この時代の最も近代的な貿易擁護論は、イギリスのリカルドゥス・デ・メディア・ヴィラ(ミドルトンのリチャード)によって提唱された。13世紀半ばに生まれた彼は、貿易は3つの理由から合法的であると考えた:
第一に、人間にはさまざまな欲求があり、その結果として相互の奉仕、すなわち交換が求められること、第二に、自然は、人間相互の交際において、「神である一人の王子のもとにいる以上」、互いに助け合うべきであることを当然のこととしていること、第三に、......人間が相互に余剰を交換し、不足を補うことは自然なことであること、である。
リカルドゥスは、交易によって利益を得る者は必ず同胞を傷つけなければならないという見解に異議を唱えた。商人の目的が個人的な利益であることは認めつつも、それは不自然なことでも搾取的なことでもないとしたのである。しかし、リカルドゥスの時代から数世紀後、フランシス・ベーコンは、「どこかで得たものはどこかで失う 」というアリストテレスの見解に共鳴した。リカルドゥスがアリストテレスに倣ったのは、使用価値を交換価値、すなわち価格の本質を形成するものと見なした点である。驚くほど現代的なやり方で、彼は正当な利益の基礎として効用の増大を描いたのである:
自然によって不平等に恵まれた2つの国、AとBを想定してみよう。A国はトウモロコシを豊富に生産しているが、ワインはほとんど生産しておらず、B国はワインが豊富でトウモロコシが不足している。私たちは、ある商品の市場価格や適正価格が、豊富にあるときは不足しているときよりも低く評価されることを知っている。このように、A国の六分の一のトウモロコシはB国よりも安く、逆にA国の六分の一のワインはB国よりも高くなる。商人は、A国でとうもろこしを安く買い、B国でより高い市場価格で販売する。なぜなら、商人はどちらの国にも損害を与えるどころか、両方の国に利益をもたらしたからである。それゆえ、商人の利益は、利ざや稼ぎでもなければ、ルクラム税(turpe lucrum)でもない。国際貿易に見られるような交換の平等のルールは、自国内での個人の商取引にも適用される。消費者が受け取る商品は、その対価として差し出す金銭よりも、消費者にとって直接的な有用性が高い。一方、商人にとっては、商品として受け取る金銭は、商人が差し出す商品よりも直接的な有用性が高い。