(日米開戦80年)迫る戦争、苦悩にじむ天皇=訂正・おわびあり

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 1936年の二・二六事件直後から敗戦直前の44年まで昭和天皇の侍従長を務めた百武三郎(ひゃくたけさぶろう)(1872~1963)の日記が東京大学に寄託され、太平洋戦争開戦80年の今年、閲覧可能となった。41年の記述からは、12月の開戦に向かって苦悩を深めていく当時の天皇の姿が浮かび上がってくる。▼1面参照

 ■「外交を先きに」軍部へ読み上げた歌/皇族から主戦論「紅潮御昂奮の様」

 米国は、日本が40年9月にドイツイタリアと三国軍事同盟を結んだことに反発。対立が深まる中、41年春から戦争回避のため日米交渉が始まったが、状況は好転しなかった。

 《6月23日 龍顔(りゅうがん)稍(やや)御睡眠御不足の色あり 独蘇(どくそ)開戦の影響を思へば御軫念(しんねん)の程(ほど)誠に恐懼(きょうく)の至也(いたりなり)》

 日本が頼りにした同盟国ドイツがソ連と戦争を始めた翌日の日記だ。「竜顔(天皇の顔)を拝見すると少しご睡眠が足りないようだ。独ソ開戦の影響を思えばご心配のほど、恐れ多い至りだ」と、天皇が外交問題を心配して眠れない様子を記した。

 《9月1日 聊(いささ)か御疲労の様に拝せらる 御歩行活溌(かっぱつ)にあらせられず 国際関係に対する御宸稔(しんねん)其因たらざるか 誠に恐懼の至也》

 「少々お疲れのようでご歩行も活発でない。国際関係に対するご心配が原因ではないか」。7月末の南部仏印(ふついん)(インドシナ半島南部)への日本軍進駐に対抗し、米国が石油禁輸などの経済制裁を発動。事態打開のため近衛文麿(このえふみまろ)首相は8月にルーズベルト大統領との日米首脳会談を提案するが、実現しない。天皇は外交に対する心労が重なり、歩みも活発でないご様子だと百武は拝察している。

 9月6日の御前(ごぜん)会議では「10月上旬までに日米交渉がまとまらなければ開戦を決意する」とした「帝国国策遂行要領」が決定された。百武は、会議に出席した最側近の木戸幸一(きどこういち)内大臣から後日聞いた話を、25日の日記に記した。

 《御前会議に於(おい)て陛下は(中略)統帥部(とうすいぶ)の黙し居ることに御不満にて「四方(よも)の海」云々(うんぬん)の明治天皇の御歌を用意ありて統帥部が外交を先きにし之(こ)れを強く援助するを要する旨仰せあり》

 昭和天皇は、御前会議で天皇は発言しないという慣例を破る。祖父の明治天皇が平和を願い詠んだ「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」(四方の海はみな同胞と思う世なのになぜ波風が立ち騒ぐのだろう)の歌を読み上げた。戦争準備より外交を優先するよう統帥部(軍部)に求めたという。

 天皇は9月ごろまでは開戦に慎重な姿勢を示し続けたとされるが、10月13日、百武は日記にこう記した。

 《宮相本日拝謁(中略)切迫の時機に対し已(すで)に覚悟あらせらるゝが如(ごと)き御様子に拝せらると 先頃来木戸内府も時々御先行を御引止め申上ぐる旨語れることあり 先頃来案外に明朗の龍顔を拝し稍不思議に思ふ》

 松平恒雄(まつだいらつねお)宮内大臣や木戸ら天皇に会った側近から、陛下がすでに覚悟を決め、気持ちが先行している様子だと聞いた。百武から見ても、先ごろから陛下の表情が明るいので不思議に思った――との内容だ。

 木戸の日記にも同じ13日、天皇が「万一開戦となる場合、宣戦の詔勅(しょうちょく)を発することとなるだろう」と開戦に触れた発言が記されている。天皇は「開戦を決意する場合、戦争終結の手段を初めから研究しておく必要がある」とも語ったと木戸は書いている。

 この時期の天皇の言動について、山田朗(あきら)・明治大教授(日本近現代史、軍事史)は著書「昭和天皇の戦争」で「戦争という選択肢が天皇のなかで次第に有力なものになってきたことを示している」と解説する。

 これに対し、その4日前の10月9日。

 《博恭(ひろやす)王殿下参内(さんだい)(中略)稍紅潮御昂奮(こうふん)あらせらるゝ様拝す》

 海軍軍令部総長を務めた皇族の伏見宮(ふしみのみや)博恭王と対面した後、天皇が顔を紅潮させて興奮した様子だったと百武は記す。議論の内容は翌10日、木戸が天皇から聞いた話として記された。

 《昨日伏見宮殿下は対米主戦論を主張せられ之れなくば陸軍に反乱起らんとまで申されたる由(中略)又(ま)た人民は皆開戦を希望すとも申されたりと》

 伏見宮が「米国と戦争しなければ陸軍に反乱が起きる」「人民は開戦を希望している」などと主戦論をぶったという。「昭和天皇実録」によると天皇は「一戦は避けがたいかもしれないが、今はその時機ではなく、なお外交交渉を尽くすべきだ」と反論。伏見宮は主張を取り消したという。

 日米首脳会談の提案に対してハル国務長官は10月2日、実質上の拒否を回答。行き詰まった近衛内閣は10月16日に総辞職し、軍人の東条英機(とうじょうひでき)が18日に首相となった。

 さらに11月20日。

 《内府(木戸)曰(いわ)く上辺の決意行過ぎの如く見ゆ》

 百武は、天皇が開戦に傾く様子を木戸が懸念したとみられる「陛下の決意が行き過ぎのように見える」との発言を記した。これにつながる二つの出来事が、直前の15日の大本営政府連絡会議であった。

 一つは図上で作戦を説明する「兵棋(へいぎ)演習」。真珠湾攻撃を含む作戦計画が天皇に提示されたという。

 もう一つが「戦争終末促進に関する腹案」の決定だ。開戦にあたり、戦争をどう終わらせるか研究しておくべきだと考える天皇を説得し、決断を促すため軍部がつくったとみられる。

 事態は開戦へと向かっていく。日米交渉は11月26日、ハルが日本に対し、中国やインドシナからの撤兵や三国同盟破棄を迫る「ハル・ノート」を示し、事実上決裂した。

 28日、天皇は東郷茂徳外相からハル・ノートについて報告を受けた。百武は「米国はついに開戦せざるを得ないと決心したか」と記した。天皇は、外交による打開が絶望的になった後も首相経験者や皇族、軍幹部らに改めて意見を聞いている。

 戦後に口述筆記した「昭和天皇独白録」で天皇は「立憲国の君主として、政府と統帥部の一致した意見を認めなければクーデターが起こり、かえってめちゃくちゃな戦争論が支配的になる」と思ったと回想。開戦直前まで悩み続けたことを明かしている。(編集委員・北野隆一)

 ■揺れた心、よくわかる/元老不在、一人抱えた

 百武三郎の日記をどうみるか。識者に聞いた。

 昭和天皇の生涯に詳しい古川隆久(ふるかわたかひさ)・日本大教授(日本近現代史)は「戦前・戦中の昭和天皇の言動が日々記され、天皇の戦争に対する考え方など、百武の目を通じて初めてわかることも多い。昭和史研究でも超弩級(どきゅう)の貴重な記録だ」と史料価値を高く評価した。「日米開戦に最後まで消極的だったとされる昭和天皇の別の側面をうかがわせる」といい、「開戦直前には戦争をめぐって悩み、心が揺らいでいたことがよくわかる」とも語った。

 百武ら高官が日記を書き残したことについては、百武が海軍出身だったことに注目する。「軍では日記をつけるよう訓練され、上官への報告の必要もあり日記を習慣化している人が多い」としたうえで、「昭和天皇自身、側近にも日々の記録を書き残し、問い合わせに的確に答える人物を好んだ。百武ら自身が国家の一大事を日々体験する中で、書き残さねばならないとも考えただろう」とみる。

 茶谷誠一(ちゃだにせいいち)・志學館大教授(日本近現代史)は「この時期は明治からの経緯を知り大局的な見地から助言する元老のような存在がいなくなり、天皇は一人で判断しなければならなくなっていた」と分析。「早期開戦論を抑え、外交を尽くすべきだと説く有力な後ろだてを欠くなか、天皇が軍部の説得を日々聞くうちに次第に開戦容認に傾く様子を、側近が危ぶむ言葉が記されているのが興味深い」と語った。

 加藤陽子・東京大教授(日本近現代史)は天皇が皇族の伏見宮博恭王と対面した際の記述に注目する。「海軍の作戦・指揮のトップである軍令部総長を長年務めた伏見宮は天皇より年上で、日露戦争での実戦経験を恃(たの)む皇族。『開戦しないと陸軍に反乱が起きる』とまで述べて迫ったことは、天皇が開戦を決意する一つの大きな要因を形成したのではないか」と話している。

 <訂正して、おわびします>

 ▼12月5日付1面「昭和天皇 開戦『覚悟』の秋」と2面「迫る戦争 苦悩にじむ天皇」の記事で、侍従長だった百武三郎の日記が東京大学に寄託されたのが「今年」とあるのは、いずれも「2019年」の誤りでした。

 

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