ただそこにいるだけの愛。
最近、責任と責任感は別物だと思う。罪悪と罪悪感も別物だと思う。似たような感じで、怒りと怒り感も別物だと思う。怒りを真っ直ぐに表現する人は、普段、カラッとしている。怒りを溜め込む人は、怒ってないけど、怒っている。怒ってないから、怒っている。怒れないから、怒っている。企業ではアンガーマネジメントなどと言って、怒らない練習を社員総出でやっているらしい。逆だと思う。誤解を恐れながら言うと、少し怒っているくらいが元気だと思う。
責任感を感じている人は多いと思う。日本人のほとんどが、責任感を感じていると言っても過言ではないと思う。親はこどもに、こどもは親に、社員は社長に、社長は社員に、責任を感じている。だから、一生懸命に役割を果たそうとするのだが、責任感を背負うほどボロボロになる。責任感は責任を覆い隠す。罪悪感も似ている。裏側には「感じているから許してよ」と言う、救いを求める叫びがある。責任を持つことは、責任を果たすことにはならない。自分を責めることは、責任を果たすことにはならない。
根底には「ただそこにいること」に対する、得体の知れない恐怖心があるのだと思う。ただそこにいることがおそろしくてたまらないから、役割に逃げ込む。努力に逃げ込む。自分や相手を責めることに逃げ込む。やればやるほど、どつぼにはまる。人間的なぶつかり合いがないまま、役割のパターンにはまり、毎日が演技的になる。どこか違う。どこか本当じゃない。その「どこか」がわからない。わからないまま、責任感だけが膨れあがる。責任感に覆い隠された責任は、悲鳴をあげる。責任とは、魂のことだと思う。魂の声を聞く必要がある時に、外野の声、頭の声ばかり聞くと、魂が悲鳴をあげる。
精神と精神的なものは違う。教育と教育的なものは違う。コミュニケーションとコミュニケーション的なものは違う。「的」になった瞬間、本日から逸れる。ズレる。自分がひねくれる。優しくされているのに辛くなるのは、優しさではなく、優しさ的なものを浴びているからだ。優しさ的なものが、優しさを覆い隠すからだ。愛と言う人は多いが、愛を実感することは少ない。言葉ばかりが先行して、実感が薄くなる。豊かな世界に生きているはずなのに、豊かさの手応えが薄くなる。自分は間違いなく生きているはずなのに、生きている手応えが薄くなる。
ただそこにいるだけの愛というものがあると思う。何もしない。何も言わない。ただ、隣にいてくれる。それだけのことが、魂を浄化する。涙が出る時もあれば、言葉が出る時もある。その涙は、その言葉は、静けさに掘り起こされた鉱脈から、こんこんと湧き上がる泉のように、自分の内側から新しいエネルギーを供給する。使い古されたものではない、新鮮で、純粋な、精神的なものではない精神そのものが、涙を通じて現れる。言葉を通じて現れる。頭ではなく体の反応として現れる。いいと言われているものと本当にいいものは、別物だ。責任感が責任を覆い隠す。優しさ的なものが優しさを覆い隠す。魂的なものが魂を覆い隠す。全部やろう。人間の全部。喜怒哀楽の全部に、鉱脈がある。
坂爪さん、さっきは一緒に美味しいラーメンを食べてくれてありがとうございます!
今日はお客さんから大クレームを受けて、BADな1日だぜって思ってたけど、
帰りにFacebook見たら、大好きな坂爪さんが梅田に居るって書いてたから、今だ!ってLINEしました。
毎朝、更新される坂爪さんの血の通った文章に、たくさん刺激を貰ってます。
1文無しになったって俺は俺を生きる!って元気を貰ってます。
ありがとうございます!
別れ際に、
坂爪さん、ロックな生き様を魅せてくれて、ありがとう。
生きててくれて、ありがとう。
って思ったら訳も分からず泣けて来ました。
坂爪さんに感謝を伝えたら、なんか浄化されました。
これで明日からも海賊のように生きて行けます。
俺も人生を棒に振るぜ!
おおまかな予定
9月19日(木)大阪府大阪市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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