『神様のカルテ』『スピノザの診察室』などでも知られる、医師であり作家の夏川草介さんが、忘れられた名著、A.J.クローニンの『城砦』を新翻訳。当初はクローニンに敬意を払ってできるだけ忠実に訳していたが、本人が書きたかったけれど書ききれていないんじゃないかと思うところがあったという。翻訳にあたって意識したこと、小説の執筆との違いなどを聞きました。

1回目 「医師兼作家の夏川草介、初翻訳で絶版の名著『城砦』を復活」
夏川草介氏 1978年、大阪府生まれ。信州大学医学部卒業。長野県で地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞し作家デビュー。同シリーズは累計330万部を突破した。他の著書に、世界数十カ国で翻訳された『本を守ろうとする猫の話』、『始まりの木』、コロナ禍での自らの医師としての経験を基につづり大きな話題となったドキュメント小説『臨床の砦』など。最新作『スピノザの診察室』は24年本屋大賞4位、映画化も決定している。『城砦』は初の翻訳作品。78年、大阪府生まれ。信州大学医学部卒業。長野県で地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞し作家デビュー。同シリーズは累計330万部を突破した。他の著書に、世界数十カ国で翻訳された『本を守ろうとする猫の話』、『始まりの木』、コロナ禍での自らの医師としての経験をもとに綴り大きな話題となったドキュメント小説『臨床の砦』など。最新作『スピノザの診察室』は24年本屋大賞4位、映画化も決定している。『城砦』は初の翻訳作品。
夏川草介氏 1978年、大阪府生まれ。信州大学医学部卒業。長野県で地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞し作家デビュー。同シリーズは累計330万部を突破した。他の著書に、世界数十カ国で翻訳された『本を守ろうとする猫の話』、『始まりの木』、コロナ禍での自らの医師としての経験を基につづり大きな話題となったドキュメント小説『臨床の砦』など。最新作『スピノザの診察室』は24年本屋大賞4位、映画化も決定している。『城砦』は初の翻訳作品。
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夏川さんにとって、『城砦』が初翻訳作品になります。小説の執筆と勝手の違いに戸惑うことはありませんでしたか?

 英語が得意なわけではありませんが、医学論文は基本的に全部英語で読むものですから、言葉の壁をそれほど怖いとは感じなかったです。

 執筆と比べると、確かに翻訳は、まず分からない単語を調べることが入口になるなど、違うこともありましたが、本を書いている感覚とそんなに違いがなかったような気がします。最初は、原文にかなり忠実に翻訳していました。5、6回、原文と照らし合わせてやり直した後に、2回日本語の文章で書き直しています。ですから、最初の翻訳は今の出来上がったものとは全く違うものです。

それだけ書き直すのは、ご自身の作品でもされることですか?

 その時々によってちょっと違うのですが、物語として書いているときと、それを読者に伝わりやすいように状況を描写し、読みやすくブラッシュアップする作業と2段階に分けています。私の小説はそんなに大事件が起こるわけではなく、どんでん返しが起こって、起承転結がすごく明確でというものではむしろないので。ストーリーを楽しんでもらうというよりは、伝えたい自分の思いをしっかり読んでもらうために、文章のテクニックをもともと重視しています。だから、読みやすく楽しく。時にはとにかくリズムを大事にして、五七五に近いような文章を並べたりすると、難しい話がすっと入ってくるような感覚を持つものですので、出来上がった日本語の文章を何度も何度も書き直すという作業は小説の執筆と全く同じです。

『城砦(上)(下)』(A.J.クローニン著、夏川草介訳、日経BP)
『城砦(上)(下)』(A.J.クローニン著、夏川草介訳、日経BP)

最初の翻訳から、特に変わっていったのはどんなところですか?

 クローニンという人が魅力的な人なので、敬意を払って最初はできるだけ忠実に訳したのですが、所々に、恐らく本人が書きたかったけれど書ききれていないんじゃないかと思うところがあった。もう一つは、過去に出ている日本語訳が本当に素晴らしいのですが、原文にはない面白いストーリーやエピソードを随所に入れていることが分かって、自由にやっていいんだと、私の中である程度は吹っ切れた部分がありました。それからは頭の中にいるクローニンと相談をしながら訳すことに加えて、作家として書く作業にだんだん移っていったという感覚です。

既訳(新潮社:中村能三訳、三笠書房:竹内道之助訳)から半世紀以上がたち、新訳ではどんな点に心をくだかれたのですか? どんな部分が違っているのでしょうか。

 日本語がどんどん変化していますので、言葉のリズムは相当違うと思います。原文では、1人の人が長いときには3、4ページずっとしゃべっていますし、同じような形容詞をひたすら繰り返します。竹内先生は、それをすごく上手に丁寧に何かしらの日本語に変えて訳しているのです。素晴らしい訳だと思いますが、SNSの短い文章に慣れている人たちには、読みにくいだろうと思いました。今の若い人たちが楽しく読めることを一番の目標にしましたから、そこは自分なりに変更しているところです。例えば、会話が長くなりすぎないように、あえてオリジナルの情景描写をそこに挿入して、時間の経過が分かるような工夫をしています。

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長い英文訳、想像しただけで頭がこんがらがりそうです。

 確かにひたすらどこで切れるか分からない、どこが主語でどこが述語か見失うぐらいの長い文章に出合うと大変です。これに関しては妻も原文を精読してくれたことが、大いに助けになりました。2人で別々に訳してそれを照らし合わせたり、意見を交わしたり、そうすることによってニュアンスが浮かび上がってくる部分があるんですよね。

すてきな関係ですね。

 これまでやってきたことも私1人じゃ絶対に無理なことです。医者をやりながら本を書いているということは、それ以外のことは何もしていないということです。間違いなく支えてくれる人がいるからできることで、出来上がったものを2人で喜べることは、とても楽しいことです。

 伝えるのが難しいと思ったのは医療制度の違いです。医療現場のリアリティーも『城砦』の魅力の一つですが、イギリスの100年前の医療制度と今の日本の医療制度が全く違うのです。その都度、説明しようとするとそこで物語が途切れてしまう。どんな制度で、どんなことが行われる場所なのかが分かるように地の文で補足して、読みやすさを追求するために注釈をつけないことを一つの目標にしました。

 翻訳本でよくあることですが、巻末の訳注と本文を行き来するのは煩わしいと私自身感じていたことなので、訳注を見なくても読んでいて分かるようにすることが苦心したところかもしれません。若い世代の人たちが、気持ちよく、かつ楽しく読めること。それが一番大事にした部分です。

3回目 に続く)

取材・文/中城邦子 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/益永淳二(夏川さん)、スタジオキャスパー(本)