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「縁側」-みんなが作る掲示板-からのお知らせ
縁側からのお知らせ

縁側をご利用いただく際のルール&マナー集を用意いたしました
ユーザーの皆様に楽しくご参加いただけるよう、主に投稿時の注意点などをまとめています。
ご投稿の前には必ずご一読をお願いいたします。詳しくはこちら⇒「縁側 ルール&マナー

紹介文

自転車にpassion(情熱)のある人書いてください。

 縁側2024年10月31日(木)13:00閉鎖と共に道場も閉鎖になります。
新自転車道場 https://zawazawa.jp/dojo/topic/63 にデーターを移転保存しています。
こちらの移転スレは削除していますので↑新自転車道場の方で見て下さい。
 14年間応援ありがとうございました。

  • 自転車道場の掲示板
  • 自転車道場の伝言板
  • 自転車道場の投稿画像
自転車道場の掲示板に
自転車道場の掲示板に新規書き込み

自転車道場も来る人が減り縁側も閉鎖になりました。あと残すところ1ヶ月ほどですが、最後に好き放題書いて終わろうと思います。

 僕が生まれ育ったのはJR大阪駅前の国道1号と2号がつながるところ周辺。曾根崎警察署が近くにあり、小学校の頃の遊び場は阪神百貨店とウメチカ、梅田の地下街は迷路のようになっていて地下6階までありますが一般の人が通るのは地下3階までウメチカは縦横無尽に目隠ししていても場所がわかる位、そこで生活していた(遊び場??)

 僕が小学生の頃、梅田の横の天神橋筋六丁目で大事件が2つ起こった。その2つの事件に僕は巻き込まれ本当ならそこで死んでたけどラッキーというか自分で決断した結果というか生き残った、こういう経験を1度すると「俺は無敵だ、俺は死なない」と自信過剰になり、その後の人生に大きな影響を与えていく。当時の梅田や天満界隈にはとんでもないおっさんがいっぱいいて(おばちゃんもいた)そういう本物のすごさを身近で体験し挑戦し対決して10代が過ぎ去っていった。みんな冗談が通じない相手で真剣勝負で命賭けて勝負するしかなかった。

 どうしてみんなあんなに燃えて生きていたんだろう??当時はそれが普通だったので気がつかなかったけど今振り返ると、あんなに気合い入れて真剣に生きている人たちって今、出会うことないなあと思う。僕は実力もなく達人たちと渡り合うには気合いと天六の大事件で生き残った「ラッキー」にかけるしかない。毎日1秒1秒を真剣勝負で全力で生きて積み上げていくと60年なんてあっという間の時間。自転車道場の14年間も一瞬の出来事。

 今日まで明日死んでも後悔しないように生きてこれたことが一番ラッキーだった。
 それでは僕の少年時代のウソ八百てんこ盛り記録「ケンカ上等」のはじまりはじまり(3年ほど前に書いたものですが最後なのでアップ)読みたくない人はパスしてね。

ケンカ上等 その1
 僕が小学1年の時、親父と歩いていたら、親父は危ないオッサンに殴りかかりケンカした。子分を連れている時はその場で乱闘、小学1年のガキだから許してくれるほど甘くはなく、僕も巻き込まれた。親父は町で強そうなおっさんと会うとケンカ、曾根崎警察署の留置場が別荘だった。競馬場か祇園か留置場に行けば親父がいる。僕が小学2年の時、いつものように親父はケンカ、最初3人を一気にノックアウト、その後加勢にきた、土建おっさんが20人くらいでシャベルやスコップを振り回し親父にかかってきた。親父は5人位倒した後、スタミナ切れでつかまり血だらけになって、おまえら待っとけと捨て台詞を残して消えた。親父は1匹狼で正々堂々灰になるまでケンカして負けた、これが男のケンカだと思った。でも子ども置いてどっか消えるか!それでも親か!(僕はどうなる??)
 僕は小さくて見ているだけだった。僕は毎日何十発と親父に殴られ、そのうちパンチが見えるようになった。交わすと親父は怒って倍殴ってくるので、少し当ててダメージを装う。僕は小学校低学年時代は身体が小さくケンカに負け続けた。しかし絶対負けを認めず、1匹狼で本物の男のケンカをしてやると続けた、そのうち学校には僕にケンカを売る人間がいなくなった。
 親父が20人に袋だたきにされ消えた後、親父の知人が外車に乗って3人やってきた。顔の真ん中に20針ほど縫ってるオッサン、日本刀を持ってるオッサン、アルカポネみたいな帽子で顔を隠して懐に手を入れてる兄ちゃん、「おまえらプロかアマか」と低い声が聞こえ、殺すと身体から殺気が滲み出ていた。
 僕はずっと見ていた。沈黙の時間が流れて20人が地面に土下座して謝った。そこへ親父が戻ってきて何かいってお開きになった。親父には命張って助けに来る人がいた。僕は数年後このアルカポネの兄ちゃんが「15歳の時に日本刀一本で殴り込み7人を切った」人だと知った。
 本物の迫力のすごさを、この時、初めて見た。
 親父の周りには面白いぶっ飛んだ人間が沢山いて、僕はその人たちに本物のすごさを教わった。

2024/9/18 15:54  [191-49291]   

ケンカ上等 その2
20人との乱闘の後、親父は僕がいる時はケンカをしなくなった。親父は100mの陸上選手をやっていて県大会では優勝したけど国体では予選落ちだったらしい。陸上スパイクを大事に持っていた。「走る時は絶対スパイク履いて走れ」と言ってた。親父は18歳で日本軍に志願兵として入隊し、満州で馬賊になって暮らすつもりだった、日本軍は新兵は必ず殴られる、毎日顔が風船のようになるまで殴られる。しかし親父の連隊では上官が手出ししない新入兵が2人いた、一人は親父、もうひとりは全身入れ墨の有名なヤクザ。親父は最初に殴った上官を殴り倒し、俺に手出しした奴は必ず戦場で殺してやる、と脅したそうだ。即、営倉(軍隊内監獄)に放り込まれた。前代未聞、連隊始まって以来と言われることを次々とやった。
 親父はそのヤクザの親分と気があったそうだ。親父には戦友は一人もいない。全員戦死している。親父はどこの隊に入っても暴れて営倉入り、そして一番死ぬ戦地行きにされた。親父は最初満州のソ連国境線にいた。親父は陸軍重装備陸上大会で優勝し、日本軍一の精鋭部隊、関東軍独立守備隊へ配属されたけど毎日の作業は「穴掘り」、関東軍は塹壕ばっかり掘っていた。日本軍はアホの集まり、ソ連兵は最初女性兵士ばかりだったけど、ドイツが降伏に近づき精鋭男子兵が満州にきた。
 親父は兵舎を抜け女郎屋いって捕まり営倉入り、営倉に入ってない親父の連隊は南方へ出陣して全員戦死。その後、連隊長の愛人を寝取り、それがばれて沖縄行きになり、満州に残った親父の連隊はソ連兵の攻撃で壊滅戦死。
 朝鮮の港で、親父は階級が軍曹だったので隊長を命じられ20人の部下を引き連れ、ボロ漁船で沖縄へ向けて出航。しかし沖縄に着く前に米軍の攻撃を受け沈没、3日間海に漂ってたそうです。海から顔を出すと機銃掃射されるので、米軍飛行機がいる時は沈み、去ると浮いて呼吸。そのうち一人二人と沈んで行き、3日目には親父一人だけが生きていた。この後の話は僕は聞いていない。親父は好き放題生きたから生き残り命令に従順な優等生は全員戦死した。この話を聞いたのは僕が中学生の時だった、僕も好き放題生きてたので「親父、俺と同じやん」と思った。自分の運命は自分の行動で作る!

 僕は親父が大嫌いだった、ケンカが強いのにお袋を殴った。こいつはクズだ、心でいつも思ってた。しかし僕は小さく実力がなかった。僕は親父を避けるようになった。
 小学4年の時、親父は倒れて弱っているお袋をさらに殴ろうとした、僕は親父の手を止め「女を殴る男はクズだ」と親父に言った。親父のパンチは僕の顔面に飛んできて2mほど吹っ飛んだ。お袋にこんなクズと別れろとも言った。しかし僕はお袋を養う甲斐性がなかった。しかも親父に飯食わせてもらってる。
 僕は血だらけの唇で親父に近寄り「俺は親父は殴らん、殴ったら親父と同じクズになる、俺はクズにはならん」と言って家を出た。これ以降、親父は僕を殴ることはなかった。次の日、家に戻って僕は家の仏壇と神棚を叩きつぶした。
 神や仏に文句があった。出てこい、俺は逃げない、正々堂々真剣勝負、僕は神と仏と親父にケンカを売った。

2024/9/18 15:56  [191-49292]   

ケンカ上等 その3
 家の仏壇は金ピカで50万くらいした今の価格だと500万、ハンマでたたき壊した時に金箔が飛び散った。仏像は腹に墨で書かれた紙が入ってた。神棚は上から見下ろしてるのが気に入らなかった、僕は口だけで実力のない奴が一番気に入らない、こいつらなんぼのもんやねん勝負しろ!。お化けとか幽霊の逆襲も覚悟した、最悪死ぬだけ。正々堂々勝負に出た。
 親父もお袋も何も言わず、新しい仏壇も買わなかった。こうして、うちの家に神棚と仏壇はなくなった。
 僕はクズと思っている親父の世話になってる自分に腹が立った。クズ以下だ。親父に買ってもらった物は全部捨てる。しかし全部捨てたらパンツも着る服もない。自分で稼いで買うまで服は使い続けるしかない。クズに買ってもらった服を着るのは屈辱だ。自分で稼いで買ったパンツを履き親父に買ってもらった服を全部捨てた時、とても気持ちよかった。それは後のことで、とりあえず生活する最低の物は嫌でも使うしかない。そして家を出た。
 おじいちゃんの家は部屋が10以上あった。おじいちゃんは、いつも無口で本を読んでいた。本の中でおじいいちゃんは生活していた。本を読む姿しかおじいちゃんのイメージはない、うちの家は個人主義が徹底していて家族であっても干渉しない。孫が遊びにいったら、おばあちゃんが食べ物出してくれる光景など一切なく、僕は住むスペースだけを借りて自給自足するしかない。親父はおじいちゃんとは最悪の関係で梅田周辺の不動産を次々と売り飛ばし、競馬で散財、勝てば祇園で帰ってこない。文字通り好き放題の親父を止められる人間は誰もいなかった。家のふすま全面に筆で「男は腹減った顔と寒い顔はするな」とおじいちゃんの名前入りで書かれていた。僕はこの文字を毎日見て過ごすことになる。直接言われたことは一度もなかったけど、これが唯一のおじいいちゃんの言葉。僕は今でもこれを守っている。
 おばあちゃんの話では家1軒と自転車1台が同じ価格だった時代に、おじいちゃんは家を売り自転車を買った、そして北海道に行くと自転車で出ていった。おじいちゃんが本当に北海道まで行ったのかはわからないけど、50までは仕事をせず旅に出たり遊んでいたらしい、50歳からがむしゃらに働き梅田周辺の家や土地を買った。親父の話では、うちの先祖はバクチ打ちか寺子屋の校長のどちらかで男は働いた人間はいない。ろくでもない奴ばかりやな!。おまえが言うなと突っ込みたかったけど半殺しにされるので言えなかった。
 親父の周りにはいつも5人ほど女性がいて、親父のパンツを私が洗うと取り合いしていた。なんでパンツなんか洗濯取り合いするねんと不思議だったけど、お袋が来ると飛んで消えていった。お袋は親父より根性座っていてケンカ好きだった。僕は最初親父はどうして毎日ケンカばかりするんやと不思議だったけど、親父が死ぬ前に「俺はケンカしたないのにお袋がケンカ売ってくるから尻拭きしてたんやと言ってた」親父のケンカの半分くらいはお袋が作ってたのかもしれない。
 親父も半端ない人生だったけどお袋は親父以上に「ケンカ上等、好き放題に生きた人」で、この両親の子どもに生まれたらぶっ飛んで生きていくしかない。
 おじいちゃんの家に行った日、布団がなくて凍死しかけた。食べ物もない。孫、凍死しかけてるよぉ。どうして誰も見に来ないのぉ。自己責任!小学4年生とか、そんなこと一切関係ない。今考えるとじいちゃんもばあちゃんも半端ない人だったなあ。僕の自活生活は腹減って寒い所から始まった。
「男は腹減った顔と寒い顔はするな」の文字が目の前にあった。

2024/9/18 15:58  [191-49293]   

ケンカ上等 その4
 よくみんな仕事やめたら「めし食えない」という。大丈夫食えます。町を歩けばめしはタダであちこちで食べられます。必要なのは金ではなく情報と人脈。
 僕は鉄棒が好きで近くの高校の鉄棒で練習した。高校には定時制があり、そこの食堂で一番安いうどんを練習帰りに食べた。小学生は珍しく食堂のおばちゃんに声をかけられた「近くで一人で暮らしてて、お金なくて、もう来たらダメですか」と言ったら、おばちゃん袋に牛乳とパンを山ほど入れて持って帰れとくれた。当時大阪府は定時制高校生に無料でパンや牛乳、バナナやみかんを配っていて大量に余って捨ててたらしい。「いつでもおいで捨てるより食べてもらった方がいいから」
 それから僕は何度もおばちゃんにパンと牛乳をもらった。
 
 ある日そのやりとりを見ていた定時制高校生が「おまえ明日昼に俺の会社にこい」という、その兄ちゃんは近くの大企業の工場で働いていて、言われたように昼行くと、食堂につれていかれた。ものすごい勢いで200人位の人が食べている。棚にはおかずが大量に並び、一升くらい入るおひつが何個もある、魚、肉、野菜、なんでもあって、おいしそう。
 なんでも食え、腹一杯食え。まずいお袋のめしより格段にうまかった。その兄ちゃんはバレーボールの特待生でオリンピックを目指していた。お金がなくても人脈があれば「めしは食えます」。でも服を買うにはお金が必要。当時は小学生でもやる気があれば雇ってくれた。梅田の地下は5階まである、一般の人が知ってるのは3階まで、地下街一帯のポスターの貼り替えを夜中にやる、資材は地下5階の倉庫に入っている。できるだけ速く地下鉄始発の前に全部貼り替える
 僕がポスターの貼り替えスピードが一番速かった。同級生が一ヶ月の小遣い500円と言ってた時に僕は日当1日5000円。あいつは仕事が出来る、親方の周りから仕事は次々とやってきた。服もパンツも買って、これ以上お金はいらない。僕は警察署の柔道部に入った。そこで実力もないのに、いきなり団体戦のメンバーになり府大会一般の部に出場。試合で100kgのオッサン相手でビクともしない。柔よく剛を制すなんてウソ、重すぎる。足技で倒すけど寝技になるとタバコ臭いし汗臭いし洗濯してないし。苦しい、吐きそう。負けた息できなかった!柔道の最強の敵はニオイです。
 僕が負けても団体戦は3名が勝てば勝利、結果は3位。
その後、警察署柔道部は建て替えのため廃部になり僕は大阪城の修道館に移った。
 僕は人生で2回、親父が船を撃沈され3日間海に漂ったのと同じくらいのピンチにあってます。最初のピンチは小学校5年の時に起こった。

2024/9/18 15:59  [191-49294]   

ケンカ上等 その5
 僕は鉄棒が好きで高校の鉄棒で毎日練習していた。大車輪はできるようになったけど握力が弱く2周目は手が離れ落ちた、そんな握力しかないのに無謀にも背面車輪に挑戦し、加速がつきすぎ遠心力で、ぶっ飛び地面に落下、胸を強く打ち息が止まった。高校生が何か言ってる、意識が薄れ、救急車のサイレン、誰かがおばあちゃんを連れてきた。生まれて初めて救急車に乗った。
 ついた、見覚えのある看板だ、天六?の病院。この風景は夢で見た。僕は仏壇と神棚壊して家を出てから予知夢を見るようになった。意味不明だけど記憶には残っている。入院初日の夜、僕の病室の迎えの部屋から叫び声が上がった。
 胸が痛くて起きていた。バタバタ沢山の人が動いている音。「この風景、夢で見た」何か気味悪い、次の日、叫んだ人は死んだと聞いた。
 僕の担当医は院長、検査の結果ろっ骨3本骨折。骨は心臓から5mm外れていた、でも危険だから手術と言われた。院長は「私は世界で初めて糸を使わない手術を開発した、手術跡は全く残らない」と自信たっぷりに話す。親父とお袋もきた。院長の説明を受け「すぐ手術しろ」と親父が言った。
 親父もお袋も僕に何かをしろと言ったことは一度もない。勉強しろとか学校いけとか、そういうくだらん命令は言わない。しかしこの時は手術しろと言った。違和感があった。
 「4日後手術と決まる」。僕の横には若い兄ちゃんが入院していた。この兄ちゃんはモデルガンマニアだった、僕は本物を持ったことがある、このモデルガン、本物に近い重さやと言ったら、ガキがと笑ってた、散弾銃も日本刀も本物の重さを知っている(身近に変な人いっぱいいたから)。その兄ちゃんは盲腸で10ヶ月入院しているという、なんで盲腸でそんなかかるねん、手術をする度に傷口が開き、3回手術したけどくっつかないそうだ。もしかして院長が手術?
 糸を使わない手術をやってるって言ってたからなあ、糸使わへんから傷口開くんやろ。あの院長大丈夫かと思う。
 次の日違う病室でも死者が出た。
 いつもは、しろなんて絶対言わない親父やお袋が手術しろと言ったのが引っかかった。何かがおかしい。次の日、院長が休み、バイトの医者が来て診察を受ける。僕はその先生に手術なしで治せるか聞いた、その先生は知識も技量も高そうだった、僕の質問にも誠実に答えてくれた。結論は手術しなくても、引っ張って骨を定位置に戻せるという、ただし治療は大人でも痛くて厳しいので手術した方が楽とも言われた。
 あの院長は信用できない、この先生は信頼できる。僕は決心した、脱走して家に帰る。ろっ骨の痛みは厳しくて僕は30代くらいまで風呂に入っても水圧で胸が痛かった。ふとんなんて痛くて被れない。本来なら2ヶ月入院の骨折を受傷3日目に家に帰るのだから無茶苦茶、歩くのも困難だった。家に帰ってうずくまっていると、親父が来て「おまえ手術が怖いのか」と怒鳴った、「帰れ」「もう治った、医者代もったいない、親父の世話にはならん」。そして次の日、バイトの医者が勤務する病院へ行って骨を戻す治療を1ヶ月続けた、この先生優秀で、僕も痛みに耐え医者が今日は終わると言っても、全然大丈夫と笑って続け、2ヶ月かかる治療を1ヶ月で治した。
 僕は軽いケガで3日で退院と学校には伝わっていた。外来で通院してリハビリしていたのを知っていたのはお袋だけだった。1ヶ月後学校に行った日、教師に「ずる休みするな」と言われた。命がけでリハビリして1ヶ月で治したのに、何も知らない奴が・・僕にケンカを売る小学生はいなくなっていたけど教師全員が敵だ。こんな学校ぶっ壊したる!
 僕が脱走退院してから2ヶ月ほどしたある日、テレビに病院が映され死者も負傷者も大量に出ているとニュースが流れた。新聞テレビで連日報道された。逮捕者の中に担当医の院長もいた。医師免許のないニセ医者が何人も患者を殺していた。僕の横にいた盲腸入院の兄ちゃんも被害者だった。やばかった、殺されるとこだった。親父までが手術しろと言った、誰も味方はいなかった、自分で絶対手術しないと覚悟を決め生き残った。
 自分の身は自分で守るしかない。夢も暗示していた。この時、僕は強運を持っているのかもしれないと思った。
 死線を越え、僕は自信をつけた。しかしこの後もっと大きな死者100人以上の大災害に巻き込まれる。

2024/9/18 16:00  [191-49295]   

ケンカ上等 その6
 小学5、6年の2年間大阪城の修道館で柔道の修行をした。柔道は最初警察署で習い、大阪府3位になり自信を持った。でも修道館は鬼だった。稽古ではなく「しごき」。裸足で大阪城内走り、堀の階段でウサギ跳び、真冬でも関係ない、常に正座で待つ。1時間正座なんてザラ。僕は今でも正座で昼寝できます。
 修道館には全日本選手権優勝みたいな猛者の兄ちゃん、おっさんがいた、僕は猛者相手に1日200本投げられ受身の毎日。柔道の技がプロボクサーのパンチ並に速くて目に見えないなんて信じられます?手で畳をパチなんてする時間はありません。瞬間で叩きつけられてる。30分で200本。僕の背中は真っ青にあざだらけになった。町でケンカになり、背中見せたらびびって逃げていった奴がいた(刺青か!)。修道館は本物の柔道だった。
 柔道の受け身の本当の目的は後頭部を浮かせ頭を守る技術。僕は知らずにマスターしていた。1ヶ月後、自由稽古になる。猛者のおっちゃんが教えると、すぐやめる。3ヶ月続ける人がいない。そこで僕にとばっちりが回ってきて。女性と子どもの相手は常に僕。代用教員??
 初心者や女性がいない時、乱取り自由稽古ができた。修道館の館長は7段で赤白帯、ひょろひょろのおじいちゃん。僕は姿三四郎で「山嵐」と呼ばれている「空気投げ」を教えてと頼み館長はかかってこいという。
 突っ込んだらフワーと飛んだ。何が起こったかわからない。空気のように投げるから空気投げと言う、後で送り足払いの変形技だとわかり奇襲攻撃でよく使った。

 僕が柔道を始めると言った時、お袋は喜んだ。理由は不明だった、警察署で習い始めた時に警官が**先生の孫かと僕に聞いた。なんで、おじいちゃん知ってるんだろ?修道館でも言われた。おじいちゃんとは面識がない、僕が小さい頃に死んでいる。お袋に、この話を言うと、じいちゃんは昔、天王寺で道場をやっていて柔道を警官や相撲選手に教えていたらしい。大阪出身の元横綱が、番付け表や枡席チケットを送ってきた。番付表はいつもあった、親父もお袋も相撲は好きではなかったので不思議だった。
 おじいちゃんのおかげか?。世間狭すぎ!
 修道館にはいろいろな思い出がある。稽古が終わるのは夜8時で城の中は真っ暗、大阪城は門の上に部屋があり、そこは昔のままの部屋だった、夜そこから月を見ていたら、昔の武士も同じ月をみていたのかなと思った。僕は桜宮図書館(重要文化財で現在は結婚式場)僕のいってた小学校(大阪で一番古く講堂は明治村に移築されてる)そして大阪城修道館の3カ所を行き来していた。
 町家研究家に「それってものすごい幸運です」と言われ、何十年後かにその価値に気づいた。
人間が生きてきた歴史を感じられる環境が人間を育てる!

 僕が柔道の次にはまったのは自転車(競輪!)
 全ては連続している、柔道は競輪修行で役立ち、競輪修行は次の挑戦に役立っていった、僕の10代は大きく動き出した。

2024/9/18 16:01  [191-49296]   

ケンカ上等 その7(学校の戦い)
僕は天六ガス爆発事件で死にかけた。1回目の爆発で野次馬が集まりその時僕も野次馬集団に入っていた、でもすぐにその場を離れ、数分後に2度目の大爆発が起こる。周辺の家やビルの窓ガラスが割れ、戦争で爆撃受けたみたいになった。戻ると黒い肉片が飛び散りグチャッと踏んだ。100人位の人が死んだ。一瞬の決断の差で生き残った、僕は死なないと自信を持った。
***僕の最大の長所は自信過剰、欠点も自信過剰???
 ケンカは弱かったけど小学校4年の時に床に流れた鼻血をぞうきんで拭き、それをバケツに絞って10cm位の血溜まりになり「かかってこいや」とやってたら誰もかかってこなくなっていた。高層ビルの一本橋を渡ったり、墓場の墓を倒したりすると、みんな引き下がる。小学4年で神棚と仏壇を叩き壊し「神、仏、お化け」にケンカを売った覚悟の強さが勝敗を決めた。
 5年6年は教師全員とケンカをしていた。一度職員室に監禁され20人の教師に集団リンチを受けたことがある、ただその時も手を出さなかった。僕は教師を殴ったことは一度もない。
 教師の向こうに親父の姿が見えた、クズを殴れば自分がクズ以下になる。しかし教師は容赦なく殴ってきた。1000発くらいは殴られた。一切の規則、命令を無視、テレビ局も取材にきた記念行事を新築玄関ガラスをぶっ壊し叩きつぶした。校長も教師もカンカン。先生とは呼ばずいつも名前を呼び捨て、授業は僕がいれば議論に終始して壊れるので自習ばかり、他校に遠征してケンカ、教師全員が一人の小学生相手に必死。
 教師が「おまえは作文がダメ」と言えば新聞社主催の作文全国コンクールに応募、優勝して「俺は日本一」と職員室に殴り込む。教師は三角形の面積を積分で出し正解でも×で0点逆襲!。
 大の大人が子ども相手にここまでイヤキチするか。卒業式は別室で監禁。「私は教師生活であなたみたいな人間に会ったことはない、この先にもないだろう」と言われた。いや僕は普通の裁縫の好きな子どもですけど・・クラス全員が教師の命令より僕の命令に従うので、教師も逆上MAX!
 僕はノートと筆記用具は持たない、学校でノートを使ったことがない。みんなが黒板をノートに書いたりしている時間が暇、そして教科書も持たない。一度見たり聞けば記憶できる。
 小学校の時、教科書をゴミ箱へ捨てた、しかし教師に「教科書忘れたのか」とグチャグチャ聞かれた。そこで中学に入り新品の教科書をもらう時に教師の前で全部破りゴミ箱へ捨て「教科書ゴミ箱へ捨てたからな」と確認をとった。こうすれば後で「教科書忘れたのか」と聞かれることはない、中2でも中3でも4月始業日に捨てた。ノートも筆記用具も持ってなかったから、僕のカバンは空!しかし裁縫は好きだったので裁縫道具は持っていた。あと家庭科の授業は常に出て縫い方教えたりミシン直したりした。アップリケで花とか作るのが得意!
 中学入学最初の日に柔道部に行った。練習していた全員が茶帯で「ここ茶帯しかおらんの」と聞いた。そしたら「先輩には敬語使え」と言うので、俺に勝ったら敬語使うわと、茶帯全員つかんで投げ飛ばした。入部しようと訪問したのにケンカ売られて投げてしまった。次の日に黒帯で縛った柔道着を持って柔道部に行き「入るのやめるわ、俺は茶帯に敬語使うつもりはない」と言った。1ヶ月位して柔道部の人間が「入部してくれないか」と頼みにきた。大会があり、その代表で出て欲しいとのこと。きっぱり断った。柔道はなんか飽きた。もっと本物の死ぬか生きるかの勝負がしたい!
 競輪に命賭けると覚悟を決めた。

2024/9/18 16:02  [191-49297]   

ケンカ上等 その8 (自転車修行編1)
 僕が初めて自転車に乗ったのは小学4年、そして16インチの子ども用自転車の次に乗ったのが競輪用ピスト。当時競輪は徒弟制で相撲や将棋と同じくプロの門下に弟子入りしなければプロにはなれなかった。競輪で使う自転車は固定ギアでペダルは常に回り続け、そのペダルに足を固定する、ハンドルは低くサドルは細くタイヤの幅は20mm。
 初心者が乗ると必ずこける。スタンディング(静止)技術がないと信号で止まってこけ。歩行者が出てきてこけ。とにかく止まるとこける。足を縛ってるのでこけても足を抜くのが大変。百回以上こけ(柔道の受け身が役立つ)静止できないと、どこも走れないと悟る、まず最低30秒静止できるように練習を積む。30秒静止できれば足の着脱をする時間が生まれ、こけなくて済む。自転車で走るために静止が必要って、なんか変?世の中変なことばかり!だから面白い。運動会で自転車遅乗り競争があり、僕はスタートの位置でずっと静止していたら、みんなゴールしていて優勝みたいな副産物もありました。
 自転車で走りたかったら静止できるようになりましょう!?
 師匠は入門時に3つの掟を言った1.踏み足禁止 2.フラットペダル禁止 3.競輪用シューズでペダルに固定して乗る、この3つを守れなければ破門!この3つはひとつの目的のためにある。それはペダリングの習得。自転車はペダルを回し走る。その回し方をペダリングといいます。最低限のエネルギーで最高の速度を出すには使ったエネルギーが全て推進力に変わる効率のいい走り方が必要です。それってどんな走り方??「踏むな引き足で回せ」です。引き足は日常生活では使わないので意識的に訓練して習得するしかない。
 1,2,3は全て引き足を習得するために必要な掟です。
 踏み足は自転車を重く苦しくしている最悪のクセでこれをなくせば自転車は軽く楽しく乗ることができます。ママチャリやロードバイクなどフリー付きの自転車で、ペダルが一番下の時に思いっきり踏み続けても疲れるだけで自転車は進みません。
 固定ギアの場合、ペダルは回り続けるので、この下の位置でペダルを踏むと逆にブレーキがかかります(バックを踏むと言う)この一番下の位置からすばやく上に向かって引き上げるのが自転車を速く走らせるために最も必要な技術。引き足は踏み足の3分の1くらいの力で同じ速度を維持できます。
 僕の師匠はS1の競輪選手でフォームが競輪選手の中でもピカイチに美しい選手でしたミロのビーナスみたいな美しいライン、一緒に街道練習をしていて後ろから見ているとペダリングの美しさは段違い。頭を下げ空気を切り裂き時速70kmで突き進んでいく姿は異次元空間にいるみたいだった。僕もいつかこんな走りをしたい。どんなことでも同じだけど一流の達人に会い本物の迫力を体験する、それが上達の最短の道です、ただ一流の達人は半端な覚悟では会ってもくれませんから「ケンカ上等、命がけでおまえを倒す」くらいの覚悟で勝負挑んで、木っ端みじんに砕け散るのがお薦めです。
 中途半端はつまらない!完全燃焼が生きてる醍醐味!

2024/9/18 16:03  [191-49298]   

ケンカ上等 その9 (自転車修行編2)
 僕は中学校の出席日数と遅刻日数がほぼ同じ、唯一遅刻のないのが体育祭、遠足、朝9時前に学校に行ったことがない、いつも1時間目途中にバーンと扉を開けて教室に入る。毎日のことなので誰も何も言わない。親にお弁当を作ってもらったこともなく毎日外食、僕の中学は生徒は外食禁止、しかし僕は毎日外食、学校周辺のめし屋、レストランには教師も食べに来ていて、いつでも会う。生徒が外出するには外出許可証が必要、しかしそれを発行するのは公安委員長で、その役は僕なのでフリーパス。公安委員長には、あいつが委員長なら誰も逆らう奴はいないという理由で勝手に任命された。放課後など僕が見回るとみんなすぐに帰った。教師の命令は聞かないけど僕の命令はみんな守る。ただ僕は規則は大嫌いなので自由に運用。
 僕はいつも4時に起きて梅田から三重県の伊賀上野城まで自転車で往復練習していた。雨の日も盆も正月も365日毎日100km街道練習。朝4時に起きているのは新聞屋か豆腐屋くらい。誰も僕が自転車で走っているのは知らないだろうと思っていた。ある日寝坊して走らなかった日に知らないおじさんに「今日来なかったな」と言われた、君は時間正確だから君の姿見て時計がわりにしている、だから来ないと困ると言われた。誰も知らないだろうと思ってたけど、おっちゃん見てくれてるんだ。
 往復100kmを自転車で走り、シャワーかぶって学校に行くと9時を超える。だから毎日遅刻。
 自転車で毎日100km大阪京都奈良三重県をまたいで走る中学生は後にも先にも日本中探しても僕一人?!中学2年の時に大阪鳥取を友人と競争した。僕は自転車、友人は電車。梅田を同時出発、倉吉駅がゴール。結果は僕が先着、友人は僕より2時間遅れて到着。電車って遅いなあと思った。
 中2の秋に大阪東京550kmを1日で走った。最初名古屋で帰るつもりでスタートしたけど、早く着き、浜名湖まで走ったら静岡県の看板見て感動し、東京近いやんと図に乗り予定変更、ところが静岡県は走っても走っても抜けない長い県。箱根で夜になり、夢か現実かわからないゾーンに入った。登り坂を下り坂と錯覚して重いギアに変速して加速したり、疲れがなくハイになってる、箱根頂上付近に明かりのついている喫茶店があり、そこでココアを飲んだ、しかし後で探してもその店はどこにもなく狐に騙されたような感じ今でも不明、小田原から横浜までは下りで加速、横浜から東京は高速道路のような高架道を走った、箱根から東京まで一気に突っ走った。
 大阪を出て1日ぶっ続けに走り、ついに東京駅に着いた。そこから記憶がなく、広場のようなところで爆睡。
 朝、人の声がして目を開けると多数の人が円状に上から僕を見ている、あれ?何見ているの?と家にいるはずなのに、ここどこ?と寝ぼけてると、「スーパーの入口で移動してくれないと店開けられない」と言われて急いで起きて移動。
 夜広場だと思って寝たのはスーパー入口扉前だった(アホ)
 朝起きたら大勢の人が上から見下ろしているみたいなトラウマが今でもある。強烈なインパクトがあった。
 飛行機・新幹線・自動車などで僕は今まで100回以上東京大阪を往復している、だけどこの中学時代に自転車で走った550kmの風景だけが鮮明に記憶に残っている。この挑戦は僕にとってすごい自信になった。日本くらい自転車あればどこでも行ける!そう思って実際に日本中に自転車で行った。

2024/9/18 16:28  [191-49299]   

ケンカ上等 その10 (自転車修行編3)
自転車はお金がかかる。タイヤは1本3000~5000円。毎日100km走ると年間20本はいる、ギア、チェーン、ハブ、BBなど他の部品も消耗して交換必要、リムは弱くて穴や段差にはまると一発でゴミ。部品代は年間50万位は使う。僕は親には1円ももらわず自活していたので、この部品代を稼ぐのが大変だった。師匠や競輪の友人たちが古い部品をくれるけど消耗品は新品を買うしかない。
 そしてお金以上に大変なのが家に帰宅すること、10km位自転車なら20分もかからない、しかしパンクやトラブルで歩きになると途方もない時間がかかる。月や星を見ながら夜通し歩いたこともある。どんな故障でも修理できる技術がないと山奥を走れない。
 整備を学ぼうと自転車屋を何件か回った。「こんな自転車見たことない」おっさんが競輪ピストにビックリする。当時日本で一番有名なスポーツ自転車屋が天王寺にあり、BBの整備を頼み帰ろうと走り出したらクランクが地面に落ちた。
 あかんやろ!これ!日本の自転車屋の整備技術の低さを知った。自分の身は自分で守るしかない、競輪で使うチューブラータイヤはパンク修理に針と糸を使う。裁縫が得意の僕には楽勝。競輪選手は走るのは得意だけど整備は下手、よくて「自転車屋レベル」。よく競輪選手の店なんてあるけど期待しない方がいいです。
 今のようにネットもない時代、整備を覚えるには実物を分解して組み立て研究するしかない(出来ない理由を考える暇があるならサッサと手を動かしてやってしまう!)
 宮本武蔵は「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」
と言った。最低1000回は分解組み立てやらないと「鍛」とも言えない。競輪選手に捨てる古いホイールをもらい、バラして組上げ整備スキルを磨く、車輪の振取りは心の乱れが結果に出る。集中できない時は完成度が下がる。包丁も心が乱れている時に研ぐと切れない。ホイールの振取りは包丁研ぎと似てる。
https://www.youtube.com/watch?v=fKFuLfWC
HFA

自転車は芸術作品です。
 ネットの知恵袋では「腕のいい自転車屋さんで整備してもらおう」みたいな回答が転がっている、自転車屋の実力は自分がその人より実力をつけた時に見極めることができる。初心者がいい自転車屋を見分けるなんて不可能。将棋も柔道も弱い人間が強い人間の実力を評価するのは無理。僕が整備の修行を積み2年経過した頃、競技用自転車製造メーカーの部長さんと出会う。僕はホイール組みは「鍛」の段階に入っていたけど、この人の組み方は予想もしない合理的で理論的な方法だった。道具を使わずセンターを出す方法など目からウロコ。ネクタイにスーツの関東弁のおっさん「すごすぎる!」初対面で意気投合。初めて自転車整備を学べる人と出会った。会社に何度も行き、国際見本市のブース店番も手伝う(バイト代に部品をもらった、うれしい!)。社員に自転車教えてくれと実業団チームを作ることになり、キャプテンを頼まれた。日本で一番強い実業団チームがそろう大阪でシマノ、サンツァー、スギノを相手に中学生の僕がキャプテンでレースに出た。
 舞台はKCSC(関西サイクルスポーツセンター)僕はバンクは得意だったけど他の人はバンク未経験、自動車の屋根に4台のピストを積みKCSCまで行ってバンクを走った。
 真っ暗になるまでバンクの走行を指導!そして決戦の日が来た。
 団体追い抜きに出た、あっさり追い抜き負け(相手シマノ?)僕は個人戦で入賞して賞状もらった。日本で一番弱い実業団チームが日本一強いシマノやスギノ相手に戦ったのが面白い。この大会で沢山のアマ選手たちとも顔見知りになった。
 実業団大会の数日後、僕は師匠が出る特別競輪決勝のテレビ中継を見ていた。昔は競輪中継は特別決勝だけしかなかった。この時、師匠の自転車についていたホイールは僕が組んだもの。決戦ホイールは最高の技術を要求される、賞金1000万円の大舞台のレースがスタートした、僕はまるで自分が走っているような錯覚をした。あの師匠が乗っているホイールは僕の分身、勝て!日本一になれ!こんなに興奮してテレビをみたのは後にも先にもない。
 日本の道路環境は過酷で運転手のマナーが悪く自転車なんて轢いてしまえと走ってくる、1日に何度も死んだ!という経験をする。家に帰ってくると「生き残った」と思う、毎日生死を賭けて走っている。何人もの選手が死んだり寝たきり植物状態になったのを見てきた。冗談はなく常に生死を賭けた真剣勝負の毎日。
 そんな毎日を知っているから、勝て!勝ってくれ!僕が組んだ決戦ホイールが時速70kmで空気を切り裂き光った。ゴールまで100m、僕はLIVE中継をじっと見ていた。

2024/9/18 16:31  [191-49300]   

ケンカ上等 その11 (学問編1)
 小学4年の授業で教師が「昨日テレビで小学生が日本の都道府県と県庁所在市を全部言った、天才だ」と言った、僕は手をあげ「僕も出来る」と答えた、教師は「うそつけ」と応酬。僕は前に出て黒板に日本地図を書き都道府県名と県庁所在地を書いた。1週間後にもう一度もめ、今度は世界地図と世界の首都を全部書いた。僕は地図が好きで世界地図は全部暗記していた。教師とはいつもケンカになった。三角形の内角の和は180度と言えば「なんでやねん」面積の出し方の定理は、なんでそんな定理が出来た。教師の答えはいつもなかった。
 ノートは書かない、筆記用具は持たない、宿題もしない、テストは絵を描いて出す。授業聞かないなら出て行けと言われれば、ラッキーと運動場で鉄棒の練習をしていた。
 教師はいつも怒ってる。小学校の近くに桜ノ宮図書館があり、ここは落ち着いた。そのうち図書館に籠もって本を読みあさるようになる。
 僕が夢中になったのは哲学書だった。ソクラテスやガリレオが隣のおっちゃんのように思えて、このオッサンと議論して、ぶち倒す。ガリレオを獄に入れた教会の連中とその理論的柱のアリストテレスには頭にきた。キリストは王政で大嫌い、釈迦は共和制で大好き、とにかく権威を傘に威張ってる奴らには腹が立つ。ソクラテスみたいにあちこちで論争ふっかけて遊ぶのもやった。学問のケンカは無知の方が勝つ。自分は無知だからと言えば説明責任がなくなる、知恵ある者と自称すれば知恵を証明しなければならない。
 小学生の僕は無知だと言えば質問ばかりして大人を追求できる。こうやって議論の場数を踏む。中国の哲学書はめちゃくちゃ面白くて僕は老荘派、儒教は大嫌い、世の中ひっくり返したり革命が好き。「水滸伝・三国志・西遊記」道教が活躍する。得体の知れない道教が世の中をひっくり返す。学校では成績最下位の僕が教師のおまえは作文が下手という言葉で、新聞社主催の全国作文コンクールに応募、優勝した。学校の授業は不毛で、図書館の中に僕の学問があった。
 仏壇と神棚壊して神と仏にケンカ売ってから、僕には神と仏と戦う武器が必要だった。物はなんで見えるねん、音はなんで聞こえるねん、星はどうして光っている、そういう答えを「神様の思し召し」ではなく自力で説明できる知恵がなければ戦えない。相対性理論と量子力学に出会った時、学問は格闘技と同じと思った。相対性理論と真剣勝負だ!

2024/9/18 16:37  [191-49301]   

ケンカ上等 その12 (ケンカの極意とアルカポネの兄ちゃん)
 図書館で古い新聞記事を見た。15歳少年Aが組事務所で7人を日本刀で切って逮捕、組事務所の写真が大きい。あの兄ちゃんだ。親父が土建屋相手に乱闘しボロボロに負け、その時、子分を連れ、さっそうと現れ、一言啖呵を切って全員を土下座させた。本物や。ずっと心に残ってた。親父が15歳の時に日本刀で7人切った奴と言ってた。偶然見つけた新聞記事、会ってみたい。僕も少し大きくなりケンカの場数も踏んだ。修道館で柔道修行もやった。ろっ骨を折りニセ医者に殺されるのから脱出した冬の正月明けに会いに行った。
 兄ちゃんは天下茶屋にいた。家の入口に犬小屋があり、その中に横綱と書いた首縄をつけた犬がいた。ロープに縛られているけど、ロープが20mあり自由に動ける(これロープの意味あるの?)事務所を守る番犬。
 人を半殺しに噛むから注意!と看板。僕は昔コンクリートの上で犬と寝起きしていた。飼うというより恋人?。アホかわいがり。僕をにおってクンクン狂犬がシッポを振る。
「こいつがシッポ振って通したのはおまえが初めてや」と兄ちゃんが笑った。僕は昔から動物が寄ってくる(たぶん人間と思われてない)。
 2階の部屋に通される。壁一面に色とりどりの日本刀がかかってた、全部で20本はある(銃刀法違反やろ!)。1本渡された。「重い」これ振り回せるの?武士って腕力あるねんなあ、一番長い日本刀を武士みたいに腰に差して抜いてみた、鞘が抜ききれない、小学生の僕の腕の長さでは足りなかった、腰に鞘を残して抜くのは無理。しかも重い、こんなんで戦えるのか兄ちゃんに聞いてみた。
 テレビで武士が何人も切ってるけど、あれウソですか?
「3人は切れる、しかし血がつくと切れんようになるから、後は棒みたいに叩いて倒す」7人切った人にしか言えない実戦的回答。日本刀で多数を倒すには突くか叩くしかない。
 お兄ちゃんはいつも壁を背中に座る、出歩く時は背中に2人ガードがつく、帽子を深くかぶり顔を見せない。お年玉やるとポチ袋を出す、2万円入ってた。いりませんと突き返す。おまえ、親父の言うとおりやの。俺が脅して逆に脅されたのは、おまえの親父だけ、おまえの根性も相当やな、ハッハッハ。兄ちゃんの事務所には1時間もいなかった、でも1日いた位の長さに感じた。町で会えば即逃げ出しそうな強面のおっさんたちを束ねるアルカポネの兄ちゃんは色白のジャニーズ事務所にいそうなイケメンだ「俺、空手ちょっとやってる」拳を見るとこれが「ちょっと」と唖然。僕も修道館で「ちょっと」柔道やってるけど背中全面が真っ青なアザ。
「坊主、ヤクザにはなるな」帰るときに兄ちゃんが言った。
「ケンカせんと勝つのが一番強い」兄ちゃんは一言の啖呵だけで20人のオッサンを土下座させた。
 僕はケンカの極意を教わった。

2024/9/18 16:39  [191-49302]   

ケンカ上等 その13(ヨーロッパ編)
 ラテン系の国は遊び人が多い。公園にでかいチェスがあり、オッサンたちが集まる。1回の掛け金は5000円、日本では賭け将棋をやるとプロの門下は破門になる。チェスは取った駒を貼れないので将棋より簡単。時々めちゃくちゃ強い達人がいるけど、そういう人は微妙にパスし、金を稼いで旅を続ける。
 イタリアでは昼休みはきっちり2時間とる、休日は全部店が閉まり残業する人もいない。遊ぶために生きている!気が合うなあ。しかし、この遊び人たちが真剣に動く時がある、デモ!集会!フランスではストで日常的に交通機関が止まる、高校生だけでデモもやる、集会の議論も真剣、僕もあちこちでデモ集会に参加、知事や行政機関との交渉も国連交渉にも参加した。
日本人はおまえ一人しかいないから来いとか言われて参加。
 日本からも抗議に来ているとテレビで紹介している、昨日テレビ出てましたねとか言われる。交渉に参加するとフランス語は聞いてるだけで眠くなるので、寝てる姿を撮影されたらヤバイ。公園のチェスやデモや集会でいろんな人に出会い、家に来いと泊めてもらった。
 物理学者のおばちゃんとは気が合った「相対性理論と量子力学を知った時に世界の霧が全部飛んで透明になった、これで神と仏と戦えると思った」「神は戦っちゃダメお祈りするの」光速の等時性証明したくて、マイケルソン・モーリーの実験やるため機材作った「えーどうやって作るのー」。キュリー夫人はアホ、頭がよかったら自分の子どもを放射線で殺したりはしない!、あんた最高よ!、一緒に写真撮ろうとツーショット撮影。
 トイレ貸してと入って鍵をかけたらレバーが固まり閉じ込められる。ドンドン、あけてくれーと扉を叩くと「ここ鍵かけちゃダメなのよ」とおばちゃんの声。どうするねん。おばちゃんに工具持ってきてもらい、ドアノブ全部分解して出た、それから僕はフランスではトイレの鍵はかけないようになった(恐ろしい)。風呂場の鍵も壊れていたので全部修理。このおばちゃんの家は日本では考えられない豪邸だったけど、住宅設備が壊れているのはフランスの常識、どこに泊まっても、なんじゃこれーみたいなのばっかり。
 僕repairマンで稼いで十分フランスで暮らせる。イギリスはフランスよりスローで水道修理に3ヶ月かかる!。
 このおばちゃん緑の党の幹部で大学の教授。
 おばちゃんの紹介でローザンヌ大学を見学させてもらった。ある教室に教員の集合写真があり、それをみているとアインシュタインとハイゼルベルグが並んで写っている、おおおお、あいつらここで一緒にいたんだぁ。なんか昔からよく知っているダチに会ったみたいで感動で涙流してたら、今、研究しているもの見せてあげると外に出た、そこにあったのはサンヨーのソーラーパネル。
 アインシュタインとハイゼルベルグと三洋電機、数年後、世界で最も優秀な三洋電機を日本はつぶした。

2024/9/18 16:42  [191-49303]   


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