面白ければなんでもいい。
旦那と別れてこどもを連れて実家に戻り、古民家再生に取り組む女性R様にお会いした。やりたいことをやっているはずなのに、モヤモヤする。スピが好きな人たちは「ありのままでいいよ」って言うけど、同じ言葉でも使う人によってまったく意味が変わる。誰かに話を聞いてもらいたいのだけど、こどもがいる友達に会うと育児の話題ばかりになるし、独身の男性と会うにも面倒なことが多いからどうしようかなと思った時に、坂爪さんがいるじゃないかと思って連絡した。R様は、そのようなことを言った。
自分には発達障害のケがあって、ゼロからイチを生み出すことには興味があるけど、それを持続させたり管理することに情熱を燃やせない。祖父母が使っていた古民家が使われてなくてもったいなくて、みんなにとっていい使い方がされたらいいなって思うのだけど、掃除や草取りなどの管理が大変。父や母も「たまには使いたい」とか言うから完全に自由には使えないし、旦那も仕事も捨てて出戻りをしたまま定職に就かない自分をきっと両親はイライラしながら見ているのだと思う。起業塾にも通って事業計画を書けとか言われるのだけど、全然やる気が起こらない。R様は、そのようなことを言った。
私は「全部捨てちまえよ」と思った。簡単に発達障害とかアスペルガーとか括るなと思った。言葉を与えられると、何かを知ったつもりになる。だが、肝心な部分を取りこぼしている。責任感はあるけど責任がないのだなと思った。現実が演技的なものになり、何をしても、安っぽく薄っぺらく嘘くさくなっていると思った。責任は「なんでもこい」と引き受けて立つこと。責任感は「どうにかしなくちゃ」と対象をコントロールしようとすること。親のためとかこどものためとかみんなのためとか、言葉は綺麗だが、責任転嫁だと思う。責任感はあるのだが、責任がない。責任を背負うと自由になる。責任感を背負うと不自由になってボロボロになる。
R様は「本当はこんなことはやりたくない」と言った。古民家を生かすためにコミュニティの場を作ったりイベントを開くのだが、別にカフェをやりたい訳ではない。先祖代々続く家だから手放す訳にもいかないのだけれど、親も兄弟も管理が面倒くさいから放置している。要するに「負の遺産」になっているのだが、どうにかして生かしたいと思う。そのようなことを言うR様に、私は再び「全部捨てちまえよ」と思った。好きなことをやっていると言う割には、しがらみまくっているじゃないかと思った。しがらみを捨てると、責任感から自由になる。責任感から自由になると、余白に責任が舞い込む。
誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。期待は呪縛になり、家族制度の呪縛、先祖代々伝わる「負の遺産」になり、関係者全員を苦しめる。期待は呪縛。コントロールは支配。誰かのためとか言い出した途端に、責任転嫁になる。誰かを使って自分を満たそうとする、女郎蜘蛛になる。楽しくないなら正しくない。面白くないなら、やり方を間違っている合図だと思う。面白ければなんでもいい。面白い。楽しい。ワクワクする。このような喜びは自分の人生に責任を与える。外側から張り付けられた責任感などというくだらないレッテルではなく、内奥から湧き上がる責任に燃えあがる。期待は呪縛。コントロールは支配。誰かのせいで不幸になる人間はいない。自分が変われば、すべてが変わる。
おおまかな予定
9月17日(火)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
コメント