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芸術作品が鑑賞者の心を表現するとき
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芸術作品が鑑賞者の心を表現するとき

発表者:村山正碩

0. 導入

芸術作品はしばしば芸術家の感情や思考、経験を表現するものとして捉えられる。
他方で、芸術作品が鑑賞者の心を表現しているように思われる場合もある。
私たちは特定のポピュラーソングを指して、自分の感情を(自分ではうまくできなかった仕方で)うまく表現していると言ったりする(cf. 源河 2023)。
これを意識的に目指す芸術家もいる。たとえば、米津玄師はインタビューで以下のように述べている。
たとえば、誰が作ったかもわからないような童謡が今も残ってるわけじゃないですか。(中略)いろんな人のところに届いて『これは私のことを歌ってる』とたくさんの人が共感して口ずさめるようなものじゃないと、そういう風には残っていかないと思う。自分もそういう強度のあるものを作りたいと思うんですね。 (米津 quoted in 柴 2021)
本論では、この種の現象に関する分析美学者の議論を検討し、残された課題を指摘したのち、R. G. Collingwoodの議論を手がかりに、それに対する応答を試みる。
本論の構成は以下のとおり。
芸術作品が鑑賞者の心を表現する現象に関する二人の分析美学者の議論を確認する。
二人の議論に対して、いまだ十分に検討されていない重要な二つの問題を指摘する。
二つの問題への応答の足がかりとして、Collingwoodの議論を取り上げる。
Collingwoodの議論を踏まえて、二つの問題に応答する。

1. 分析美学者の議論

分析美学では、Walton(2015)とRibeiro(2009; 2014)の議論をきっかけとして、芸術作品が鑑賞者の心を表現する現象が注目を集めるようになった。
Walton(2015): 私たちは自分の思いを表現するための手段として詩や音楽を利用できる。
Ribeiro(2014): 人々が悲しい詩を鑑賞する理由の一つは、詩が鑑賞者の悲しみをうまく表現することで、その悲しみを理解し、受け入れることを可能にしてくれること。

1. 1. Waltonの議論

Waltonの主張: 詩はしばしば「思いの代筆(thoughtwriting)」と見なすことができる。
同じことは、純粋器楽のような、歌詞を含まない音楽にも当てはまる。
「思いの代筆」という概念は「スピーチライティング」に由来する。
スピーチライターはスピーチを作成するが、それは自分が使うためのものではなく、依頼人が使うためのもの
言い換えれば、スピーチライターは依頼人の思い(狭義の思考や感情、経験など)を表現するためにスピーチを作成する。
また、私たちはスピーチライターに依頼せずとも、自分の思いを表現するために他人の言葉を流用することがある(例:友人の気の利いた言い回し)。
そして、詩もまた、鑑賞者が自分の思いを表現するための手段として利用できる
言葉が一般にそうであるように、コミュニケーションだけでなく、自分の思いを形づける(formulate)ために利用することもできる。
音楽(純粋器楽)を何者かの感情の継起を表現するものとして鑑賞することが適切であるかぎりで、鑑賞者は自分の感情を表現するために音楽を利用することも可能

1. 2. Ribeiroの議論

Ribeiroは、人々が悲しい詩を鑑賞する理由を探究する文脈で、Waltonと共通の見解を述べている。
もし苦痛な感情を認識し、理解し、ともすれば克服する過程の一部に、自分が感じているものを言葉にすることが含まれるとすれば、他人の詩の中にその言葉を見つけることで、自分の思考や感情を表現するための既製品の手段が得られる。 (Ribeiro 2014: 190-191)
悲しい詩を自分の感情を表現するための手段として流用することの意義は三つある。
自分では表現できなかった感情を表現できるようになることで、胸のつかえがとれ、解放感が得られる
さらに、感情に表現が与えられると、その感情をよりよく理解できるようになる
自分と同じ感情を他人も共有していることがわかり、他人も同じ感情をもつ以上、自分の感じ方はおかしなものではないと感じられる
悲しみの只中にあると、世界や身近な人がよそよそしく感じられるようになるが、自分がこの世界の一員であるという感覚を取り戻すことができる
悲しい詩は、自分の感情に浸るための時間を提供し、その感情を理解し、受け入れるための助けとなる。
ここでも、自分と同じ感情を他人も共有しているとわかることが大きく貢献する。

2. 批判的検討

二人の議論を経て、分析美学では、芸術作品が鑑賞者の心を表現する現象が注目されるようになった(Carroll 2019; Kim & Gibson 2021; 源河 2023)。
そんな状況下、これまで十分に検討されていないが、重要な問題が二つある。
第一の問題: 鑑賞者の感情を表現することで、芸術作品は鑑賞者がその感情をより明確に理解できるようにすると二人は指摘しているが、芸術作品による感情の明確化がいかに行われるかが明らかではない
関連する論点: Waltonは、思いの代筆がコミュニケーションだけでなく、鑑賞者の感情を形づける用途をもちうると指摘するが、これがいかに(コミュニケーションとは独立に)鑑賞者にとって利用価値のあるものとなるかは明らかではない。
一つの解釈は、捉えどころのない感情を形づけることで、それをよりよく理解できるようになる、というものであり、明確化の論点につながる。
実際、Ribeiroが悲しい詩を流用することの第一の意義について論じるとき、形づけと明確化という二つの論点は接続されている。
前掲: 感情に表現が与えられると、その感情をよりよく理解できるようになる。
源河も二つの論点を接続している。
「恋に落ちたらこうなる」と歌うラブソングを聴くと、〔⋯⋯〕自分では言葉にできなかった気持ちが歌詞によって言語化され、「自分はこう思っていたんだ」と理解できるようになるのです。 (源河 2023: 211)
感情を形づけることの価値が明確化で説明されるなら、明確化のメカニズムの探究はさらに動機づけられる。
第二の問題: 芸術作品が鑑賞者の心を表現する現象はまず詩、次いで音楽の鑑賞において生じるものとして論じられるが、その他のいかなる芸術種において生じうるかが明らかではない。
言い換えれば、議論の射程が明らかではない。
たとえば、自分の感情を表現するために視覚芸術を流用することは可能だろうか。
Ribeiro(2009)はその可能性を認めているが、実例を示していない。
もし議論の射程が詩と音楽に留まらないとすれば、その他の芸術種に着目した研究を行うことで、この現象か、当の芸術種に関して新たな知見が得られることが期待される。
本論では、分析美学者よりも早い時期から同様の現象に着目していたCollingwood(1938)の議論を参照することで、二つの問題に応答したい。

3. Collingwoodの議論

分析美学において、Collingwoodは芸術作品を芸術家の自己表現と見なした哲学者として認識されている(cf. Carroll 2019)。
また、感情は表現されることで明確化されるというCollingwoodの論点も知られており、Waltonは、思いの代筆が感情の明確化に貢献しうると一言だけ述べているが、脚注で彼の名前に言及している(ただし、名前に言及しているのみで、彼の議論の内容について一切触れておらず、文献参照さえしていない)。
この認識が適切かはともかく、彼はWaltonとRibeiroに先立って芸術作品が鑑賞者の心を表現する現象について論じている
詩を読んで理解するとき、人は単に詩人によるその感情の表現を理解するだけではなく、詩人の言葉において自分の感情を表現しているのであり、したがって、その言葉はその人自身の言葉となる。 (Collingwood 1938: 118)
同種の現象に関する分析美学の議論では、この点は(彼の名前が言及される場合も)指摘されておらず、彼の議論がいかに注意深く読まれていないかがわかる(cf. Carroll 2019; Kim & Gibson 2021)。
以下では、本論の関心に関わるCollingwoodの議論を再構成して提示する。
Collingwoodは〈自己理解としての自己表現〉と呼ぶことのできる現象を扱っている。
彼が直面している課題は、この経験を芸術作品に落とし込むという課題である。彼は何か重要な、あるいは感動的な、他とは一線を画す経験に遭遇した。その表現されずにいる重要性は、重荷として彼の心にのしかかり、それをどうにか表現する方法を見つけるよう彼に挑んでいる。そして、芸術作品を制作するという彼の労働は、その挑戦に対する彼の応答なのである。 (Collingwood 1946: 314)
ここでは、Collingwoodがある種の自己表現、自分の経験を表現する活動に関心をもっていることがわかる。
ある人が感情を表現していると言われるとき、彼について言われているのは以下のようなことだ。まず、彼は一つの感情をもっていることを意識しているが、その感情が何であるかは意識していない。彼が意識するもののすべては動揺や興奮であり、そうしたものが彼の中で進行していることを彼は感じるものの、その本性について無知である。この状態では、彼が自分の感情について言えるのは、「私は感じている⋯⋯私は自分が何を感じているかわからない」ということに尽きる。この無力で抑圧された状態から、彼は自己表現と呼ばれるものを行うことで自らを解放する。これは私たちが言語と呼ぶものと関わりのある活動である。彼は話すことによって自分自身を表現するのだ。それは意識とも関係がある。すなわち、表現された感情の本性について、彼はもはや無意識ではない。それはまた、彼が感情を感じる仕方とも関係がある。表現されずにいるとき、彼は無力で抑圧された仕方でそれを感じるが、表現されたとき、彼はこの抑圧の感覚が消え去った仕方でそれを感じる。彼の心はどうにか明るくなり、楽になる。 (Collingwood 1938: 109-110)
ここでは、自己表現を通して、自分が表現しようとしていた感情の本性を意識することができるようになる、言い換えれば、一種の自己理解が達成されると言われている。
この活動は自己理解としての自己表現と呼ぶことができる。
では、自己理解としての自己表現の内実はどのようなものか。
前提として、経験の前意識レベルと意識レベルが区別される。
前意識レベル: 感覚の流れが位置づけられる。注意が向けられることで、感覚ははじめて意識され、当の感覚についての意識経験が生まれる(ここで次の意識レベルに移行する)。
感情の場合、その感覚的側面(その感情をもつとき、自分の身体や世界がどのように感じられるか)が問題になる。
意識レベル: 意識経験が位置づけられる。意識経験は操作(明確化や焦点化など)の対象となる。
意識経験を操作することも一種の注意だが、想像力の行使を要する(想像的注意)。
意識経験の操作の知覚的事例: リンゴを見るとき、その輪郭の形に注目するか、その色合いに注目するかに応じて、意識経験(見え方)が変化する。
意識経験の操作の内観的事例: 仕事中に腹痛に襲われ、なるべく意識しないようにしていたが、病院に行き、医者に腹痛の特徴を報告すべく腹痛に注意を向けると、その意識経験がより鮮明になる。
自己理解としての自己表現の目的は、自分がもっているが、十分に意識していない経験をより明確に(より正確に、より情報量に富んだ仕方で)意識すること。
これは意識レベルで行われる活動(わずかにでも意識された経験が出発点となる)。
まず、彼は一つの感情をもっていることを意識しているが、その感情が何であるかは意識していない。 (Collingwood 1938: 109)
経験はつねにわずかでも意識されている可能性があるため、この議論では、一切意識されない経験の存在にコミットする必要がない。
この目的を果たすことの実践的価値: 感情は、意識されずにいる場合でも私たちの行動に影響を及ぼしてくる。十分に意識してはじめて、私たちは自分の感情に適切に対処できるようになる。
問い: 自己理解としての自己表現の目的がそのようなものであるならば、なぜ表現活動を行う必要があるのか。単に心のなかで意識経験を操作するだけではいけないのか。
応答: 意識経験の明確化は想像力の仕事だが、想像力はそれ自体としては非力であり、媒体(言葉、絵具、音など)の力を借りてはじめて大きな力を発揮する
Collingwoodは意識経験の明確化における媒体の役割を明示的に述べていないものの、以下のようなものが示唆されている。
まず、媒体はある経験がどのように感じられるかを示すはたらきをもつ。
このはたらきは「内的表出性」と呼ばれる(村山: 2022; cf. Green 2007)。
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エドヴァルド・ムンク『叫び』 「渦巻く形、毒々しい色、劇的なコントラスト、力強い筆致」に加え、構図(二次元平面として見ると、主人公は画面下方に押しつぶされており、三次元空間として見ると、極端な遠近法が採用され、主人公は橋の後方の二人の人物から隔絶している)を用いることで、苦悩や疎外感に襲われた者の経験を示している(Robinson 2000: 215; 2005)。
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テイラー・スウィフト「レッド」
彼を愛することは新車のマセラティで行き止まりの道路を突っ走るようなもの Loving him is like driving a new Maserati down a dead-end street
媒体に示された経験は対象化され、固定されているため、私たちは媒体に示された経験を自分の経験の比較対象として利用でき、また、自分の経験に見合うか、深い反省の対象にできる。
比較対象(対象化のポイント): 芸術作品を鑑賞する際、他の作品と比較しながら鑑賞することで、作品のより細かな特徴に気づくことができるように、比較対象を設けることで、自分の経験をよりよく意識することができるようになる。
深い反省(固定のポイント): 比較対象となる経験が絶えず変化している場合、焦点が定まらず、深い反省が難しくなるため、固定されていることが望ましい。
自分の感情を表現する画家の例(cf. Townsend 2019): 個々の筆致、事物の描き方について、それが自分の感情に見合うかを慎重に検討し、よりふさわしい方向へと作品のあり方を調整し、きめ細かな仕方で自分の感情を意識することができるようになる
「この色調は私が感じているものではない⋯⋯これも違う⋯⋯これだ!」といった具合に作業は進む。画家の感情は十分に意識されない場合でも、画家の表現活動を導く役割を果たすことができる(村山 2023)。
同様の現象は言語による思考の表現にも見られる(Alshanetsky 2019): 特定の議論に対して自分が抱いた批判的思考を、文章を書くことで(あるいは内語を重ねることで)、より明確に意識することができるようになる。
これは、近年の心の哲学で議論されているような、認知プロセスが環境資源によって強化される現象の一種と見なすことができる(cf. Sterelny 2010)。
筆算: 筆算は暗算ではできないような計算を可能にするが、その計算プロセスはペンや紙のような環境資源およびその操作なくして成立しない。
自己理解としての自己表現: 言葉や絵具などの媒体を利用することで、それなしには不可能であるような、精緻な自己理解のプロセスが可能となる。
ここで本論の主題につながる: Collingwoodによれば、自己理解としての自己表現の主体のみならず、その産物(典型的には芸術作品)の受け手も自己理解を深めることができる
媒体によって対象化された経験は公的にアクセス可能であるため、芸術制作によって獲得された自己理解は、その作品を鑑賞することで、同じ経験を共有する者にも獲得される (cf. Collins 2021)。
以上、本論の関心に沿ってCollingwoodの議論を再構成した。
次節では、本節の議論を踏まえて、2節で示された二つの問題に応答する。

4. 問題に応答する

第一の問題: 芸術作品による感情の明確化はいかに行われるか。
応答: まず、感情の明確化は表現活動(媒体を用いた自己理解のプロセス)を通して行われうるが、それがいかに行われるかは前節で議論したとおり。
ここで、表現者はある感情がどのように感じられるかを示す媒体の力を利用しているが、それと同じ力によって鑑賞者も自分の感情を明確化できる
芸術家は媒体の扱いに秀でているため、媒体を用いた自己理解のプロセスを人一倍うまく遂行することができる。そして、私たちはその成果を共有することができる。
これは私たちが芸術作品と関わることの重要な理由の一つだろう。たとえば、米津玄師の《Lemon》について、一人のリスナーは以下のように述べている。
できあがった曲について彼は、『ものすごく個人的な感情を抽出してでき上がった曲で‥‥これで果たして大丈夫なんだろうか』と話していた。それに対して、「大丈夫です、ちゃんと届いています。」と伝えたい。 米津玄師という一人の人間の悲しみが歌詞に込められていることで、私は“悲しみの型”を与えられていると感じた。そして、死に直面したときの、現実として受け入れられず、過去の思い出に逃げるようなもやもやした感情を“悲しみの型”に当てはめることで、ちゃんと悲しむことができた。だから、たとえ個人的な感情を歌にしただけとはいっても、私にとっては『Lemon』はとても意味のある曲になった。そう考えるのは、私だけではないはずだ。 (藤崎 2018)
ここで、自己理解に関する直接的な言及はないが、米津の曲によって「もやもやした感情」に「型」が与えられたと言われており、その感情をより明確に意識することができるようになったことが示唆されている。
そして、もし「ちゃんと悲しむこと」が自分の悲しみと正面から向き合うことであるなら、それは自分の悲しみを十分に意識できない状態から抜け出すことを含むに違いない。
第二の問題: 芸術作品が鑑賞者の心を表現する現象はいかなる芸術種において生じうるか。
応答: 芸術一般を射程に入れたCollingwoodの議論が示しているように、ある経験がどのように感じられるかを示す力をもつ媒体を用いる芸術種であれば何でもよい。
この力こそ、鑑賞者が芸術作品のうちに自分の経験を見つけることを可能にしているが、多くの媒体がこの力をもつため、この現象は多くの芸術種において生じうる。
たとえば、視覚芸術の場合:
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アボガド6『心配事』2017.
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アボガド6『立ちくらみ』2017.
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ビデオゲームやモニュメントなど、検討されてこなかった芸術種について検討してみると興味深い知見が得られるかもしれない。
むすび: 3節で指摘したように、CollingwoodはWaltonとRibeiroが論じているものと同じ現象について論じているが、そのことは分析美学において見逃されてきた。
本論が分析美学とそれ以前の英語圏の美学の距離を縮めることに貢献すれば幸いである。

参考文献

Alshanetsky, E. 2019. Articulating a Thought. Oxford University Press.
Carroll, N. 2019. Love Songs. in The Routledge Handbook of Love in Philosophy, ed. A. M. Martin, 242-251. Routledge.
Collingwood, R. G. 1938. The Principles of Art. Oxford University Press.(『芸術の原理』近藤重明訳. 勁草書房. 1973.)
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Collins, D. 2021. Expression, Creation, and Discovery. McGill University. PhD thesis.
Green, M. 2007. Self-Expression. Oxford University.
Kim, H. H. and J. Gibson. 2021. Lyric Self-Expression. in Art, Representation, and Make-Believe: Essays on the Philosophy of Kendall L. Walton, ed. S. Sedivy, 94-111. Routledge.
Ribeiro, A. C. 2009. Toward a Philosophy of Poetry. Midwest Studies in Philosophy, 33(1), 61-77.
———. 2013. Heavenly Hurt: The Joy and Value of Sad Poetry. in Suffering Art Gladly: The Paradox of Negative Emotion in Art, ed. J. Levinson, 186-206. Palgrave Macmillan.
Robinson, J. 2000. Languages of Art at the Turn of the Century. Journal of Aesthetics and Art Criticism, 58(3), 213-218.
———. 2005. Deeper than Reason: Emotion and its Role in Literature, Music, and Art. Oxford University Press.
Sterelny, K. 2010. Minds: extended or scaffolded? Phenom Cogn Sci, 9, 465–481.
Townsend, P. 2019. Creative States of Mind: Psychoanalysis and the Artist’s Process. Routledge.
Walton, K. 2015. In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence. Oxford University Press.
源河亨. 2023. 『愛とラブソングの哲学』光文社.
柴那典. 2021. 『平成のヒット曲』新潮社.
藤崎洋. 2018. 「悲しみの中にある光:今、改めて米津玄師『Lemon』のすごさについて考える」rockinon.com. Accessed November 1, 2023.
村山正碩. 2022. 「表出性と創造性:表出説を改良する」『新進研究者 Research Notes』(5), 11-18.
———. 2023. 「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」『Contemporary and Applied Philosophy』(14), 99-115.