私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

英雄たちの選択 六代将軍 足利義教

2016-01-31 10:37:02 | 歴史探索
 1月31日(日)   天気:晴れ   室温:15.8℃

 1月21日(木) NHK BSプレミアムで 「英雄たちの選択」 “リアル暴れん坊の将軍・
足利義教” 破滅への選択 ~足利義教 “最凶伝説”~ が 放送されました。
 足利尊氏が 九州へ逃げる際 室津の室山城で 赤松円心と 会談し ”播磨は 赤松” と 播磨、
美作、備前の三国を 赤松に 任せること言ったのに 6代・足利義教が 三国を理由もなく 山名
氏に渡そうとして 赤松満祐が 腹を立て 義教を暗殺。 これが 嘉吉の乱です。
 追われた赤松満祐は 亀山城に 逃げ帰りますが 大軍に取り囲まれ 自害。 赤松一族は 滅
亡の危機にさらされる・・・。  播磨に住む者としては 足利義教は 憎き将軍です。


NHK ONLINE には
 その将軍 大凶なり! 史上まれな、くじ引きで 選ばれた室町幕府第6代将軍・足利義教(よ
しのり)。幕府の誰も 後継者を決められない異常事態の中 神の意思を うかがう 「おみくじ」
で 将軍になったが、このくじ運が 日本を恐怖のどん底に たたきこんだ! 気に入らない者は 処
刑! 暗殺! 粛清!
 そのあとに 自分のお気に入りを 据える暴走! そんな最凶将軍が 時代の秩序を 破壊し、
戦国時代の扉を開いた。   恐怖の選択 “京都vs鎌倉” 計画とは?
    出演 : 磯田道史 、今谷明 、中野信子 、萱野稔人 、小林恭二

 足利義教は 三代将軍・足利義満の二男として 応永元年(1394) 生まれる。 兄は 四代
将軍・足利義持で 義持の子・五代将軍・義量は 死去。  父・義満は 室町幕府の黄金期を
つくりあげ  兄・義持は 安定政権をつくった。  義教は 10歳で 青蓮院の僧侶となる。


 四代・義持は 亡くなるとき 重臣たちの話し合いで決めるよう言い残し 後継者を決めないまま
亡くなる。 重臣たちは 後継者を決めることができず 「くじ引き」 で 決めることになり 戦い
の神でもある 石清水八幡宮での くじ引きの結果 青蓮院(義教) が選ばれた。 当時 35歳。
 中世の くじ引きは いい加減なものではなく くじ=神が決めた、神の意思、神意 と思われた。
 しかし 世間の風当たりは強く 評判は 良くなかった。  丸刈りの頭のため 髪が伸びるまで
1年以上待たされ 将軍に 就任。  関東は 反対し 足利持氏は これを つぶそうとした。

 将軍に 就任した義教は 異様な行動に出る。 独裁志向、権力強化、軍強化・・・。
気に入らない者は 次々 殺害。 義教に処罰された公家・僧など 80人以上の名が記され・・。
天皇の母親も 殺害。 3人のお坊さんを招いた上 殺害、 永享五年 比叡山を焼き打ち。


 当時 鎌倉公方は 将軍の代理として 関東・東北を 治めていた。  このころ 九州、四国、
大和など 各地で 反乱が起きた。 義教は 呪詛・怨敵、因縁の敵・鎌倉の足利持氏を 討つ
べきか悩んでいました。 京都と鎌倉の協調路線をとるべきか・・。

 義教には 鎌倉公方を 討つ、討たない の2つの選択がありました。 出席者の3人は 討つ
べし。 ところが 歴史学者の先生は 討たないと。 初代・足利尊氏以来 「辺境分治」、
「遠国融和」 の精神があったと・・。
 将軍の直轄地・信濃国で起きた地元の争いに 鎌倉の持氏が 介入。 これにより 義教は 天皇
から 討伐の論旨を 獲得。  永享10年(1438) 義教は 持氏討伐に乗り出す。
 持氏 呪詛の怨敵を討ち払い 関東を治める役割を 果たします。


 永享の乱は 関東地方で発生した乱戦で 鎌倉公方の足利持氏と 関東管領・上杉憲実の対立に
端を発する戦いで 義教が 幕府への反逆行為の持氏を 討伐することを 命じた戦いです。 

 持氏は 戦いに敗れ 自害。 関東では 永享の乱で 室町幕府の秩序がなくなり 戦国的
な状況になる。 戦国時代の始まりです。
 嘉吉元年(1441) 赤松満祐は 義教を自宅に招いて 暗殺。 これが 嘉吉の乱です。
満祐は 義教の首を取り 播磨の安国寺へ持ち帰り 葬ります。 安国寺には 義教の首塚が
あるそうです。 満祐は たつのの亀山城へ逃げ帰りますが 大軍に囲まれ 自害。


 この後 7代将軍になった 義勝は 若くして 病死。 弟の義政が 8代将軍になりますが・・・。
混乱の世となり 応仁元年(1467) 応仁の乱が 始まり 京都は 大火に 見舞われます。
応仁の乱は 足利将軍家の跡継ぎ争いに 管領たちの権力争いが 加わった争いです。
 この応仁の乱の際 赤松家の家臣の活躍で 赤松家は 時勝により復活します・・。 このあと
竹田城の赤松広英(広秀)が 関ヶ原のとき 鳥取城を攻めた際の責任を 取らされ 家康に 切腹
を命じられるまで 赤松家は 続きます。

 。。。。  。。。  。。。。。。。  。。。  。。。。。。。  。。。  。。。。。。。  。。。  。。。。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 歓創居で 色いろ5人展 | トップ | 温室植物園で パイナップルの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史探索」カテゴリの最新記事