ることもまた、できない。

 平民の歩兵が規律と訓練を取り戻すという視点においてはイングランドの事例を取り上げたようなディヴィット・ロリゾンが興味深い仮説を立てている。彼は「十四世紀の歩兵革命は、騎乗した騎士の群れを打ち破ることができる、長槍や弓を手にした良く組織化された歩兵戦力を活用するのに適した立憲的な環境が、西ヨーロッパの特定諸地域に回帰した結果である」という仮説を示し、規律と訓練が歩兵に復活するには、平民の政治参加が重要であったとする立場を取る[49]。そして、それ故に「これら環境が再び現れたとき、軍事と立憲体制の均衡は平民と「中流階級」へと傾き始める」と述べた[50]。彼の仮説はイングランドに重きを置きすぎている。それでもこれは近世ヨーロッパにおける国家が、大なり小なり諸身分の合意を得た国家であったとする複合/礫岩国家論を視野に置いたとき、価値が出る考え方であろう。

 十二世紀後半にミラノ市民がドイツ騎士軍を打ち破ったレニャーノの事例を考えることも、十四世紀に起きた出来事を考察する上で助けになる。近年の研究は「中世の文脈においてレニャーノの勝利がミラノ人の勝利でしかなく、市壁の外の人々に頒かたれなかった」ことを明らかにしている[51]。これは中世の平民からなる歩兵の限界を示すものである。彼らの仲間意識は所属する小さな共同体、精々が一都市に限られていた。そのため当時のロンバルディアの諸都市には「自治体(団体)を超えた領域国家としての強い連帯性は生まれなかった」のである[52]。そしてこれに最初に成功したのがスイスであった。

 スイスにおける十四世紀から始まる盟約者団の独立運動は、もし十四世紀にRMAがあったとするならば、イングランドではなく、こちらを主とするべき出来事であった。ヨハネス・ブルクハルトは近世的な国家形成の先駆けとしてスイスを取り上げている。彼の史観に従えば「ハプスブルク帝国の普遍的体制から離脱し始めた最初の地域であったスイスでは、身分制的=社団的まとまりを基礎として国家形成が下からなし遂げられた」モデルケースであった[53]。そして、最初の近世的な国家形成を成し遂げた軍は、近世ヨーロッパにおいて歩兵戦術の本流となる密集した槍兵方陣を生み出した。ロジャースはイングランドの戦術を『Pike and Shot(長槍と銃)』の先駆と見なしたが、その戦術は中世的な横隊を基礎に置くものであり、近世中葉までヨーロッパの歩兵隊形の特徴であった方形隊形ではない。この文脈においてもイングランドの戦術は中世戦術の一つの極と扱うべきであろう。一方でスイス人やスコットランド人は長弓のような投射兵器ではなく、長柄武器を歩兵の主力武器として、これのみで騎兵に対抗するために方形の密集隊形を採用した。そして最終的にスイス人はこれを攻勢にもちいて、騎兵を主体とする軍を打ち破り、その戦術はドイツのランツクネヒトやスペインのテルシオへと引き継がれていく。戦術の分野においては、スイスこそがヨーロッパ歩兵戦術の大きな転換点となったのである。しかしロジャースも指摘するように、スイス人の長槍密集方陣の成功は基本的に十五世紀以降、アルベドの戦いより後のことである。この後代の成功と比べて十四世紀におけるスイスの軍事的成功はもっと不確かなものであった。まずモルガンテンは山岳地における奇襲戦であり、密集した歩兵の勝利と呼べるものではなかった。次いでラウペンはオーマンが「ローマ時代以来ほとんど最初の出来事」と述べるように「完全に騎兵の助けなしに歩兵が開けた平地に並び、数においても武装においても完璧な軍に立ち向かった」事例である[54]。しかし、この成功は直ちにスイス全体で受容されるようなものではなかった。斧槍と長槍の内、どちらが相応しい武器であるのかについての試行錯誤が、この後に続くことになる。伊藤敏による「スイス都市邦の盟約者団における軍事・政治的影響」は、この裏側には長槍を採用しようとした都市邦と斧槍に固執する森林邦(農村邦)の対立があったとしている[55]。このような歩兵戦術を巡るスイス人たちの間の躊躇いに満ちた歩み、組織的受容に対する長い抵抗は、十四世紀のスイスの事例をRMAと呼ぶにおいて物足りないものとし、この過程をもっと幅広い文脈で捉えるべきことを示唆するものである。ここにおいては、軍事的要因だけで語ろうとする『軍事革命』論からも脱却する必要があるだろう。十四世紀以降にスイスで起きた出来事は、様々な点で近世を先取りするものであるが故に、今後も更なる研究が求められるところである。

 結局、十四世紀に頻発した平民で構成される歩兵の勝利は、中世以来のヨーロッパの発展とそれに伴う矛盾が、様々な契機により発露した事象であるとする他ない。技術的な要因として、歩兵の武装が改善されたからであるとする見解もあるが、改良が施されたにせよ古代から使われてきた武器が使われ、真新しい新兵器によって勝ち取られた勝利でないことを含め、むしろ主に経済的発展によって良い武装が平民に行き渡るようになったと見なすべきである。そして中世盛期の騎兵の時代の本質が歩兵の弱体化であったと推定できることを鑑みれば、その弱体化の要因がどれか一つでも、技術であれ制度であれ何であれ、改善されれば、騎兵と歩兵の優劣の均衡が大きく変化することが各地域で証明された時代であったとも評価できる。弱体化していた歩兵に支えられた騎兵の優越は、前提が崩れる中、十四世紀以降のヨーロッパの各地で動揺を来していく。しかし『十四世紀の歩兵革命』が述べるように騎兵が二次的な役割へと追いやられるようなこともなかった。騎士は消えることなく、ゆっくりと国家に仕える軍人へと姿を変え、騎兵は『歩兵の復興』を受けてその戦術と武装を改善し、その成り立ちを変容させて近世においてもその猛威を度々振るうことになる。そして歩兵もまた騎兵の改善を受けて急速に戦術と武装を洗練させていった。これがワーテルローで最高潮を迎える、戦火の絶えることない近世ヨーロッパの長い軍事的発展の始まりであった。それがため、その過程は「強調点をはさんだ均衡」モデルを採用した諸革命の連なりと呼ぶよりも、諸要素の相互作用による変容と呼ぶ方が相応しいと思われるのである。

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十四世紀の歩兵革命? 『軍事革命』論とRMA(軍事における革命)の視点から|旗代屋
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