12月10日の日曜の昼下がり、岸田文雄首相の姿は東京・神田駅近くの理髪店にあった。自民党安倍派の裏金疑惑で政権が窮地に陥る中、秘書官との打ち合わせや党幹部との会談の合間を縫って1時間40分余り滞在した。
時事通信が配信する「首相動静」によると、岸田首相は2021年10月の就任以来、月2回の高い頻度で髪を切っている。なぜこんなに理容室に通うのか、そもそも店をどう選んでいるのか。首相担当記者(首相番)が最高権力者の散髪事情を探った。(時事通信政治部 村上顕也)
平均滞在は1時間45分
首相の日常は忙しい。多くの面会や会合を連日こなし、国会審議を前に午前6時から事務方のレク(説明)が入ることも。休日は住まいの首相公邸で過ごすことがほとんどで、公務や会食以外で外出することはめったにない。
散髪は、働きづめの首相が私的に外出する数少ない機会だ。首相動静を分析すると、岸田氏が髪を切る頻度は年間平均24.2回。菅義偉前首相の11.4回、安倍晋三元首相の12・2回(第2次安倍政権)と比べても突出して多い。平均滞在時間は1時間45分で、公務や政務で埋まる首相動静の中でも目立つイベントだ。
行きつけは前述の「ヘアモードキクチ神田日銀通り店」。系列の銀座店を含め、首相在任2年2カ月の間に計44回通っている。外相時代から通っていた東京・六番町の「カット・イン・ソーレ麹町店」は計3回。東京・紀尾井町のホテル内にある「ヘアサロン大野 ホテルニューオータニ ザ・メイン店」は計6回だった。
閉店した「カット・イン・ソーレ」
関係者によると、首相は12年に外相に就任するまで、週末に地元・広島に帰った際に散髪することが多かった。東京を離れることが難しくなり、事務所の秘書の薦めで国会から車で5分の「カット・イン・ソーレ麹町店」に通うようになった。
同店の元店長で、首相の担当も務めた仲沢諒さんによると、首相が注文していたのは約1万円のカットと白髪染め、顔そりのセット。21年9月の党総裁選前日にもこの店を訪れ、「翌日のニュースで総裁に選出されたことを知り驚いた」という。
首相は党政調会長時代も含めて同店に約6年通ったが、21年11月に移転のために閉店。新店舗は東京・代々木駅近くと遠くなり、行きつけを失った首相は新たな理髪店選びの必要に迫られた。
新たな行きつけ「ヘアモードキクチ」
カット・イン・ソーレ麹町店の閉店に伴い、首相は過去に利用したことのある高級理髪店「ヘアサロン大野」を3回続けて利用。しかし、2万円台後半という会計は「2週間に1回通うには少し高い」(首相周辺)と判断し、別店舗を模索。その結果、首相秘書官から紹介された「ヘアモードキクチ銀座店」に通うことになった。
系列6店舗を経営する「有限会社キクチ」代表の菊地力央さんによると、首相は警備上の理由から利用店を神田日銀通り店に変更。首相を担当する理容師は当初から銀座店所属で、首相の来店時は神田日銀通り店に毎回出張しているという。
同店でも首相はカットと白髪染め、顔そりのセットを注文。時折ヘッドスパを付けることもあるという。同店ウェブサイトによると、白髪染めのコースは税込み1万1000円で、所要時間の目安は90分。記者(村上)が個人的に同店を利用した際は、カットとシャンプー、顔そりのコースで税込み5500円。所要時間は約45分だった。
首相が愛用していることについて、菊地さんは「店として公表したことはないが、新聞を読んだお客さんや理容室を営む両親が喜んでくれることがうれしい」と語る。
首相は今年4月、和歌山市で遊説中に爆発物が投げ込まれた事件が発生した日も、帰京後に散髪に訪れた。菊地さんは「驚いたが、心を落ち着かせるために利用してもらえたと感じ、理容師として光栄だった」と振り返った。
1年9カ月ぶり「ヘアサロン大野」
42回連続でヘアモードキクチに通った首相は10月29日、1年9カ月ぶりにヘアサロン大野に足を運んだ。突然の理容室の変更に、首相が散髪に行くことを「キクチ」と呼ぶ報道各社の首相番の間には動揺が広がった。
この日の首相は、臨時国会序盤のヤマ場、衆院予算委員会2日目の基本的質疑を翌日に控えていた。関係者によると、首相はヘアサロン大野で、カットや白髪染めのほか、ネイルケアも受けた。店長の石井良幸さんによると、同店はマッサージやヘッドスパなどのメニューが充実。爪の表面を研磨するネイルケアは、名刺交換を多くする要人に人気だという。
記者が個人的に同店を利用したところ、広々とした個室で受けるアロマを使用したシャンプーやシェービングに安らぎを覚えた。髪や肌へのカウンセリングも手厚く、マッサージやスキンケアなどのリラクゼーションが主目的のようにも感じた。所要時間は1時間40分程度、会計は税込み1万4300円だった。
無言で静かに過ごす
「大体2、3週間に1回のペースをずっと守っており、今まで通りだ」。首相は就任後間もない21年12月、頻繁に散髪に行く理由を記者団に問われてこう答えた。
首相は身だしなみに気を使うことで知られる。スーツのポケットには二つ折りのくしを忍ばせ、カバンには整髪料も携える。記者は同行取材で、鏡を前にくしを入れ、身だしなみを整える首相の姿をたびたび目撃した。
頻繁に理容室に通うのは、いつ誰と会っても失礼がないように身なりを整える政治家としてのポリシーなのだろう。
一方で首相を担当した複数の理容師によると、首相は散髪中「無言で、静かに目を閉じている」。経済・外交・政局で難題や危機が次々と訪れる中、散髪中に心を落ち着け、政権立て直しに向けた一手を探っているのかもしれない。