「“芸能界のドン”は宅見組長が育てた」バーニング周防郁雄社長と暴力団“黒い交際”暴く衝撃ブログ

“芸能界のドン”ことバーニングプロダクション周防郁雄社長の“裏の顔”を糾弾し続けている民族派団体「大日本新政會」のホームページ(http://www.dainipponshinseikai.co.jp/)に、4月2日付で「宅見組組長と日本青年社会会長衛藤豊久」というタイトルの記事が掲載された。

 筆者はこれまで、周防氏と暴力団との黒い交際について何度も報じてきたが、そのたびに“事実無根”だと、名誉棄損で周防氏から民事提訴されてきた。

にもかかわらず、世間知らずの裁判官は「スターを育てて、子どもたちに夢を与えるプロダクションの社長が、暴力団と付き合いがあるわけがない」という偏見から、裁判で周防氏と暴力団の関係を認めることはなかった。

 ところが一昨年、神戸に本部を置く暴力団「二代目松浦組」の笠岡和雄組長が総裁を務める大日本新政會が、自身のホームページで周防社長の“裏の顔”を暴露。それによると、笠岡総裁は周防氏に請われて、約10年間にわたって周防氏の用心棒を務め、その間、いくつもの暴力団にかかわるトラブルを処理してきたという。暴力団関係者との公私にわたる癒着ぶりも赤裸々に明かされたのだ。これにより、筆者の主張が事実であったことが証明された。

 さらに今回、ホームページに掲載された記事は、周防氏と裏社会との結びつきを克明に記したものだった。

「この二人(宅見組長と日本青年社会長衛藤豊久)が悪徳芸能プロバーニング・周防の育ての親である」

 という書き出しで始まるこの記事は、「先ず、ヤクザプロダクションと呼ばれる周防の背後を固めてきた暴力団、右翼の存在だが、何と言っても宅見組組長、宅見 勝(たくみ まさる)の存在が大きかった。宅見組長は、1936年6月生まれ1997年8月28日死亡したが、日本のヤクザとして五代目◯◯組の発足(1989年)に立役者として関与、以後、ナンバー2、若頭として36000人を擁する組の事実上の仕切り役だった。また豊富な資金源を持ち、経済ヤクザの急先鋒として君臨したことは有名である。特にバブル経済が崩壊した91年以後、宅見組長は東京の芸能界に本格的に進出、宅見組長の舎弟分であった「日本青年社」の衛藤豊久会長と共に、周防郁雄の後ろ盾となった。(中略)いわゆる東西の巨大暴力団と右翼組織が周防郁雄のバックについた。これでは周防が恐いモノ無しの有頂天坊主になるのもムベなるかなであろう」と書かれている。


 筆者は、宅見組長と日本青年社の衛藤会長が存命だった頃、六本木の全日空ホテルでこの2人が周防氏と一緒にいるところを目撃したことがあった。芸能関係者からも3人の目撃談が寄せられたが、その席にロックバンドX JAPANのYOSHIKIもたびたび同席していたという情報があったため、そのことを筆者は『ジャニーズ帝国崩壊』(鹿砦社)で書いたところ、衛藤会長に呼び出されて「このヤロー、右翼、右翼と書きやがって」と恫喝されたことはいまだに忘れない。

 その3人が、どのようにして芸能界を牛耳って金にしてきたかは、大日本新政會のホームページで読んでほしい。そして何より、表ではコンプライアンスを声高に叫びながら、周防氏といまだに手を組んでいるテレビ局や大手代理店の良識を疑う。「周防離れ」こそが、業界浄化の第一歩だ。
(文=本多圭)

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『麒麟がくる』“明智生存説”をひもとく「本能寺の変」のあとに見つかったのは“3つの首”だった!

──歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、 ドラマと史実の交差点をさぐるべく自由勝手に考察していきます! 前回はコチラ

『麒麟がくる』“明智生存説”をひもとく「本能寺の変」のあとに...の画像はこちら >>
『麒麟がくる』ホームページより

 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』も、ついに最終回を迎えることになりました。ドラマでは天正10年(1582)6月2日の「本能寺の変」での織田信長の死を、クライマックスとして描くことになりそうです。

しかしこの時、明智光秀の命も実は残り11日になってしまっていたのですね。

 最終回のもう一つのクライマックスが明智の死になるでしょうから、今回は「本能寺の変」とその後の明智の足取りを史実(とされるもの)からたどってみたいと思います。

 信長の遺体が本能寺の焼け跡から見つからぬまま、明智たちは安土城に入りました。そこで明智は信長の残した巨万の富をわがものとしました。そして彼が行ったのが、味方の武将や朝廷のお歴々へのバラマキ行為、つまり賄賂作戦だったのです。

 戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によると、明智の大盤振る舞いは桁外れに凄まじく、現代日本の貨幣価値で、数十億円規模だったと言われます。

 信長は公家たちには良い顔を見せているが、庶民は信長に迷惑していると、尾野真千子さんが演じる伊呂波太夫がドラマの中で文句を言っていましたよね? 手堅い明智は、京都の庶民たちへの減税策も打ち出しています。

 それでも明智に味方をする者たちは少なかったのでした。恐らく、明智は名臣ではあっても、主君たりえない男だと判断されたのでしょう。盟友であった細川藤孝にさえ裏切られた明智は、天正10年6月13日「山崎の戦い」において、秀吉に敗れてしまいます。しかも敗走中の明智は農民たちからも裏切られ、首を奪われてしまいました。もしくは、死を悟った明智が切腹、介錯した家臣がその首を届けたという話もありますが、これらに関しては奇怪な事実があります。

「明智光秀の首」として秀吉側が入手できた首は1つではなく、なんと3つもあったのです(そしてそのそれぞれが、明智の首塚として日本各地に存在)。

 しかし、旧暦の6月は現在の8月ですから、死後数日もたてば腐敗は相当なものです。秀吉側による首実検はこの手の理由で厳密には行われず、簡略に済まされてしまったのでした。こうしたことから「明智は実は死んではいない」という生存説が唱えられるようになったのです。

有名な明智光秀=天海僧正説の信ぴょう性は?

『麒麟がくる』“明智生存説”をひもとく「本能寺の変」のあとに見つかったのは“3つの首”だった!
天海像(木村了琢画・賛、輪王寺蔵)

 数ある明智の生存説として一番有名なのは、明智光秀=天海僧正説です。天海は天台宗の高僧でありながら、徳川家康のブレーンとして活躍、その豊臣家攻略を助けました。そして107歳という驚異的な長寿の末に亡くなったというのです。すでに家康の世どころか、その孫である家光の時代になっていました。

 伝説によれば、明智は「山崎の戦い」で秀吉に敗れた後、比叡山に逃げ込みました。比叡山も明智を手厚く受け入れ、すでに亡くなっていた僧侶「南光坊天海」に成り代わらせたというのです。

 実際、比叡山の「不動堂」には「光秀」を名乗る人物から、慶長20年(1615年)の日付で石灯籠が寄進されており、謎めいた経緯はあるのです。ちなみに慶長20年は豊臣家が滅亡した年です。

 しかし、本当に比叡山は明智に協力的だったのでしょうか? ドラマの中での明智は、「比叡山で出会った者は女子供に関係なく、切り捨てろ」という信長の命に従わず、恩情を施していました。しかし信頼できる史料にこうした一節はなく、むしろ明智がノリノリで焼き討ちに協力したことが本人の手紙で明かされていたりもします。

 一方で、明智による“アフターケア”は確かにあったのです。明智が攻めたのは比叡山・延暦寺の里坊(さとぼう/山寺の僧などが、人里に構える住まい)の多かった坂本という町ですが、その後の明智は坂本の町の復興に積極的に携わり、とくに西教寺という寺の再建には熱心さを見せました。本心では焼き討ちになど加担したくなかったかのように。

 ……というわけで、比叡山が明智に対し、門戸を開く可能性はなきにしもあらず、といったところでしょうか。

 ただ、例の石灯籠にも「願主 光秀」と刻まれているだけで、それが明智光秀かどうかの確証はありません。天海僧正が熱心に関与した、徳川家康の霊廟である日光の東照宮にも、明智家を思わせる要素があるといわれますが、明智家の家紋である桔梗紋が見られる、という指摘は完全な誤認です。

 東照宮の建物に見られる紋様は美術史では「唐花紋」と呼ばれるもので、当時の建物の装飾に普通に使われている意匠にすぎません。また、東照宮の近隣に「明智平」という地名があるという話もあるのですが、これはどう考えても「こじつけ」なんですね。

 また、天海=明智説の最有力根拠といわれているのが、「三代将軍・家光の乳母だった春日局が天海に面会したとき、お久しぶりですと挨拶した」という記録です。しかし、それだけで天海=明智と言い切るのには無理があると筆者には思われます。

 天海=明智説の出どころも現時点ではよくわからず、確かなことは20世紀初頭に「奇説」として一部の歴史マニアに語られていたことがわかる程度なのでした(大正5年<1916年>天海の伝記『大僧正天海』の著者・須藤光暉の記述による)。

 テレビ番組の企画には、天海と明智の筆跡が同じか鑑定するという趣旨のものもあったようです。「同一」という結論を出す人もいるようですが、画像で比べてみたところ、筆者の目には「まったく違う」と受け取られる代物でした。

 書き手の個性が文字に出るのは事実です。しかし、当時は個人の手癖だけで文字を書くことは上流階級にはなく、「○○流」というように、身分や職業、TPOによって使う書体が異なりました。まったく同じ書体を使った時にしか、同一人物の検証など行い得ないと筆者には考えられます。年齢によって、同一人物ですら筆跡は変わるものですし。

 というわけで、やはり明智光秀は「山崎の戦い」で破れた後、「この世から消えた」と考えるのが筆者の結論です。

 絶命しなかった可能性はありますが、明智が比叡山に逃げ込んだところで、そのまま静かに余生を過ごしたでしょう。少なくとも天海僧正のように表舞台で活躍することは不可能だったはずです。

 天海が仕えた徳川家康は家臣の裏切り……つまり、謀反や造反行為に大変厳しい武将として知られます。謀反人の明智を自分のブレーンとして、あの慎重派の家康が信じ込むことができるでしょうか? もし、家康が「本能寺の変」の黒幕で、明智をけしかけた張本人であれば話は変わりますが、その可能性も低いでしょう。

『麒麟がくる』“明智生存説”をひもとく「本能寺の変」のあとに見つかったのは“3つの首”だった!
クリス・ヘプラー公式サイトより

 さて……明智の子孫たちがどうなったのかについても少し触れておきましょうか。細川家に、明智たま(=ガラシャ)を通じて流れ込んだ血脈は有名ですが、最近ではクリス・ヘプラー氏も実は明智光秀と血がつながっているとニュースになったりもしました。

 明智は謎の多い男で、子どもの数も実は定かではありません。秀吉による明智の血縁者の残党狩りも一時期厳しかったものの、生き残った子がいたことはどうやら事実のようです。江戸時代、生き残りの一派が「明田」に改姓、能役者、もしくは能舞台の裏方である笛の奏者として活動していました。この明田家の末裔にあたる方が、明智光秀の子孫として著作を発表なさっている明智憲三郎氏です。

 また、あの坂本龍馬の実家である土佐藩の坂本家も桔梗紋を使っており、明智家の血を引くと主張していました。ただ、これについては龍馬の先祖が江戸時代に家紋を変更し、その時に、明智家を思わせる桔梗紋を取り込んだ「組あい角に桔梗紋」が使われるようになった経緯が明らかで、ずいぶんと疑わしい話になっているのでした。

 江戸時代中期以降、『明智軍記』など明智に好意的な歴史物語が多く書かれました。坂本家の当主にも明智ファンがおり、彼が系図屋に頼みこんで、自分の家の系図を明智家の系図にくっつけてもらったようです。ちなみに坂本龍馬自身は、自分を平安時代の名歌人・紀貫之らを輩出した紀氏の子孫だとみなしていたようですが……。

 さてさて余談が過ぎました。

次週は最終回を拝見した上で、一年間も私たちを楽しませてくれた『麒麟がくる』の総括を行いたいと思います。お楽しみに!

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