もしも北村紗衣氏の『ダーティハリー』感想におけるアメリカンニューシネマの説明がまちがっていたとしても、あまり感想の良し悪しとは関係がないし、ウソをついたことを意味しない - 法華狼の日記
Wkipediaの「アメリカン・ニューシネマ」項目から『ダーティハリー』が削除されたことに大月隆寛氏らが何らかの陰謀を見いだしているらしい - 法華狼の日記
上記エントリで言及したように、北村氏*1の感想への批判として注目されたのは「ニューシネマ」という言葉についての独自主張であって、『ダーティハリー』について北村氏と異なる感想ではなかった。
このことは異論をとなえた当事者の映画にわか氏も表明している。末尾に書かれた北村氏の文章についての読解はともかく*2、さすがに争点については妥当な説明になっていると思う。
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しかしTwitterにおいては、一般的な説明部分をウソと主張されたことに反論した北村氏が、異なる感想を認めなかったかのような見解が流布されているようだ。
「あなたの感想は最高なんです!」という趣旨の記事が北村氏にあってないとは思いませんが、「わたしと対立する感想も最高なんです!」と自らを抑えられるかというとギリギリのとこだったのを、「嘘つき」呼ばわりという須藤氏の完全な失点を突破口にして、全力で殺しにかかったかんじがします。
そもそも「感想だからってバカにされる筋合いはないんですよ! あなたの感想は最高なんです!」という趣旨の連載が北村さんに来た、という時点で北村さんとミスマッチではとしか言えないんだよな
北村氏を『ハリー・ポッター』シリーズの悪役になぞらえるやりとりもあった。
注意喚起として、一人でも多くの人に、この危険性が周知されて欲しいという気持ちもある一方、RTやいいねするだけでリスクが無いとは言えないのでごめんなさい、という気持ちもある。この注意喚起が正しいと感じられた方は、下手に言及したりせずに素直にヴォルデモート卿をブロックする事を勧めます。
敢えてオッサンが好きそうな映画を雑に貶す事で、それを批判したオッサン達にわざわざ自らエゴサして絡み、「女の敵」認定して切る、という炎上マーケティングの一環なのだとすれば、無視するのが一番なんだろうけど、ダーティハリーをそのネタにするのが、個人的に許せなかったんだよな。
ヴォルデモート卿も死喰い人達も「生意気な若い女(41)がオッサン(年下含む)を撫で斬り無双」という物語を消費するという原理のもと学問もTwitterもやってるんだよな。"映画批評"は今回その分霊箱として利用したので毀損は断じて認められないわけ。
ヴォルデモート卿を、あそこまで増長させてモンスターにしてしまったのは、周囲の界隈の人達の責任も大いにあると思う。そういう意味では、人文アカデミア界隈全体の知的な劣化、というのは相当なレベルなのでは無いかと危惧しています。
映画にわか氏が「女の敵」あつかいされたとすれば、Blueskyでセクハラ的な発言をおこなったことが大きいだろう。少なくとも北村氏による反論エントリの時点では「女の敵」に類する表現はつかわれていなかった。
「落花生BOY@bonkuratv」氏は北村氏のふるまいをラーメン評でたとえていたが、「ラーメンが好きでも何でも無い」というところからして勝手な憶測にすぎないし、感想へ反発するにしても一般論にすぎない蘊蓄部分を安易に「ウソ」と断言したり、セクハラのような言動をとっていい理由にはならない。
女性だからナメている、というより、別にラーメンが好きでも何でも無いのに、名のある人が、人気ラーメン店で「不味い」と言ったら、多くのラーメン好きは不快な思いをして「お前に何が分かるんだ!」と言いたくなる、という話。
そもそも北村氏の感想の時点でも、当時に高評価された理由を想像したり、人によって解釈が異なる部分を想定した文章になっている。最初から映画愛好家がカジュアルに異論反論をとなえることを想定している。
メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た – OHTABOOKSTAND
この映画が公開されたのはゾディアックがいろいろと活動していた時期だと思うので、まだ冷静に検証されてはいないでしょうし、当時の人たちにとっては生々しくて、犯人がポンコツだとしてもすごく怖かったのかもしれないですね。
対抗するために法律を守らなかったり、自分がやったポンコツな失敗を暴力で回収するみたいなことをやっていいのかどうかっていうことで、人によって受け取り方は違うと思うんですよね。私は警察がポンコツすぎてハリーの行動にずっと呆れていました。
実際に感想が公開された直後に『ダーティハリー』を高評価する立場からの感想も見かけたし、著名人では青井邦夫氏による感想への指摘を北村氏は反論せずリツイートしていたという*3。
例のダーティー・ハリー評、冒頭の被害者が肩を撃たれただけ死ぬのか?とありましたが、使用したのは旧日本軍の二式テラ銃ベースの銃、口径7.7ミリの歴とした軍用ライフルですから拳銃やサブマシンガンとは威力が違います。当時の特殊効果の限界はありますが、十分致命傷にはなるでしょう。
また狙撃場所に脅迫状を置いて見つからなかったらどうするのか?とありましたが、弾の種類などから狙撃場所はすぐ特定されるはず。仮に特定されなくてもどこから狙われたのかわからないのは十分に社会に恐怖を蔓延させられるはずなので犯人は満足でしょう。
ケネディ暗殺が1963年、テキサスタワー狙撃事件が1966年、ダーティー・ハリー公開の1971年当時は無差別狙撃は十分に恐ろしい犯罪だったと思います。
技術的に威力を表現できなかったが銃器の設定などから致命傷になるという指摘や、狙撃位置は特定されやすいので脅迫状を見つけさせる期待ができるという指摘は、それぞれの描写が考証において妥当という意味がある。
しかし歴史的な狙撃事件が映画公開までの十年以内に複数あったという指摘は、考証にとどまらず映画の犯人像への印象をも動かす。ゾディアックという現在も正体不明の劇場型犯罪者だけでなく、無差別的で破滅的な犯罪者もモデルだったのだとすれば、北村氏の感想で疑問視されている終盤の破滅的な暴走も理解しやすくなる。
ふしぎなのは、北村氏が異論をよせつけないかのように批判する人々が、なぜか青井氏の指摘に注目していないこと。異論をうけとめている実例だから無視したいのだとしても、北村氏への批判としては有効だと感じて参照しそうなものだ。それとも、北村氏が女を武器にしていると考えたい人々にとって、女性蔑視的なふるまいをせず北村氏へ異論をとなえられる青井氏の存在そのものが不都合なのだろうか。