父の教え

演歌歌手・角川博さん 一日一日を精いっぱい生きる

【父の教え】演歌歌手・角川博さん 一日一日を精いっぱい生きる
【父の教え】演歌歌手・角川博さん 一日一日を精いっぱい生きる
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女心を歌わせたら、右に出る者はいないといわれる演歌歌手の角川博さん(62)。父親の憲弘さんは広島市で新聞販売店を営み、角川さんは幼い頃から家業を手伝っていた。早朝の新聞配達にチラシの折り込みなど連日のつらい作業を通じ、父親から学んだことは、一日一日を大切にする前向きな姿勢という。

角川さんの歌のうまさは父親譲り。「おやじは、のど自慢大会でよく優勝していました。地元ではちょっとした有名人で、呼ばれてお祭りで歌うこともありました。録音した歌をレコード会社のプロデューサーに聞かせたことがありますが、僕よりうまいと絶賛していました」

両親がブラジルに移民し、ブラジルで生まれた憲弘さん。戦前に両親とともに日本に戻り、終戦を北海道で迎えた。家族で出身地の広島市に移り、憲弘さんは市内の新聞販売店で経験を積んだ後、独立して「角川新聞舗」を開いた。朴訥(ぼくとつ)として、自分のことを多くは語らなかった父だが、「苦労をしたからでしょう。人一倍根性があった。そして、他人の痛みが分かる人でした」。

柔道三段の猛者で、近所の飲食店に強盗が入った際には、包丁を持った犯人を取り押さえて警察から表彰されたこともあった。

新聞販売店の朝は早く、前夜には新聞に折り込むチラシの準備もある。角川さんもできる限り手伝った。当時の団地にはエレベーターはなく、階段を上り下りしながら新聞を配るのはきつかった。

そんな厳しい生活の中で、ささやかな楽しみは野球だった。「どんなに疲れていても、キャッチボールの相手をしてくれました」

旧広島市民球場は父子にとって思い出の場所だ。ライトスタンドから広島東洋カープを応援した。集金など店の仕事を終えてから駆けつける。仕事も遊びも一生懸命、一日一日を大切にする父親の背中が脳裏に焼き付いている。

中学の野球部では三塁手やリリーフ投手として活躍し、全国屈指の強豪校、広陵高校に進んだ。レギュラーの座はつかめなかったものの、野球に打ち込んだ思い出は「一生の宝」だ。

高校卒業後は洋品店などに勤めた。だが、長続きせず、小さい頃から得意だった歌に活路を見いだした。

福岡市内のクラブで歌っていたことを憲弘さんは快く思わず、「不良の仕事だ」と猛反対されたことも。「おやじに信用してもらえず、つらかった。でも歌が好きだったから続けられたんです」

その後、スカウトされて上京。昭和51年に、「涙ぐらし」でデビューした。2曲目の「嘘でもいいの」で日本レコード大賞新人賞を受賞、スターの仲間入りを果たした。「おやじはデビューをとても喜んで、いろいろな所で『涙ぐらし』を歌って、宣伝してくれました。認めてもらえて本当にうれしかった」と振り返る。

歌手の仕事は人気商売でストレスも多い。「先のことを心配して悩んだりせず、一日一日を精いっぱい生きる。そんなことをおやじから受け継いだので、長く続けられたんでしょうね」。昨年、デビュー40周年を記念してリリースした「蒼い糸」が5万枚のスマッシュヒットとなった。これからも気負わず、自然体で歌い続けるという。(櫛田寿宏)

メッセージ≫ 歌手になるため上京した時は心配させたけど、昨年デビュー40周年を迎えたよ。一緒に歌って、喜びを分かち合いたかった。

角川憲弘

かどかわ・のりひろ 昭和3年、ブラジル生まれ。幼少時に北海道に移住。その後、広島市で角川新聞舗を開業、店主を務めた。平成14年、死去。

角川博

かどかわ・ひろし 昭和28年、広島市生まれ。広陵高校卒。51年、「涙ぐらし」でデビュー。53年に「許してください」でNHK紅白歌合戦に初出場した。ものまねの名人としても知られ、美空ひばりさんや三波春夫さんら幅広いレパートリーを持つ。今年2月には通算60枚目となる「かなしい女」をリリース。9月には新曲「広島ストーリー」が発売予定。

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