死生観

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以前、自分の仕事から得た実体験に基づく死生観についてFacebookにて書かせて頂いたのですが、結構好評で影響を受けたという方が何人かいらっしゃいましたので、こちらのブログの方にも転載して残しておこうと思います。



今日は、仕事に対する死生観についていろいろと考えていました。


仕事に死生感を持って臨むだなんて、なんて大袈裟な奴なんだと思われるかもしれませんが(笑)

当社は法定3カ月点検というトラックの点検のほかに、独自に一カ月点検というものを行うのですが、これは運転手が一台のトラックのほぼ全ての可動部、消耗品を点検します。

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基本的に整備工場へ出してメンテナンスを行うのは車検整備と法定3カ月点検というものだけで、その他の全ては運転手自らが整備を行います。


トラックを運行する際は、トラックの全てが理解できていなければなりません。


運行中にパンクしたら例え台風や大雪の中であっても自分で交換し、電装関係の故障についてもすべて自分の責任で行います。

会社に出社して自分のトラックの鍵を受け取った瞬間から、すべての責任は運転手に任されるのです。


よって、ボルト一本からナット一個に至るまで、緩みや破損が無いか逐一確認しておく必要があります。
整備の不良によって事故が起きた際には、全て運転手の責任になります。


歩合給である以上は、トラックというものは商売道具であり、会社から頂いた貸店舗のようなものです。
会社から借りているトラックを一人で動かし、一人で売り上げを出し、商売を行い飯を食べます。

ありふれた言葉で言うなら相棒です。


綺麗に磨けば愛着が湧き、毎日手入れしていればどこが悪いのかすぐに気付きます。


運送の仕事をして気付いたのは、この仕事は稼ぐ前に「生きること」と「死ぬこと」が常に隣り合わせだという事です。


売り上げを上げる以前に、まず生きなくてはならないのです。


我々は、一度の運行の事を「一航海」と呼びます。


一航海に出てしまうと、必ず生きて帰ってこれる保証はありませんし、他人を殺めてしまう事も十分あり得るのです。


過去に、埼玉県の入間から岐阜県まで、片道400kmの運行を行ったことがあります。


深夜3時に出発すると、一時間半ほどで中央自動車道の談合坂SAあたりまで到達するのですが、雨の時は物凄く恐ろしかったです。


最大積載量12800kgの25tトラックで時速75kmで走っていると、もう何があっても止まれないのです。

これは意思の問題ではなく物理的なもので、曲がりくねる真っ暗な夜の中央道で、カーブの先に乗用車でも横転していたら100%止まる事は出来ません。


ですから、「無事に通り抜けさせてください」と、走るときは常に祈り続けます。


努力どうこうで避けられるものでは無いのです。


「無事に通り抜けたい」という自分の希望に対して、道路という無感情で人間の意思が全く反映されない「モノ」と向き合いながら仕事をしているのだから当然の事です。


僕には意思はあっても、道路には意志がありません。


だから祈る事しか出来ないのです。


そんなあるとき、岐阜へ向かう仕事が続いた時に、いつも一緒の時間帯に走っているトラックがある事に気付きました。


中央道でいつも同じインターチェンジで乗り、同じ方向へ向かって、毎日同じナンバープレートのトラックを見かけるようになりました。


一週間ほど経ったある日、中央道で大きな事故がありました。


渋滞を抜けて、いつもの談合坂で無数のパトカーと消防車が集まっています。


通り抜けつつ事故の様子を伺うと、いつも航路を共にしていたそのトラックが中央道の側壁に衝突して大破していました。


運転席は完全に押しつぶされ、もはや原型は留めていませんでした。


言い知れない無力感とともに、「何故なんだ」と自分に問いました。


「今日死んだ運転手と、今事故を起こさずに走っている自分にはどんな違いがあったのだろう?」と考えました。


来る日も来る日も考え続け、出た答えは「何も違わない」という事でした。


事故の原因はわかりません。


整備不良でブレーキが効かなかったのかもしれないし、居眠りをしてしまったのかもしれません。

でも、きっと考えていたことは僕と同じだと思うんです。


事故なんて起こしたくて起こしたくなかったはずです。


大切な車を壊したくなんかなかったはずです。


死にたくはなかったはずです。


そうやって、どうしても避けられない事故もある。


真っすぐ真剣にトラックに向き合う事しかできない僕だけれど、それでもきっと事故に遭う事もあるのだと。


そんな出来事を繰り返すうちに、いつ今生の人生が終わっても悔いのないよう、毎日の価値が大きくなり、より大切に生きるようになります。


毎日毎日、生死に向き合っていると生きていることの素晴らしさという事を実体験で経験します。


そして、時には地球というものの美しさも目の当たりにします。


夕日が沈み、やがて上る朝日の美しさは夜を走り抜けた者にしか分かりません。


真冬の朝、白け始めた太平洋の朝焼けを観ながら、全開に明けた運転席の窓から吹き込んでくる刃物のような冷気を受けたときの清々しさは、季節を走り抜けた者にしか分かりません。


どれだけ走っても明けない夜は無いのです。

そして沈まない昼も無いのです。


僕は、この時代を生きている。


こんな綺麗な世界で、世界中にいる何万人、何億人の主人公とつながっている。


毎日、一日の終わりを観ながら走り、一日の始まりを体験して駆け抜けます。

時を「リアルタイム」で体感することで、世界をとても大きく実感することが出来ます。


「ああ、自分はなんてちっぽけな存在なんだ」


当然来ると思っている明日は、誰しもが必ず保証されてやって来るものでは無いのだという現実に、まっすぐ直面して気付いた事があります。


それは


「今生の人生を、自分の可能性と向き合いながら一生懸命に生きなければもったいなすぎる!!」

という心持ちでした。


「この大きな世界で、自分はどれだけの事に挑戦できるだろうか?」
「本当の意味で命を掛けて駆け抜けるという事を現実にやってきた僕なんだから、この経験を勇気変えて、もっともっと出来る事もあるんじゃないか?」


これが、自分が「憧れと夢に挑戦してみたい」という心境に目覚めた根本なのかもしれません。


命とその限界と向き合ったこの経験は、ものすごく大きな人生の修行になりました。


「俺とお前は一心同体なんだ。どちらかが欠けたら成り立たない関係なんだぜ。だから本気で生きろよ。愛情を持って接してくれよ」


そんなことをトラックから教えてもらって、初めて気付いた事でした。


今日も、夢に向かって一歩前進です!

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