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胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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日記を更新する。

 

今回は文化の違いについて。

 

最近だと異世界に転生するような物語が流行っているけれども、そのような"類"の物語を読んでいると、ふと思うような事柄がある。

 

それが何かと言うと、良く馴染めるな…というところになる。

 

もっとも、それらの物語は初めから馴染みやすい世界に飛ばされるというか、作者が馴染まない状態を想定していなくて、文化の軋轢で主人公が苦しむような物語は、そのような物語の全体的な風潮として望まれていないというか、異世界で無双して賞賛されるような方向性の作品群だから、あまり、文化の違いによる摩擦などというものを読者も作者も求めていないからこそ、そのような形になっているのだろうとは思う。

 

ただ実際、僕は古代世界を含め、色んな地域の色々な本を読んでいて、文化が違うとしか言いようがない場面に多く出会っていて、同じ世界でこのレベルだというのだから、異世界になるとどうなるのだろうと思う所がある。

 

…読んだ本の冊数と読んだ論文の本数で最も僕が文化を理解している古代中国に関しても、彼らの地雷が何処にあるか分かんなくて本気で怖い部分があるだよな。

 

以前にも言及しているけれども、『春秋左氏伝』を読む限り、古代中国では無礼を働いたというだけで国家間戦争の理由になる。

 

「 さきに斉候(桓公)が国を出ていたとき譚(たん)を通りすぎたが、譚は礼遇しなかった。また斉候が斉に入って位に即くと、諸侯はみな祝いに集まったが、譚だけは集まらなかった。冬、斉の軍が譚を滅ぼしたのは、まえに譚が礼を失したからである。(左丘明 『世界古典文学全集 13 春秋左氏伝』 「荘公十年」 貝塚茂樹訳 筑摩書房 1960年 p.39)」

 

 

このように無礼だったからという理由で譚は滅ぼされているし、会合に参加しなかったからという理由で攻め込まれる話も普通にある。

 

「 二十三年、春、斉候が宋を伐って緡(びん)を囲んだのは、四年まえ(僖公十九年) 斉において盟に参加しなかったのを討ったのである。(同上『春秋左氏伝』「僖公二十三年」 p.78)」

 

まぁこれに関しては、同盟関係を確認する会合に現れなかったから、共通の敵として征伐したという話であって、当時の感覚的には普通だったのではないかと思う。

 

他には、無礼だったからという理由で、自身の孫の仲間たちを殺した君主の妻の話もある。

 

「 宋の襄夫人は〔周の〕襄王の姉であったが、〔孫の〕昭公はいっこうに尊敬しなかった。そこで夫人は戴氏一族と共謀し、襄公の孫の孔叔、公孫鍾離、大司馬の公子卬らを殺害した。みな昭公の一味である。(同上 『春秋左氏伝』 「文公八年」 p.110)」

 

ここに「いっこうに尊敬しなかった(同上)」と書かれているところは原文だと「不禮」となっていて、禮は礼の旧字体だから、まぁ無礼だったからという話になっている。

 

正直彼らの地雷が何処にあるか分からない部分があるけれども、周王の姉である彼女を尊重するのは儒教道徳的には正しいことで、それを尊重しなかったのだからブチ切れて殺害したという話なんだろうとは思う。

 

もちろん、これは儒教のテキストだから、歴史的な出来事を儒教的なバイアスで解釈している部分もあって、『史記』では左伝ほどに無礼を理由に殺害したという話に覚えはない。

 

ただそれでも儒教的にはそれは普通に殺す理由になる話ではあるし、『史記』にも無礼が理由で殺害した話はある。

 

「 (鄭の)釐公五年、鄭の宰相子駟(しし)が釐公に朝見したが、釐公は彼に答礼しなかった。子駟は怒って、料理人に言いふくめ、釐公を毒殺させた。諸侯には訃報を告げて、「釐公は、急病により歿しました」といい、釐公の子嘉を立てた。嘉は時に五歳。これが簡公である。(司馬遷 『世界文学大系 5A 史記』 小竹文夫訳 1962年 p.309)」

 

現代風にこの出来事を変換すると、社長が会長に挨拶しに行って、会長がそれを軽く流したことに腹を立てて毒殺したというような話で、ちょっと気が短すぎるのではと思う部分がある。

 

この話はこの子駟がよっぽど短気だったという可能性はあるにはあって、ただ、他の箇所の無礼に関する応報を見ていると、やはり無礼だったということは時に殺害する理由になるのはそうである様子がある。

 

当時の中国では礼を失するということは死ぬこともあるということになって、古代中国では礼を守るということがどれほど大切な概念か分かる。

 

結局、彼らには彼らの世界があって、彼らには彼らの地雷があって、それを踏み抜いた時に今引用したいくつかの出来事があったのだろうと僕は思う。

 

彼らは礼儀作法を重要視するわけだけれども、その礼儀作法にしたところで、現代日本と様相を異にしていて、現代人が最大限に礼節を尽くしても、それは古代中国人にとって無礼に当たる場合もある。

 

…ここでお手元の『礼記』をペラペラとめくって、古代中国の食事のマナーの話をしようと思ったのだけれども、なにぶん、ハードカバーで上中下巻もある本だから、お目当ての記述を見つけることが出来なかった。

 

確か、孔子が食事に招かれて、それに際して飯を汁に入れて食べたことによって、思わず飯を汁に入れて食べてしまうほどおいしかったとアピールすることによって、相手に食事に大変満足したという気持ちを伝えたという故事が記述されていたはずで、現代人のマナーだとそれはアウトな一方で、当時の中国ではむしろ良い礼儀だったという話をしようとして、けれども、実際の記述が見つけられなかった。

 

仕方がないので、食事の作法についての言及がある箇所を適当に引用することにする。

 

「 客の身分がもし主人より下のときは、客は食を手に持って席から立ち、主人が自分の前に来てもてなそうとするのを辞退し、堂下に引き下がって食事をするかのようにする。主人は立ってこれをおしとどめる、そこで客は再び自分の席に座る。

 主人は客に先立って飲食の祖神を祭る。食物を祭るには、主人が先に出したものから祭っていき、しだいにあとから出したものに及ぼす。殽の序列、すなわち殽・胾・炙・膾は、そのどれにも祭りをする。その本は同じ犠牲の体から出たものではあるが。

 飯を三口食べ終わると、主人は客に進めてまず殽を食べ、そのあとで殽を食べ尽くす。それで、満腹する。主人がまだ食べ尽くさないうちは、客は漿で口をすすがない。しかし、客が主人と対等以上なれば、主人の食べ終わるのを待たない。主人が客より先にはしを置くことはないからである。(市原享吉他訳 『全釈漢文大系 12 礼記 上』集英社 1976年 pp.57-58)」

 

 

殽は骨付き肉で、胾は肉塊で、炙はあぶり肉で、膾は刺身で、漿は汁物ですね。

 

まぁ古代中国では謙遜と遠慮が美徳だから、もてなされる側の身分が低い時は恐れ多いと辞退をする素振りを見せて、主人がいえいえ遠慮なさらずにといって初めて食事の席に座るという話で、これ程ではないといえ、相手の好意を一度遠慮するのは日本人もすることで、そのように現代日本にも通ずる部分があるのは、やはり日本が仏教国というより遥かに儒教国だからということで良いと思う。

 

このような話は西洋人には理解できないところなんだろうなとおぼろげに思う。

 

ただ、続く食を祭る話に関しては、日本にはこの伝統は生きていないので、言われないでこのことを出来る人間なんて日本には居ないのではないかと思う。

 

最後のくだりに関しては、身分が低い人物が高い人物に饗応を受けているのだから、相手の事を憚る振る舞いが推奨されていて、そのために主人より先に食べ終わらないという言及がされているという理解で良いと思う。

 

早く食べ終わると急かす可能性もあって、そういうことに配慮しているのだと思う。

 

実際、この作法がどれ程に守られていたのかとかは良く分からないけれども、おそらく、古代中国に転生して食事に招かれたときに、先の引用文の内容を実行しないと、何だこいつ…?って思われるような話ではあったのだろうとは思う。

 

作法といっても文化が違えばマナーが違うわけであって、現代人がどれ程に心を配って相手の事を思って注意を払ったところで、相手の地雷が何処にあるのかは分からない。

 

結局、ところ変われば文化も変わって、全く違う地域では全く違う常識が存在している。

 

食べているものだってその地域によって色々差異があって、大航海時代にスペイン人やポルトガル人などが遭遇したマヤ人などには食人の習慣があったらしい。

 

マヤ人の事を記録した『ユカタン事物記』には、マヤ人に捕らえられて食われたスペイン人の話がある。

 

「 ユカタンへ到着した最初のエスパニャ人は、エシハ生まれのヘロニモ・デ・アギラールとその同僚たちであったということである。

(中略)

 この不幸な一行は邪悪な首長(カシーケ)の手に落ち、パバルディビア他四名が偶像に献げる生贄とされてしまったが、首長はその後で、彼らの肉を供して宴をひらいた。アギラールとゲレーロととさらに五、六名の者は、もっと肥えるようにと残されたが、彼らは檻を破って森の中へ逃げ込んだ。そしてその首長と敵対している情深い首長(セニョル)の下に逃げ込んで、その奴隷とされた。(ランダ 『ソリタ ヌエバ・エスパニャ報告書 ランダ ユカタン事物記』 「ユカタン事物記」 林屋永吉他訳 岩波書店 1982年 p.pp.247-248)」

 

 

僕らが彼らマヤ人から歓迎されて歓待を受けて、それに際してこの時作られた料理が出されたならば、材料が何かを知っていた場合、それは食べることが出来ないのが普通だと思う。

 

聞いた話だと、この辺りの地域はジャングル地帯で、家畜となるような動物も存在せず、慢性的な蛋白質不足に悩まされていたような地域で、それが故に、人肉を食べて蛋白質を補給していたという話だけれども、それがどれ程に正しいのかは定かではない。

 

そのように地域によってはとても食べられないものを食べる場合があって、その話は食べ物の話ってわけではないとはいえ、古代インドの修行僧は牛糞や大便を普通に食ったりする。

 

その話は原始仏典の中部経典の『マハー・シーハナーダ・スッタ』と、『ヴァイカーナサ・スマールタスートラ』に言及がある。

 

「 わたしは、なるほど、舎利弗よ。およそそれらの牛舎があり、牛どもは出かけて(空で)、牛飼いたちがいないとき、そこに四つん這いで近づいて行き、なんでもそれらの、子牛ども、若牛ども、乳牛どもの牛糞を、それらを本当に食べる。また、舎利弗よ、自分の尿と糞がわたしに尽きないであるうちは、本当にわたしは自分自身の尿と糞とを食べる。じつに、舎利弗よ、私が大汚物食者のときはこうなるのだ。(中村元編 『原始仏典 第四巻 中部経典Ⅰ』 「マハー・シーハナーダ・スッタ」 春秋社 p.188-189)」

 

 

このように仏陀自身が牛糞や自身の糞尿を食べたという言及が原始仏典の『マハー・シーハナーダ・スッタ』ではされている。

 

一般的な仏教の理解だと、仏陀は苦行を禁じたという話になっていて、けれども、この経典ではこのような苦行を特に否定していなくて、このように語った仏陀は別にこのことを後悔してもいないし、弟子たちにそれを禁じているということもない。

 

原始仏典期の仏教は普通に苦行を行っていて、古代インドの価値判断だと苦行は正しいことで、その苦行は辛ければ辛いほどに誰も達成できないのだから、酷い苦行であればあるほど評価されていた様子がある。

 

だから原始仏典では普通に苦行があるし、仏陀の弟子の告白録である『テーラガーター』では、55年間横にならない苦行を行った仏僧の話がある。

 

「わたしが、横臥しないで座っている行(常坐不臥)を始めてから五十五年が経過した。無気力なものうさを根絶やしにしてから二十五年が経過した。(中村元訳 『仏弟子の告白』 岩波文庫 1982年 p.176)」

 

 

このテキストにはインダゴーパカ草の生える険しい場所で一人瞑想する場面もある。

 

結局、現代日本で瞑想なんかしてもそれは尊敬される人の振る舞いとしては認知されるところにはない。

 

…長いからその瞑想のくだりは引用しないのだけれど、その文章を読んでいて、ハンセン病患者から托鉢を受ける描写があるんだなと思った。

 

「臥坐所から降りて、〔行乞の〕食のために、〔わたしは〕城市に入った。癩病の人が〔何やら〕食べているところに、彼〔の傍ら〕に、〔わたしは〕恭しく立った。

彼は、爛熟した手で、わたしに、一握り〔の食〕を授けてくれた。一握り〔の食〕を〔鉢に〕置く〔彼〕の〔腐った〕指も、このとき、〔一緒に〕断ち切られた。

しかして、〔城市の〕壁の根元に依拠して、〔わたしは〕その一握り〔の食〕を食べた。あるいは、〔それを〕食べつつも、あるいは、食べてしまったときも、わたしに、忌避〔の思い〕は見い出されない。(参考)」

 

普通に読みづらいから岩波文庫版の方が良かったのだけれど、引用するにも本が部屋の何処にあるか分からないから仕方ないね。

 

横にならない仏僧の話は以前引用したことがあったから、それをコピペできたけど。

 

ここに癩病患者の腐った指が混じった食事を食べる話があって、僕はそこについて、キリスト教でも同じように癩病患者をキリストが忌避せず治す描写が福音書にあったはずで、今回は掘り下げないけれども、まぁやっぱり仏教とキリスト教は情報を共有してるんだろうなと思った。

 

…どうでも良いけど、多分今引用した文章、大谷吉継が茶会で茶を飲んだときに、回し飲みする茶器に膿が混じったというのに、石田三成が平然と飲んだというエピソードの元ネタなんだろうなと思いました。(小学生並みの感想)

 

ちなみに、先の文章の続きには腐尿薬の話もある。

 

「〔戸口に〕立って受ける〔行乞の〕食を食とし、しかして、腐尿(発酵した牛の尿)を薬とし、木の根元を臥坐所とし、さらには、糞掃衣(ぼろ布)を衣料とする、彼が、これらのものを征服して〔そののち〕(不満の思いが克服され、常に満ち足りているなら)、まさに、彼は、四方の人となる。(同上)」

 

現代の医療感覚だとあり得ない話な一方で、古い時代や科学が浸透していない地域であったならば、色々なものが薬として使われていて、仏教では牛の尿を袋に詰めて土に埋めて腐らせたものを薬に使う伝統がある。

 

古代中国の『五十二病方』という医学書でも、てんかんの治療に首筋を切りつけて犬の糞を塗り付ける方法が記されていたはずで、現代的な衛生観念ではとても受け入れられるようなものではないと思う。

 

そのように仏教では大便などを色々用いるけれども、その事はインドの伝統のようで、ハムサ比丘と呼ばれる人々は牛糞を食べる苦行を行うと『ヴァイカーナサ・スマールタスートラ』に言及がある。

 

「 ハムサ比丘とは、村落には一夜都邑には五夜住しそれを過ぎては住することなく、牛尿牛糞を食とし、或は一箇月断食し或は月齢齋の誓戒を守り、常に活動を目的とするものなり。(『ワ゛イカーナサ法經和譯』:参考)」

 

つまるところ白鳥(ハムサ)比丘と呼ばれる人々は、荒野に暮らしていて、村には一夜までしか泊まらないし、それより大きな場所でも五夜より多くは屋根のある所で泊まらない人々で、牛尿牛糞を食べて、一ヵ月に渡る断食を行う人々であったらしい。

 

ただ、一カ月連続で何も食べなければ普通に死ぬこともあるはずだから、何らか栄養は摂取していたはずで、もしかしたらイスラム教のラマダーンの月のように、夜の間は食べてOKとかそういう規則があったのかもしれない。

 

…おそらくなんだけれども、ラマダーンはハムサ比丘が行う断食と同じ文化として断食してるんだよな。

 

以前にも言及した通り、聖書には断食についての記述があるし、インドでは今引用した『ヴァイカーナサ・スマールタスートラ』に断食の話はあるし、先に引用した仏陀が大便食う経典も、あの話の後に仏陀は断食の苦行を行っている。

 

他には『マヌ法典』にクリッチュラ苦行という断食の苦行の話もある。

 

一方で中国にはそういった断食の習慣は先秦の時点では見て取れないから、文化的な伝統としてそのような断食というそれが存在している様子がある。(参考)

 

そしてそのインドと地理的に近いイスラム世界でもおそらくはインドの情報が訪れていて…というか、イスラム教が成立する前の紀元前後の時代に既に訪れているらしいという話は以前した通りで、そうだとするとイスラム教もインドの影響はおそらく受けている。

 

ユダヤ教のエッセネ派の教義はインドの宗教の教義と似通った部分があって、エッセネ派の教義については『ユダヤ戦記』に言及がある。

 

『ヴァイカーナサ・スマールタスートラ』の成立は四~五世紀頃だそうで、そこに一ヵ月断食するハムサ比丘の話があるのだから、時系列的にはインドが先行していて、おそらくはインド人の影響を受けて、イスラム教徒はラマダーンを始めたのではないかと思う。

 

ただ、そのような断食だとか大便食だとかいった文化は、正直僕ら日本人からしたら理解できないところになると思う。

 

もし、古代インドに転生したとして、そこで人々に尊敬される人物として無双しようとしたならば、牛糞や大便を食う苦行や、ガリガリに痩せ細る程の断食、そうでなければ衣服を一切身に纏わないで暮らしたり、一切の殺生から離れるために、木から落ちた木の実以外の全てを口にしない苦行をしなければならなくなる。

 

けれども、それでもインドは現実世界の話であって、同じ世界の人間の振る舞いについての話になる。

 

一方で異世界に転生した場合、文化の成り立ちから何から全く違うという話になって、彼らの文化が何に根拠づけられて、何が道徳的に正しくなるのかは僕には一切分からないし、彼らの地雷が何処にあるかなんて全く分からないわけで、いつその地雷を踏み抜くかが分からない以上、恐ろしくて会話なんて出来たものではないと思う。

 

古代中国の場合、ちょっと礼遇しなかったりちょっと会合に参加しなかったり、相手に対して塩対応や無礼をしただけで殺害要件を満たすわけで、その無礼は食事の作法のちょっとした違反かもしれないわけで、『礼記』の記述を見る限り、現代人の食事のマナーとそれはだいぶ違う以上、何処に地雷があるか全く分からない。

 

インドの場合は僕の読むテキストに偏りがあるせいで、食事の作法については全く分からなくて、どんな食べ方をしたら気分を害さないかが分からないし、同じ世界でこの恐ろしさとなると、違う世界で生きていくだなんて、とても悍ましい事なのではないかと個人的に思う。

 

ただ、異世界転生物はそのような文化の違いを描くべきだと言っているわけではない。

 

僕個人が異世界に行くと文化の違いがマジにきつそうだなと思った以上の事はなくて、そのような文化の違いを描いた作品があるべきだとか、そのような文化の違いを描いた方が面白い作品が出来るとか、そういうことを考えているとかは特にない。

 

結局、異世界に行ってそこで無双をするような物語に関しては、求められるあり方があるというかなんというか、読者が別にそんな文化の軋轢を読みたいわけではなくて、普通に異世界に転生して無双する物語を読みに行って、それを読んでいるだけなのであって、そのような文化の違いから想定できる命の危険についての描写を読みたいわけではない。

 

なろう展開期待して読みに行ってるんだから、なろうが出てこなきゃ不満足なのが普通で、別に異世界での文化の違いを描けとかそういう話ではなくて、ただ、現実世界のインドと中国でこのレベルとなると、異世界とかマジヤバそうと思って、その事を記事にまとめただけになる。

 

異世界転生物だとハーレムを築いたりする展開も見られるけれども、紀元前後のゲルマン民族の人々だと20歳を越えるまで童貞であることが望まれると『ガリア戦記』にあって、全く文化が違うとなると、そこにいる人の恋愛観も違うはずで、中々難しい所があるよなと思う。

 

「ゲルマーニー人はこの風習(ガリア人の風習)とまるで違う。神聖な仕事をする僧侶もなく、犠牲に関する関心がない。見てはっきりその力に助けられているもの、太陽は火や月だけを神々としている。その他のものについては噂も聞かない。その生活は狩猟と武事にはげむことである。幼い頃から労働と困苦を求める。いちばん長く童貞を守っていたものが絶讃される。その童貞を守ることによって身長ものび体力や精神が強くなるものと思っている。ニ十歳前に女を知ることは恥としている。このことについては少しも隠し立てをしない。河で混浴し、獣皮や馴鹿の短衣をきているので、身体の大部分は裸である。(カエサル 『ガリア戦記』 近山金次訳 岩波文庫 1964年 p.202 ()は引用者補足)」

 

 

ただ、読者の方は普通に女性に良く思われる主人公が活躍する物語を読みたいからそのような物語を求めているし、作者の方もそのようなものの方が評価されると考えてそのようなものを書いているだけで、それ以上でもそれ以下でもないと思う。

 

この記事では本来的に、現代エジプトとかアフリカとか北米のヘヤー・インディアンの文化の違いの話をするつもりで記事を拵えたけれども、古代世界とかの話が紙幅が埋まってしまった。

 

だからまたその話は後回しになるんだけど、言及したいことが書かれてる、『アフリカを食べる』って本、何処かに片づけちゃって何処にあるか分からないんだよなぁ…。

 

まぁどうしようもないね。

 

そんな感じです。

 

では。

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