こんにちは、人間情報科学科の鴨下全生です。
ゼミ合宿についてのエスノグラフィーを投稿します。
鴨下全生
私の故郷、いわきの自宅は福島第二原子力発電所からは30km圏内だ。13年前のあの時、一本のケーブルが奇跡的に動き、死にかかっていた原発を何とか繋ぎ止めたから、福島第二原子力発電所は過酷事故に至らずに済んだ。もし、あの時その奇跡がなければ、今でもいわきは立ち入りさえ禁じられるような状態だったかもしれない。
現在地は富岡の浜街道。廃炉が決定した福島第二原子力発電所を通り通り過ぎながら、県道391号をバスが走っていく。
9:30。特定廃棄物埋立情報館、「リプルンふくしま」に到着する。優しそうな職員の出迎えを受け、中に入る。まず目に入るのは環境省のロゴが入った「リプルンふくしま」の理念。最初に気になったのが、真ん中の文章が後から貼られていること。何か都合の悪い事があったのではないかと勘繰ってしまい、職員に話を聞くと「昔は、処理を進めている最中だったから現在進行形になっていたが、現在処理が終わったので過去形り張り替えただけ」とのこと。何もなくてよかったと思うと同時に、環境省という国の書いたものが信頼しずらくなってしまっていることに、辛い気持ちになる。
次に空間線量率の説明を受ける。実際に測定されたデータをもとに、汚染が非常に減衰していることを説明される。モニタリングポストがあるのは除染が行われた地域が多いため、現在の値が低いことは当然だと思うが、初期値(原発事故直後の放射線量)から比べて減衰率があまりにも高い。同条件での比較ではないのではないかと気になったため質問をしたところ、初期値はモニタリングポストではなく実際に人が計測したものが使われているということ。そもそも、復興の状態を示すのであれば、原発事故前と比べるべきであり、同条件であってもこの比較はよくないと思うが、そもそも同条件ではなかったことに驚く。こういうことは、信頼をされずらくなるので、やるべきではないのではないかと思った。
次に廃棄物の処理の方法についての説明を受ける。これは、もしかすると8000bq/kg以下の土壌を全国の公共事業で無理やり使わせる、という話がでるのではないかと思って聞いていると、まさにそのことについて話し始める。「全てを廃棄物として処理すると渋谷区ぐらいの面積が必要になってしまう。しかし、8000bq/kg以下の土壌を公共事業に使っていただければその1/3の面積で処理ができる。」として、汚染土を資源として使うことにメリットがあると説明してきたのだ。資源として使うことになったとしても汚染した土であるという事実は変わらない。国が被害を矮小化できるというメリット以外に、わざわざ福島から汚染した土を運搬し、公共事業に使うメリットはない。流石におかしいと思い、このことについてどのようなメリットがあるのかを質問する。職員は「国は土を意味のある資源として考えているようで......」、と言葉を濁す。土はどこにでもあるものであり、遠距離を運搬してでも使いたい資源ではなく、本当にそれがメリットになるのか再度職員に聞くと「......1職員なので国の考えの詳細は分からず答えられない......」、と返答した。適当にはぐらかすのではなく、分からないことを真摯に答えてくれたことが意外で、相手に対して尊敬の感情が芽生える。その後も様々な説明を受けながら、色々と現地の話をメモしていく。非常に重要な話を多く聞くことができてとてもよかった。
のちに聞いた話だが、私の質問に答えてくれていた職員は実は量子力学の博士だったらしい。だから、こちらの質問に対して、はぐらかすことなく、分からないことについては分からないと答えてくれたのだろう。いい人とやり取りができたことを嬉しく思うと同時に、そこまで優秀な人にこのような合理的ではない政策を説明させているという構造があることに落ち込む。
ちなみに、この「リプルンふくしま」にはこのような展示もあり、こんなことも展示してくれているのかと驚いた。
次は夜ノ森公園の近くの桜のトンネルの地点に向かう。夜ノ森公園は、私が小さい頃いつもあそびに行っていたところだ。花見の季節もそうだし、秋に落ち葉にまみれて遊んでいたのも覚えている。しかし、今では、そんなことをすれば当時の何倍も被曝することになる。非常に重たい事実だ。おそらく、私が死んだあとも、この事実は変わらないだろう。なぜ、こんなことになってしまったのかと、辛くなる。
夜ノ森桜通りから離れ、次は原子力災害伝承館に向かう。見渡す限り一面、綺麗に舗装された原子力災害伝承館。モニタリングポストの示す値は0.06μSv/h。どれだけのお金をこの除染に費やしたのだろうと思う。ただ、それでも直前の道路での空間線量は0.4μSv/h程度まで上がっていた。いつも遊んでいたような目の前の山に入れば、モニタリングポストの何倍になるかも分からない。人間のできることの少なさを改めて実感する。伝承館に入り、最初に5分程度の映像を見る。迫力のある映像に流石だなと感じていると、唇に何かが触れるのを感じる。鼻血である。やばい、と思ったときにはもう遅く、鼻を抑えた手に血があふれていく。すぐに職員が気付いてかけよって、色々と介抱をしてくれる。私は大丈夫と断ったが、一応念のためということで、救護室に連れていかれる。ここで、とりあえず落ち着くまで休んで下さい、と言われベッドに座る。出血には人の興奮を抑える作用でもあるのだろうか。さっきまでの興奮が急激に低下し、体温が下がったような感じがする。鼻を抑え、白い部屋の壁を見ながら、震災当時のことがよみがえってくる。
あの時、避難所には鼻血を出す子どもが多くいた。しかも、尋常ではない量の鼻血を出す子が沢山いたのだ。レジ袋や洗面器で鼻血を受けながら歩いている子ども。共同洗濯場では、布団についた鼻血をどうするか母親達が話し合っていた。私自身も、洗面器で受けるような鼻血が繰り返し出続け、最終的に、手術をして鼻の血管を焼き切ることにした。私にとって、初めての手術でとても辛かったのを覚えている。当時は、これが何なのか分からなかったが、後から、双葉町や宮城県丸森町といったプルームが通った地域で、鼻血の症状を訴える人が別の地域に比べ非常に多かったことを知った。被曝の量から考えてこの症状が急性被曝による確定的影響ではないことは明らかだろう。ただ、自分の避難所だけでなく、多くの地点で何かしら異常なことが起きていたのかもしれない。
しかし、これだけで問題は終わらなかった。
とあるメディア報道でこの問題が触れられた。その途端、「こんなことを言っているのは誰だ!」、とまるで魔女狩りのように大規模なバッシングが発生した。「嘘を言うな」、「賠償金が欲しくてデマをまき散らす気持ち悪い乞食だ」、「頭が犯されて放射”脳”になってしまったヒステリック偽避難者」、「頭ベクれてる」、「非国民」、肉体的にも精神的にも限界だった避難者をとてつもない誹謗中傷が襲った。ただ起きたことを喋っているだけの避難者を、多くの人がまるで犯罪者かのように、責め、つるし上げた。ただの一般人だった避難者が、こんな状況の対処の方法なんて知るはずもない。そして、その状況に対して、助けの手を差し伸べるべき国は、まるで、避難者が嘘をついているかのように広報した。この事件で、多くの避難者は被害について喋れなくなってしまった。実際に起きたことを喋るだけで、壮絶な誹謗中傷に晒される。疲れ切っていた避難者を黙らせるのに、この事件は十分すぎた。
今では、そんな鼻血が出ることはない。何年も前のことである。今日、何か特別なことが起きたわけではないことは、私が一番よくわかっている。でも、この地で当時のことを思い出させるように鼻血が出たことには、何かを感じざるを得なかった。