土一揆(どいっき/つちいっき)は、15〜16世紀にかけて多発した民衆運動です。その先駆けとなったのが、「正長の土一揆」(しょうちょうのどいっき)。凶作や疫病による借金苦に耐えかねた農民達が、金融業者などを襲撃。室町幕府が借金の帳消しを命じる「徳政」(とくせい)の発布を求めたため、「正長の徳政一揆」とも呼ばれました。この一揆は、室町幕府将軍・天皇の代替わりによる社会不安が拍車となり、室町幕府を揺るがすほどの重大事件へと発展していきます。
土一揆と聞くと、農民による武装蜂起(ぶそうほうき:支配者の圧政に対抗して、武器を取って立ち上がること)を思い浮かべがちですが、「一揆」とは本来、揆(はかりごと:計画、あるいは心の内)を一(いつ:ひとつにする)にするという意味。
特定の目的を持って結成された集団で、武力行使そのものを指す言葉ではありません。一揆が最も活発に行われたのは、室町時代から戦国時代。農民だけでなく、武士・僧侶まで幅広い層が為政者(いせいしゃ:政治を行う人)に対して要求を行いました。
1428年(正長元年)に起こった正長の土一揆は、日本史上初の民衆蜂起と言われます。この年は、西日本を中心に異常気象による凶作が断続的に発生。また2度にわたり京都で洪水が起こり、都は大飢饉に襲われました。
さらに「三日病」(みっかやみ)と呼ばれる流行病が蔓延し、働き盛りの人口が激減。物価も前年の倍近くまで高騰し、庶民はわずかな所持品を質に入れて金銭を借りるしかありませんでした。そして、すべてが行き詰った際、生き残りをかけて蜂起したのです。
正長の土一揆は、まず近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)で発生。次に京都近郊へ波及し、さらに京都市内でも暴動が起こり始めました。
農民達は、債務破棄を求めて徳政を要求。土倉(どそう:高利貸し)・金融業を営む酒屋・大寺院などを襲撃し、質入れした品を奪い返したり、借用書を焼き捨てたりしました。室町幕府は、守護大名(地方行政官)の畠山氏(はたけやまし)・赤松氏(あかまつし)に制圧を命じますが一向に一揆の勢いは衰えず、たちまち近畿一円に拡大。
その規模は、伊賀国(いがのくに:現在の三重県西部)・伊勢国(いせのくに:現在の三重県北中部)・大和国(やまとのくに:現在の奈良県)・紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県)・和泉国(いずみのくに:現在の大阪府南部)・河内国(かわちのくに:現在の大阪府南東部)・摂津国(せっつのくに:現在の兵庫県西部、大阪府南東部)・播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)にまで及んでいくのです。
柳生の徳政碑
柳生(やぎゅう:奈良県奈良市)には、地蔵石の脇に、正長の土一揆の勝利を刻んだ碑文が残されています。内容は、1428年(正長元年)以前のすべての債務を消滅させるという宣言。
正長の土一揆で徳政を勝ち取った者が、記念に彫った物と考えられます。これと同様に、河内国でも21年以内に売買された田畑を取り戻す、徳政が行われました。
このように、正長の土一揆以降、各地で土一揆が頻発するようになり、頻繫に徳政令を出さなければいけないほど、土一揆は過激化していったのです。民衆が再び蜂起した播磨国では、地頭(じとう:荘園の代官)らが討ち死にし、伊賀国でも守護大名が戦死。こうして、土一揆は地頭・守護権力が癒着した支配体制に、一石を投じることとなりました。