「法学通論」を読んだ

書評とかレビューとかいうのでもないし、夏休みの読書感想文的なものでもない。「法学通論」(田中誠二、千倉書房)という本を読んだので、とりあえずのメモとして書いておこう。どうやら古い時代に大学1年生あたりを対象に書かれた教科書らしい。

私が学生の頃はまだ教養科目というような概念が生きていたので、工学部の学生であった私もいくらか文系科目の講義を受けることができた。ただ、法学には近寄らなかった。うっすらとした記憶によれば、「あれは単位が取りにくい」みたいな噂があったのと、それ以上に全く興味がなかったのとで、選択しなかったのだと思う。ちなみに近頃の大学は、シラバスとか見てる限りだと工学部の受講できる文系科目はごく限られているようだ。それだけ専門分野で学ばねばならないことが増えているのだと思う。21世紀の大学生は、何かとたいへんだ。

ともかくも私の人生は法律とは無縁のはずだったのだけれど、生きていいる限り法律と完全に無縁ではいられないのが現代社会だ。私の場合は30代なかばで会社をつくろうと思ったときに最初の法律との関わりが生じた。もちろんそれまでも意識しない場面では法律ががっつりと関係していたわけだけれど(例えば雇用保険を受給したときとか引っ越しで住民票を移したときだとか)、意識の上では「そんなの知らんわ」で通すことができた。ところが、自分が会社をつくろうとなるとそうはいかない。「会社」という存在そのものが法律がなければ存在し得ない理念上のものであり、いわば幻のようなものだ。その幻をあたかも実在するかのように扱うには法律が必要で、具体的には法務局に登記をしなければならない。ふつうの人ならそこで司法書士なり行政書士なりに駆け込んでアドバイスを求めるのだろうけれど、世間知らずの私は図書館に行って会社法を読み始めた。どうも自分の力では株式会社は無理だとわかって(当時は存在した)有限会社法を読み、さらにやたらと民法を参照するように記述があるので民法を読んだ。ちなみにこれはカタカナ書きの旧民法で、まず日本語として何が書いてあるのか理解に苦しむようなシロモノだった。さらにいえば、言葉がわかろうがわかるまいが、こういった法律を読んでも実際の手続きをどうすべきか、理解できるものではない。結局は徒手空拳で法務局に行って、いろいろ教えてもらうことになった。窓口の担当官は、「ふつう、もうちょっとちゃんと準備してくるもんだ」と呆れながら、定款の書き方とかいろいろ教えてくれた。まあ、このあたりは余談だ。

ともかくも、このときに私は、すべての行政のおこないの根拠は法律に記載されているという原則を学んだ。だからその後、免許を取るときには道路交通法道路運送法を読んだし、問題集を編集するときには教育基本法と学校教育法も読んだ。こういうことをするのは単なるバカなのだろうけれど、おかげで後に食い詰めて企業に雇われたときには補助金担当者として経産省の役人の相手をすることもできた。そして家庭教師を始めてからは、憲法その他のいくらかの法律関係の講義を生徒に向かってするようになった。

そんななかで、やっぱり自分自身に法学の基礎がないことは痛感してきた。「だから今回、法学の本を読んだ」と言ったら、殊勝な話だけれど、それはウソだ。結局、「なぜ」と言われたらそれは直接には古本屋で税込み100円で大学の教科書っぽいのを売っていたからでしかない。奥付を見ると相当に古い本だというのがわかった。ちょうどNHKの朝ドラでやっている「虎に翼」と時代がかぶる。そういう興味もあった。あと、SNSでしばらく前にやたらと「ガイウスが」「ローマ法が」と叫んでいた人がいたというのも記憶にあった。索引を見ると、そういう方面もカバーしているらしい。グロピウスなんかは自由意志論のところで気になっていたけど、国際法の関係で当然出ている。眺めているうちに、「いま、自分にとって読むタイミングなんじゃないか」と思えてきて、それで100円払って買ってきたという次第だ。

 

内容に関しては、一読しただけで書けるほどの素養は私にはない。なのでどうこうと書評めいたことは書かないし、だいたいがこの本、すでに30年以上前に絶版になっていて、故紙寸前の投げ売りか、さもなくば稀覯本としてしか手に入らないもののようだ。なので、レビューする意味もない。個人的に面白いと思った点だけ、以下に書いておく。

まず、この本の初版が出たのは新憲法制定直後の時代だったらしい、というのが興味深かった。そう、「虎に翼」の時代だ。憲法施行から昭和30年代初めぐらいまでの10年ぐらいはかなり興味深い時代だ。私の両親の青春時代でもあり、時代の雰囲気に独特なものがある。この本は1949年の発行以後、1953年の改訂、1961年の全訂、1965年の再全訂、1979年の三全訂と版を重ねた最終版のものであるのだけれど(だからちょうど私の学生時代ぐらいに教科書として使われていたのだろうと思しきものなのだけれど)、それでも憲法制定時の高揚感が文章の端々に残っている。特に、旧憲法下の旧法制度からどのような変化があったのかについて、その渦中にいた人にわかるように説き起こしているところが、70余年を経て、まるでドラマでも見るように興味深く思える。また、主権の変更のような大きな変化について学者をはじめとする権威側の立場の人々がどのように解釈のつじつまを合わせていたのかもどことなく想像できる。ドラマの中に旧態依然の法学の権威みたいな人が登場してたけど、そういう人たちの考え方が依然として無視できなかった時代の雰囲気もどこか感じられて、「なるほどなあ」という印象があった。

元編集者としての興味もあった。組版が古めかしいので最初は活版清刷かと思ったが、1979年版なのでさすがに写植のようだ。割括弧の位置がズレている誤植が一箇所あったが、そういうズレ方は活版ではふつう起こらないだろう。活版ならオモテ罫のなかに1つぐらい潰れが見えてもよさそうなものが見えないのも、写植なんだろうなと思った理由だ。書体が古臭く見えるのは、私がもう写研の文字から離れて長いからかもしれない。それでも、奥付に検印があったのはほんと、時代を感じた。1970年代ならもうほとんど検印廃止だと思うのだけど、律儀にハンコが押してあった。かつてはこれで部数管理してたんだよなあ、印税の語源だよなあ、なんてことを思った。

もうひとつ時代を感じたのは、文が全体的にうまくないことだった。碩学の大先生にこういう失礼なことを言ってはいけないのだろうけど、かつてはどんな大先生でも文章がうまくないことは珍しくなかった。目立つのは、主語と述語の対応が見えにくいことだ。これは一般に長い文を書くときに特徴的に起こる。だから文章を書く際の鉄則として長い文は書いてはいけないのだが、(まさにこの文のように)私たちはついつい分割可能な文を重ねてしまう。この際、主述の関係が見失われがちで、特に句読点を打ちまちがえると可読性が著しく下がる。場合によっては見かけ上完全に主述の対応が失われ、読み下せない文になる。これは書いている本人には案外わからないので、だからこそ20世紀には編集者が朱を入れて著者にお伺いを立てるのが重要な仕事になっていたわけだ。そうはいっても特に学術書などでは、権威である先生の文をそうおいそれといじるのは畏れ多く、「あれ、これは何を言いたいの?」というような難読文がそのまま印刷されることも多かった。これはなにも学者の書く文に限って読みづらかったわけではなく、一般人の文章の読みづらさも相当なものだった。私は90年代に投稿で成り立つ雑誌の編集をやっていたので、そのあたりは身をもって経験している*1。それが急速に変化したのは実は21世紀に入ってからのことだ。学校教育が変わったのがその理由ならたいしたものなのだが、実際にはそうではない。単純に電子デバイスの使用が増えたからだ。PCをはじめとして、インターネットの情報は大量の文字情報を伴う。それまで以上に多くの人が大量の文字を扱うようになって、文章のクォリティは格段にアップした*2。出版物の文章も読みやすいものが多く、編集者が朱を入れる必要なんてほとんどないんじゃないかとさえ思える*3。明らかに現代人の文は読みやすいし、そういう意味で、初版が75年も前に書かれたこの本は読みづらい。「ああ、昭和の頃ってこういう文が多かったよなあ」と、懐かしくなった。

 

あとは、やっぱり体力がなくなったんだなと痛感した。自分のことだ。内容が堅くて読むモチベーションが上がらなかったというのもあるのだけれど、古本屋で見つけてから読了まで1ヶ月以上かかった。本文455ページだから、小説みたいに読みやすいものだったら若い頃の私は3日もあれば読了していたんじゃないかと思う。内容が堅すぎてスピードが出ないときには飛ばし読みや斜め読みをするぐらいのことはできたから、やっぱり1週間ぐらいあれば読めたんじゃないかと思う。けれど、いまの私にはそれだけの体力がない。ポツポツと、読んでは休み、読んでは考え、そんなふうにしてずいぶんと時間がかかった。

これを読んで何かが「わかった」わけではない。実用的には、だいたいがもう古い話で制度もけっこう変わっているので、全くの益はない。歴史的な興味はあるけれど、それも「ふうん、そうなんだ」程度の読了感だ。それでも、法律関係の人の発想がなんとなく前よりも少しだけでも見えやすくなった気がする。そういう意味では、時間をかけただけの値打ちはあったな。

*1:だから私はその時代に相当な悪文読解の技術を身に着けた。私でなければ読み解けない手書き原稿なんてふつうにあったな

*2:実際、いまから20年ほど前に私はネット上で「文章講座」なるものを開講して小金を稼いでいたのだけれど、そのときに開陳していた「読みやすい文を書く方法」は、いまではほとんどの人が実践している常識になってしまっている

*3:実際には私たちが目にする書籍は編集者の仕事の後だからそれ以前の原稿段階はわからないのだけれど、例えばブログのような編集者の手が入る以前の著作物を読んでいても、違和感のある文にはほとんどお目にかからない