日本近現代史の開拓と、「右派論客」の顔と 恩師・伊藤隆さんを悼む
寄稿 古川隆久・日本大学教授
日本近現代政治史の第一人者として知られた歴史学者で東京大学名誉教授の伊藤隆さんが8月、91歳で死去した。かつて伊藤さんのもとで学んだ古川隆久・日本大学教授(日本近現代史)に、伊藤さんが日本の近現代史研究に残した功績や、晩年の保守論客としての活動について寄稿してもらった。
◇
伊藤隆先生は、日本近現代政治史研究に実証的手法を定着させた、という意味で一時代を画した歴史学者である。私は、学部から大学院にかけて通算8年間、その門下で学んだ。
私は伊藤先生に鍛えられたからこそ歴史研究者としてやってくることができた。伊藤先生はまさに感謝すべき「恩師」であり、学生・院生時代の楽しい思い出もあり、恩師の教えを受け継いでいることも多々ある。しかし、研究を進めるうちに、日本近現代史や歴史について、恩師とは考え方が異なっていった面があることも事実である。そうした前提から、恩師の「遺産」について考えてみたい。「負の遺産」についても考えるので、以下、あえて「先生」ではなく、「氏」という呼称を使うこととする。
「当時そうであった」状況 知ること可能に
伊藤氏は、東大生時代に日本共産党系の活動家となり、やがて共産党を離れて左翼系学生組織で活動、1960年の安保闘争を機に活動から手を引き、歴史研究者を目ざした。当時、日本近現代史はまだ歴史学の守備範囲とは考えられておらず、氏は何人かの同期生とともに、歴史学における日本近現代政治史研究の開拓者の一人となった(伊藤隆『歴史と私』2015年)。
なお、共産主義、別名マルクス主義は、19世紀ドイツの思想家カール・マルクスが生み出した、労働者を搾取する資本主義社会を変革し、人類世界全体を共産主義社会にすれば人類は幸せになるという思想である。
伊藤氏の学問上の功績の一つは、日本近現代政治史、特に大正・昭和期の政治史の実証的研究という手法を開拓したことである。一次史料(日記、書簡、書類など)の発掘と当事者への聞き取り調査を徹底し、史料を同時代の全体状況を踏まえて読み込むことで、政治学の理論や特定の政治信条(イデオロギー)から解き放たれた、まさに「当時そうであった」状況を知ることを可能にした。
伊藤氏の方法論は、デビュー作にして代表作の『昭和初期政治史研究』(69年)ですでに確立している。1930年のロンドン海軍軍縮条約をめぐる政争の全体像把握を目指したこの分厚い学術書は、史料引用が非常に多いことが特徴である。自身で発掘した数多くの史料によって確固たる歴史像を打ち出した。
人は自分の人生を合理化しなければ生きていけないので、どうしても過去の自分を美化しがちである。日本近現代政治史の場合、45年の敗戦に至る過程で国家の重職にあって戦後生き残った人ほど、人生を美化する程度は激しくなる。しかし今後、最悪の事態を避けるためには、本当は当時どうだったのかがわからないと対応のしようがない。
だから、結果を知らないうちに書いた日記、手紙、業務日誌や書類、当時刊行された新聞、雑誌、書籍、当時作られた画像、録音は歴史研究では必須の史料である。しかし、時代が近い場合、個人や組織の名誉に関わるという理由で公開されない、あるいは廃棄されてしまう場合が少なくない。実際、45年の敗戦時、日本政府や軍部は、連合国による戦争責任の追及を恐れて、大量の公文書を意図的に焼却した。
記事の後半では、伊藤さんの学問上のもう一つの功績である「革新」派論や「日本ファシズム」否定論といった学説面の足跡、そして古川さんが「負の遺産」と評する晩年の保守論客としての活動になぜ伊藤さんが傾いていったのかを考察します。
伊藤氏は、国政の中枢に関わった人々に会いに行き、自宅に残されている史料の発掘に尽力するという、従来行われていなかった作業を独力で始めた。またそれらの史料を読み解く手掛かりとするため、そうした人々への聞き取り調査にも尽力した。調査の範囲は軍部、官僚、政党、労組、マスコミなど多岐にわたり、のちに戦後史にも及んだ。明治史関係を含む膨大な数の史料集、聞き取り記録集を刊行し、国立国会図書館憲政資料室で史料を公開した。日本近現代政治史の研究者で、伊藤氏のこうした史料発掘の恩恵を受けない人はいない。多くの研究者仲間や大学院生などとの共同作業で、大量の史料があっという間に広く使えるようになった。こうした共同作業は実証的な研究手法を研究者の間に広く普及させることにもなった。私もその恩恵を受けた一人である。共同研究組織者としての能力の高さも伊藤氏が大きな成果を上げた要因といえる。
マルクス主義的歴史観では説明できない
伊藤氏の学問上の功績のもう一つは、『昭和初期政治史研究』で発表した「革新」派論と、76年に発表した「日本ファシズム」否定論という二つの学説である。
大正時代にマルクス主義の強い影響を受けた人々の多くは、昭和戦時期には反戦論者ではなく戦時体制強化の推進者となり、戦後はその多くが今度は日本社会党の政治家となった。「革新」派論は、この現象について、その時々のマスコミがその人々の主張を「革新」という言葉で表現してきた事実をふまえ、その人々を、常に相対的な意味での「革新」を目ざしていた人々であると意義づけた。これによって、大正期から自民党長期政権期にいたる日本政治史におけるさまざまな権力闘争や論争を明快に整理して理解できるようになった。そのため、この学説は日本近現代史研究の世界では広く用いられている。
「日本ファシズム」否定論は、日本はドイツやイタリアのような全体主義的な政治体制になったことはないという学説である。これは日中戦争期の40年10月に創設された大政翼賛会について、当初はナチス党などのような独裁政党を目指す動きもあったが、天皇の権限を奪うという理由で反対論が多く、結局41年春に政治団体ではなくなったという史実に基づいた学説である。
もちろん、ナチス・ドイツのような独裁国家化を主張する政治家・官僚・軍人・ジャーナリスト、政治団体は存在したし、戦時下では言論統制や同調圧力、最後には特攻隊など様々な問題が生じ、ファシズム的な雰囲気があったことは事実である。しかし、粛清や強制収容所、秘密警察があったわけではなく(悪名高い特高の存在は公表されていた)、41年12月の太平洋戦争開戦時の首相東条英機も、戦局悪化の責任を取る形で44年7月に退陣しており、独裁者といえるほどの強権は持っていなかった。昭和天皇は、制度上は全権を持っていたが、好き放題のいわゆる独裁をやっていたわけではない。
伊藤氏は、実証的研究の結果として、資本主義の行きつく先が全体主義であるというマルクス主義的な歴史観が歴史の説明に役立たないことを明らかにした。今、我々がこの説からくみ取れるのは、独裁者さえいなければ戦争も抑圧もない、とはいえないということである。独裁がなくても戦争や抑圧が拡大したのはなぜかを考えなければならないのである。
この「ファシズム」否定論は、発表当初、当時はマルクス主義史観全盛だった日本の歴史学界で大きな批判を浴び、伊藤氏は学会主流から孤立状態となった。しかし、確固たる史料的裏付けがあるので、この学説も今では広く受け入れられている。
この二つの学説に基づく伊藤氏のもう一つの代表作が『近衛新体制』(83年、のち『大政翼賛会への道』2015年)である。本書は、軍部・官僚・政治家の「革新」派がどのようにして大政翼賛会の設立に関わったかを実証的に明らかにしており、昭和戦時期の政治史研究では今でも必読書の一つである。
伊藤氏は、昭和戦前・戦中の実証的な政治史的研究の成果と、日本近現代史に関する史料発掘(資料の公開・刊行、聞き取り調査の刊行)の数多さで不朽の業績をあげ、今でも日本近現代史研究に大きな影響を及ぼしているのである。
歴史から何を学ぶか「学ぶ必要はない」
一方で、伊藤氏には負の遺産もある。93年に東大を定年退官後、いわゆる右派の論客として知られるようになったのである。ただし、退官後に考え方を急に変えたのではない。東大在任中から歴史学界や歴史教育の世界が左翼主流だとして違和感を表明していた。伊藤氏は、日本を滅ぼす思想としてマルクス主義を強く警戒していたのである。
伊藤氏の考え方が広く知られるようになったのは、「自虐史観」の打破を目指して96年に「新しい歴史教科書をつくる会」に主要メンバーとしては唯一の歴史学者として参加し、中学校社会科の教科書の作成に関わってからである。この教科書は、愛国心養成のため、建国神話や昭和期の一連の戦争を肯定的に扱っている。
そのため、学界、教育界のみならず社会からも強い反発を呼び、採用率は当初はほぼゼロだった。その後、このグループは分裂したものの、2006年の改正教育基本法で愛国心重視が盛り込まれるなどの状況の変化の中で採択率は数パーセント台に上昇した。グループ分裂後、伊藤氏は育鵬社の『中学社会 新しい日本の歴史』に関わってきていた。
毎日放送が17年に放送したドキュメンタリー番組「教育と愛国」で、ディレクターの斉加尚代氏の「歴史から何を学ぶべきですか」という問いに対し、伊藤氏は「学ぶ必要はない」と答え、育鵬社の教科書の目的を聞かれ、「ちゃんとした日本人を作る」と答えている。斉加氏は、「育鵬社の教科書は、国家にとって歓迎すべき〝道徳を学ばせよう〟としている」と解釈している(斉加尚代『教育と愛国』19年)。
伊藤氏のこれまでの言動や活動と、人類世界全体が共産主義社会になることを理想とするマルクス主義思想が最終的には国家という枠組みの超越を目指していることをふまえれば、伊藤氏の考え方は次のようになる。歴史研究の成果をもとに日本近代史を学ぶと、国家についての批判になりがちで愛国心が育たず、いつの間にか左翼思想(マルクス主義)に染まってしまい、日本という国家は滅びてしまう。それを避けるため、日本という国家を愛する気持ちになるような歴史教育をすればよいのだ、という考え方である。
歴史から社会や国家を考えるのではなく、愛国心のために歴史を利用するという考え方に伊藤氏が立ち至った原因としては、学生時代の体験からイデオロギー優先というマルクス主義の非人間的な側面を痛感していたことと、自身の研究成果が歴史教育に十分反映されていないことへのいらだちを指摘できる。
しかし、こうした歴史教育では偏狭な国家主義を持った人間ばかりが養成され、国家がミスをしても誰も気づかない、仮に誰かが気づいても気づいた人の方を排斥する社会、結局は伊藤氏が嫌ったような非人間的な社会が出現してしまう。それがどのような結果をもたらしたかは、80年前の日本を振り返ればわかることである。
多くの研究成果をもたらした歴史学者として、より広い視野で歴史の見方について提言をしてもらえていたら、どんなにすばらしかったことか。伊藤氏の歴史学者としての軌跡は、歴史学と国家や政治との関係を考える上での痛ましい事例として今後研究されていくことだろう。(寄稿)
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