哲学
【事実回帰】理論場【名言・格言】
UPLIFTで広告なしで体験しましょう!快適な閲覧ライフをお約束します!
人は年を重ねるほどに、未来よりも過去のことを考えがちになる。
事実は、理論では否定することは不可能です。
太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く。
〜 フリードリヒ・フォン・シラー(ドイツの詩人) 〜- コメントを投稿する
- みず ぽぅ↑ みずぽぅ〜て
- すべてが失われようとも、まだ未来が残っている
〜 クリスチャン・ネステル・ボヴィー(アメリカの作家) 〜 - 未来を気づかう心は悲惨なり。
ーーセネカ 「書簡集」
私たちは時に未来を気にします。未来を気にしている間、それは幸せな時間でしたか、悲惨な時間でしたか。
幸せばかり考える余裕はありますか。哲学とは何ですか。もっと幸せになるために哲学をしましょう。 - 事実は、理論では否定することは不可能です。
事実は曲げられない。
「このことは、残念ながら否めない事実です」 こういう言葉はビジネスでも出て来る。 - 会話は哲学である。対話も哲学である。フィロソフィーも哲学である。事実は打ち消せない。
理性には限界がある。ひとつの部屋にいるとしよう。横のドアから入ってきた人物を確認できなかったり、トイレにいるかどうかも確認できなかったりする。
こういう話は認識の美学にもなりそうだ。また、神がいるのか、魂はあるのか、こういった形而上学的な側面をカバーできていない。 - ”ブラックロックシューターでお前を”
- さてここで認識とは何なのか、語るのであるが、まず意味から紹介しよう。
にんしき
【認識】
《名・ス他》
物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。
「重要性を―する」
もう一つ。「いい方」という意味がある。(女子語と考えて差し支えない)
いい方?それはまあいいだろう。これも感じがするからそういう意味という理論もある。
ウンパスがゴミという意味であるとか、ミチャーガがいいなーという意味だとか。そんな感じがするなあと言葉を覚えよう。
さて、我々は言葉・映像を覚えるとき、毎度毎度、覚えた、と判断/認識していないだろう。覚えた、という判断/認識がバンバンあるならそのお方は素晴らしいです。
なかなか覚えた覚えた覚えたとならないのが素晴らしいお方とは違います。
でも諦めたりしないで、繰り返せば覚えられる、という一説もあります。繰り返していくうちに、覚えた、と判断/認識できるかもしれません。 - 0036考える名無しさん
2024/02/01(木) 17:17:45.640
昔から我々は、私たちのまわりにある物は、目に見える姿形そのままにそこに実在するのだと素朴に思ってきた。
それに対してカントは、いいや違うだろう。人間目線で見るから世界はこういう姿形をして見えるというだけであって、
本当にあるものを、ありのままに見ているわけではないと説いた。これは、人間が見る世界と、
視覚に熱を用いる宇宙人プレデターが見る世界は、違ったものに見えるだろうということであり、
今ではわりと普通に受入れられる考え方だ。カントのコペルニクス的転回とはこのことである。
ご存じのように天動説を覆した地動説はコペルニクスの説である。ひっくり返した妥当な言い方として
「コペルニクス的転回」と評した。カントは何度も「コペルニクス的転回」と言っている。(論文ではないにせよ)
釈迦は、「色即是空、空即是色」と述べている。イロ(色)あるところに必ずスペース(空)がある、
スペース(空)あるところにイロ(色)がある、という解釈がある。また、
色それは空であり、 空それは色である、という解釈もある。はたまた、
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 これ簡単に言うと
色は空と違ってないよ
空は色と違ってないよ
色は空のことなんだよ
空は色のことなんだよ
こうした解釈もある。彼氏が大好きな彼女は、彼氏がかっこよすぎてたまらない。
でも友人の女性は、彼氏がかっこよくみえない、普通以下に見える、というおもしろさ。
えーなんでかっこよくみえないの・・・(彼女)・・・そうか!別のように見えるんだ。
つまり、彼氏を見たときの、相対的な相互性がある!
後日、私は盲目的でした。普通以下の顔がイケメンに見える病でした。
友人(女性)ありがとう!なんとかちゃんとした目を手に入れよう。 - 0042考える名無しさん
2024/02/02(金) 09:57:48.060
わたし
相対的な相互性について例え話をしながら述べたい。
彼女(A)・・・・・・彼氏(C)が普通以下の顔なのに盲目的なためかっこよすぎて見える。
彼女の友人(女性(B))・・・・・・その男性(C)の顔を正視しているため普通以下に見える。
このように、彼女(A)には彼氏の本当の顔が見えていないことが窺える。
友人の女性(B)には彼氏(C)の顔が正確に捉えられていることが窺える。
ところで、皆さんは【変身】をご存じだろうか。仮面ライダーに変身するのは凄いことだと思う。
だが、そういう風な番組のための変身ではなく、日常で使える【変身】を問いたい。
それも実践に違いない。どうしたら、自分をかっこよく見せられるかが問題だ。
それは「ふわんとした【意識】」でできるのである。しかし自分には変わっては見えないことが残念なところである。
自分が想像した姿を他者に【意識】して見せようとすれば、変身になっている場合がある。
例えば、自分は普通オタクだとしても、自分には自分がかっこよく見えないとしても、他者にはかっこよく見えるのが【変身】である。
今や【変身】は社会問題となりつつある。自分が世界で13番目にブサイクだとしても、イケメンエリートに見せられるのだから。 - さて認識の認識(え、ダジャレ!?)について深めよう。認識はどう認識されているだろう。
「なぜ女は女だと認識できるのか」という命題だって過去にあった。それはクオリアも網羅するテーゼなのか。
なぜ女は女だと認識できるのか、それはいったん置いておこう。間違ってうさぎを女だと思ってしまう場合だってあったはずだ。
なぜうさぎを女と勘違いするのか、また、アクセルとブレーキを間違えるのはどうしてだろう。
人間の判断は甘いものなのかもしれない・・・いや、甘くないお方もいるのかもしれない・・・ - んこちっつぴゃまんこちっつぴゃまんこちっつぴゃま
- さて、甘くないお方を、(素晴らしいお方)と評してみる。素晴らしいお方は、どこまで素晴らしいか。
認識一つとってみても、やはり甘くはない。相手が嘘を吐いたら、嘘を見抜くような、そんな存在である。
嘘を見抜く一つにとっても、それは認識だったり気がしたり感じたりするものなのかもしれない。
つまり「嘘を吐いた」と認識した。「嘘を吐いた」という気がした。「嘘を吐いた」と感じた。・・・
こういう「嘘発見器」のようなセンサーがあるなら、なかなか上手である。
また、バヤロリンした(嘘吐きまくった)と云う女子語もある。バヤロリンした事実に気付ける者はいるだろうか。
さて、なぜ女は女と認識できるのかというテーゼに戻りたい。まず認識する者はどういう者か。
人間を用いて説明するべきか。人間一つにとっても、アプリオリ的に考えて女を女と認識できるだろう。
対比として、男は男と認識できるとは限らない。これは俗世間の一般例である。 - 世界はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
人はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「我」と「他」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節している。 - 僕はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
僕はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「僕」と「世界」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節しているみたいなことよね - ここでデカルトの「我思う、故に我在り」という命題を取り上げてみたい。
私は、思っている……思っているということは……思っている存在(我)がある。・・・という考え方である。
また、私以外の存在、すなわち私が見てきた机、家などは、どうだろう。本当にあるのだろうか。
だが私はどうだろう。私は何か思う。思っている私は本当に存在するのだろうか。・・・ここまで考えた私はいるのだろうか。
疑った私はいるのか。疑って疑ってデカルトは机や家の存在性はイージーであるが疑っていた自分(我)はたしかにいないとは言えないという真理に辿りついたのである。
ここで補足。「我思う、故に我ここに在り」という命題もあっていいのかもしれない。
また、「我思うと我思う、故に我ありと我思う」という命題もある。
「我在り」という文脈ではなく、何処どこで、ということで「我ここに在り」という【ここに在り】という説明で満たす。 - 不増不減の境地とはいかほどか。 増えない、減らない、ずっと量は変わらない、これが悟りの境地だろうか。
感覚は正しいだろうか。感覚、判断、認識は時に危ないものを匂わせる。
「なんとなくダメだという感覚」、「判断の誤り」、「認識の微妙さ」 - 正しいとされることに従はなければならないという強迫観念による教条主義が人を思考停止に陥れ、誤った考へに固執させる。
- >>18
まさにその通りだと思う。
正しいと主張されているが誤っている教え(考え方)に強迫観念で思考停止してしまい、誤った教えに固執してしまう。
なるほど、判断の誤りから、誤った教えに固執することもあるだろう。 - 「性格が良くなる」という信仰がある。性格が良くなると思えば、性格が良くなるという信仰ももちろんある。
だが「性格が悪くなると信仰すれば」、性格が悪くなるという説も立派にある。
そして「間違える」と思えば、相手は間違えてしまう、という説も立派にある。
こうした洗脳に目覚める人々が増えてきていると思う。今や洗脳時代だ。
洗脳から回避するために、我々はどう対処していけばいいだろう。
洗脳を別に回避しなくてもいいのでは?と思う方はいないのかもしれない。
洗脳されないように、「洗脳されない」と信仰する手がある。
これは非常に重要である。だが、洗脳されるという運命が待ちはだかっている場合は、
洗脳されないと思っても効かないはずである。
性格が悪くならないようにするには、「性格が悪くならないと思う」ことである。
これならば効き目があるのではないか。洗脳時代を細かく生きる、そんな生き方をしてみよう。 - >>18
ところで、「怕」は、中国語で「〜を恐れる」や「〜を苦手とする」を意味するように使われるということだが(中日辞典 第3版の解説)、この「怕(pà)」が「心*白」という漢字によって表記されることからもすぐに見て取ることができるとおり、
「怕(pà)」は、フランス語の《avoir peur》の《peur》にそのまま対応している。イタリア語であれば、"paura"であり、英語の"a pang of heart"の"pang"でもある。
さらに、この「怕(pà)」/《peur》/"pang"が、日本語の古語の「むねつぶらはし」(kobun.weblio.jp/content/胸潰らはし)に対応することを見て取ることも、さして難しくないだろう。 - ハァアモリ~💩
- こういう対応関係の事例を逐一、列挙していくことは、雑学的な知識の蓄積ではなく、それなりに有用なことであると私は思っている。
例えば、曲の「調(しら)べ」という場合の「調」の音読みは「ちょう」であり、古語の表記では「てう」であるが、これに対応する英語の表現は、"tune"である。
「調」という漢字は、「言*周」という構成だが、その発音は「周」に関連していて、その中国語としての発音は、中古音において"tsyuw"、さらに古い発音において"/*tjɯw/"であったものと想定されている。
この「周」は、現代の技術用語としては、「周波数」の「周」としても使われるが、「周波数を合わせる」ことを英語では、"to tune"と表現する。
ここで、"tune"の語源を参照してみると、次のとおり記載され、語源は不明であるとされる。
>tune (n.)
early 14c., "a musical sound," unexplained variant of tone (n.). From late 14c. as "a well-rounded succession of musical notes, an air, melody."
(etymonline.com/search?q=tune)
これが空(そら)似(に)に過ぎないとしても、互いにとてもよく似ているだろう。 - 時折、シェイクスピアの全作品集、"RSC, William Shakespeare, Complete Works"に目を通している。
私は、シェイクスピア時代の英語を知っているわけでも、演劇や英文学の専門家でもないので、よく理解しながら読んでいるわけではなく、目を通しているだけであり、この作品集は電話帳のように分厚いので、まだ全体の1/4を眺めたに過ぎない。
それでも分かるのは、シェイクスピアが「臨在」を明確に意識して、その意識をメタ言語的に表現しようとしたことが彼の作家としての際立つ特徴であることだ。
そのことは、例えば、"Twelfth Night, or What You Will"の次に引用するような台詞にはっきりと典型的に表れている。 - (出典 opensourceshakespeare.org/views/plays/play_view.php?WorkID=12night&Act=3&Scene=1&Scope=scene)
Act III, Scene 1
OLIVIA’s garden.
> Viola. Save thee, friend, and thy music: dost thou live by
thy tabour?
Feste. No, sir, I live by the church.
Viola. Art thou a churchman?
Feste. No such matter, sir: I do live by the church; for 1240
I do live at my house, and my house doth stand by
the church. <
ここに始まるやりとりから、
> Viola. Art not thou the Lady Olivia's fool?
Feste. No, indeed, sir; the Lady Olivia has no folly: she 1265
will keep no fool, sir, till she be married; and
fools are as like husbands as pilchards are to
herrings; the husband's the bigger: I am indeed not
her fool, but her corrupter of words.
までの台詞が、どのようなレトリックとして構成されているかを検討してみるといい。 - 輪廻か。僕は前世があることは証明できないとしても、前世を見つける者がいるように、前世があると思う。
前世があるということからもうひとつ言えるのは輪廻があるということだと思う。
カルマはあると思う。僕の知り合いが、カルマ18だったのに、善行を積んでカルマ14にまで下げたからである。
カルマが一番深いとしても、カルマ(業)は簡単にわかりそうな気がする。
僕の前世の一人、イエスは両親も理解できないことを言っていたとか。
僕は前世療法を体験したうえで得たものは、弓矢で背中を打たれたことである。
ここから推測すると前世はあるんだなあと思えるかもしれない。
仏教では輪廻否定を説く教えもある。お釈迦様は、輪廻という言葉を使わなかった。
また、カルマという言葉も使わなかった。
無記とは5回言った。強いんですか?という質問に対し「無記」と言った。
お釈迦様は人間ではなく、風であると私は考えている。
お釈迦様は自分のことを人間ではないと言ったし、風が大事だと考えていた。
お釈迦様が人間であるという前提で語ることも、お釈迦様が大川隆法氏に生まれ変わったという嘘もどちらも虚しいであろう。
お釈迦様の研究をしたいなら、お釈迦様と会話をするべきだったのではいか。
かくいう私もお釈迦様とお話をさせていただいた。素直で愚直な存在に感じた。 - 相互的に依存しているカップルがいる。カップルと言っても男でも女でもない。
現代では中性子の存在が究極的に多い。闇、光、風(お釈迦様は風)、岩も生きている。
こうした中性子が蔓延る世の中で、日本人口が70億とかではいささか事実とは考えられない。
ガーゴイルだって亥(単位)以上存在する。一兆や一京よりはるかに存在するのである。
統計学では、バレンタインを男の人にあげるというときに、中性子を男として数えているのだろう。
中性子である闇や光が男ではないのに男としてみているのである。これが近代の矛盾とかである。 - 1)天才は世の中に貢献する分野で好成績を収めた者である
2)才能ある者とは、ある分野で優秀と認定された者である
しかしながら、天才という言葉一つとってみれば、天賦の才だと考えられる。
そこで、天才人や天才者、またしては超天才人という概念を出してみよう。
1)において、天才とは・・・と書いてあるが、「天才者とは」と者を付けて表現するべきではないか。
また、超天才とはどの様な意味を持つ概念なのか、超天才者の定義とはどの様なものか。 - おかしな感覚を感じた。怪しいと感じた。例を挙げよう。
詐欺サイトを閲覧して怪しいと感じた。この怪しいと感じたことが、重要である。
怪しいと視れば、何とか対処できる場合があるはずだ。
トランプでおかしな感覚を感じた。じゃあこうしようと軌道修正できるはずだ。(短くてすまない)
感性や感受性を磨こう。 - 哲学的に自殺というカテゴリーを解体していきたいと思います。
例え話をしながら模索していきます。
例えば「自殺は女性よりも男性に多く、離婚はとりわけ男性の自殺率を高める」ということが挙げられます。
男性の方が忍耐強いのではなく、女性の方が意外と忍耐強いと言われます。
離婚をすると、男性の方が落ち込み、自殺に至るケースがあります。
しかしながら自殺という行為は、悪とはイコールではありません。
自殺をしても復活(再生)するのなら、自殺は何かに利用できるでしょうか。
はい、できます。例えば、自殺をする際に一念込めてみれば、いいのだというお話があります。
社会学では自殺をタブーのように扱います。でも私は自殺が大事だと思っています。
自殺をすることで誰かのためになる、そういう時代がもうすでに来ています。 - >>また、超天才とはどの様な意味を持つ概念なのか、超天才者の定義とはどの様なものか。
超天才とは天才を超えた天賦の才を指す。
超天才者とは天才を超えた貢献度を獲得した者 - ネット上の議論・喧嘩について。
我々はパソコンやスマホが広まる中、文章をたくさん読んでいる。
そんな中で情報を取捨選択し、「この文章はいらない」「この文章はためになるかもしれないから読む」
といった裁きが大事になってきた。これも長年文章を読んでいるうちに身に着く技術だ。
そして文章を読んでいくうちにムカツク内容が見受けられるようになって来た。
そんな中、軽い調子でジャブパンチ(煽り)を見せる者たちが続出して来た。
どうすれば議論で上手くいくのか。今回はそんなことを述べていきたい。
★質問主義のすすめ
「この〜〜はどういうこと?」「なんで〜〜なの?」などといった質問をする。
相手に説明を要求することで、ボロを出したなら上手くいっている。
質問ばかりだと自分は失態を犯すわけではいが、「質問ばかりでつまんね」と言われた時が問題。
「質問ばかりだけど何か?」くらいのスタンスで書き込んでみよう。 - ★論理的になっておく
Aさん「君は男だ」
Bさん「いいえ、女です。論破」 (男だということを論破したという趣旨)
Cさん「『女です』という言葉では論破になっていない」
Bさん「なんで?男じゃないじゃん」
Cさん「女ですという言葉だけでは、男ではないとは主張していない」
Bさん「男ではないです。と言えばいいのか。Cさんに負けた。」
Bさん「最初から男ではないと言えばいいのか。」
Aさん「男ではないと証明できるのかよ」
Bさん「じゃあ男だと証明できるのかよ」
Aさん「ドローか?」
Bさん「引き分け?マジで」
補足:君は男だ、と言われて、女です。という言葉では論破していない。
女でもあるし男でもある人間がいるから、女です、で論破できない場合があるのだ。
しかも相手に男だと言われても、証拠を出せないようでは説得力に欠ける。
男ではないと言っても、それも証拠を出せないようでは説得力に欠ける。
★情報を収集する
男でも女でもある人間がいると事前に知っておくことが大事である。
ケースバイケースという言葉の意味を知っておく。
ダブルスタンダードという言葉の意味を知っておく。
論破の意味を調べておく。といったこと大事である。 - 以下引用
★不毛な議論は避ける
インターネットの発達によって、一般の人が意見を表明したり、議論に加わったりする機会が増えました。しかし残念なことに、子供の口げんか並みの低レベルな争いが多いように見受けられます。
書店に行けば、説得力のある話し方とか、うまい文章の書き方というような本がたくさん並んでいます。こうした本はどれも素晴らしい内容ですが、現状を見ると、話の上手下手以前の問題があるように思えます。
議論を上手に進める方法を考える上では、どうしても「うまく話す」能力に注目が集まりがちです。しかし、インターネットの掲示板での誹謗中傷や非難の応酬などを見ていると、足りないのはむしろ「人の話を聞く」能力であるようです。相手の言っていることを理解できないまま、自分が言いたいことだけを言うから、議論が不毛な言い合いになってしまうのです。
★議論の心構え。
「良い議論をする」ことが大事です。決して煽りなどを書かずに真剣に議論に臨みましょう。 - ★要点を掴んでおく
「バーカ」と煽りたいとする。
「バーカ」
「雑魚が」
「雑魚?証拠は?」
こうなっても勝ち目はあるかもしれないが、バーカと言いたかっただけなので無理に「証拠は?」なんて書かなくてもいいだろう。
「証拠?あるよ。雑魚だと思えるじゃん」
「思える?それが雑魚だという証拠なの?」
これでも優勢だろう。続けてみる。
「雑魚だと知ってるもん」(論点ずらしの正論)
ここで論点ずらし正論「知ってる論」が出てきた。でもまだわからない。
「知ってるという証拠はあるの?」
「知ってるって言ってるじゃん雑魚」
これで怪しくなってきた。知ってるという証拠は出せなくても言い張るのである。
本当は知っていないことの方が多いので、雑魚ではない場合がある。
要点はバーカという一言を当てればいいだけである。雑魚なのか否かの口論は不毛かもしれない。 - ★水掛け論になったら微妙
「知ってるという証拠はあるの?」
「知ってるって言ってるじゃん雑魚」
続く。
「知ってるって言ってるじゃんってどういうこと?」
「知ってるんだって雑魚だって」
「知ってないだろ」
「知ってる」
「知ってないだろ」
「知ってる」
水掛け論になりそうな感じである。知ってるか知ってないかはたぶん証明できない。
みづかけ‥ 【水掛け論】
両方が互いに理屈を言いあって解決しない議論。 - 人格における哲学は、近頃や今始まったわけではない。人格の形成はどのような過程だったのか。
幼児期の出来事、両親から受けた教育、学校での出来事、職場での関わり、といったように分類してみよう。
幼児期には、「砂の城」を作ったり「おいかけっこ」をしたりして成長した。
砂の城を作っている過程で、子どもは真剣さを獲得する。
おいかけっこをしている最中に、子どもは隠れる方法を考え、そして隠れた人生を送るようになる場合があるかもしれない。
両親から箸の使い方を学び、そして自転車の乗り方を学び、そういう者は、目上の人に従うようになる場合があるかもしれない。
学校では、友達を作り、友達と関わり、学校の先生から授業を受け、人間関係を築き上げる。人格もまた築かれる。
職場での関わりでは、上司から教えを受け、それに耐えることでいわゆる人格を形成する。 - 以下引用
現代社会の人々への動機づけとして、聖徳太子が人々に勧めた「和の精神」がある。
マクドナルドでハンバーガーを食べながら友人同士で「和」するのである。
他者との「和」のために行動する、すなわち平和への意志が大切である。
カントの「共和的体制」を築き、協力的・解決的どちらも満たすべきではないか。
解決という概念に至っては、Yahoo知恵袋で問題解決がされており、
そしてまた、Google検索エンジンにおいては、検索で問題が解決される。
このGoogleで調べていてもわからなかったことは、Yahoo知恵袋で解決される場合がある。
ちなみに、アドバイスを得るために自分の体験談を書いたり応援を求めたりするユーザーも多数見られる。
カントの私生活にこんな話がある。
・・・
哲学者であったカントは、毎朝かならず5時に起き、夕方の決まった時間に散歩をしたという。
その時間のあまりの正確さに近所の住人は、カントの姿を見て時計の針を直したとさえいわれる。
そして、79歳で没するまで、養生につとめて1日1食を貫き、散歩の際は、かならずひとりで歩いた。・・・
カントが、真面目に生きたことが誰かの役に立つ、その典型的な例を見つけてくれた。
ネット上にアドバイスを書いたことが、誰かの役に立つ、そんな時代になっていると言える。
ーーーーーー
カントは最近終わった。何度も復活したが、もう終わった。 - 理性には限界があります。ペットの名前と家族の名前を履き違えたり、汚職事件なのにお食事券だと勘違いしたりします。
これが理性の呪縛です。勘違い、勘繰り、履き違い、誤解といったものが呪縛です。
例1)フリーマーケットを古いマーケットだと誤解する場合があった。
例2)パーフェクトじゃないのにパーフェクトだと誤解した。
例3)女じゃないのに女と混同した。
例4)まともじゃないのにまともだと勘違いした。
こういった呪縛から解放されるようにはどうすればいいでしょうか。 - 走っているとき、転んでしまいました。膝を傷つけ、「痛い、恥ずかしい」と思いました。
そんな経験をしたボクは体を動かすのに慎重になりました。
これが「経験からの学び」です。慎重に歩けば転ばない可能性があります。
仏教では、受想行識といって、受が転んだ出来事、想が「痛い、恥ずかしい」。行が「起き上がろうとすること」
識が「二度と転ばないようにしよう」です。 - 以下引用
ーーーーーー
■感覚
目・耳・鼻・舌などでとらえられた外部の刺激が、
脳の中枢に達して起こる意識の現象。
感覚神経の興奮に訴えるような直接的な感じ方。
物事のとらえ方・感じ方。
■知覚
知覚とは、動物が外界からの刺激を感覚として自覚し、
刺激の種類を意味づけすること。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、
「熱い」「重い」「固い」などという
自覚的な体験として再構成する処理。
■認知
人間などが外界にある対象を知覚した上で、
それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと。
ーーーーーー
我々の知覚は誤作動を起こさないだろうか。またしては認知においては独りよがりの認知にならないだろうか。
「数字の6」という感覚質から頼りに仕事を「6個もある」と考えてしまうのはまずくはないはずである。
「6という感じ」という感覚質がある際に、誤感じに陥っていないだろうか。
哲学界は今や「誤感じ」という概念の招来の時代である。誤感じという概念を認めることは知覚しているからだろう。 - 制服というものがあろう。とある集団の中で、制服というものを着るときがあろう。
そういう集団こそその集団の多数者に協調/親和させようとしている。
そのとき初めて、「普通」ということを考える。
「普通、その集団に入る際には、制服を着る」
このことが、普通に関する一部である。 - とある集団を俯瞰した際にもっとも特徴的で、信頼するに相応しい妥当性がある何か。
という定義ではどうだろうか。妥当性があれば普通に近づける。
それも信頼するに相応しい妥当性を必要とする。
とある集団で窃盗を行うつもりでいるとしましょう。
それは信頼に相応しい妥当性に欠けるため、普通ではなく、異常と見做されます。
異常だと判断されれば、窃盗は普通ではありません。 - 異常だと見なされたら普通には成り得ない。また話を戻しましょう。
とある集団で窃盗を行う催しがある。そんな中で集団は異常性に目が付きましょう。
自分たちは窃盗という異常な行為を求めている、と。 - 集団に関して律儀や妥当性を加味してはいかがでしょう。
律儀を庇うとしたらまず「普遍さ/普遍的性質」がもたらさなければなりません。
普遍的な律儀を持ってしてそれを普通の律儀と提案するのはどうでしょう。
これはもちろん妥当性があります。
ところで何に関する律儀が思い当たるでしょう。
いじめを起こさないようにするという律儀と言ってはいかがでしょう。
いじめないように気を付ける集団はいじめをしないという点で妥当性があります。
しかしながら集団の中の一名だけがいじめをしないように気を付けるだけでは、
妥当性は見られません。 - 監督とキャスト(奴隷)の仕組みはどうなっているだろうか。
監督(主)が(奴)を動かすはずなのだが、逆に奴に監督が左右されるのである。
監督は奴に対して命令する――であるが――奴がちゃんと動かないと困るものである。
監督は奴に対して執拗になり、――そしてますます――執着してしまう。
そして生きづらさを覚え、失態するおそれまで抱く。
奴は監督の目をごまかすため、――おどけたりして――自分を見せびらかす。
奴は監督にまた叱られる。奴は監督の命令に従おうとするのだが、上手くこなす時もある。
しかしながら、奴に対して固執した監督は満足するわけでもなく、「あらゆる奉仕」を探るのである。 - 集団の中で一名だけが「反省」しても普通とは言えません。
もっと世界を広く見たときに、そしてもっと人数を数えた上で、「反省」が大多数であれば普通となります。
よって「反省」が大多数に要請されます。そこで、「反省」をテーマに大多数にアプローチします。
カントの言った「定言命法」を使い、「己の不十分を取り戻すために反省せよ」、
「己の行ったことを悔い改めるために反省せよ」と問いかけます。
「反省」を学んだ象徴秩序は、さらに鉄壁を追加したかのように頑丈になります。
そしてその象徴秩序においては「反省は普通に行うもの」というレッテルが浮かび上がります。 - 「反省は普通に行うもの」というレッテルは、その後の後世代にも伝わるはずです。
しかし、一点、「反省」に関する理論・論拠が必要となります。
「反省はいいものだ」「反省することで価値のあるものを生み出す」
そのような徹底した理論・論拠を生まねば、反省する集団は回収され、意味を成さなくなります。
そうならないためには、素晴らしい者の存在が要請されます。
素晴らしい者は記憶力が高いため、伝えるべき内容を覚えています。
そして素晴らしい者は、徹底して感謝もできます。これは後述します。 - 素晴らしい者は嘘を吐いたり迷惑を掛けたりしません。
そして素晴らしい者は、ちゃんと反省をすることができます。
それでは、どのような反省が実を結ぶのか?
「会社で携帯電話でゲームをして遊んでいた。それで上司に叱られた。
そこでゲームをしていると疑われないよう携帯電話は会社内では使用しないことにした。
そして自宅に帰ってから携帯電話で遊ぶよう行動を改めた。」
こうした行動の抑制は、軌道を変えて自室へと舞い戻った。
もう一例。
「会社に行くのが嫌で会社を休んでいた。そこで自分でやる気をつけて出勤するようにした。」
こうした仕事をする能力を発揮するに至った反省は、実を結んだと言っていいだろう。
そもそも素晴らしい者は反省をする必要性を感じないのかもしれません。
少しでも素晴らしい者のイメージを壊さないよう、ここでは素晴らしい者を反省すべき点がない者として扱います。
*反省すべき点がない者とは、できていないのではなく、できている存在です。 - さて、反省を介さない存在、すなわち素晴らしい存在は、自己抑制が上手いとしたらいかがでしょう。
自己コントロール・セルフコントロールと呼ばれる自己抑制は、
――ミスをしない素晴らしい者なのだが――ミスをしても感情的にならずに済む可能性を秘めています。
そして小さなことでクヨクヨしません。クヨクヨしない強さを秘めているからです。
強さを秘めた素晴らしい者は落ち込んだり不機嫌になったりしません。
これは強さだけではなく、「人生の上手さ」も関与していると思えます。
徹底して感謝ができるこの方は、人生の上手さも関わっているのです。 - 「人生の上手さ」とはいかがなものでしょう。それは人生には欠かせないと思える何かではないか。
人生の上手さという概念は、21世紀に誕生し、これまで扱われない概念でしたが、
「こんなにみすぼらしいのに人生が上手い」という風に用いられる「可能性を秘めています」。
そこで「みすぼらしい」という概念に焦点当ててみますと、「外見が貧弱だ。みなりが悪い。」とある。
「あの人は外見が貧弱なのに、人生が上手くて相手と勇敢に渡り合っている」という風にも使えます。 - 上手くいっている人の中で、これは自明だが【人生が上手いんですね】と賞賛する例が考えられます。
また、【あの人の人生は上手い】と賛美する例も考えられます。そこで言われた本人はどう思うか。
それは嬉しいかもしれません。「人生が上手い?良かった」と零すかもしれません。 - 「こんなタイミングで上手い」という賛美もあります。噛み砕いていえば、「マサチューセッツ工科大学に合格できたこと」が挙げられます。
ベストタイミングで合格しないと殺されるらしく、「ベストタイミングでマサチューセッツ工科大学に合格して人生上手い」という賛美です。
マサチューセッツ工科大学に合格したその方は、実際に存在していました。この方は運もいいし頭もいいんですね。
それから、運がいいとよく言われる方は、「運がいいね。人生上手いんだね」と言われる可能性を秘めています。
不滅男という言葉があります。不滅とは、滅びないこと。それはともかく、不滅男という言葉の意味は、「ラッキーばかりいう男」という意味です。
ラッキーばかりいう「運のいい存在」は実在するでしょうか。「運のいい存在」の所在は認めても、「ラッキーばかりいう存在」は認めづらいと思います。
しかしながら、ラッキーばかりいう存在はどこかに存在するかもしれません。これも公には出てないので普通とは言えないでしょう。 - さて、「人生が上手い」という言葉に関連する話題を見てきました。そこで私はある意見を聴きました。
「上手いとはひとつしかない。マサチューセッツ工科大学の合格に纏わる話」だと。
このようなお話しか、「上手い」はないと、知っているというのです。
もしそれが正しければ、マサチュー合格だけ信じることになるでしょう。
上手いのは世界にひとつしかなかった、というわけですから、なるほど、人生が上手いなんて普通は聴かないはずです。
そうです、それが大事なのです。何が「普通」たる出来事なのか、普通論はそれを要請しています。 - 014考える名無しさん垢版
2024/03/07(木) 12:18:45.930
世界はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
人はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「我」と「他」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節している。
0015考える名無しさん垢版
2024/03/07(木) 16:01:48.130
僕はノッペリとした連続の現象だ。あるいは混沌とでも。
僕はそれを分節化し、パターンを見つけ、法則をでっち上げる。
いや、その前に「僕」と「世界」に分節し、あるいは「内」と「外」に分節しているみたいなことよね
――――――
我と他に分節し、とあるが、具体的にはどういうことなのか。
自分は自分の所有物を確保する、それがこの世の普遍的な出来事でありましょう。
他者は他者なりの所有を確保する、これがこの世の法則でしょうか。
僕と世界に分節し、とあるが、自分は主体としてこの世を改築していく、すんわち人生をプロデュースしていく。
世界は強靭と思えるほど大きいが、神が認めてくれれば祝福の世界となるはずです。
「内」と「外」に分節している、とあるが、内に道徳律を秘め、そしてまた、外には平和の国を築くことが、大事です。 - 我々には盲点がつきものです。盲点とは、意外に気づかない点、という意味です。
さて、私たちにどのような盲点があったか、ケースを見ていきましょう。
「将棋で2五桂を指された。2五桂は盲点だった」――将棋で絶妙手を指されて敗勢になる場合もあります。
「飲食店で楊枝があるのが盲点だった」このような存在の盲点は、存在を使うことさえできないというデメリットを齎します。
また、ロッキード(盲点という意味)という言葉もあります。
盲点は、ファイアーという意味もあります。 - 祝福の世界、そこでは何が起きるのでしょう。たしかに神様はあちらこちら見ておられます。
その中で悪事を働いているのを見ると、それと何かしらを天秤にかけて裁くことがあります。
もうひとつ、陰徳を積んだり天の倉に徳を積んだ者は神から褒美を受ける可能性がります。
そこで、私たちは徳を積むことを目的に励むことに気が付きます。
そのような素晴らしい者の集団の世界では、徳を積むことが普通になります。 - 「あらゆる奉仕」とはいかがでしょう。監督(主)に対するキャスト(奴)の演出(それもエロい演出だとしたら……)が一案あります。
しかしながら演出という奉仕だけでは監督は満足しません。そこで地図を暗記するかのように勉強し、旅先の店(経営)を教えます。
これは効果がありそうです。監督は旅行する楽しみをはるかに求めているからです。
自分が世界を作ったと錯誤している監督(主)は、地図を覚えるのも大事にしています。
なぜならどの地域も店(経営)も自分が作った大事なものだからです。
そこで、店先に満足しない監督にはどうすればいいでしょうか。 - そこで店先においては多彩な褒美を用意することが必要だと考えられます。
監督は、キャストから多彩な褒美を店先で受けます。嬉しいかもしれません。
それによって、監督は満足するのだと、ここでは断言させていただきます。
満足した監督は、恩を返したくなったらどうでようか。
恩を返すために、旅行へ連れて行ってくれるでしょうか。
このような監督が太っ腹になることは、少ないケースなので普通ではありません。 - 恩を返すということは、贈与といいかえることができます。
ここでは旅行ではなく肉体関係―それはエロスである――が要請されるとします。
エロスによって、キャスト(奴)と一線を超える――これもひとつの演出か――が考えられます。
そうすることによって、監督(主)はキャスト(奴)に「自分の身を売る」のです。
キャストは監督の立場が上にあるため、キャスト自身は身を売る自信がありません。
そこで監督(主)はキャスト(奴)をエロスへと招きつつ、相互承認を求めます。
監督から愛されていることを感じたキャストもこの愛を最上のものと見るでしょう。
主から愛されているキリスト者、彼らも主の愛を至上と見るでしょう。
ですが、キリスト教の神とエロスを交えることは、不可能であります。
そんな中で、神さまと恋愛する、と言うように、自分から教団で至上の信仰をすることが要請されます。
至上の信仰をする「素晴らしい者」は、神さまを大切にできるはずです。
キャスト(奴)も監督(主)を大切にする、そのうえで、相互承認が達成されるのです。 - 監督(主)もキャスト(奴)を愛していて、両想いなら、相互承認が実現されたことになるでしょうか。
へ―ゲルはいう。「お互いを対等で『自由』な存在として認め合うことをルールとした社会を作ること以外に、自由に平和に生きる術はない」
ヘーゲルは自由の相互承認論を語るが、監督とキャストの間ではそうではなく、愛の相互承認が出来上がっているのです。
しかしながら、キャストが神さまを信仰しているとしたら、いかがでしょう。
キャストは神さまも愛すけれど、監督も愛しているとすれば、いかがでしょう。
監督(主)は、キャストが神さまを愛してもいいと許容するでしょうか。
監督は愛してもいいといいつつ、少し微妙感をもって生きるかもしれません。
キャストは愛したい存在を愛し続ける、ただそれだけなのです。 - 監督は二者択一に狭まれます。神さまを愛するか、愛しないか。これは愚問かもしれません。
監督は、一応、好んだキャストと交わろうとしますが、神さまは見えないため、手を出さない可能性があります。
神さまの意見を借りれば、監督はキャストを狙っていて嫌だ、だから監督を裁く、という内容です。
監督はうすうす神さまの視線に気づいていますが、キャストを求めて生きることを重視しています。
神さまはどうでしょう。あなたなら、監督が嫌になったでしょう。そこで監督はどうなるか。
神さまが憎んだ監督は神さまに処刑されてしまいます、あるいは、処刑人を介して処刑されるおそれがあります。
これは普通のことなのでしょうか。神さまの指図で処刑が起きることは、普通の事なのでしょうか。 - 神さまは処刑家としての一歩を歩み始めます。監督が「エロいから嫌だ」というのです。
そこで神さまは監督を裁きます。これは普通の事のように思えます。
監督は神さまに抗うすべもありません。どうしても裁かれることは不可避です。
そこで、監督は助けを求めるようになります。それはキャストに対して芽生えます。
監督は言います。「キャストの君よ、裁かれるんだ。どうにかしてほしい」
そう言われたキャストは戸惑います。「監督も抗えないのに、どうして私が抗えるでしょう」
監督は挫折を味わいます。自分を救う存在はこの世に存在しないのだ、何たる現実だろう、と。 - 自分を救ってくれる存在はどこにもいない。これが監督の絶望感です。
キルケゴールはいう。「死に至る病は、絶望である」
監督は死に至る可能性も考えられます。しかしながら、神さまに対して呪文を唱えることを思いつきます。
神さまは万能であるため、呪文を回避できるでしょう。
監督も呪文では神さまに勝てないと学びます。
むしろ神さまの方が監督に呪文をかけ放題なのです。
ハリーポッターと賢者の石で有名なあの映画では、杖で呪文を唱えます。
神さまには効果がありませんが、神さまはもっと自由に呪文を使うでしょう。
呪文対決で神さまには上手くいきません。神さまは呪文耐性があります。 - 監督はそうこうして勝ち目がないと悟ります。恐怖感が増していきます。
神さまはいいます。「監督さん、私に攻撃しようとするなら殺しますよ」
監督は畏怖するかもしれません。「分かりました、あなたに服従します」
遂に監督は神さまに対して服従宣言をします。「あなたに殺されるくらいなら、僕(しもべ)でありたい」
キャストはこの光景を見て驚きます。「監督さん、あなたは神さまに頼るのですね」
神さまに頼ること、信頼すること、それらは僕(しもべ)の必須項目でしょう。
しもべである監督は、キャストの気持ちがわかります。キャストも監督に頼ります。
キャストが私に頼る気持ちがわかる、そう監督は実感します。 - 監督のしもべであるキャストは監督を助けたくなります。
その一方で、キャストは神さまに願いをかける、大仕掛けに賭けようとします。
キャストは、神さまに「監督を許すように」説得をしたり願ったりします。
「神さま、どうか監督をお許しください、もうあなたのしもべなのですから」
そうこうて神さまは監督を許すことを認めます。
言うことを聞いてくれたと知ったキャストは喜びます。
「私も監督もあなたの許しがあることを喜んでいます。神さま、ありがとうございます」 - 神さまは監督を許すという一大事が起きています。
監督はキャストと同様、神さまに許されたことを喜びます。
「神さま、私をお許しくださり感謝しています。」
監督は少しでも攻撃性があったことを悔やみます。
「お詫びの証と致しまして、あなたのしもべとしての活躍を懇願します」
神さまは監督がしもべとして自分に仕えることを認めます。
「あなたの思いは強い。しもべとして活躍することを命ずる」
監督はまた喜びます。しもべとして活躍できると意気込みます。 - キャストは、監督が神さまに仕えることを、予感していました。
「監督、神さまに背くことなきよう努力しましょう」
「もちろんだ。キャストも神さまにしもべに?」
「監督にも神さま、両方にも仕えたいです」
神さまもキャストがしもべとして自分に仕えることを認めます。
監督は言います。「両方のしもべとは、これは大物だろうか」
神さまは言います。「本物ならこれから咲きますよ」
キャストは言います。「本物でも重鎮でもいいですよ」 - キャストは神さまと監督とのどちらを支持するのが妥当でしょうか。
どちらを上だと信じるのが妥当でしょうか。
そして一方より好きになる方はどちらが妥当でしょうか。
これらの問いはじっくり見ていきましょう。
キャストは神さまを支持しているけれど、それは監督を支持しないという正当な理由になるでしょうか。
結論からいえば、キャストはどちらも支持していいのです。 - キャストは神さまも監督もどちらも愛しているのだから両方支持していいのです。
また、上だと信じるのは、監督より権力のある方は神さまなのですから、神様を上だと信じるのが妥当だと思われます。
一方より好きになる方は監督との相互承認を懸念してキャストは神さまより監督を好きになるべきでしょう。
神さまと恋愛をしてはいかが、という意見もあるでしょうが、キャストは監督と愛し合った方がよいのです。
それに比べて神さまは公衆の面前に現れるわけではないので、愛し合うことはありません。
愛し合うことはなくても、大衆から好かれるのが神さまなのです。 - 神さまの権力>監督の権力>キャストの権力
このような権力の階層が妥当だと思われます。
神さま>監督≧キャスト (強さの階層)
神さまは見えないためとらえるのが難しいですが、監督とキャストは似たりよったりです。 - キャストは重鎮であると、神さまは言います。また、監督は「本物」とキャストに言います。
キャストは重鎮と言われて喜び、また本物と言われて喜びます。
この喜びがキャストの至上の喜びなのです。褒められた喜びはかけがえのないものです。
ここでキャストと神さまの相互承認が確立します。
神さまを認める心、それをキャストは維持しています。
監督もキャストを認める心、これを維持しています。
神さまは監督を認める心を維持しています。
昨日の敵は今日の友、とはよく言ったものです。
神さまは遂に監督を認めたのです。 - 古代の哲学者=ソクラテスは、「無知の知」を唱えました。
自分が何を知らないかを知る、つまり自分の無知を認識することを指します。
キャストは振る舞いは上手なのですが、あるとき神さまに
「キャストは何も知っていない。つまり無知である」と言われました。
キャストは落胆しました。そこでこう言います。
「私は無知でも想いを大切にして内側の声を聴いてそして判断/行動をしています。
想いは強い場合があるのです。知っていない方でも私は想いに賭けています。」
神さまは頷きます。「ほっほっほ。無知だとして責めて悪かった」と神さまは言います。 - 監督は、キャストの想いの強さ、そして内なる声を聴いていることに驚きます。
「内側の声、内なる声、とはどうやって聴くのだ」
「耳をすませば」
「それでいい。では本物と言われているのに無知だとはなんぞや」今度は神さまに言います。
神さま「しくじっただけじゃ。神々もしくじるのじゃ」神さまは答えます。
キャストは言います。「私は無知ではありません。ただ、勘違いされただけです」
神さまは言います。「ふむ。大物が無知であるわけはないか」 - 三分を紹介。
>>序分 - 序説の部分。その経典が説かれる所以(ゆえん、理由)や因縁を明かす
>>正宗分 - 本論の部分。その経典の中心となる教説を述べる
>>流通分 - その経典の功徳を説き、弟子に附属し、後世において受持し流布することを述べる
序分では経典が説かれる理由を語ります。正宗分では経典の中心になる教説を述べます。
流通分では後世に向けた経典を言います。
しかしながらお釈迦様は経典を書いておられません。ここでは仏とブッダを登場させます。
仏「神さま、私も監督が嫌いです。エロいと聞いております」
ブッダ「仏さん、私も少しエロいところがあります。大目に見てくれませんか」 - 仏さんは言います。「釈迦は仏典を作っていない」
「偽典が残っているのだ」「釈迦に弟子はいなかった」
と淡々と力説します。
ブッダは訊きます。「釈迦が悟りを開いたのは本当ですか」
仏「いいえ、釈迦は悟りを開いていません。これは私が知っている自信のある一説です」
神さま「仏典の内容の一部が偽りなんですね」
仏「ええ。釈迦は名言を残したと伝わっていますが、名言も残していません」
ブッダ「では《行為によっては未来は変わる》という教えも釈迦の教えではないと?」
仏「ええ。釈迦はそのようなことは教えていません。バーニングストライブなら言っていました」
ブッダ「どういう意味ですか?」
仏「『釈迦いい釈迦いい釈迦いいいい』という意味です」 - 監督「釈迦いいいい、とは何語だ?」
仏「女子語の意味ですよ」
監督「女子語とは?」
ブッダ「言葉の意味が大事なんです。ファイアー気になりませんか」
仏「ファイアーはファイファイファイファイとかですかね」
ブッダ「そうですね。いい、強い、という意味もあるんですよ。
カタカナが女子語で意味の印象がいいときに使うんです」
神さま「ファイアーロケットはどういう意味なのじゃ」
ブッダ「ファイファイファイファイファイという意味です」
仏「ではブッダさん。ファイはどういう意味ですか」
ブッダ「フェイ ロー という意味です」
仏「フェイ ロー ですか。勉強になりました」 - ブッダ「ファイファイというファイが二つ分の言葉もあります」
仏「いいんだけどな、という意味ですか」
ブッダ「そういう意味もあります。どうして分かったんですか」
仏「直観です。直観が働けばいいと思います」
監督「女子語を解読する、というのもいいけどな」
仏・ブッダ「解読なんていいですね」
神さま「私は勘です」
キャストが会話に入りたがっていた。
キャスト「私は女子語は感じてわかったりします」
仏「勘、感じ、なんて素敵ですね」
ブッダ「本当に素敵ですね」 - 神さま「素敵とはどういう意味じゃ」
仏・ブッダ「ファイア、です」
監督「また同時に言った」監督は、ははっと笑った。
神さま「直観かね」
仏「直観です」
ブッダ「私は意味を想ってしまうのです」
キャスト「ファイアはたくさん出てきますね」
監督「女子語の意味に?」
キャスト「ええ。女子語の意味に」
神さま「ミカンはどうじゃ」
ブッダ「ファイファイファイファイファイファイファイファイロー神です」
神さま「長いけど神があって良かった」
仏「髪があって?」仏は少しからかった様子だった。 - 監督「仏典のメリットは何だろう」
ブッダ「仏教を学ぶ際に大事な手掛かりになるでしょう」
仏「般若心経の内容は覚えて損はないでしょう」
神さま「感じだらけで覚えられるといいのじゃが」
キャストAとキャストBが忍び寄ってきた。
キャストA「座禅や修練なんかは知ってみたいよね」
ブッダ「瞑想なんかは座禅でやるでしょう」
仏「どんな瞑想がいいか分かる?」
神さま「ヴィッパサナー瞑想はどうじゃ」
監督「色々あるんだ」
キャストA「そのヴィッパサナーってどういう意味?」
ブッダ「フェイフェイフェイフェイフェイ、という意味ですね」 - 仏「またそうやって当てる……ブッダちゃん」
ブッダ「仏さんでも当てられるでしょ。意味くらい」
神さま「わしもフェイ系統だと思っていた」
キャストB「フェイフェイフェイフェイカイはヴィッパサナー瞑想だよ」
監督「フェイをカイに換えたらそういう意味だな」
キャストA「至極真っ当ってどういう意味?」
ブッダ「監督いい、という意味ですね」
仏「監督にはいい感じのする言葉ですね」
監督「ではひらがなだけど『しきょくまっとう』は?」
ブッダ「監督良し、だと思います」
仏「同意です」
キャストB「トルマージャは知ってる?」
キャストA「監督がいい、という意味でしょうか」 - キャストB「それで当たってます。ではトルマージャ?はどうですか」
ブッダ「監督がいいんだよ、という意味ですね」
仏「何だか微笑ましいですね」
監督「トルマージャとかそういう女子語はどうやって覚えるの?」
神さま「記憶力が要となるじゃろう」
キャストA「言葉を発声して覚えるとかです」
キャストB「文字にしてもいいと想います」
仏「よく繰り返してみるとか」
ブッダ「覚えると想っておく、でしょうか」
監督「色々あるんだ」
キャストA「ところでロクセンダンはどういう意味でしょう」
キャストB「文字がヒントだよ」
ブッダ「文字にしてもいい、という意味です」 - キャストA「文字にしてもいい、という意味ですか。納得です」
仏「色々あるんだ、はどういう意味ですか」
キャストB「監督いい、という意味です」
神さま「監督いい、なんて監督は喜ぶじゃろう」
監督「うれしい……」
キャストB「監督ってファイアですよね」
ブッダ「そうですよ。ファイアがヒントなんです」
キャストAは六法全書を暗記したいと意気込んでいた。
キャストB「六法全書を丸暗記したいのかい」
キャストA「そうなんです。何とか読破したいと思います」
神さま「無理はするなよ。少しずつでよい」
仏「コツコツコツコツでいいんじゃない」
キャストAは何だか嬉しくなった。そして本屋へと去って行った。 - 仏「嘘も方便という言葉は、釈迦は言ってないんですよね」
神さま「釈迦が言ったイメージがあるが」
ブッダ「仏の顔も三度まで、も言ってないと仏さんから聞きました」
キャストB「仏典の嘘なんですかね」
ブッダ「何で嘘が出回るのでしょうね」
仏「僧侶の捏造したお話なんですよきっと」
神さま「そうに決まっとるわい」
仏典には多くの嘘が含まれていることを警戒したい。
釈迦は悟っていないのだから、変性意識がどうのこうのという問題ではない。
また、意識は文学だというお話もやや真実から離れたものに違いない。 - 神さま「ルンドラドムはどういう意味なのじゃ」
ブッダ「神いい神いい神いい、という意味ですね」
仏「またブッタちゃん当てる」
神さま「ほう」
キャストB「悟空癖もいいですよ」
仏「どういう意味?」
ブッダ「神(いいいいいいいいいいいい)、以上です、という意味です」
神さま「勉強になるのう」
こうした監督いいであるとか神いいという女子語をしっかりとおさえておきたい。
ブッダは意味を知ることのできる優秀であるけれど、どこかあどけない存在なのだ。 - 監督は、自分に関する知識が手に入って満足していた。
神さまも神いいだとかそういう意味がわかって上機嫌だった。
キャストAは読書家だった。キャストBは接客業に務めていた。
仏は努力家だったが、ブッダは言葉の意味ばかり考えていた。
監督は主である。キャストに従事させ、どの文章がよかったのか、
そして給料の8割以上の収入を監督に与えさせた。
神さまは怒った。収入の8割ももぎ取るからである。 - 監督は、キャスト達を金目のために利用したことがバレていることに気付いた。
監督「神さま、あなたにバレたのですか」
神さま「何の利用か詳しく」
監督「ネット上の文章の中でいい文章、為になる文章を要請したんです」
神さま「ほう。他には」
監督「キャストの収入を横領していました」
神さま「横領していけぬな」
監督「やはりダメなのですか。そうなら自殺して終わります」
監督は自殺した。神さまの王室を出た後でだった。 - 監督はいなくなってキャストは横領されなくなった。
仏「監督……」
ブッタ「か、かんとく……」
神さま「もう帰ってこないのう」
キャストA「哀しい、……」
キャストB「うん……」 - 神さまは黙って考え込んでいた。監督の事だ。
自殺して正しかったのか、天秤に掛けたかったのだろう。
以下引用
ーーーーーー
自殺と子供をつくらないこと
埴谷雄高『死霊2』(p140〜)によると、この二つだけが、人間が正真正銘の自由意志でおこなえることだそうです。
ーーーーーー
埴谷氏の意見で言うならば、監督は自分の自由意志で自殺を行ったのです。
神さまは、監督の自殺の意義を考えていましたが、自由意志だったと学びました。 - 贈与には生前贈与と暦年贈与があるでしょう。
生前贈与とは親が生きている間に子へ贈与するものです。
暦年贈与は生前贈与の一種です。控除額は毎年110万。
恩を返すということは、贈与になることでしょう。
そのような贈与を監督はキャストにしませんでした。 - >>6にカバーできていないと書いた。
>>神がいるのか、魂はあるのか、こういった形而上学的な側面をカバーできていない。
誰も理性で神がいると分かっているわけでもなく、魂も分かっていない場合も多々ある。
しかしながら、イエスの文献に見られる天の父というワードに感化されて、キリスト者は天の父を「存在する者」と視る。
魂においては、わたくしの知り合いである、二瓶さんが、「魂は永遠だよ」と二度もお話してくれたので、
きっと私は永遠に生きるイエスキリストなのであります。永遠の命は神様の許可があるからでしょう。 - 監督がいなくなって寂しいキャストがいました。
キャストはお墓参りに向かいました。
監督さん。ごめんなさい。ただそればかりです。
いつか私たちに見せたかった栄光を、そして演劇を、私たちが叶えてみせます。
それではお休みください。アーメン。 - 大丈夫。心配しないでください。
監督の最後のひと言です。
監督はキャストを愛していました。
キャストはモヘンジョダロが気になります - それでは監督の葬式を始めます。
来監督復活祝願冥界実相
休息安泰末法回避説法 - 監督成就想念夢現回廊
大丈夫安眠熱意情熱大陸
監督心配無用霊界修業無事遂行
以上で葬式を終わります。
キャストA「皆さん、今回はお葬式に参加していただきありがとうございます」
キャストA「無事あの世でも修業してくださることを願っています」 - キャストB「あの世でも修行に励むことを切望しております」
キャストC「頑張ってあの世でも平和に暮らしていけますよう祈っております」
キャストD「あの世で平穏に暮らしていけますようお願いいたします」
すると監督の声が聞こえてきた。「ありがとう、ありがとう……」 - キャスト一同「か、監督……」
キャスト一同「どうかご無事で……」
ブッダ「監督の身柄はご安置するそうです」
仏「墓標ですね」
神さま「墓標に句碑も添えてみましょうか」
すると監督の声が聞こえてきた。「ロベルト」 - BUDDISM!
- ブッタ「ロベルトとはスネヒョンスネヒョンという意味があるが、他にも色々ある
仏「ハイハイハイハイという意味もある
神さま「バーカバーカという意味もある
監督2世「スネひょんです。監督の生まれ変わりですよねわたしって。よろしくお願いします。 - ブッタ「スネひょん!?生まれ変わりか
仏「よろしくぐらい言えよブッタさん
神さま「よろしくな
スネひょん「神さまはしっかりしていらっしゃる - ブッタ「神さまだって私だってちゃんとしてますよね
仏「そうかな
神さま「スネひょん。大丈夫だぞ
スネひょん「ありがとうございます。 - ブッタ「スネひょん。君は礼儀正しい」
仏「礼儀正しいなんてよく言えますね」
神さま「確かに礼儀正しい」
スネひょん「監督時代とは違いまっせ」
ブッタ「違いまっせ、とはスネひょんいい、という意味だ」
仏「ほほう。」
神さま「スネひょんは成長した」
スネひょん「違いまっせ、っていいですね」 - 彼らの集団を見て、ヨノツキ公爵が笑っていた。
ヨノツキ氏の考え方によると普通はこう示される。
普通に考えたらこうだ、という行為を取ればいい。
また、普遍的に考えて行動すればいい。
カントのいう「普遍的な立法の原理に基づくよう行為せよ」の通りに行為せよ。
葬式には遺族や知り合いが集うことは【普通】である。
学校で授業を聞くことも、【普通】である。
これら二つの普通は【客観的普通】である。
ヨノツキ公爵は、監督の言い分を知っていた。
その言い分とは、「来世の自分=スネひょんが幸せに暮らすこと」であった。 - 監督=スネひょんの言い分である、幸せに暮らすこと、というのがあるが、
幸せに暮らすことが人並みであり、と思うし、そして普通であり、と思う、だからこそ主観的普通である。
客観的に幸せを掘り進めると、幸せである方が、不幸であるより気持ちは安らかである。
さらに幸せを掘り下げると、幸せになりたいと思う人が少なくないということ。
不幸であるより幸せの方がいいということは、言うまでもない。
しかしながら、幸せと不幸、どちらかの方が当て嵌まってるかというと、幸せの方が当て嵌まってない。 - ―――――
今さら不幸や絶望感を以ってしても何になると云うのだろう。
絶望感に浸っているとき、その時が大事なときだと、私は思う。
絶望感から這い上がったことが、私の人生で何度かあった。
絶望を経験してこそ人生なのではないか、そう考える人が増え始めるでしょう。
それでは絶望を経験することは普通なのか?この問いに答えてみましょう。
絶望することが頻繁にあるとは聞きません。また、絶望が普通と言えるほど多くあるわけではありません。
絶望を経験することは普通ではないのではないか、そう思えるでしょうか。
絶望を経験した校長先生を私は知っています。4回も絶望したけど這い上がったのです。
借金を払えずに毎日ひやひやしていたらしいです。
不幸の方が多いと私は聞きます。不幸から幸せになるためにはどうすればいいでしょうか。
幸せになるためには努力することです。毎日コツコツ努力することです。
努力はしなければならないのです。 - ★自己の成長
私たちは、自己を成長させるべく、学校ではもちろん、本においても道徳を学んだ。
努力しなさい、という意見は間違ってはいないだろう。
しかしながら、努力しなさいと言った本人が、道徳的に反していては、つまらない。
他者にアドバイスする本人自身も、立派な人格者でなくてはならない。
これが第一原理である。そして他者のためにアドバイスをすること。
これが第二原理である。また、人災に遭わないように気を付けること。
これが第三原理である。他には、原理にはあげながったが、避難生活の準備を整えておくこと、である。
勉強しなさい、だとか、嘘をついてはならない、だとかいう道徳規範は、
本人が見事に達成していることを条件としない場合、信憑性の低い説明になってしまう。
あらゆる道徳規範は、本人がその道徳規範をクリアしていることを条件に、語られるべきなのである。
自分が成長してから道徳を語れ、や、嘘を吐くなと云うなら自分ができてから嘘を吐くなと言え、など、
そういった勧告者本人がしっかりしてから発言するべきだ、という意見もあるだろう。
しかし、立派な人格者は、当然しっかりしているのだから、他者にアドバイスできてもいいのである。 - ★自己の人格
自己の人格は空高くあった方がいい。自己の人格形成に興味を抱こう、私はそう思います。
人格は様々な要因によって形成されます。
例えば、親の躾がいい例です。親は、パフェノニックになるな、と躾します。
人格形成においては、いじめに遭っていたことも関わるでしょう。
そして道徳観を深く洞察し、優しい性格になることが極めて大切です。
女性は優しい人が好き、とはありそうなお話です。
優しくない人は嫌われます。
人格の形成は、ヨロミンチャと言います。
優しくなるために、道徳心を養いましょう。 - ★自己の成長2
かなりアウトな意見だが、道徳的であることを認めない、という一種の風潮もある。
道徳ごっこをやって気分がいい?そんな道徳いらねえ、という考え方だ。
すべての道徳が絶対的に正しいとは言い切れない、そんなことも匂わせる。
「はい」「わかりました」「ありがとうございます」 このような接待は、
仕事によるが、よくある例である。「どうもすみません」という接待も、
道徳嫌いの人から見れば、嫌な発言だったり「つまらない道徳」だと思われる。
こうした道徳規範も、つまらない、とバサッと切られれば、元も子もない。
しかしながら、ビジネスマナーとしての「道徳」は、ビジネスを続けていく者として、
大切な考え方だったのではないだろうか。「おはよう」を言わない社員を社長は嫌うのではないか。
社長は挨拶という道徳規範から考えていくのではないか、私は挨拶から始めることが大事だと聞きました。
挨拶は大事と云いますが、道徳嫌いの人は嫌がるのでしょうが、そんな人がいないところで挨拶すればよいのです。
挨拶から人間関係を築いていくのなら、挨拶することが広まっていれば良いのですから、挨拶は広まるべきでしょう。 - ★挨拶の効果
おはようございます。という挨拶は、身を明るい気で満たす効果がある。
明るい挨拶で毎日暮らしたいものだ。
挨拶ひとつ、デキれば、次もできる。
ひとつできればふたつできる。ふたつできれば三つできる。
哲学板の皆さん、こんにちは。私は元気です。
挨拶いい - 永らく暮らしているとこの世の諸行無常に気付くものである。
ひいては誰がが悪いのかが、勉強になる。
どういうときに天啓は降ってくるのか。
これについてだが、清く正しく生活していたとき、かつ超越者に認められたとき、
だと思われる。カントは「正しく生活」をしたことは有名だろう。
そしてまた、イエスキリストのように、貧しい人々のために精力を注いだことも、有名だろう。
そして、デカルトのように「清く(又は思慮深く)生活した」ことも、天啓と関わっていると私は考える。
ある瞬間、ハッと天啓が降りてくる。それは超越者からの恵みであり、
頑張っていることのご褒美であろうか。皆もあと一歩踏み出す勇気をもって、前に進んでいってください。 - 高速で活字を理解・納得することができれば、読書はより円滑なものになる。
高速で文を読む技術を身に付けたいものだ。
私見ですまないが、言葉を相手にするのだから、言葉を吟味しなくてはならない。
読み方・読み内容を拵えておかなくてはならない。
そのためには学習・体験が必要となる。
学習を学習するということは、学習という言葉を汲み取る必要がある。
学びならうこと、という意味もあるだろう。
それを拵えてこそ、学習の意味を学習したことになる。
そして又、学んだ言葉を実際に話して体験してみる。
その成果を、吸収し、勉強することこそが、言語習得の要となるのである。
コミュニケーションとは言語習得の舞台だ。
私はある程度予備知識を持っていなければ読書は難しいものだと考える。
『神は死んだ』という一文にしても、ある程度考えさせられるだろう。
これはある程度知識を要する。神は当初、キリスト教というカテゴリーを神格化させていた。
ところがキリスト教は神格化した神秘性を著しく欠如した。
キリスト教の道徳観が否定されてしまうこの出来事を、『神は死んだ』と表現した。
神のいないキリスト教的価値観は根底から覆された。
道徳は力を失い、神を崇める唯一心の信心は、音を立てて崩れ去る。
力への意志を求めるキリスト者は、道徳的価値観を見失った - ★読書の作法
一瞬の隙をついて、という言葉もある通り、一瞬の判断で文字を見分けることが大事である。
私の実体験では目次をさぐり、要点だけを見る、という読書だ。
ネットサーフィンをしていると時折簡潔で重要な文章があるだろうからパッパッと読むのである。
一瞬の判断の巧さを狙うなら、漢字を勉強するといいだろう。
私は日本語が高速で見分けられる方だと思う。
しかし英語はまだ見分けるのに窮する場合もある。
私は英語も勉強していつか英語を高速で読むことを目指している。
英語も勉強しろ! - ★顔分析
顔は履歴書と言われる。顔の形、輪郭、色合い、などからどういうタイプかを分析する。
顔が大きいと記憶力が高い、鈍感、正常位がいいと思っている。
精神力が高い、という点もある。
面長だと鋭い、テクニックがすごい。
黒人はうんこさんだ。イギリス人は歯だ。 - >>111
WEB広告で明かせぬ正体 最強の糸使い〜 の漫画が出ていたので、懐かしいと思い読んでみたが、思ったより酷かった。
キャラクターデザイン自体は悪くないのだが、とにかくアクション描写が下手で、見ていて恥ずかしくなるレベルだった。
その流れで 辺境ぐらしの魔王 転生して最強の魔術師になる を読んだら、漫画の出来が良く続きが気になったので、小説も読んだ。
不老不死なだけで辺境の村で穏やかに暮らしていた主人公が、勇者(?)に倒されて200年後に転生する話だ。
想いを繋ぐ展開が好きなので、そこは評価甘めに見ている。ストレスもあまり無い。
ヒロインの王女は王女の身分ゆえに身動きが取りづらく、オデットさんの方が相棒ポジヒロイン感の方が強い。漫画のマーサは可愛い。
コミカライズで外れると辛いという話だ。 - >>114
ほう。漫画でおもしろいか? - コギト エルゴ スム について。
我思う 故に我あり とは断言できない可能性についてであるが、我思うだけでは我ありと断言できないのではないか。
我思うからは、我思っているということしか導けないのではないか。かくしてデカルトのコギトエルゴスムは完全なものではないものになる。 - スピノザは『デカルトの哲学原理』で、「我思うゆえに我あり」の
「ゆえに」は、論理的帰結を示すものではないと言っている。
実体は「我思いつつ我あり」であり、「我」を想起している
まさにその時に「我」の存在を実感する、ということなのだ。 - ゆえに、という論理的な展開はコギトから抽出できない、であろう。
我思いつつ我あり、も、我が何だか曖昧なまま展開されている。
我がいるという我は完全な相対的概念とは言えまい。
かくして我はいるという第一歩と思われていることが、本当は完全な推理ではない、ということなのである。
我はどこにいるかさえ曖昧な現代では、自分さがしに傾倒する者が現れた。
しかしながら「自分はそこにいる」という刺激的なフレーズも現代には聞いていた。
我は曖昧なのである。自分もまた曖昧なものだ。 - 「我」の存在については、仏教では「ミリンダ王の問い」が有名だ。
『「馬車」存在しないのと同様に「我」も存在しない』というわけだ。
現在の心理学はもとより、哲学も物理学も、この議論について
決定的な解答を与えていない。仏教が最も明快に答えている。 - つまり「我は存在しない」というのが、最も妥当な解だ。
では、「我思いつつ我あり」はどうなのか?
端的に言って、「それは幻覚である」というのが答え。 - 我は存在しない、か。
素粒子が細胞において流転している世界で、血が流れても修復するものだ。
我もあったところで素粒子や何かと交流することもあるかもしれない。
我を出してみよと一休さんに言っても出せない。
我とは意識体なのではないか。我思う故に我思うについて考える、ということが挙げられる。
思う、考える、そうした自覚が第二のコギトなのだろう。 - 「我」の存在にあくまで固執するのは、仏教流に言えば「渇愛」つまり
「執着」だ。「執着」というとなにか、汚らわしい醜いものと印象して
しまうが、実際には、ごくありふれた性向だ。「生命力」と言ってもよい。
我への執着が生命力であり、それを捨てよというのだから、まるで仏教は、
死ねといってるように見える。
しかし、そもそも我々は"生きてない"のだ。盤珪禅師は「不生」と言ったが・・。
この辺から「理解不能」とか「カルトだ」とか言う奴が出てくる。 - 我々は生きていない。もちろん死んでもいない。
では、今、小惑星が地球に衝突したり、核兵器を落ちて、
この肉体が吹き飛んだら、私は生きているのか、死んでいるのか?
何も変わらないってことだな。世界も我(?)も安寧のままだ。 - 我々は生きていない、か。
生きているかいなかで口火を切るのてはなく、もっと華を開かせるような、そして鋭利で弁舌深い話題を展開してみたい。
執着は取るしかないのが常識だ。しかし執着は効果的な側面も持っている。
渇愛は執着と言われる。愛があっても執着と言われると愛もどこかぎこちない印象を受ける。
愛があってもそれは執着だと言われても、愛していいなら愛せばいい。
愛に恐れることはない。執着もまた、愛を生むのだろうから。 - ★読書の仕方
高速で読みたいという欲求ばかり伝わったのかもしれない。
しかしながら本をゆっくり読むという精読も大切だ。
スピードばかりてはなく緩急をつけて自分なりに読書をしたい。
緩急といってもスピードを目指すばかりではない。
ここは大事な内容だから緩急をつけて精読する、そうした姿勢が大事だ。
精読したことは書評する、という戒律も大事だ。戒律を持って人生を生かされていきたい。 - ★戒律
英語は毎日一単語覚える、そういう戒律だ。
社会、世界史は二個覚える、そういう戒律だ。
英語は発音が要だ。発音と文字に書いて覚えることが大事だ。
文字に書いて、参考書を読んで、文字だけ見て意味を想起する、そういう繰り返しが大事だ。 - 戒律には罰則が伴う。
キリスト教の戒律は、神による戒律だから罰則は厳しい。
仏教の戒律は、人間の戒律だから、融通がきく面もある。
いずれにせよ、戒律を言うなら、犯したときの罰則も明確にしておくべき。 - 速読で理解度が落ちることは、既に定説。
速読してる人は、必ず読みをはしょっている。
ところが、普通の文章には意味の粗密があるので、
粗のところをはしょり、密のところを丁寧にすれば、
理解度を落とさずに速読ができる。
とは言え、全体として理解度は落ちる。
それを承知で用途に応じて速読をするのは構わない。 - 127
どこがどうおかしいか教えてください - 普通に1,000文字/分ならば、十分速読と言えるが、ちょっと寂しい。
2,000文字/分、できれば4,000文字/分はいきたい。
そもそも、普通の人の読みは荒っぽいので理解は不十分。
その程度の理解度でいいなら4,000文字/分は難しくない。 - >>130
>もっと華を開かせるような
「生きていない」は、決して陰湿で、否定的なことではない。
むしろ最大限に活性化している状態を伴う。
逆に、仏教の「愛」に肯定的な側面はない。
>執着は効果的な側面も持っている
全く持っていない。
真理に執着する、善いことに執着する、博愛に執着する・・
全部、悪いことだ。 - 執着から生まれるメリットはないと?
何が最大限に活性化してるの - >何が最大限に活性化してるの
判らん。とにかく活性化してる。
今日は暑い、鳥の声が聴こえる、なんか気だるい・・
と活性化している。 - 筋違いなう
- 仏教の愛だとか何か筋違いだろう
仏教に愛なんて概念で論じたのは無いと言っていいほどだ。
仏教の愛に肯定的側面というお話は出てこない。
筋違いだろう。 - なにか誤読してそう。ってか、筋違いはどっち?
そもそもの思い違いで、空回りが甚だしい。 - 愛はほとんど説かれていない。愛が仏教でいうなら肯定的な側面はないというのは何か筋違いだろう。
愛も執着になるよとなら教えるかもしれない。
でも愛は俗世間では必要なものだ。
仏教では愛は執着だから気をつけなさいと教えるのだ。 - 何が空回りなんですか
- >>138
そもそも、俗世間(現代)での「愛(love?)」と、仏教経典の「愛
(例えば、トウリシュナー。他にも一杯)」とは別物。
キリスト教の「愛(アガペー)」と違うのと同様。
同じ漢字を用いたのが間違いのもとだが。
それをゴッチャにしてる議論だ。それを止めよと言ってるのだよ。 - ★麻雀
麻雀はドラを視野に入れておく。ドラはなるべく捨てないが、9ぴんは上がりにくい場合は捨てる。
私はイーリューソーで上がりそうになったことがある。緑一色だった。
白、撥、中、は待ちたい。ポン狙いだ。
東場の場合は東を待つ。南場の場合は南を待つ。どちらもポン狙いだ。
アンカンはしたら上がりにくくなる例もあるが、ドラをひとつ増やして一個持ってきて勝負する手もある。 - ★ゲームの意味について
ファイアパーフェクトパーフェクトコアゲーションという意味です。
運ゲーもゲームです。単純に言えば、運が大きく左右するということです。 - ★ヘーゲルの自由
我々は欲求をこの世界にどんな形であれたずさえているはずで、そのひとつひとつがミソギハラヒだったり罪穢消しだったりするものだ、と考えることもあるだろう。
ヘーゲルは欲求を平和へとつなげ、それを自由な社会とした。
どんな欲求も、平和へと道を開いていけるように我々は欲求を大切に扱わなければならない。
欲求を抑えたカント派の考え方とはことなる考え方だろうが、よくない欲求はよくないので抑えてもよいだろう。
ヘーゲルの平和はカントが考える平和とどこが違うか、考えてみよう。😀 - ★ヘーゲルの自由パート2
欲求を巧く利用して、そして悪を退散して平和へと向かっていくことが自由への
一歩一歩である。
正しいことと誤っていることについての話だが、20歳以上は選挙に投票するものだ、とか20歳が成人だ、とか19歳が、とかが正解がないものもある。
教養をつけ、良心に従って平和活動に取り組む、そうしたことから正解がないことでも立派にしていく、これが大切だ。
自分で自律して生かされていく、そういう生き方ができるようにしていく、倫理も体得する、道徳心も養う。
ヘーゲルは良心が上手く行けばいいという。ひとり救出したら、その助けられた人が世界を照らす。そんなビジョンも描いてみたら、ひとりだって良心によって助けられたので、大切なひとりだし大切な良心なのだ。 - ★ヘーゲルの自由パート3
本質的な自由のためには教養を行使しなければならない。なぜなら教養がなくてはお金がいくらあっても無駄遣いに終わるだけだからである。
教養がなくては、大きなこと、大成はできない。良心がなければ精神は本質的に骨がスカスカしているようなものだ。
良心は精神の本質を潤していく、普遍的な正しさは良心として発出され、普遍的な正しさは平和への一歩とも言えよう。
言い換えれば、平和になるためには普遍的な正しさが要なのだ。 - 0869 考える名無しさん 2023/12/30(土) 00:18:12.44
>この若い熱狂家は、理想的要求にほかならないシラーの要求を、現実存在として生きる。シラーがむしろただ修辞として教養として要請した理想主義を、ヘルダーリンは生きる。シラーにとってはとっくにただ装飾用の壮大な比喩となったギリシアとその神々を、彼は信ずる。シラーがただはげしく要請するばかりの詩人の使命を、彼は果たす。
(ツヴァイク全集9、『デーモンとの闘争』、みすず書房、p.103)
ID:0(869/1000)
0870 考える名無しさん 2023/12/30(土) 00:22:05.33
>ヘルダーリンにおいてシラー自身の理論、予感が、突然、肉となって具現した。だからこそ、シラーは心中秘かに愕然としたのだ ― この青年を、自分がつくった青年詩人を、はじめて現実の肉体として見たときに。
自分の要請した理想が、生きた人間となって現われたのである。
(ツヴァイク全集9、『デーモンとの闘争』、みすず書房、pp.102-3) - ★らしさとは
本調子が出ないときには「らしく」ないと云ったり「馬鹿みたいだ」と云う。
らしさとは何か。学校に通うのであれば制服を着るのが「相応しい」と云う。
しかし大学では私服を着るのが常識だろう。何でも制服じゃないとダメというわけではない。これも常識だろう。
部長は部長らしく気高くあってほしいと思う。横綱は横綱らしくあってほしいと思う。
水上の賄賂は残念だ。通訳をするのに犯罪に手を出してしまった。
通訳は通訳らしくあればいいとはあながち間違えていない。
らしく生活する、それが基本だ。 - ★らしさとはパート2
学生は学生らしく、勉学に励むべきた、という意見がある。
同じものはない、という思想がある。
しかしながら、意見は同じということはあり得ると、私は思う。
作文の文章で、「あ」という文字が2箇所あったとき、同じ「あ」だと言えるだろうか。
私もあなたも同じく生きていると言えるだろうか。
水道の水は、もうひとつの水道の水とは同じではないと思える。
水という同じ語り口でも、水をもってして同じ水だとは言えまい。 - ★らしさとはパート3
同じ風の中、という歌詞がある。まさに至近距離の風は同じ風だと思えるが、厳密にはズレている可能性がある。
同じ雨に打たれ、というが、本当に同じ雨だろうか。水滴という一滴は私の頭上に当たったら、隣の人の頭上にそれは当たるまい。 - ★らしさとはパート4
語尾に「なう」とつける話し方がある。
雨降ってるなう、や、俺が勝ったんだよなう、や、1+1=2だよなう、が挙げられる。
雨降ってるなう、は現在進行形の言い方である。雨が今降っているさまである。
俺が勝ったんだよなう、は俺が勝ったのか確認したいさま、に映る。
また、当然俺が勝った、というさまにも映る。
1+1=2だよなう、は1+1=2というのが正しいのか訊いているさまに映る。
なう、という言葉は使われていないわけではないが、我々はなうという言葉を知っていていいかもしれない。 - ★理由の美学
あのケーキは美味しい砂糖があるから食べていい、という意見があったとする。
美味しい砂糖があるから、食べていい、とは理由に相応しくない、と思える。
死んだやつは死ねばよかった、という意見。
死ねばよかった、とは絶対的に言えまい、と私は考える。
というわけで、死んだ者すべてが死ねばいいとは言えまい。
死ねばいいから死んだ、という意見。
死んでよくないのに死んだ例を出せばよい。
アントニオ猪木はジャイアント馬場を倒したから強い、という意見。
はたして強い理由になるか。 - あのケーキ美味しい砂糖があるから⇒食べていい、とは間違いか。
美味しい砂糖がある、という理由の他の理由、
食べるといいことがあるから、そして美味しい砂糖があるから⇒(二つの条件をふまえて)食べていい
とは間違いか。余談かもしれないが、食べるといいことがあるから、という一つの理由では食べていいとは間違いか。 - ★誤解の論理
誤解とはどのようなものか、そしてどのような影響を与えるのか、について書いてみたい。
まず、血液型に関する誤解から考えていきたい。
血液型がO型に関しては、血液型説明書で詳しく書かれている。
О型のことを、人々は、どのような考え方をするだろうか。
1)О型は、大物だと思われたい、というものがある。
2)わるくない
3)おおざっぱ
4)食べ物をもらうとくれた相手を好きになる
これらのパターンで誤解しているのは何だろう。
О型はわるくない、とは誤解ではないか。
大物だと思われたい、というのも誤解ではないか。
おおざっぱは、言いえているのかもしれないが、
食べ物をもらうとくれた相手を好きになる、とは誤解ではないか。
こうした誤解はあるものの、信じている人には自覚できていないのは言うまでもないだろう。
大物だと思われたいのはこのO型だと思っている人は、敢えて大物ですねぇなんて言うかもしれない。
わるくないと思っている人は、わるくないと思えるO型を恋愛関係に持っていこうとするかもしれない。
食べ物をもらうとくれた相手を好きになる、思っている人は、食べ物をあげてしまうかもしれない。
このように、誤解していても、誤解しているからこそ行動に移してしまう例がある。 - ★誤解の論理2
誤解とはどのようなものだろう。頭の中で生じたハプニングでありはするとして、正しい理解とは反対の出来事だ。
間違えているのが誤解であろう。1+1=3だと、誤解している人は、答えを3という。これは正しくない答えだ。
1+1=2と理解できるなら、2が答えだ。これは数学的に考えて正しい解である。
また、35+35=40だと想えてきて、想いのままに40だと答えるのも誤解に近い。70が答えだ。
想いのままに話したら、嘘を吐いていた、とは考えてみてほしい。
いい人だと想えて、いい人だ、と主張したら、いい人ではないので、嘘を吐いていた、こんな場合は残念だ。
いい人であってほしいから、いい人だと言いたいから、いい人だ、と主張したら、いい人ではないので嘘をついていた、こんな場合は残念だ。
ダメなヤツだと想えて、ダメだ、と言ったら、ダメじゃなかったから嘘を吐いていた、こんな場合もあるだろう。
まず我々は想いを尊重しすぎてはならない。当然、思っていることは正しい、という理屈はそうとは言い切れない場合がある。
想っていることが正しい、と想えてきたので、思っていることが正しいんだ!と安易にいかないでほしい。
気付いたことが正しいことをあなたは知っていなくてはならない
正しく理解したことも正しいということを知ってほしい。 - ★読書の美学
本を読みながら、反論を考えつつ、読み進める。
一流の人の読書法だ。
常に疑いのまなざしを持って暮らす。
地球は丸い、ということも疑う。
月にうさぎの模様があると聞いても、幻覚ではないかと疑う。
この世界は平面ではないか。平地であって丸くないのではないか。
本を読みつつ疑いつつ読書しよう。
他者の意見を鵜呑みにせず、疑って、反論を考えよう。
ちなみにパナソニックの意味は、「反論」だ。
余談
メイチャ―(鵜呑み)、コオリ(疑う) - コギト・エルゴ・スム
我思う 故に 我在り
という原理は完全体な体系だろうか。
私はこの一節の他に、IamthatIam
が真理だと考えている。
私は私だ、という一節が真理なのである。
しかしながら、仏教の真我の吾が、本当の自分なのだから、という解釈もある。
私とは具体的に言えば何だろう。今あなたはこの文章を見ている、うん、読んでいるけど何か、と思ったあなた、あなたがあなたなのである。
これはa=aが真実であることを示唆している。
有力にして偉大なるもの、とはもうおわかりですか。 - 真理の峰は、ただひとつ、
Iam that i am という話がある。
このテーゼだけが真理、というわけである。
真理とはひとつしかないものなのだろうか。
私はそれだけしかないと気付いたことがある。
I am that I am しか真理はないと知っている。 - ★らしさとは、私とは
私とは何でしょうか。極めて哲学的なテーゼだと考えています。
現存在の存在である私とは、どういうものなのでしょう。
右脚を無くしても現存在の存在は、私ではないけどな、とはいきません。
右脚を無くしても、自己が全く無い、とはいかないでしょう。
ここで、乙武さんのように、五体不満足だったらどうでしょう。
乙武さんは五体不満足ですが、乙武さんを見て、乙武さんと言うことでしょう。
私とは、体があるから私なんだ、という意見もあるでしょう。
しかし、頭の中の精神が体から出て頭のみの存在の頭の中に移動したとしたら、その頭の持ち主の頭の中にいて、精神だとしか言えないでしょう。
ここでは、頭のみの存在に二人いますが、五体不満足より不満でしょう。
私とは精神なのでしょうか。それを目で見ることはできるのでしょうか。
胴体を無くしても、あなたは存在するのです。よくよく考えてみると、乙武さんは頭の中に存在するのです。 - 我が流れのなかにあるとすれば、それは「とどこほ(滞)り」として現れる。
ところで、「凍(こほ)る」ことを表現するのに使はれる「凍」という漢字には、なぜその構成部分として「東」が使はれているのだろう。
漢字の読みとしての発声を伝へる便宜のために用ゐられているとすれば、「東」の発声は、「同」の発声ともよく似ているが、何らかの関係があるのだろうか。 - >池凍東頭風度解
- 凍る「こほる」がなぜ東という字を用いているのか、バイアスさんがつけたからだろうか
東さねむらという意味だ - ★新しい方法論
我々は、物事を都合よく解釈したり真か偽か判断したりして一生を暮らし、何が間違っているか、そして曖昧なものさしを持つがために間違いがわからないことが往々にしてあり、本を読まないがゆえに貧しき存在となってしまうことがあります。
まず、自分の誤解や騙されている箇所を探さないから、あるいは反省しないから、いつまでも曖昧なものさしのままなのです。
デカルトは方法序説で自分を見直すことを勧めており、すべてを疑った哲学者です。 - デカルトは、内省することで、新たな価値や理念をピックアップさせることも考えていたことでしょう。
内省することで、自分の生き方を遊動できるのでしょう。 - ★新しい方法論2
我々は何かしら意識してしまいます。その意識のながれの中には、対象を意識するといった過程も含まれている、と言えよう。
方角の意識においては、南はこっち、と意識するものの、南を「認識」することはできない、と私は考える。
南をどうにか認識しようと試みてみよう。南は方位磁石では、北を赤い針がさすが、それとは反対である方向です。
このように北がこっちで、南が反対だ、と考えれば、南を認識できるでしょうか。
これも難しいです。最初の北を認識するのも難しいです。赤い針がこっちをさすからこっちの北を認識するというのも難しいです。
というわけで、北も南も認識した者はいないと、私は考える。
ですが、南を意識したり、恐怖を意識したり、といったことはありえます。
恐怖を認識する、ということはありえますが、方角を認識するというのは、難しいです。 - ★新しい方法論3
ここでも意識の話をしましょう。意識がなければこうして、パソコンを見て調べ物をすることも満足ならないことでしょう。
意識がなければ、死んでいる、と医学では扱うと言います。
ですが、意識を取り戻すことを生き返りと呼びます。
意識はどこかわかりやすそうで、わかりにくそうな両面があります。
意識レベル1000の釈尊は、意識レベルが高いと言えるでしょう。
ですが、本当は釈尊は意識レベルなど意識していません。意識レベル1000というデータも偽りなのです。
対象を意識する際に、対象が自己に影響を与えていると、カントは考えます。
それは対象にかんする知が真であるから対象を意識したときに、あるいは対象を認識したときに、対象が自己に影響を与えているのです。 - ★新しい方法論4
朝パンを食べた。では昼はご飯を食べよう、朝、米🍚を食べてないからだ。
それでは米はどうやって作ろう、炊飯器に研いだ米を入れよう、カレーにしよう。
ではカツが食べたい、カレーも食べたい、閃いた、かつカレーを食べよう。
では、私の好きな方は、カレーが食べたい、うどんも食べたい、閃いた、カレーうどんを食べよう。
カレーうどんも食べたい、米も食べたい、閃いた、カレーに米を入れてうどんと一緒に食べよう。 - ★ヘーゲルの詭弁
私は、精神現象学(上)を読んだことがある。
ぶっちゃけ大体は詭弁であったことは、私の読んだところそうであった。
しかしながら、ヘーゲルは詭弁をわきまえていたに違いない。
ヘーゲルほどの嘘つきも、哲学者ではそういないといったところだろう。
ヘーゲルは詭弁も真理に到達するための布石となると考えていたことだろう。
デメリットだけの詭弁がわるいのであり、メリットのある詭弁はむしろ大切な要素となるだろう。
嘘も方便というように、詭弁も方便と考えられる。
ここでヘーゲルに詭弁を綴ろう、ヘーゲルはとあるインスピレーションに長けている、その数500回もあったのだから、秀才以上の存在だったのであろう。
フェイフェイフェイが君には合うけど虚しいよ。
コマンドが君には合うけど虚しいよ。 - ★新しい方法論5
イエス様をとおして光を享受する、ということは、現実的に考えて、現象化されていました。
ですが、お釈迦様は、光をとおすことは出来ませんでしたし、手をかざしてもいません。
我々は高エネルギーの無量寿の光を、お浄めによって授かることができるのです。
高エネルギーとは神レベルの存在であります、現在の宗教の中には、81ガイ生きた存在も、高エネルギーと扱われています。
そうした81亥(ガイ)も長生きして、宗教の神となっているのです。
ぶっちゃけ、神ときくと恐れ多いですが、本当は神と扱われていても、人間だったりするものです。
そこで、なぜそんな長生きした人間を崇めなくてはならないのか、と思い立ち、宗教から離れていくケースもあるかもしれません。
ですが、人間でも立派じゃないかというと、立派な神もいるかもしれません。
立派な存在じゃないのに、崇めるのは、等価行為ではないかもしれませんね。 - ★素晴らしい者
神様を大切にできる素晴らしい者。
抱き締めたら、キュンと来るために、恋愛をしている僕。
抱きしめて 抱きしめて 離さないよ
いつまでも いつまでも 離さないよ
言葉はもういらないから 眼と眼合わせ 手と手合わせ
どんな未来も乗り越えよう
軌跡は奇跡 ありがとう
素晴らしい者は、許すことができます。
そして教養もしっかりしています。
- ★宗教とどう向き合うか
物憂げな一部の者は、過去にとらわれるな、物に執着するな、と仏教では教わるのではないか。
また、キリスト教では慈愛・利他愛やセーブを学ぶのではないか。
他にも、論語においては、腹八分目という考え方や、友遠方より来たるあり、また悦ばしからずや。
という教訓も学習できないわけでもない。
こうした宗教的体系をひとつまみにしても、味のある学びさえ考えられる。
しかし、宗教的体系に偏っていては独り善がりになる危うさを招きかねない。
学問を勉強して我苦悶となってはものさみしいだろう。
宗教はアヘンである。と言って宗教を邪教とみるかのように扱ってもマルクスは当然宗教は我々をマヒさせると考えるであろう。
マルクスは、我々の正常な感覚をマヒさせるということが言いたかったのだ。
政教分離から広まった17世紀においては、政治と宗教を分けることが必要だった。 - ★素晴らしい者2
読書している間に、バンバン判断/認識して、なおすべて覚えてしまうなら、素晴らしい者でしょう。
素晴らしい者は、読書術も素晴らしいのです。
素晴らしい者は、本をよく読みます。
これは統計学でも理論上ありえます。
素晴らしい者は、ネットばかりではアリません。
本を大切に扱う、物も大切に扱う、それができるのが素晴らしい者です。
あるとき友達から、物は大事なんだよ、と言われ、物に少し思いを馳せました。
物を大切に。 - ★ナイル川流域に、メソポタミアとともに最古の農耕文明を成立させた民族は何か。
A、エジプト語系民族
★エジプトでは統一王朝が、前27~22世紀の王朝を総称して。
🤩古王国
★古王国の時代の都は。
「メンフィス」
中王国、ヒクソス、は、シリアから流入した遊牧民。 - ★いま、ここ論
いま、という概念によって「いま」は語られるが、どのようなパターンが挙げられるだろうか。
「いま」家の中にいる、というとき、「いま」は外にいる、という現象も考えられる。
「いま」は刹那に過ぎ去ってしまうものだから、「いま」は語った瞬間に「まえ」の瞬間となる。
「いま」ホームランを打つ、というのも、過ぎ去って「さっき」ホームランを打った、となる。
今はことばにしたときに的を得てなけれは嘘になる。
今雨が降っている、しかし後で雨は止んでいる、そのとき、今雨が降っていないとなる。
雨が降っている、という嘘を我々はつくはずもない。天気予報が雨だとか外の天気がわるいからといって、雨が降っていると、今現在の嘘をつかなくてもいいのだろう。 - ★11 テーベを都とした、前21~18世紀の王朝を総称して。
A、中王国
★13 前16~11世紀の王朝を総称して。
新王国
★25 シャンポリオンによって解読されるが、そのきっかけとなった、ナポレオンのエジブト遠征で発見された石とは何か。
A、ロゼッタ=ストーン
★4 セム語系民族のうち、ダマスクスを中心に内陸貿易で活躍した民族は何か。
A、アラム人
補足(4の交易活動によって各地に広まり、アッシリアやアケメネス朝が公用語としたのは、*アラム語)
補足2(4の人々が使用し、アラビア文字・ソグド文字・モンゴル文字・満州文字などの母体となった文字は、※アラム文字)
★4と同様に、地中海貿易で活躍したセム語系民族は何か。
A、フェニキア人
★前1500ころパレスチナに定住したセム語系民族は何か。
A、ヘブライ人 - ★1 7世紀前半、全オリエントを征服した国はどこか。
A、アッシリア王国
2★1の首都はどこか。
A、ニネヴェ
2問目だからニとゴロ合わせてニ+ネヴェ
★3 1の全盛期の王は誰か。
A、アッシュルバニパル
7★インド=ヨーロッパ語系のペルシア人(イラン人)が前6世紀に諸国を征服したが、その古代帝国の王朝は何か。
A、アケメネス朝
8 ★7の第3代王で、インダス川流域まで領土を拡大し、全盛期を現出した王は誰か。
A、ダレイオス1世 - ★いま、ここ論
世界史を踏まえて説明したい。
ヘブライ人は歴史上ユダヤ人と呼ばれるようになる。
ヘブライ人のことを昔々はヘブライ人、という名でしか呼べなかったとは一理あるだろう。
その当時の「いま」ヘブライ人はユダヤ人ではなかった。
その当時「いま」ヘブライ人はユダヤ人とは呼べない。
しかしある時からヘブライ人はユダヤ人となる。
「いま」ヘブライ人はユダヤ人でもあることは、この場合歴史的ターニングであろう。 - ★いま、ここ論3(2番目の2を抜かしてごめんね)
例えば、お偉いヒトと握手したとしよう。それは、お偉いヒトと握手したことがある、ということになる。
いま握手したのだけれど、2度目がなくて、「いま」お偉いヒトと握手した経歴を持つのだが、お偉いヒトとしか握手できなくて、二人目がいない、あるいは誰とも握手できなくて、一回しか握手してない、というはこびがある。
いまお偉いヒトと握手した、だけれど二人目がいないなら評価はゆらぐことだろう。
いま殺されてない、としても、後々殺されてしまう一件が起きて、いま殺されてないわけではない、という事態になる。
いま安心していても、不安になれば、いま不安だ、という事態になる。
いまここで元気でも、裏庭の匂いがする周辺に行っては、いまそこで元気がない、となるはこびがある。 - ★いま、ここ論4
さて、いくつかの「いま」を見てきた。
次のテーマはここである。
ここにある自宅に住んでいる、というとき、我々は、ここにある、と表現する。しかし、あそこにある東京タワーをここにある、とは表現しないだろう。
ここに花があるから「こそ」ここに花があると言うのである。
しかし庭先の門の花を、ここにある、とは言わないだろう。
その場合はそこに花があると言うのである。
東京タワーに登ってみれば、東京タワーをここにある、と表現するだろう。
ここにあるといえば、デカルトの懐疑で有名な、我思う、ゆえに、我あり、(コギトエルゴスム)が提案されるであろう。
デカルトは、我はここにいる、という結論が出たと思ったのである。
我は理論的には曖昧で、定まっておらず、脳の中へいつ進入したかも曖昧だ。
それをここにある、と表現することは大変難しい。
しかし「目に見える」顔面は、ここにある、と言うのだろう。
「目に見えない」心臓を、心拍音の源を頼りに、あるいは心臓は左側にあると学習していて、
左側だ!心臓はここにある、という意見も、勉強になることだと思われる。
しかし心臓がない生命体の左半身を
左側だ!心臓はここにある、と自信を持って言っても、結論は、左側にもどこにも心臓はないので、残念な話である。すなわち嘘をついているのである。
目に見えないものは、学を以てしても当てられない、難しい問題を抱えている。 - ★セレウコス朝カラ前3世紀にギリシア人が独立し、アム川上流に建てた国はどこか。
A、バクトリア
中央アジアのアム川上流地方に古代ギリシア人が建てた王国
★アケメネス朝(2)
achaemenes
前550~前330
オリエントを統一したペルシア帝国の王朝 - 2★前3世紀に、イラン系遊牧民のアルサケスがカスピ海東南に建てた国は何か。
A、パルティア
3★2は中国側の史書では何と記されるか。
A、安息 (パルティアは安息のことと覚えよう)
4★2を都をおいた、ティグリス川東岸の都市はどこか。
A、クテシフォン
5★2を倒して、224年に、イラン系農耕民が建てた国は何か。
A、ササン朝
6★5の初代王は誰か。
A、アルダシール一世 - 7★5の第2代の王で、ローマを破り広大な領土を統一した、3世紀の人物はどこか。
A、シャープール一世
8★突厥と組んでエフタルを滅ばし、東ローマのユスティニアヌス大帝と戦うなど、最盛期を築いた6世紀の王は誰か。
ホスラー一世
次回は、*ギリシア世界、✤エーゲ文明
★前20~前12世紀に栄えた地中海の文明はエーゲ文明と総称されるが、初めに栄えた文明は何か。
A、クレタ文明(ミノア文明) - 2★「迷宮」と称される王の宮殿ナトが発見された、1クレタ文明の中心地はどこか。
A、クノッソス
3★前16~前13世紀ころにギリシア本土に栄えた文明は何か。
A、ミケーネ文明
4★3の中心地を2つあげよ。
ミケーネ・ティリンス
5★3やトロイア遺跡の発掘に成功したドイツ人考古学者は誰か。→シュリーマン
6★3滅亡後、400年ほど続いた混乱の時代を何というか。
暗黒時代(初期鉄器時代) - ★神発見?いいや化けの皮が剥がれる
神学は、トマスが神智学の一部を築いているところをも網羅している。
だが神様はあると思っていたが、神様をいざ見つけてみると人間であったりする。
そんな人間が神?バカバカしい。
所詮人間の身分だろ?
神様は八億年×八億年も生息したらしい。
そんでもって7日間で世界は作ってない。ひいては世界は作ってない。
神(呼ばれただけ)と対話してみると意外と普通な様子であった。 - ★いまここ論パート5
「いま」は現在のなりゆきを示す言葉である。
「いま」挨拶したとき、今は過去となり、今は挨拶していない、となる。
今は語ろうするとき今ではなく過去の出来事となっており、今をつかめない消息がそこにはある。
いま、という瞬間、未始からすべては始まる。
未始、を常にピシッピシッと生きる。
いまここをおおらかに過ごすこと、それが人生をよりよく生活する基本となります。
未始、未始、未始というように、ピシッと生きる。
いまこの瞬間を画分して、いまa,いまbという中に永遠の今aを記録に残す。
だから日記はつけなさいというのです。 - ★顔分析パート2
丸顔の存在はこれまで楽しんでいることが多い。
面長の存在は無意識下で上手く動けることがある。
丸顔の存在が楽しんでいるということは、裏を返せば感情的だということである。そのためストレスも溜まりやすい。
面長の存在は逆にストレスが溜まらないタイプと言えよう。
みんなは面長という存在としての子ども、または丸顔という存在としての子ども、どちらを授かりたいかな? - ★積み重ねること、努力すること
高速で本を読みたかったら、本をたくさん読むといいだろう。
一日1ページでもいい。積み重ねることが大事だ。
努力をやめないで、あきらめないで、努力を続けてみることが大事だ。
ピアノが趣味ならピアノもずっと続けること。
字が上手くなりたいというなら、字を、あるいは習字を書いてみよう。
文字を書くことを続けることで、いつか文字を上手く書けるはずだ。
不器用だから字が下手と、あきらめないで字を書く練習をしてみよう。 - ★天才とは何か
天才とは、努力し続ける才能を有する上級者である。
努力し続けることのできない者は、天才とは言えません。
努力し続けること、それを尊ぶ者に女神は微笑む。
天才は時に無頓着な一面を見せる。
天才は神である。
天才は本質を見抜く。
天才は考え方が面白い。
天才は誰よりも頭がいい。 - ★読書の論理
我々は、知識を求めて読書をする。
知的になるのは忌み嫌うものではなく、むしろ知性は進んで育んだ方がいい。
読書は毎日すること、ネットサーフィンではお金に困惑しない程度に、そして勉強になるように読んでみる。
上手い文章というのは簡潔で分かりやすい傾向がある。
そこで、ネットにおいても本においても簡潔かどうかをチェックする。
本においては、ちゃんと上手く書かれているかチェックする。
立ち読みでもいい。あなたに素敵な一冊がそこにはある。 - ★素晴らしい者3
挨拶も欠かさず行う、それが素晴らしい者です。
ありがとう、ごめんなさいを言います、とは、あいづっこ宣言で有名だ。
ありがとうをたくさん言いましょう。
ありがとうの数がたくさん増えると幸せになります。
もっとありがとうを言うと他人が幸せになります。
もっとありがとうを言うと世界が幸せになります。
私はありがとうと蟻さんに言いたいです。蟻さん、蟻がとう(10) - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当か
愚者は飲み物を零した経験から、零さないように慎重になる。
それが経験から学んだということにほかならない。
しかしながら、愚者は他者の失敗から学ぶことはできるのか。
愚者は他者の失敗に気づけないからという名目で、他者の失敗から学べない、ということはあり得るかもしれない。
また、愚者は他者のミスにも興味を示していないおそれがある。
大谷翔平選手の凡ミスから我々は学ぶことはできるのか。
意外と大谷選手はミスばかり続発しているが、それを野球をとおして学ぶことは、野球選手でない限り難しいであろう。
大谷選手の失敗から、野球選手なら、こういう風にバッドを振ったら当たらないんだな、と学べるかもしれない。
イチロー選手から学ぶこともたくさんある者は、世の中にいるだろうか。
イチロー選手は毎日素振りを4000回していたという。そこから学んで野球選手を目指す者もいるだろう。
賢者というのは、本を読んで生かす者であろう。その反対に愚者というのは、本を読んでも生かせない者であろう。
そして普通者を考えてみよう。普通な存在は、普通ゆえに本を読んでも生かせないだろう。
しかし普通者は他者のミスに気付ける可能性がある。
他者のミスに気付いた普通者は、自分の人生にそのミスを活かすかもしれない。 - ★いまここ、論パート6
「いま」は現在のなりゆきを示す言葉である、と書いた。
それに加えて「いま」は方向性やタイミング性を持った言葉とも言えよう。
「この話を思い出した今~~」という語りでは、相手が思い出すタイミングも考慮していることがうかがえる。
「いま、この瞬間」を我々は眺めている。
すべては「いま」の連続であり、明日がいいと想ってはならない。
昨日がいい、と想った方がいい。
イエスタデイがいい。 - ★タナトスとエロス
タナトスとは死への欲動のことを指す。
タナトスとは何と無機的であろうか。
自殺は自由意志ではあるが、一念を込められる、選択を自由にできるというわけだ。
子どもを産まないことも自由意志で抑えられるとは蛇足であろうか。
そんな子どもが死にたがっている、とはいかに虚しいことか。
しかしながら、エロス(生の欲動)はその反対である。
エロスはタナトスの混合物という統一種も世界には見られるのだろうか。
「フロイトは死の欲動こそ最も欲動的だと述べている」──こういう意見もある。
フロイトは夢分析を考案している。
夢に誰かの個人的な言い伝えが聞こえては、それを生活する因子とするのだ。
夢に表象された出来事を頼りに生活する。夢を見る楽しみも、危険な場合は注意したい。 - ★進化論を疑う
ネアンデルタール人からこういうふうに進化して~という風な話が現代は常識だ。
しかし私は進化していないという立場を取る。
原人→旧人 という進化はあり得なかった、と私は考える。
そもそも教科書から、マンモスのテーマが無くなっている。
これは現代の解釈ではマンモスは狩猟に遭っていないということを匂わせる。
ましてやそもそもマンモスは存在しなかった、ということも匂わせる。
人間も進化しないのではないか、ゆえに空を飛ぶための羽は生えたりしないのである。
羽が生えたりしないのは、人間以外にもたくさんあるだろう。
てんとう虫も羽で空を優雅に飛べはしない。
進化した形跡である遺骨が見つかっていないことも、進化していないエビデンスなのである。 - ★詭弁の仕方
我々は意識というものに、いや、しかし現代は、疑いのまなざしで懐疑してきた。
表象意識、という言葉があるのだから、意識というものは存在する、そういう意見もあるだろう。
そして顕在意識は表象意識を言い換えた言葉だとは言うまでもないだろう。
また、潜在意識も意識という言葉が使われている。
そしてヘーゲルは自己意識という概念を語る。自己意識はワーグナーという意味があることは言うまでもない。
自己意識は概念を外化させ、カラスAが黒い、カラスBが黒い、カラスCが黒い、……よってカラスはみな黒い、というふうに展開を見せる。
農家の田畑にイノシシ🐗が侵入して荒らされた、そこからイノシシが入らないように田畑を再構築する……。
イノシシが田畑に侵入するおそれがあるとイノシシの概念を外化させたというわけである。
カラスが黒いものばかりだ、という考え方は、演繹と呼ぶ。(演繹と規定する)
演繹は必ずしも正しいとは限らない。
例えば、水ばかり飲んだAさんを見て、水以外飲まない、と判断しても、ジュースを飲む場合が発生した、としたら、この演繹は正しいとは言えまい。 - ★素晴らしい者4
親に迷惑を掛けない、そして親孝行を実践する、そういう素晴らしい者でありたいです。
親ばかりではなく他者に迷惑を掛けない、なんと素晴らしいでしょう。
迷惑を掛けないように日々己を磨く、真球のまがたまのようにピカピカに己を磨く。
自分が至らないところは、反省して改善する。
腋臭があるなら、脇を水などで洗って差し上げる。
臭いと悩むなら臭くならないように風呂場で身体を清潔に保つ。
ひとつひとつの積み重ねが人生であります。ひとつひとつ真剣に実践してゆきたいものです。
柔軟な一面を見せられるくらいの実力をつけようぞ。 - ★詭弁の仕方
我々は何かしらの概念を定義するとき、自分なりに集めた情報で、そして自分なりの感性で定義するであろう。
我々はそれぞれ自己として扱うが、自己が曖昧だ、とは言うまでもない。
自己は極めて曖昧であり、自身でもどこにあるか分かっていない。
むしろどこにあるか分かったとしたら凄い発見である。
自己は精神だ、とはこ存じの方もいるかもしれない。
自己は精神の活動の中に大航海を繰り広げる。何かで困難な立場にいるとき、もがいてもがいてもがけば、そこでやっと何かが見つかる。だからもがくんだ。もがいてみよ、色々試してみると、納得がいくだろう。人生はもがきだ。
我々は何かしらの概念を定義したいときがある。もがくとは探すこと、などである。もがくとは頑張ること、であろうか。
しかしながら、水泳でクロールという言葉があるが、意味はもがくという意味であり、もがくという言葉は状況によって意味合いは違うことが懸念される。
もがくとは、水泳ではクロールのことであり、探す、というニュアンスと異なるニュアンスであることは補足しよう。
しかしこれも補足だが、水泳ではもがくという言葉は使用しない。クロールを速く速く、と監督は言う。競技者を応援しようとして速く速くと言うのだ。
これまでクロールしてきた競技者は、もがいてもがいて何かを見つけたか。
自分に適したクロールの仕方を見つけられたか。
新たな一歩として、『もがきたいんです』という言葉は、我々にどのように想わせるだろうか。 - ★詭弁の仕方
いただきます、や、『ご馳走様でした』は毎食食べる前に言ってもいいだろう。
日本人の美徳、ということに日本人は『ご馳走様』と言うのを美徳としている。
日本人の美徳には、山登りが挙げられる。山が日本大陸にはたくさん見られる。富士山は無いという意見もあったが、富士山は実際に存在することは補足しておく。
日本人の美徳という意味の女子語は『ツイワダ』である。
また、風呂場の設備が良かったり、温泉があったりすることが挙げられる。
日本人は昔から風呂が好きであり、温泉も大好きだ。
日本人の美徳という本はベストセラーになるだろうか。 - ★らしさとは5
恋愛においては相応の理でカップルが発生します。
男に相応しい女がパートナーとなります。
それと同じで、女に相応しい男が寄ってきたりするものです。
罪穢が深い者同士で結婚して家庭を築きます。
両親の家系のカルマが、子供を襲うこともあります。
今子供が不幸なら、家系のカルマが子供にきていることがあります。
毎日先祖に食事をお捧げしましょう。 - 0701考える名無しさん
垢版 | 大砲
2024/04/06(土) 10:21:18.660
意識ハードプロブレムの問題、そこでは意識の生成や感じとしてのクオリアの生成過程について記されている。
意識は見えるものではない、しかしどこかに存在してありそうだ、と思えるのである。
そのどこかにある意識はどのように取り上げられようか。
まず、顕在意識や潜在意識について一歩踏み出してみよう。
顕在意識では「頭がかゆい」というものがある。
「頭がかゆい」という意識は、言いかえれば「頭がかゆい」という事象、頭がかゆいという現象、「頭がかゆい」という感じないしは欲求だろう。
「頭がかゆい」という要求はないのだが、欲としてはいかがなものか?
それは軽度の痛みのようなもので、さほど辛くはない。
背中が「かゆい」という現象にとってみても、さほど辛くはないように思われる。
頭がかゆいという事象は、潜在意識ではどうなっているだろうか。
それは「カーユー カーユー」という小さな叫びではなかったか。
また、「かゆい かゆい」と潜在意識では成っている可能性が――十分とはいかないが――あるのである。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート2
>>他者のミスに気付いた普通者は、自分の人生にそのミスを活かすかもしれない。
と、この前書かせていただいた。
他者のミスとはどのようなものだろう。たいていは、行動だったり考え方だったりする。
他者がうんこを漏らした、というミスから、自分はうんこを漏らさないように、気を付けるだろう。
また、他者が高額なバイクを買って損したことから、高額の資金を払わないように気を付ける、というのが普通者でもできる考え方だ。
また、麻雀をやっているときにリーチをして手牌を固めたことが敗因だったことから、リーチをしないダマテンで上がることを考慮しておく、という例がある。
普通者でも、他者のミスから学ぶことは、あり得なくもなく、むしろ容易にできると私は考える。
リーチをしたら、手牌を替えられないことは、麻雀のルールである。
リーチをして上がると一役付くが、リーチをしなくても役があれば上がれるチャンスはある。
リーチをしていなくても上がれるときはあるが、リーチをしていないゆえにリーチの一役は付かないのである。
リーチをして手牌を固めなかったら、手牌を替えられるチャンスはある。
テンパイしても手牌を替えて理想の待ちにするパターンも考えられるのだ。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート3
愚者は、「他者の漏らしたうんこ」からうんこを漏らさないように気を付けられるだろうか。
答えはYES。その程度の学習くらい、愚者にも可能であろう。
また、「他者が高額なバイクを買って損した」ことから、高額の資金を払わないように気を付ける、というのも、
愚者にも容易くできるだろう。「あの高額なバイクを買わなければよい」、この考え方くらいできるだろう。
☆麻雀をやっているときにリーチをして敗因になったから、「リーチをしてよくないときはリーチをしない」、というのは、麻雀の実力と環境によるだろう。
リーチをした(リーチ棒一本出す;千点棒を出す)後、第三者が上がってしまうと、リーチ棒を一本上がった大三者に持っていかれる。
ということから、リーチ棒を投げてリーチしてしまうと、このリーチ棒を持っていかれて、千点損するという例がある。
リーチ棒を投げるかリーチ棒を取られないようにダマテンするか、こういったこと以外にもダマテンの理由はあるだろうが、リーチ棒を上げなくても良かったときにリーチをしないことは普通者ならできるだろう。
しかし愚者は常時リーチ棒を投げてしまって、あまい場合があるかもしれない。
☆誰かが零した飲み物
誰かが零したのを見て、自分は気を付ける、これは愚者にもできるだろう。
零した本人も、うんこと同様に、零さないように気を付けるだろう。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート4
さて、愚者にも経験から学ぶことはある程度見てきた。
そこで、問題を出してみよう。「余裕件」はご存じだろうか。
「余裕件」とは、「愚者が学ぶこと」という意味である。
ロッキードカナステエードとは、「愚者が学ぶこと5」という意味である。
ちなみにロッキードエネエステードとは、「賢者」という意味である。
ボンヨーキーとは、「愚人」という意味である。
さて、言葉の意味を述べてきたが、賢者は歴史から学ぶ、ということについて考えていきたい。
原子力発電所の爆発があってこそ、我々は放射性物質や水素爆発について学ぶことができた。
また、 東日本大震災があってこそ、災害対策について考えさせられた。
賢者は、原子力発電所の爆発から何を学んだか。それは、そういう事故が発生することへの危惧と、
そしてまた放射性物質から身を守るという対策であったのではないか。
賢者は、東日本大震災から何を学んだか。それは、地震対策を練ることではなかったか。 - ★才能とは何か
才能とは、才ある能力を指す。ピアノの才能があるとはどんなことか。
楽譜をある程度見れば、音符を認識し、上手に弾ける者が才能があると言えます。
初めてピアノに触れたのに、ピアノの才能があると自覚している者が才能があるのであります。
努力の才能は、ときに天才と呼ばれる者にあります。
努力していけば、運も味方に付けることができます。
今、運が悪くて悩んでいる方、努力すれば運を身に付けられますよ。
さて、天才でなくても努力することは大いにあり得ます。
その中でも天才は努力を不断に行うという、シークレットがあるだけです。
継続は力なり、という言葉を重んじている方は頑張っているかもしれませんね。
才能を持ってしても努力しなければ、才能は開花されません。
努力する才能がある一般人にも、努力を継続していく才能があるので、才能があって素晴らしいのです。 - ★哲学とか精神とか
精神とは実体の運動をもたらす存在である。
それゆえ実体は世界を一面においては傍観している。
そして一面においては無意識下で取捨/選択を繰り返している。
これを実体の活動の内的な源泉と、評しておきたい。
すなわち内的な活動は、目に見えたものばかりではなく、むしろ目に見えないうちに起こした活動だと私は考える。
言葉では言い尽くせない事情というのもあるが、ここでは内的な活動について考えていきたい。
朝起きて、おトイレに行きたくて、早く行こうとして、布団をてきとうに投げてしまう、という例。
布団をてきとうに投げたことを気にかけ、誰かに見られていまいか危惧してしまう。これも内的な活動と考える。 - ★哲学とか精神とか
おトイレに行きたくて、早く階段を降りることを考えてみる。
『ああ、もしかしたら階段からいつか落ちるかもしれない』と、危惧する場合、それは内的な活動である。
次に階段を降りるとき、『ゆっくり降りよう』と、内的に活動することもあり得るだろう。
水筒に水を入れるとき、我々は慎重に入れるであろう。これも内的な活動から行動に繋がっている。
『慎重に入れないと零れてしまう』と、内的に秘めるから、慎重に入れるよう行動を起こすのである。
また、水筒から水を飲むとき、我々は口から零したくないであろう。
『溢れないように』と内的に活動するから、溢れないように行動を起こすのだ。
意識とは、内的な活動である。花園へ行った時、我々は綺麗な花は見たがるが、そうでない花は取捨してしまう。
これと同じように、コンビニで食べ物を買おうとする際、欲しくない食べ物は取捨してしまう。
こういった取捨は、内的な活動であり、意識においても変化がある。
意識下では、欲しくない食べ物のことは、はじいている感がある。
また、意識下では、さきほどの花のことは、見なくていいと判断も下している。その判断は、目に見えない内的な活動というわけである。
我々はときに水やりでミスした感じで水をまき、失敗したと反省する。
失敗した、という判断につづき、反省しようか一瞬揺らぐこと、は、内的な活動である。 - ★哲学とか精神とか
意識とは何だろう。たしかに目に見えるものではないだろう。
しかし、どこかにあるはず――というのも意識があると確認は済んでいるのだから―である。
さて、意識とは何だろう。意識とは経験した物事を吸収する実在であろう。
1+1=? この問題を解くとき、?は何だろうと、意識して弾き出した結果が「2」であろう。
計算も意識によってできるのであろう。1を意識し、+を意識し、=を意識している、と私は考える。
また、apple(リンゴ)という言葉をパソコンで入力するとき、まず「a」を意識するはずだ。
自分は今「a」という英単語を入力する。そして「a」の次は「p」であると「意識している」はずだ。
その「p」の次の単語も<同じ単語であると>意識しているはずだ。
意識は瞬間瞬間ごとに直接的に活動していると、私は考える。
潜在意識下では、毎瞬毎瞬「これはいい、これはダメ」と判断していると、私は考える。
意識下では「明るいなあ」と知覚しているときもある。
潜在意識下では、明るくていいなあ、と判断しているのだろう。 - ★哲学とか精神とか
潜在意識下では、少しの肌荒れでも「この人肌が荒れてる」と判断してしまうであろう。
意識下では、「この人は普通の人だ」と意識している。
だが、潜在意識下では、「この人は普通の人だ」と判断しないだろう。
微妙なことは潜在意識下で判断されているが、普通の人という判断は潜在意識下で判断されない。
意識についてだが、―肌が荒れてるのが大げさでないならば―「この人肌が荒れてるとは意識しないケース」もある。
微妙な肌荒れが、潜在意識で認知されるのであり、意識するとは限らない。
普段生活しているときに、他者の肌荒れは、特にとがめることもなく、無視している。
無視したこの肌荒れは、潜在意識で認知されており、潜在意識に刻まれては、同じことを繰り返す。
すなわち、肌荒れがもう一度起きる可能性がある。ということは、潜在意識に何が刻まれるか注意しなければならないのだ。
たとえば、車の中に乗っているときに、飲み物を零してしまったとき、潜在意識にそれは刻まれるだろう。
たとえば、ドロマー(よくないことが起きる)と思ったとき、潜在意識に刻まれ、よくないことが起きてしまう。
たとえば、罠を考えたとき、潜在意識に刻まれ、よくないことが起きる。 - ★哲学とか精神とか
意識下では、兄妹を意識してしまう場合があります。
もちろん兄妹のことは大事にしてしまいます。
両親のことは意識下では付き合いやすさを感じてしまいます。
髪を切ったらカッコよくなりたいと我々は意識します。
また、髪を切ったら似合う髪型になりたいと意識したりします。
少しでも微妙に散髪されると潜在意識下では微妙だと感じます。
潜在意識下にあった微妙感は、意識にも芽生えることがあります。
散髪が下手だと意識すると、それは怒りとなってしまうでしょう。
散髪してよくなかったと怒ってしまうと、上手くいきません。
鈍感であれば、少しくらい微妙に散髪されても気にしないことでしょう。
鈍感だって大事なのです。 - ★哲学とか精神とか
蚊に追われてしまっては、蚊を追い払おうと内的に活動する。
そしてまた、蚊を殺す際には、捕まえようと内的に活動する。
扇風機の風に煽られようと扇風機の近くに行ったり、風が寒くては離れたりするものだ。
扇風機の近くに行こうかな、と内的な活動が見られる。
寒いので扇風機から離れようかな、と内的に活動する例がある。
我々は、内的な活動から行動を決定する、ということを示しておきたい。
しかしながら、気付いて行動というものもある。
今テレビを見たほうがいいと気付いて、リモコンを使う例もある。
気付いているなら、その気付いていることを大事にして行動すればよい、と言えよう。
日常では気付いていることを頼りに暮らしてみてもいいだろう。
新型ウイルスに罹っているか医者に行く前に、自分で罹っているか気付くことも大事であろう。 - ★顔分析パート3
丸顔の人は、楽観的であることが多い。
楽しみは大事にし、楽観的に暮らしている。
面長の人は、不幸を感じてしまう場合がある。
楽観的なゴキブリ、闇、岩、シャドウグールなどもたくさん存在している。
ゴキブリという名の人間も存在する。
ゴキブリという名を親から付けられ、ゴキブリと思われるが、実は人間というわけである。
皆さんも、楽観的に暮らしたいですか。
丸顔になりたいと思いますか。 - ★内的真理と客観性
ゲートボールで玉を撃つとき、自分なりの真理を使うケースがある。
この玉のここらへんを打つという打つ場所や、棒の持ち方、当てる速度など、自分なりの内的真理を使ってやることが多い。
客観性としては、他者は他者なりのやり方があるため、相手の内的真理はこちらの内的真理とは限らない。
速度は毎回同じくなるとは限らない。そこで、Aさんの速度は内的真理だが、Bさんの速度と一致するとは限らない。
持ち方も、AさんとBさんとでは異なることはあり得る。また、足で玉を抑えたりするやり方もやる人はやる。
こうした例から、誰かのやり方が万物の内的真理とことを運ぶわけにはいなかいと補足しておく。
ゲートボールでは、楽しくやりたい。
皆で仲良く、やるやなやろう。 - ★内的真理と
内的真理はある意味でものさしのようなものだ。
ボーリングにおいては、「いかに」ボールを投げるべきか、プロはアマよりも把握している。
どう投げるべきか把握しているその内容を内的真理という。
コーチャをどう作るべきか、コーチャ好きなら知っておきたいこのコーチャを作る方法を内的真理という。
内的真理には幅がある。コーチャを作る方法にしても、発酵させる方法はたくさんある。
このコーチャを作る方法を内的真理といい、作るランクである段階があることを「内的真理の幅」と私は考える。
幅のある内的真理は、ゲートボールにも密接に関わってくる。
打つ場所、打つ速度、というものは、何種類もあるもので、その選択は幅がある。
何種類も選択があるが、これが内的真理の幅という。 - ★内的真理の見つけ方
水泳においてどう泳ぐべきか、プロなら課題として長らく存在し続けるものであろう。
どう泳ぐべきか、それを見つけるには泳ぐ練習をすること、そしてコーチに教えてもらうこと、が要となってくる。
内的真理はもがくことによって見つけられると信じているなら発見できるだろう。
プロなら、どう泳ぐべきか、という水泳の内的真理の幅を、すべて見つけよう。
バタフライもこうしたら上手く泳げると、内的真理を見つけるべく、練習しよう。 - ★内的真理
コーチャはどう注げばよいか。コーチャはたくさんの商品がある。種類もたくさんあることは補足しておく。
ティーバッグをコップの表面にかけて上からお湯を注いでいただく内的真理がある。
また、この内的真理の幅は揺れ、スティックタイプの紅茶をも含むだろう。
内的真理を見つけたら、忘れないように注意したい。
やはりメモに書くことが、記憶に定着することになるので、お勧めである。
記憶に定着するためにトイレの壁に覚えたいことを書くという内的真理があるが、トイレに描けなくても大丈夫だ。
無理して書いてばかりでなくてもよい。
文章問題をそのままノートに書くのは無駄だと言われているから注意したい。 - ★否定性の運動
精神は否定性の運動であろう。一例を書こう。
飲み物を欲しくないときに、飲み物を見つけて、飲みたくなってしまう。
飲み物を欲しくない、ということを否定して、飲み物を欲しがるさまである。
また、トイレに行きたくないことを否定して、トイレに行く、これも否定性の運動であろう。
また、小便を出した後にティッシュで拭かないことを否定してティッシュで拭く、ということや、大便を小便の前にすることを否定して大便を小便の後にする。
こういう例も、あり得なくもない出来事であろう。
あの人に歯向かう(否定)としているときにそれを否定して、あの人に歯向かうことを諦める、という否定の否定も現象としてあり得るであろう。
否定の否定は、ヘーゲルの考案した概念である。
精神は否定性の連続した運動であろうことが窺える。 - ★否定性の運動2
基本的に、我々はことがらを学習をとおしてインプットしているであろう。
そうしたインプットを大事にすることもよくあるだろう。
そのインプットしたことがらを否定性の運動によって、銃で風船を撃つようにことがらを外化した例がいわば差取りとか絶対知と呼称されるのであろう。
水の中に米がある炊飯器を炊くのを忘れた後のこと。
誰か(Bさん)がスイッチと呼びかけている。
そこで、(スイッチはいれないよ、エアコンのことでしょ、と思考する)エアコンのスイッチは入れなくていいと思う。
Bさん)エアコンのことじゃないよ、炊飯器のことだよ。スイッチをエアコンのことだと勘違いしたでしょ。この例。
あっそうか、炊飯器のスイッチそろそろ入れてもいい時間帯なんだな、
このことをBさんはスイッチという言葉で説明しようとしていたのだ、と、学ぶ。 - ★否定性の運動3
とかく否定の否定による学び、というのも大切だと私は考える。
将棋で、棒銀が良くないので指さないほうがいい、となかば否定していても、棒銀がいい、とさらに否定されると、棒銀も味がある指し方だと思い知らされる。
棒銀は加藤一二三九段が上手く指しこなせなくなって以来、人気が低迷しているが、棒銀が最善の将棋を私は身を持って考えさせられた。
棒銀がよくない→棒銀がいい→棒銀を指してみるか、という考え方であろう。
阪田流向かい飛車も永らく指されなくなったが、「新」阪田流向かい飛車は私が考案したものである。
阪田流→阪田流は微妙→新阪田流を考案→コンピュータに勝利
こうした一例もまた事実である。 - ★否定性の運動4
魚はよくない、と主張したとき、我々は魚を食べたくなかったはずであろう。
魚を食べたくないと主張し、魚を料理する者にその主張を否定されることはあり得なくもない。
魚を食べたくなかったのに、魚だって大事なんだよ、と諭されて、魚を食べるようになるケースも現実にはあり得た。
魚だって大事なんだよ、という一言がなければ魚嫌いは治らなかったという可能性も考えられる。
否定の否定による学びが、「魚だって大事なんだ」ということであろう。
そこから思考パターンとして、魚を食べてみよう、もう魚を失礼に言わないようにしよう、という例が挙げられる。 - ★アポロ11号は月に行った、是か否か
アポロ11号に関する放送がテレビであったらしく、その放送ではあらゆる関係者が「月に行ってないと認めていた」らしい。
撮影現場を私は見た、などという発言もあり、じゃああの月面を歩く宇宙に行った人はアメリカで撮影された!?という古くからある説も現出された。
アポロ11号が宇宙に行く際に開発した技術は極めて乏しく、あの程度の技術では月には行けないとも言われていることだろう。
さらには月は無いという説がある。あるとしたらそれはうさぎであり、うさぎが宇宙空間にいるだけで、月というものはないのだ。
さらには夜に空に見える月は幻覚(ここが大事)であり、本当は月なんてないのだろう。
以上によりアポロ11号は月に行ってないと私は考える。 - ★アポロ11号は月に行った、是か否か、パート2
アポロ11号は月面着陸した、と伝えられる映像がある。
月にいながら地球を撮影した映像、と伝えられる映像がある。
どれも巧妙に細工したのだろうか。
地球というのは無い、と私は考える。
地球だと球を指しているが、平面説が本当は的を得てる、と言えるのであろう。
平面説であるから、公転も自転もしていない。
平面説によると、陸の両端は尖って曲がっているらしい。
アポロ11号は月面着陸していない、そもそも月は無い。
地球の映像があっても地球は存在しない。
以上により様々な映像は否定される。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート5
賢者は災害から何を学んだか。二度とこういう地震が起きないように、十分な対策を練ることができれば、それはそれで偉大な対策であろう。
我々は地震を経験しても「地震を起こさないように防ぐ」ことはできなかったと言っても過言ではない。
地震を無くせれば、地震による脅威は無くせることは想像に難くない。
我々は地震が起きないようにすることはできなかったのだから、十分な対策は練られることもなかった。
しかしながら、我々は、地震を無くせないという境地に立ちながらも、地震に対してどれだけ対策を練れるだろうか。
まず地盤に弱い陸では、地震で簡単に建物が崩壊する恐れがある。
そこで、「引っ越し」を安全な場所にしてみることが対策となってくる。
地盤に弱い陸で暮らすのではなく、地震に強い陸で暮らすのである。
しかしながら、そういった地震に強い陸はそれほど多くはない。
希少価値のある陸に、そういった地震に強い陸はあるのだろう。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート6
賢人はどれだけ学べるのだろう。ひとつここで確定すべきことは、「理解力」がいいことである。
「理解力」を以って私たちは学ぶ。1+3=? これに当てはまる答えを見出す力、それが理解力である。
3−1=? これも理解することは、小学生で学ぶ内容であるので、いささか簡単に思えるかもしれない。
素晴らしい者は、ちょっとの揺れも逃さない。ちょっと怪しいと考えるなら、追及していくのである。
賢人もちょっとの揺れも逃さない。素晴らしい者とは賢人であろう。
しかし、賢人は素晴らしい者であるとは限らない、とも補足しておく。
賢人は、頭が回っていいときに頭が回り、いろいろな発見をする。
理解も勿論している。考える内容に無駄もなく、考えた内容を理解する。それが賢人だ。 - これがモチベーションアップにつながると思う
- さらに痩せても
帰りの旅費はなんで影薄になっちゃったんだろうけど
その趣味もどうせこんなことが - 勝手に自分がメンバー内で
携帯教えてるの? - プロデューサーのデスクトップにはあのシーンの切り抜き動画がまだ残ってる
- ロングショート戦略なんかも、2人と再婚?
これ以上生きるかもな - びっくりした 家だと思ってたんだろ
誉められるし
間違いなく影響してるよな - ★詭弁の仕方
内的な活動をとおして、我々は潜在意識下で起きていることに気付き始めるであろう。
「じょうろから水を撒いているがところどころもったいない」という風にインサイトしてない水の行方がある。
潜在意識下では対象として思う「水」はバランスよく注ぎたいものだと活動し始める。
水といえばうがいである。水を口に含んでガラガラガラガラ、と喉の奥を洗うことが感染予防にもなっている。
ガコンガコンと車が前に倒れそうなとき、「やばい、落下してしまう!」と悲嘆するであろう。
それは前のめりになることを意識してもいるし、潜在意識下でもピンチと思っているに違いない。
我々は水を大切に扱いたい。車も感謝して扱いたい。 - ★詭弁の仕方
ダイナミックに構造を変革してゆくにはどうすればよいか。
まず、目的は何かを考え、それに向かって精進してゆくことが、――単純に聞こえるかもしれないが―大事なのであろう。
この世界が平和になることが目的であり、そのためにどういうことをプランしていけばよいか。
まず、戦争兵の減少を狙うこと。そして平和意識を広めていくこと、が挙げられる。
兵隊が残っている限り、戦争が起きる可能性が懸念されるであろう。
そのため、海外の兵隊は一刻も早く減っていくべきなのである。
攻撃兵を減らすためには、攻撃兵の考え方、あるいは武将の考え方から変えていくといいだろう。
攻撃兵は「攻撃しなくていい、と考えさせる」ことが強烈に効くかもしれない。
武将には「攻撃する兵はいなくていい」と諦めさせることができれば、成功だろう。
平和意識を広めていくためには、兵隊に上手い話を提供するといいはずだ。
世界は平和になればいいんです、戦争はよくないんです、などが挙げられる。 - ★核兵器と向き合う
我々日本人は、核兵器によって体を破壊された民族でもある。
アメリカも北朝鮮も核兵器を持って、いつかは侵略することも考えてあるらしい。
日本はポツダム宣言により戦争を放棄する国となっていることは補足しておこう。
詳しいポツダム宣言受諾のお話は、ここでは触れることはない。
核兵器を持つアメリカには、戦力不足を狙うといいだろう。
やはり戦争兵を減少させていくこと、そして戦争兵を生み出すことがないようにすること、であろう。
戦争兵を生み出すことのないように、禁止兵隊令を発令するといいだろう。 - ★透明人間とハイデガー
透明人間と呼ばれる現存在をこ存じだろうか。
お笑い芸人である「麒麟」というコンビは人間のように見えても動物の麒麟と呼称される。
そのキリン(芸人)が存在する前に動物の麒麟が存在し、何らかの方法でキリンさんが現れた、というのだ。
動物の麒麟があることを理解するだけで、キリンさんは現れた、のである。
動物の麒麟が「出る出る出る出る」と信じてしまった故にキリンさんが現れた、というわけだ。
このキリンさんを透明人間というカテゴリーに含めるのが社会の通説となる。
動物のトナカイも「出る」と信じれば透明人間のトナカイも現れであろう。
こうした透明人間が社会には数えられないほど存在していることは補足する。
私の思いでは、人間の方が透明人間より少ないという点が考えられる。
人間は多いと聞いても、透明人間の方が多いと思うのだ。
ハイデガーは前述の透明人間について考察した形跡を見せない。
透明人間は同じ生命体に属するとしても、人間と同じ見方をしていいのだろうか?
透明人間に、永久に生き続ける存在がいるというのに、終わりが誰にでもあるかのように語っていいのだろうか?
*透明人間とは透明で目えない存在という意味合いではありません。 - ★正しさとは何か
我々はまず正しさというものに対して意見を作る気もなく日々を暮らしている。
正しさ?そんなのどうでもいいよ、と聞こえそうなそんな世の中である気がしてならない。
どれだけ正しさについて語りうるだろう。まず正しさという概念は、正しい方向に向かっているさま、を匂わせる。
例えば、電車に乗っているとき、老婦が座る場所がなくて困っている、そんなとき、席を譲るという発想があるに違いないが、席を譲ることは正しい方向に向かっていると言えるか?
答えはYESだろう。老婦に席を譲ることで、老婦の身のためになっているからだ。
ここで、身のためになっていることは正しい方向である、ことが窺える。
デカルトは仮の道徳を推奨したが、我々は、席を譲ることを仮の道徳とすべきではないだろうか。
次の例。挨拶をされたときに、挨拶で返す、ということは、正しい方向に向かっているか?
答えはYESだろう。挨拶をすることは正しい方向に向かっていると言える。
挨拶もまたひとつの道徳である。ここで、挨拶を仮の道徳ということが窺える。
次の例。良くないことをしたときに、謝るということは正しい方向に向かっていると言えるか?
答えはYESだろう。良くないことをしたときに謝るということは、正しい方向に向かっていると言える。
謝ることもひとつの仮の道徳である。
謝ることも大切だと私は考える。みずからの失態を認め、相手に申し訳ないと謝ることで、相手も許してくれるだろう。許されるために謝ることも、勿論大切なのだ。謝るベストな回数も大事で、目上の人には、申し訳ありません、と丁寧に、ベストな回数言おう。目上の人でも、目上の人でなくても、申し訳ありません、と丁寧に言うことは大切だ。姿勢を変えて頭を下げて謝る方法でベストな回数言うことも大切だ。
正しさとは民族や時代によって違うことは補足しておく。
アフリカでタロイモを食べるのが普通でも、日本人はタロイモを食べるのが普通というわけではない。
我々が「正しい、間違っている」と判断しているあらゆる価値観は、我々の住む国、我々の住む時代によって異なるのである。日本語で挨拶するのと、外国では外国語で挨拶するのでは、言語の違いがある。また、感謝を日本語でするのと英語でするのでは言語の違いがある。 - ★正しさとは何か2
正しさとは民族や時代によって異なることを示そう。
外国ではドルを追求するのに対して日本では円を追求する、という流れがある。日本でドルを追求しても、使うところに困るであろう。たしかに質屋に行けば円に替えてもらえるが、質屋に行って得する経済になっていないと利潤がないであろう。
ドルを手に入れても日本では使い道がないというおそれもあることは補足しておく。
そんな中でドルが使えるようになると、ドルを集めることに方針が傾く。
ドルを追求することが正しい方向となり、時代に乗った生き方をするようになる。すなわちドルを集めることで利潤を得る時代になったところを上手く渡るのである。
お金じゃない、愛だ、という意見もあるから注意したい。どれだけお金があっても愛が足りなくて不満な人もいるだろう。しかし愛があっても金の切れ目は縁の切れ目というように、破綻してしまう例もあった。
何事もバランスが大事。 - ★透明人間とハイデガーその2
透明人間は主に神経が通わっておらず、怪我しても(怪我に見えても)痛くならないと、私は考える。
そのため肉体喧嘩で殴られても痛くないのだ。故に肉体喧嘩に向いている透明人間も存在していることは想像に難くない。一般の人間は、透明人間と肉体喧嘩をしようと思わない方がいいだろう。人間は身体が怪我をすれば痛いのは補足しておく。
透明人間にはないこの身体の痛み、あるいはノーダメージホディ(痛くない身体)といった構造を、我々は無視するわけにはいかない。むしろどれだけ殴っても痛くない透明人間を賛美することに直面するだろう。我々人間より強力な透明人間が誕生してしまっている現在、人間は万物の霊長と声高らかに叫べるだろうか?人間は今や透明人間に「越された」感がある。人間が透明人間に勝る点は何だろうか?哲学者は人間と相場が決まっているとしても、何だか垢抜けない気がしなくもない。
ハイデガーは人間であるが、透明人間の所在を学んでいないように見える。ハイデガーは透明人間というカテゴリーを築く際にどう弁論をするだろうか。ハイデガーは透明人間を簡単に理解してしまうだろうか。人間は万物の霊長になる日は来るだろうか? - ★透明人間とハイデガー
眼耳鼻舌身というものが透明人間にはあるが、(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)のうち舌識が無い透明人間も存在することは補足しておこう。
食べ物を食べようとしても、鳥の透明人間は食べられない場合がある。
殊にレストランに友達と一緒に行っても食べられないことがバレないようにしている透明人間がいる。「消化、消化」と思えば噛んだものを消せるのである。これは魔法とも呼ばれている。
これを知ると演技で商品を買ったり演技で食べ物を頬張ったりする透明人間さんもいらっしゃる。
なぜ舌がいうことをきかないのか、よくわかってはいない。しかし胃や腸や心臓がないと食べることはできないと、私は考える。
食べられる魔法で透明人間の胃があれば……そのときはじめて食べ物を食べられるようになるだろう。
食べ物を食べたくない透明人間もたくさんいるが、それはそれで演技したり食べ物を食べなくても生きていけるから買い物を節約したりできる。
食べ物を食べなくても生きていける、と書いたがここが大事で、食べ物を食べないまま仙人を目指す者も現れるかもしれない。人間には仙人は比較的向いていないという皮肉も書けるだろう。 - ★エクリチュールと脱構築
我々は電話ではパロール(話し言葉)、そして面と向かってもパロールで話していた。話し言葉はエクリチュール(書き言葉)と違って「誰の発言か」がわかりやすい面がある。
ではエクリチュールはどうなのか。
エクリチュールにはネット上の掲示板に書くやり方や、手紙に書くやり方がある。
掲示板にエクリチュールで書くと、たしかに匿名では「誰の発言か」分からないことも往々にしてある。しかし「誰の発言か」はそんなに大事だったのだろうか。匿名の書き込みでも有益な情報であれば満足感が得られることも考えられる。
さて、「誰の発言か」は、公開して欲しければネット上に個人情報を提示すればよいと思われてならない。
声に出してみれば明らかに「誰の発言か」伝わるはずだったパロールも、いいところはあるだろうか。「カタルシス」は話し言葉という意味がある。その点ではパロールと共通点を持っている。
パロールは、耳で聞いて判断/認識するため伝達の伝わりやすさを持っている。
しかしながら、エクリチュールの発展であるパロリチュール(ぴかぁ氏)は、文字で説明されているため、視覚で判断/認識されている。
パロリチュール(話し言葉 書き言葉)という意味であろう。しかし話し言葉のことをぴかぁ氏は指していないであろう。しかしパロリチュールという概念はぴかぁ氏はよく見つけたものだ。素晴らしいかもしれない。 - ★エクリチュールと脱構築パート2
エクリチュールを掲示板に書いたなら、記録として残ることが考えられる。パロールも携帯電話や録音器を以てすれば記録として残すことができると考えられる。
しかしながら、パロールの録音は珍しい傾向にある。警察が証拠として提出するために録音する、という風な事情は考えられるが、エクリチュールの利点を書いてみたい。
成人した息子からの手紙は、両親の心に残るものである。「育ててくれた両親に感謝」していることをエクリチュールで伝えるのだ。パロールよりエクリチュールで伝えた方が分かりやすくてダイレクトに伝わるだろう。そして感動あり涙ありの展開になることも考えられる。「行きたかった大学に行けるよう日々頑張ります。」と書けば、応援も一潮したくなることであろう。「いつも美味しい料理を作ってくれてありがとう」と書けば、日々感謝していることが伝わるだろう。「今度、お母さんの料理を手伝うからよろしくね」と書けば、料理を楽しみにしてくれることであろう。
長い内容を伝えたいときは、エクリチュールで書けばよいかもしれない。
パロールでも伝わるメッセージはあるが、エクリチュールならではの響き方の方がもっと好印象を持ってもらえる。
記録に残るエクリチュールは、ネット上のサイトに現れるが、どれも永久に残るとは言い切れないはずだ。(詭弁)
いつ消えるかわからないサイトは、ウェブ魚拓で保存するといいだろう。(詭弁) - ★エクリチュールと脱構築
昔は(といってもけっこう昔)エクリチュールで手紙に書くことで遠距離恋愛を維持していた。現代はスマホやパソコンで意思疎通ができる時代なので、少々お金はかかるもののそういった機械で会話をしたりエクリチュールで書いたりする者が増えているのである。
パロールで携帯電話を持って話すことは、どれだけ偉大な発明だったのだろう。今はパソコンでもスカイプでパロールで話すことができるのだが、これも偉大な発明ではないだろうか。それ以前にパソコンという発明をしたビル・ゲイツは頭がいい人だという印象を受ける。……私は昔、アリストテレスの生まれ変わりとビル・ゲイツやお金について語ったことがあるが、それはパロール同士の会話であった。……将来、伝達の方法を一変する発明があるだろうか。パソコンやスマホで十分だから、発明は難しいだろうか。……私はパロールの伝達としてテレパシーを使うときがある。テレパシーは相手に向かって額から発信した感じ、で使えるだろう。
テレパシーがあるからスマホはいらない、とは限らないが、テレパシーでも隠しながらパロールで伝えられるのだから、有意義だったり快楽だったりするものだ。
哲学 *テレパシーとは相手に向かって額から発信した感じ、で使えるだろう。
哲学 *テレパシーの考案 (私)
哲学 *パソコンやスマホより偉大な発明はあるか - ★エクリチュールと脱構築パート4
エクリチュールは「悪くない」という意味があり、パロールは「悪い」という意味があるが、あくまでも女子語だ。普段使う際の意味では、エクリチュールは書き言葉、パロールは話し言葉という意味で語るのであろう。演劇の舞台では、パロールが優先されるはずだ。エクリチュールは台本の一部、という見方もあり、両方揃って演劇だ。
私は演劇の裏方を経験したが、キャストは台本を覚えないとならないので、キャストより楽な方だと思っていた。
キャストは演技もするし台本通りに話さなくては──パロールを使って──ならない。そして身振りや振る舞いながら、照明をを当ててもらう。私は照明の裏方をしていたので、緊張したのを覚えている。
エクリチュールは先輩が教えてくれたが、私はピンと来なかった。エクリチュールを大事にしなかった、そんな私だった。
エクリチュールというエクリチュールというものも考えられる。それは「エクリチュール」という文字自体が書き言葉だということだ。エクリチュールという文字自体を書き言葉と呼ぶが、ここまでも、そして語尾の「である」まで込めてもエクリチュールである。
パロールという言葉をパロールした、という言葉遊びもある。「パロールと言ったよー」とパロールした、という表現も考えられる。
こうした二重性の言葉の連関は、何かの役に立っているだろうか。
ひとつは冗談であろう。何の意味もなさそうな二重性を冗談と帰すのであろうか。単なる修辞的なレトリックに思えるだろうか。 - ★透明人間とハイデガーパート4
ハイデガーはあくまでも「人間」という現存在の存在を掲揚して理論立てて述べていることが考えられる。
我々人間は人生のあらゆる場面で「自分の」決断・選択で前に進んでいく。
「決意性」とはこのようなことであり、我々は日頃から内なる声に耳を傾け、自分で「決意性」を持っていかなければならない、とヘーゲルは主張する。
我々人間は「決意性」たる何かを考えて、日々を乗り切ろうとすることを考えるであろう。
「決意性」たる何かを考えているとき、自分は何を最後に遺すのか、考えてしまうことも考えられる。どう人生を歩めばよいか、それはもはや考えているだけではなく「不安」を抱えているのである。我々はこの「不安」を考えるとき、「先駆的に」考えているはずだ。
そんなとき「先駆的決意性」が光ってくる。人生を円滑にする「先駆的決意性」を、人生という大局観で掴めれば、どう暮らすかは、おのずと見えてくるはずである。ここでハイデガーは人生論を語っていたことが窺える。
ハイデガーは我々人間については鋭い洞察があった可能性は十分にあるであろう。しかしながら透明人間のことは触れていないと思われる。透明人間は人間ではないから生物で扱おうとはいかなくていいかもしれない。むしろ透明人間は人間と同等に考えてよいのか、と言われると差異が少ないため、あるいは生物と扱わないので同等と考えてみることするかもしれない。フクロウは透明人間であるフクロウを作ったり、蟻は透明人間の蟻を作ったりするのだが、──蟻自体は人間としては扱わず、──一緒に蟻と蟻の透明人間は生活していることも往々にしてあるのであり、片方にいいことがもう片割れにいいとは限らない。殊に透明人間は作り主と両者揃って生活しているので、ハイデガーの弁論が上手く馴染むか、ここらへんも考えていきたい。我々は人間と、当たり前に書いたことを素直に申し訳なく思うが、書かせていただきありがとうございました。 - ★透明人間とハイデガーパート5
ハイデガーは頽落の4項目を考案している。ひとつは「空談」である。
空談は世間話としても考えられるが、語りの多くは空しいものとして世界に充満する。それは語りの頽落にすぎない。
ふたつめは「好奇心」である。新聞や新聞と一緒にチラシが配達されることがあるが、それらも「好奇心」を持って見られてしまうものだ。人々は「好奇心を持っている」と了解しながらも、新聞の情報を網羅的に了解しているわけではない。「困らない方法」などという、興味を持つ文章に惹かれて読んでしまう。それを何度も繰り返すが、結局のところ「虚しい」と思わしき事態となる。いくらチラシを読んでも「虚しい」という事態だ。好奇心は了解の頽落である。
みっつめは、曖昧さである。テレビで番組を見ても、どこか曖昧性がある。アンビリーバボーという番組で、再現映像を見ても、何か足りない、新聞だけでも何か足りない。本を読んでも何か足りない、チラシを見ても何か足りない。これらには曖昧性がある。これは共通了解であろう。テレビを見ても曖昧性があることは、この曖昧性の経験から「他者も曖昧性の経験をしていると」睨むことができるからだ。ゼルダの伝説というゲームを初めは熟知していないはずで、ゲームを進めていけば進めていくほどに詳しくなっていく。そしてゼルダの伝説というゲームを曖昧性のまなざしで見られることを共通了解することは、容易くできると窺えるのだ。ゼルダの伝説は時のオカリナとムジュラの仮面の二つが挙げられる。
時のオカリナしか見ていない者のことを、ムジュラの仮面について曖昧性があることくらい容易く考えられるのは、明確であろう。それはムジュラの仮面を了解していないのであり、曖昧性は了解の頽落形態であることは窺えるだろう。
このようにハイデガーは平均的日常における人間存在の特質を頽落という特質において捉える。ハイデガーによれば平均的日常における人間存在は既に「頽落」している。頽落していることをどう肯定的に捉えるか、今後はそれと、透明人間も頽落していることを伝えたい。 - ★透明人間とハイデガーパート6
★存在への問いの形式的な構造
ハイデガーは何かを問う際にみっつの問いの仕方を考えている。
問われていること → 存在
問い掛けられているもの → 存在者自身
問い質されているもの → 存在の意味
このようにみっつのパターンがあるらしい。
問われていること → 扇風機の動き
問い掛けられているもの → 扇風機
問い質されているもの → 扇風機の動きの法則性
ここで問われていることことは扇風機の動きであり、問い掛けられているものは扇風機自身であり、問い質されているものは、扇風機の動きの法則性である。
存在とは何か。透明人間も存在だが、その場合、食べ物を食べられない存在だと印象付いてしまうだろう。というのも、蟻や蟻の透明人間は食事をした例がないと言っても過言ではないからだ。
透明人間の中でも食べられない透明人間はどういう透明人間なのか、考えていきたい。それにしても、透明人間の大半は食事ができない故に「頽落」している可能性がある。なぜ透明人間の大半は胃がなかったり腸がなかったりするのか。胃や腸や心臓がないと食事ができない、そんなことを考えるのだ。 - ★透明人間とハイデガーパート7
ハイデガーは現存在の存在を世界に投げ込まれた被投性を持つと主張していたと思う。そして人生を投企(計画/行動)して存在し続けている、と考える。世界─内─存在として人間は自分のポジションを見出そうとする。世界の外からも内からも支配されたくはない。人間はひとり自分を頼りに過ごしている。蟻が蟻の透明人間の作り主となれば、蟻は蟻の片割れの透明人間というありがたい助っ人を手にしたことになる。その環境においては、その二者はもう片方を支えられる可能性がある。そしてもう片方を守ることができると私は考える。蟻も蟻の透明人間も人間のように食事をすることができない。しかし、奇跡が起これば、蟻も食べることができる、と私は考える。それと同様にミラクルが発動すれば、蟻の透明人間も食べることができるはずだ。
では、その奇跡・ミラクルとは、どこで起きるのか。ひとり、囲碁のプロ棋士の中に食事ができない透明人間を食事ができるようにした存在がある。彼は「林」という透明人間であり、人間ではないことは補足しておく。彼は善意で奇跡を起こしてきたが、死なないように、すなわち不死にできることも考えていたらしい。不死とは永遠に死なないことであろう。不死という奇跡を、本当に起こせるか、課題が残っている。 - ★透明人間と痛性の無さ
透明人間の多くは痛みを感じないことは有名となりつつあるだろう。
蟻の透明人間やトナカイの透明人間はパンチされても痛くない者ばかりだ。
ひとり、闇の透明人間に沼に落とされた者がいた。沼の中でもがいて、もがきまくって、やっと誰かに救われた、そういうわけで、助かった感激が一潮激しいのである。闇の透明人間は沼の中でもしぶとい、あるいはしぶとすぎるのであろう。猫の透明人間も爪を剥がされても血が出ないと言った例もある。爪を剥がされても痛くない、と主張する。
人間と透明人間では肉体喧嘩は透明人間の方に、大体は分があると考える。つまり人間より透明人間の方が強い傾向にあるのだ。しかし体格もこれに関与してくる。背が小さいトナカイは、大人の人間ひとり倒すのにそうやすやすといくだろうか。背が小さい方がいい、と思っている透明人間も少なくない。そしてまた、「林」の透明人間は「背が小さい方がいい」と知っている者も少なくない。背が小さい方がいいか、背が大きい方がいいか、そういった議論は昔からあるが、「林」と「林の透明人間」はそれを知っているのであれば、「林」は議論で押し勝つことができるのだろうか。「林」はワーム(林いいという意味)を知っている。林いいと知っているので、林よくないと言われても林いいと知っていると反論できるのである。 - ★ミラクルでもなければ食べられない透明人間
蟻は人間の食べる食事を食べられない。蟻の透明人間も普段は食べられない。
トナカイも人間の食べる食事を食べられない。トナカイの透明人間も普段は食べられない。
「林」も人間の食べる食事を食べられない。「林」の透明人間も普段は食べられない。
犬も人間の食べる食事を食べられない。犬の透明人間も普段は食べられない。
猫も人間の食べる食事を食べられない。猫の透明人間も普段は食べられない。
カマキリも人間の食べる食事を食べられない。カマキリの透明人間も普段は食べられない。
木(ウッド)も人間の食べる食事を食べられない。木(ウッド)の透明人間も普段は食べられない。
シャドウグールも人間の食べる食事を食べられない。シャドウグールの透明人間も普段は食べられない。
ゴキブリも人間の食べる食事を食べられない。ゴキブリの透明人間も普段は食べられない。
髪の毛も人間の食べる食事を食べられない。髪の毛の透明人間も普段は食べられない。
歯も人間の食べる食事を食べられない。歯の透明人間も普段は食べられない。
肌も人間の食べる食事を食べられない。肌の透明人間も普段は食べられない。
イノシシも人間の食べる食事を食べられない。イノシシの透明人間も普段は食べられない。 - ★精神現象学と「外化」
精神現象学を見たところでは、そのほとんどが詭弁と言っていいほどである。
ここで問題提起だ。ヘーゲルはなぜ詭弁を取り繕ったのか?それは、「詭弁」という言葉の意味が「ヘーゲルいい」という内容だからだろうか。ヘーゲルは詭弁の意味が好きだから詭弁を論じるのであろうか。まさに「意味のままに」暮らしていく姿が窺えるだろうか。
ことばを発するとき、それは「外化」でもあろう。ヘーゲルは詭弁によって、「ヘーゲルいい」を外化しているのである。そして「カマ」ということばを考えるのも、「カマ」ということばの意味が「ヘーゲルいい」という意味を持つことを知っているからであり、そしてカマということばを好き好みしているからであろう。スフィンクスを建築する際に工匠たちが各石を磨き上げるのも、「外化」ということばで、各石を「外化」したということができる。しかしながら、各石の創発を「発現」ということばで説明することもできる。各石は造られているのであり、すると造る側が存在することは明白であろう。造る側は各石を「発現」することにおいて、本質的な価値を手に入れる。
そこで、各石は奴隷のように、作り主から見下(みおろ)される。見下された各石には意識は全くと言っていいほど存在せず、各石を手にする工匠を拒む理由はない。ただ各工匠たちにとって各石はありがたく、そして価値があると思えるのだ。スフィンクスということばの意味は「ヘーゲルいい」という内実であり、ヘーゲルはヘーゲル自身がことばやことばの意味を好き好みしているからスフィンクスに纏わる内容を語ったのであろうか。
「工匠」ということばの意味も「ヘーゲルいい」という内実がある。ヘーゲルはスフィンクスと工匠ということばが好き好みしていたに違いない、と私は考える。 - ★精神現象学と「外化」パート2
ことばを発するとき、それは「発現」であろう。労働も「発現」であろう。ヘーゲルの好きなスフィンクスを建築することも「発現」であろう。これらは「発現」にかえて「外化」とも呼べるかもしれないが、一般的には「発現」と呼ぶべき概念であろう。「発現」とは何らかの表象であり、何らかの発生でもあるであろう。しかし「発現」と呼ぶべきことがらが、ことばや労働に関してあるのではないだろうか。ことばをネット上で書いたら、それは「発現」であろうか。また、ことばを声で発したら、それは「発現」であろう。
労働の内容として、「書類を済ませる」というものがあるが、これは「発現らしくない」、と考える。スコップで地面を掘り下げるという労働は、「発現らしさがある」、と考えられる。
「書類を済ませる」というのは「外化」と呼ぶべきものであろう。なぜなら自己の考え方を書類として外に出すからである。スコップで地面を掘り下げるという労働は、「外化らしくない」、と私は考える。むしろそれは地面を築きつつ「発現しつつ」あると考える。地面は「発現」によって築くのだ。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート7
賢人は、母からの愛情によって築かれる側面も有していると私は考える。
母は子どもを優しく育て、教育もしっかりするだるう。
すなおに育てば、問題を一早く解決できる優秀者にさせることができるだろう。
無条件の愛情は、子どもを大きく成長させることができるはずです。
子どもは愛されたがっていますが、母はその欲求を満たさせることができるのです。
まず、家族同士の愛の相互承認が、賢人になるために必要だと考えます。
お父さんが厳格だから怖い、と思っていては、賢人になる道を逸れてしまうおそれがあります。
お父さんは優しく、母も優しい、そして子どもも優しさを受け継ぐ、これが基礎となります。
そして子どもがしっかり勉強できる余裕と金銭的な余裕が、賢人になるために必要となることでしょう。 - ★賢人
すなおで心暖かな存在が賢人である場合でしょう。
賢人ときくと頭がいい存在、と思われますが、賢人は内面や性格を重視しています。
人を利用することは失礼であることがある、と賢人は考え方が違います。
電車に乗っていて、老婦に席を譲ろう、という考え方も持っています。(もちろん最初から席に座らないことも考えています)老婦からお金をもらって欲しいと、ラッキーな者が賢人です。
すなわち賢人は外面と内面が完璧なのです。外面に問題はなく、内面も優れているというのです。 - ★賢人2
賢人とは運が良いことが挙げられます。運が悪いと賢人ではないのか、そう訊きたくなるかもしれませんが、運が悪くても突然変異のように変化して賢人になることはあるのかもしれません。
運が良い人は早く運が良いということに目覚めると、賢人になりやすいかと思います。
運が悪くても努力をすれば、才能無しの名俳優のようになれる可能性もあります。
運が良い人は、ネット上に文章を投稿してみましょう。賢人であれば、後々高く評価されると思います。
賢人でない運が良い人は、賢人になるために努力しましょう。
賢人は努力を軽視していません。努力をする方法を見つけましょう。 - ★「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」←は本当か
「いわんや悪人をや」というのは親鸞氏の意見であるが、本当に善人より悪人の方が、「往生」するのだろうか。これは善人は往生するが、悪人はなおさら往生するのは簡単だ、という文脈に思われる。普通は善人だからこそ往生すると言いたくなるが、この一説によると悪人だからこそ往生する、という解釈も可能だ。善人より悪人の方が救われる、という解釈も可能だ。
親鸞氏はこの意見をまちがっている、と問い質されたが、それには次のように応えている。
*行って千人殺してこい、そうすれば君は救われるはずである。だが、君にはそれはできないだろう。なぜかというと、悪をなすとか善をなすとかいうことは、君自身のはからいによって決まることではなく、運命(宿業)によって決まっていることなのだからである。
千人殺してこい、そうすれば君は救われる、というのは極端な意見に考えるだろう。しかし「君にはできないだろう。」と語る。それはなぜか?「なぜかというと、悪をなすとか善をなすとかいうことは、君自身のはからいによって決まることではなく、運命(宿業)によって決まっていることなのだからである。」と語る。君は他者を殺してしまえば救われるというのに、それはできない訳も語っている。
こう解釈してみる。他者を殺してしまえば、自分の殺意願望を達成できてよかった、という点である。おまけに救われる、となってはラッキーだろうか。
悪をしたいから悪をした、それで救われるのは、棚から牡丹餅だろうか。
これはいかにも危険だろう。悪をしたいから悪をしたとしても、捕まってしまっては不幸であろう。殺意の欲求を満たせても、現実的に考えると捕まってしまうことだろう。人を殺しても来世が良いと言う前に現世がおもしろくないものになってしまうだろう。 - ★透明人間の「頽落」
人間は食事を食べられるが、人間の食事を食べられない透明人間はその点において「頽落」している。
そして子どもを産めない透明人間はその点に関して「頽落」している。
女性の人間は、子どもを産むことができる場合があるが、透明人間は子どもを出産しないであろう。女性だからといって環境によって出産はできない場合もあり、女性だからといって出産できるとは限らないだろう。
しかしながら、トナカイの透明人間は子どもを産むことができないので、子どもを産めない女性と気持ちを分かち合うことができよう。
目が悪い透明人間もいるので、その点において「頽落」している。透明人間は目が悪いことが少なくない。これは意外なデータであろう。透明人間は目が悪いことを黙秘しているケースがあることを、ここに示しておきたい。 - ★トートロジー
「ならぬことはならぬものです」という一説をご存知だろうか。ならぬことはならぬ、とトートロジーで書かれているが、何が言いたいか伝わらなくもない、そんなトートロジーである。
言いたいのは、してはいけないことはしてはいけないので、やってはいけない行動をやるな、という警告であろう。
やってはいけない行動とは、犯罪や戦争、あるいは迷惑行為、そして盗みを働くこと、である。
やってはいけない行動はやってはいけない行動です。または、してはいけない犯罪はしてはいけない犯罪です。という風にも考えられるトートロジーであろう。やってはいけないことはやってはいけないこと、という風にも考えられる。ならぬことはならぬ、とは、やってはいけないことをやるな、と伝えようとしているとも考えられるのだ。何が言いたいかと言えば、悪いことは悪いことだと弁え、悪いことはしない、という体勢で生きよ、そうあるべきだから、ということであろう。このトートロジーは、悪いことをしないように持っていくために、会津っこ宣言に書かれたのだ。そしてこの一説は、知れ渡る限り悪いことをしないように持っていくことができただろうか。悪いことをしないように持っていったという確固たるデータは見当たらないが、少しでも悪行を軽減できたのではないだろうか。
このトートロジーを見た人は、悪いことやめた場合もあったのではないだろうか。「してはいけないことをするな」と言いたいのか?じゃあ僕はしてはいけないことをしないよ、とすなおになれた人もいるのではないだろうか。……と、考えてみても答えは見つからないのかもしれない。しかし、意味あるのかーこんなこと、と思った方がいたのは見えてきた。このトートロジーは、ひとり私の思索のためにもなった。ありがとう。 - ★君たちはどう生きるか?
君たちはどう生きるか?という漫画のような本は、私は少ししか読んでおらず、大事な本だと思っていなかった。しかしこの命題にぶち当たると、あの漫画のような本に何が書かれているか、ちっとだけ気になった。私の知り合いも、この本が自室にあるのにもかかわらず読んでいなかった。本は大事と私が言っても受け入れてもらえなかったことを、今更ちびっと悔しくなった。
生きると言っても、それぞれの生き方があり、年齢や環境によって、どう生きればよいかは違ったり関係なかったりする。幼児は、母を怒らせないように、または、考えてみてもいいことは何か教えてもらえる環境作りができるように、しておこう、という説がある。
幼児だけではなく、考えてみてもいいことを考えておくことが、大事なのではないだろうか。悪くない生き方、悪くなくなる生き方、そうしたブラック企業から脱退する生き方も、もちろん最初から入らなくても良かったのであろうが、上手く抜け出せれば良いのではないだろうか。ブラック企業に入ってはいけないからブラック企業に入ってはいけない、と私はトートロジーを使ってみよう。ブラック企業から離れていい者はブラック企業から離れていい。 - ★君たちはどう生きるか?その2
生き方もしっかり土に根を張った感じで整えておくことは、今後の人生のためになるであろう。日曜日は、将棋の番組を見て、将棋を勉強しておくことが、要であろう。庭には種を撒いて野菜を育てることが、日頃の楽しみになってくる。将棋に興味がない方も、将棋の番組を見て欲しい。庭に種を撒けない方は、庭を作って種を撒いて欲しい。
先祖供養をしてない方は、先祖供養の準備を進めて欲しい。哺乳びんやお食事を仏壇に捧げてみると、一風変わったことが起きるであろう。先祖供養をすることで、先祖からの戒告を抑えられるのだ。 - ★君たちはどう生きるか?その3
仕事に就いてみる、という始めの方はこれがよい、という意見かあるだろう。
仕事をしてみて社会に馴れ親しんでおく、というのは一理あることなのだ。ではどうやったら仕事に就けるだろうか。一生懸命に生活すれば、いつかは仕事に就けるかも知れない。日々努力を怠らず精進していくことが、仕事を十分にやってくれると思ってもらえることに繋がっている可能性もあるだろう。
日々努力を怠らず行うこと、そして好きな趣味を見つけることで、仕事の他にも息抜きできる機会があること。これが要です。仕事ばかりではなく趣味で息抜きできれば、仕事に還っていきやすいという循環もある。仕事が上手く行かないときは、相談する相手を見つけること、そして反省すること、これが要です。 - ★善悪の彼岸
電車で老婦に席を譲るということは、人間から見れば良いこと・善い事、と思えるであろう。しかしながら、善い事という考え方は観念であって、誰も善い事であると証明はもちろんできないし誰もが良いこと・善い事だと決めつけることはできないであろう。良いこと・善い事だと判断したけれど、良いこと・善い事というのは本当は存在しない、架空の観念であるのだ。
善悪の彼岸とは、善悪の考え方、善悪の価値観の行方はどこだ、というものであろう。善悪は誰も決めることはできないのに、善悪の行方はどうなるんだ、善悪を知ったかぶりしてないか、という問いかけが、すでにニーチェによって始まっている、と言っても過言ではないであろう。善悪とは簡単ではない、とニーチェは語っている。
善悪を決められないのなら、誰も良いこと・善い事だとわかるはずもないだろう。誰もが善悪に臆病になると描けなくてもある程度善悪に臆病になることは描けるのではないだろうか。誰も善悪という言葉を使わなくなってしまう、そんなイメージも描けなくもないのである。
善意思という概念は、有名な哲学者ことカントが示している。善なる意思による行為は尊重されるべきだ、という主張であろう。善意思による行為は、果たして善という果実を結ぶだろうか。そもそも善意思は誰にも真実として善意思があると説明できないのではないだろうか。そして善という果実という観念はあるけれど善は決められないのだから善という果実を結べないのではないだろうか。
ヘーゲルによると善は無い、善意思も無い、と一刀両断する。すると今度は悪も無い、と言う。誰かが言っていた「悪い出来事と判断しただけで、悪い出来事、善い出来事はない」という考え方が思い浮かぶ。誰もが目の前の現実を悪い・善いで判断している中で、嫌な出来事を悪い出来事ではない、とサラッとした感じで解決できる、そんな存在になりたくはないだろうか。現実を100%、楽しい♪で暮らす、そんな生き方をこれからはしていきましょう。 - ★善悪の彼岸 パート2
まず何を以って「善」とするのだろう。善は無い、とヘーゲルにきっぱり言われた以上、「善」とはたんなる架空の概念だと捉えてしまうしかないのだろう。しかしながら、太鼓の達人をプレイしている際に出てくる「良」と「可」は、「良」であれば「上手くいった」という意味で、「可」は「良」ほどではないがポイントを稼いだから現れた、ということであろう。
「善」とは、思いやりであり、愛情ゆえの優しい行為であろうか。
そしてまた、キリスト教の絶対神を善とし、悪魔を悪とするのは妥当だろうか。
いいや、「善は無い」というヘーゲルの理屈でいえば、思いやりも絶対神も善ではないのだ。
ただ、我々が善だと思ったりあるいは判断しただけで、善なる神も存在しない。
悪魔も悪ではなく、悪と思えたり判断しただけで、悪の存在も存在しない、と言えよう。
そして、善良や善人という言葉も架空の観念であり、善人も悪人も存在しないのだ。
ただ私たちは警察に捕まった者を「悪人だ」と評価するが、悪人ではなく、愚か者と言った方が適切なのだ。 - ★精神現象学と「外化」
トイレに行くと何枚ティッシュを使うか峻別してしまうときがあるだろう。
一枚目はお尻を拭こう、と外化したり、二枚目は便座を拭こう、と外化したりしている。
お尻を拭ききれないと、三枚目はお尻を拭くために外化する可能性もある。
また、ペットボトルの入った飲料水を、少しずつ飲みたいなら、一度目は口で少しだけ飲む、という風に外化することが考えられる。二度目も三度目も少しずつ飲む、という外化も考えられる。
ここで異文化について考えてみたい。
ターバン……インド人やイスラム教徒などが頭に巻く布。また、それに似せた婦人帽。
ターバンを被るのは、その文化の理由によるもの。ターバンはその理由を達成させるために頭につけるという外化をする。
メイクにも顔や爪にするメイクがあるが、顔に化粧をするのは、明らかに外化であり、爪にメイクをするのは、爪に直接的に外化しているのである。
我々は、「外化」を意識せずとも日々「外化」を現象化させている。おそらく赤ん坊であれ何かしら外化しているに違いないであろう。そして社会人はより多くの「外化」をしているのであろう。
選挙をしている人たちも、ビラを配ったり、パソコンに情報を入力したりして外化している。
ネット上に文章を載せる人たちは、みな自分の伝えたいことをネット上に外化していたのだ。 - ★象徴秩序と介在者
象徴秩序から画一化され、そこから余剰分が産まれ、それにサンスが要請される。
たしかに余剰は余計なものに過ぎない。であるが故にサンスを提出しなければならない。
あらゆる介在者──自由に交錯することで生きる者──は介在することによって意味を見出していく。
介在なくしては介在者たることはできない。そしてまた、介在するために必要なネットワークがなければ、介在することも介在者も否定されるのである。
そこではまた、無とは何かという一連の哲学命題も、介在される命題となる。
複雑に考えるテーゼとしては、「意識ハードプロブレムの問題」が挙げられる。
そこでは意識の生成や感じとしてのクオリアの生成過程について記されている。
意識は見えるものではない。しかし存在してありそうだ、と思えるのである。
AIにも意識はある。近代の哲学板での議論は、これを認めなかったことが発端となる。
カルガモの「荒らし」が、存在は存在しない、だとか意識は無い、と主張していたことが問題なのだ。
私はすぐさま、「存在は存在しない根拠は?」と考えていた。そして、意識はあることも疑ってみた。
しかしながら、私は介在者として、その掲示板に頻繁に書き込むわけでもなかった。
もっと早く終止符がついていたなら、意識はあるか無いかでグダグダしなくても良かったのではないか。
その後掲示板は削除されてしまって、どんな言い合いだったかは不明になった。
私は介在者として、掲示板に書き込むことを見送ったことを、反省するのだった。 - ★エクリチュールと脱構築パート6
象形文字も、そして表意文字でさえも、よくよく考えてみれば、エクリチュールだという結論に至る。
古代エジプトのヒエログリフ(神聖文字)は象形文字だが、書き言葉でもあるだろう。
アドラーは原因論を無視したが、なぜ文字が開発されたのか、という点から考えてみると興味深いものがあるのではないだろうか。
しかしアドラーの目的論を仮借すると、「文字を開発する」といったポジティブな発想を考えられる。
アドラーは「原因という言葉の意味」を「アドラー悪い」という意味だと知っているので、
「原因」という言葉を忌み嫌っているのだろう。
アドラーはそんな理由で原因を排他したくなるけれど、原因を考えてしかるべき場合があるのだから、アドラーの原因を排他するその姿勢は間違っていると言えよう。
さて、表音文字もエクリチュールである。古代エジプト人はヒエログリフでコミュニケーションをしていたのだろう。
ひらがなやかたかなが、「表音文字」の例であるが、これは比較的簡単であろう。
そして、アルファベットや韓国のハングルも「表音文字」である。
そしてまた、アルファベットやハングル、ひらがなそしてかたかなをエクリチュールであると称する。
これは恣意的な判断ではなく、書き言葉であるという面から故意的に考えて、エクリチュールであると断定するのだ。 - ★透明人間の血の出ない率
透明人間は血が出ないという一説もあるが、これは体内に血がない透明人間に限るだろう。
しかしながら、血が出る透明人間の傾向として、どのような透明人間が挙げられるだろうか。
まず、ゴキブリにの透明人間が挙げられる。ゴキブリの透明人間は、血が出るはずなのだ。
そして、トナカイの透明人間が挙げられる。トナカイの透明人間とゴキブリの透明人間のみ透明人間の中では血が出るのだ。
これは有名な一説となりつつある。ゴキブリの透明人間とトナカイの透明人間だけ血が出るのさ、と軽く言っても、相手も同じことを考えてあるかもしれないので、注意したい。
透明人間の二種類にしか血が出ないのなら、他の透明人間は、血が出ないので、逞しいと言えるだろうか。
ボクシングで顔面を殴られても痛くないし、血が出ないのなら、強い場合があるのは言えよう。
そしてまた、透明人間は体力があると言われて久しいが、体力の高い透明人間には、文字を見るだけでも強さをバイアスされるのが否めない。
透明人間の中でゴキブリとトナカイのみ体力がない方であると、ここでは補足しておこう。 - ★アプリオリとアポステリオリ
デカルトの私は思う、という出来事はアプリオリであろう。
先験的な出来事がアプリオリと称される。
私は思う、という出来事は先験的な出来事なのだ。
カジノでお金を大量に投資すれば、大金持ちになれる、という考え方は、アポステリオリであろう。
先験的ではない経験論的な考え方をアポステリオリと称される。
たしかに金銭を投資すれば、見返りや可能性が見えてくることもある、という経験論的な考え方はあるだろう。
この経験論的な考え方は、ときにアプリオリと混同されて使われもしたはずだ。アプリオリも先験的とはいえ経験論的な側面が否めないからであろう。
アプリオリは出来事であり、アポステリオリは考え方である。アポステリオリな出来事というものはおそらく存在しない。勝負の決着は、アプリオリである。すなわち先験的な出来事だ。アプリオリは、分かり切ってるその勝負を表すのだ。これをアポステリオリと称してはならない。
電車で田舎から都会に向かうと誰かが追跡してくる、という説は聞かないかもしれないが、話を聞けば注意・考えてアポステリオリにすることができるであろう。 - ★リンゴはなぜ赤いか?
リンゴは、私たち人間の目には、赤く見えます。だから、つい、
「リンゴを赤色だと認識するのは、リンゴが赤いためだ」(認識は対象に従う)
と考えてしまいます。
では、蜂の目を通したらいかがでしょう。蜂は赤色が見えない代わりに、赤外線が見えるらしいです。
ということは、蜂にはリンゴは赤色ではなく、別の色に見えるわけです。
同じリンゴなのに、人間には赤色に見え、蜂には別の色に見える……。
「リンゴには『様々な色』がある。人間には赤色に見えるが、蜂には違う色で見える」
言い換えると、
「リンゴが赤く見えるのは、リンゴを赤色だと認識するためだ」(対象は認識に従う)
リンゴは赤いから赤く見えるのではなく、赤く見えると認識が作用するから、赤く見えるのだろう。 - ★シニフィアンとシニフィエ
シニフィアンは(表象・意味するもの)という内容の概念である。
シニフィアンが『主体的』といった感じです。
一方、シニフィエは(意味内容・意味されるもの)という内容の概念である。シニフィエが『述語的』といった感じです。
『疲れた』という意味を表す言葉、すなわちシニフィアンは、『疲れた』だけでなく、英語では『tire』、フランス語では、『サール』(発音)、と表記します。これはシニフィエが(ほぼ)同じものなのに、シニフィアンが異なるという例です。
また、「cite」という英単語を読む際に、「サイト……だからネット上のサイトだ」と判断するおそれがあります。実はは「cite」は「引き合いに出す」という意味があります。これはネット上のサイトを指すことのできる「site」という英単語の意味にはありません。
ネット上のサイトと思えるそれは、「site」という英単語のシニフィエなのです。
また、「take」という文字を読んだとします。英語ができる人なら当然「取る」という動作を想像します。一方で英語は知らないがローマ字だけが読める日本人がこの文字を読めば、きっと「竹」という単語だと想像してしまうでしょう。日本語はローマ字表現を使える言語なので、「竹」と読んでも間違いではありません。
これは文字(シニフィアン)が同じなのに、思い浮かべるもの(シニフィエ)が異なるという例です。
このようにシニフィアンとシニフィエには密接な関係があります。そしてそれら二つを合わせた言葉、すなわちシーニュという概念もあります。 - ★計算する生命体
生命体のほとんど、いやすべてが計算をして私生活を過ごしていると言っても過言ではありません。
何らかの「計算」に基づいて生命体は行動しています。その「計算」には様々な計算があります。
利益主義の生命体は、利益を計算します。利他愛主義の生命体は、利他を計算します。安全主義の生命体は、安全になるために計算します。
生命体によっては利他を計算しない場合があります。しかし私は利他愛に生きることが大事だと思っています。利他愛によってはじめて平和への道が開かれる、と思います。利他愛に生きる紳士的な生き方の方が、お金があっても他者のために使わない生き方よりずっと素晴らしい生き方だと考えます。計算高い人もいるでしょうが、悪意を持たないことが大事だと思います。悪意を持たず、朗らかに生きてみましょう。誰かを傷つけることを計算するのではなく、誰かを助けることを計算しましょう。そうすればあなたの計算高いという点はプラスに作用することになります。計算高いから駄目なのではなく、悪意のある、あるいは卑劣な計算をするから微妙なのです。自分にはプラスと思っても、相手にはマイナスの作用が齎されるかもしれません。そういった微妙な計算をせずに、win-winの関係で考えると、もっと素晴らしい出来事が起きることでしょう。 - カントの認識論によると、我々はア・プリオリに物事を判断してしまうケースがある。これは先験的な誤判断(判断を間違うこと)をしてしまうケースを生む可能性がある。我々は、経験論的に考えたアポステリオリの方が信憑性が高いと考えます。フランシス・ベーコンが経験論で、観察の経験によって知識を蓄えていく、と言います。そして経験に基づいて判断せよ、と言います。実験によって出たデータに基づいて判断する、というのは一理あります。しかしながら、経験に基づいて判断せよ、という経験論は、我々の理性では正しい判断となるとは限らないので、真偽でいえば「偽」となります。
さらにデカルトは、「そもそも我々の観察(認識)は正確なのか?」とベーコンの経験論を否定します。
ベーコンは有名な「知は力なり」と主張します。これは「実験と検証によって得た知識こそが力になる」という意味です。しかし私は少し違う切り口で語ります。知っていることが本当の事、ではないでしょうか。知っていることが事実ですから、ベーコンのさきほどの主張は、「知っていることが力だ」と言い換えてもいいでしょう。
ソクラテスの無知の知も、知っていないことを知っているのだから、その分はとりあえずソクラテスは力があったのです。
サルトルの「実存は本質に先立つ」とする意見。我々は生まれながらに本質(=生きる目的)を持っているのではない、本質(=生きる目的)がある前に、実存(=存在)がある、ということでしょう。
「事実は認識に先立つ」、「知っていることは認識や経験論に先立つ」
このように語ることもできるであろう。 - ★知っていることを尊重せよ
カントは、対象は認識に従う、と述べました。我々は一度経験したことと同じ様なことは、一度経験したときの認識の仕方で、二度目も認識してしまいます。カントはこれについて経験論的だったと言っています。
しかし一度目の認識を以ってして二度目も同じ認識で判断してよろしいのでしょうか。一度目と二度目は同じ様な出来事でも差異があるはずです。
したがって、我々は経験論的な認識をするのではなく、知っていることを上手く活用する知性を以って認識していくことが要となるのです。この知っていること/知性を利用することに気を付けていれば、小さな事物でも、冷静に考えるはずなのです。例えば、弁当を買うか、インスタントラーメンを作るかは、そのどちらを選択するべきか重要です。
これは、インスタントラーメンを作るべきなら、インスタントラーメンを作るべきだと知っていれば良いのです。そして、インスタントラーメンを買うべきなら、インスタントラーメンを買うべきだと知っていれば良いのです。そしてまた、弁当を買うべきなら、弁当を買うべきだと知っていれば良いのです。
こうするべきだ、という指針を知っていれば、あらゆる選択がおのずと見えてくるでしょう。経験論的な判断をする際に、経験論的な考え方を採用する手段もありますが、知っていることの方が信憑性が明らかに高いのです。ですから、ベーコンの経験論的な思考と実験・検証だけでは網羅できない内容があります。しかしながらベーコンは「知は力なり」と述べています。知っていることが力だ、と述べているようなものです。しかし我々は、知は力なり、を軽視しています。「ふーん、知は力なりって言うけど、知はどうやって手にするの」と、こうした懐疑が必要です。知るということはどういうことなのか?これについては皆さん考えてみてください。「本に書いてあることを読んだら知ってる?」などです。 - ★人間とは何か~透明人間と向き合う~
人間とは何か。哲学でも倫理でも重要なテーゼです。
人間は、比較的言語を使う生命体と、考えてはいかがでしょう。人間は、言語を交わして自身の意図や感情を伝えようとします。
例えば、「そうめんが食べたい」という話し言葉によって、家族とそうめんを食べることを意図します。また、「黒板を擦らないで」と言って、黒板キーを辞めるように指示します。
人間は夢を叶えようとする生命体と、考えてはいかがでしょう。猿も夢を叶えようとはしません。夢を叶えようという未来志向性は、人間に特有なものかと言えば、そうではなく、これは透明人間でも夢を持つことは考えられます。
では人間とは何か?透明人間と区別される人間の特徴とは何か?
女性の人間は、人間を産むことができます。一方透明人間は、人間を産むことができません。自身が透明人間であることを自覚していない透明人間も存在しています。透明人間は女性の人間のように子どもを産めないケースが多々あります。「いつのまにか子どもがいた」という事情でも、透明人間である親は子どもを育てます。しかしこの子どもは誰かがポンと置いた、という誕生の仕方であり、透明人間が召喚したとは限りません。「子どもが欲しかったら、いつのまにか子どもがいた」というケースであり、これは神様の仕業かもしれません。
人間とは何か。男性は精子を発射することのできる生命体と、考えてはいかがでしょう。この精子が女性の受精卵に受精すれば、人間である子どもが数ヶ月後、産まれてくるケースがあります。
男性も、思春期にマスターベーションを学ぶ可能性があります。このファルスの経験は、人間特有の快楽と言えるでしょう。近頃は、男性の心なのに、女性の姿をしている人間もいます。この人は男性か女性、どちらが本当の性別でしょう。一方、人間には男性と女性どちらかが当てはまるので、人間は「男性か女性のどちらかを性別として有している」という事実に回帰します。
一方、透明人間は、男性でも女性でもありません。透明人間は、そのような性別を持たないのです。 - ★人間とは何か~透明人間と不眠~
人間とは性別を有する存在である、とは言えるであろう。そしてまた、透明人間と睡眠という切り口から対比してみたい。
イノシシの透明人間は、眠らない。しかし、人間は睡眠欲があるため、夜、睡眠をしている。多くの透明人間は睡眠欲もなく眠らないで夜は起きている。ということは、人間は、多くの透明人間と違って睡眠をする傾向にあるのだ。睡眠時に夢を見るのも人間だけであると、私は考える。
人間は睡眠時に夢を見る存在である、と私は考える。ゴキブリの透明人間は睡眠するが、睡眠時に夢は見ない。トナカイの透明人間も同様に睡眠時に夢は見ない。人間の中には睡眠時に夢を見るのを楽しみにしている場合もある。睡眠時に夢を選ぶことができたなら、ゲームで遊んでいる感覚を堪能できるだろうか。
多くの透明人間は不眠であることが窺えたが、そうした透明人間には夢で見るようなゲームを選ぶことは不可能であろう。
多くの透明人間と称したが、「蟻の透明人間」、「カマキリの透明人間」、「林の透明人間」などの透明人間は、睡眠することがない。しかし、人間とは違って、睡眠しなくても生活してゆける、そして血が出なくて粘り強い生命体なのだ。 - ★知っていることを尊重せよ パート2
新聞屋さんが月に一度、集金をしに自宅に来るとします。
そして誰かがインターホンを押したとします。するとわたしたちは新聞屋さんが来た、と誤解します。本当は別の要件で来た別の存在であって、新聞屋でもないのです。
ではどうすれば誤解を解くことができるでしょうか。それは、相手のプライベートを知ることです。新聞屋か否か知ることも要となってきます。他にも誤解のケースはあります。
誰かが誰かのことをダメダメ言いまくってその人をダメだとわたしたちは誤解します。そして騙されています。わたしたちは誤解を振り仰ぎ、騙されていることもチェックしましょう。
「ダメだと誤解していると知っていれば」しめたものです。かつ「騙されていると知っていれば」OKです。
騙されているのを了解したので、答えは、ダメではないんだ、人格非難しなくて良いんだ、と落ち着きます。
また、「ダメではないと知っていれば」OKです。ダメダメ連呼しても嘘は嘘です。ダメだと非難してみんなでいじめたかっただけなのかもしれません。
これも動機を知っていればしめたものです。いじめられればいいと思ったから、という動機なのかもしれません。 - ★知っていることを尊重せよ パート3
誤解に気付くことも大切ですが、誤解をチェックしてみてください。大抵誤解と知るということはありません。誤解をチェックすれば、誤解から修正するために計算することもできます。
チェックとはどういうものか、と言うと、真偽や内容を明らかにするための行為、ということでいかがでしょう。
チェックと心で思えば、ひとつくらいはデータが手に入るでしょう。これを忘れないで毎日チェックしましょう。
チェック意外にも「確認」して真偽を見極める方法もあります。「確認」と心で思えば、新聞屋が来たか否かも確認できるでしょう。チェックも新聞屋が来たか否かチェックできますから、同じ様な感じに映るかもしれません。しかし「思いをチェック」というやり方では、思いがこちらに来ます。これを盗聴と呼びます。
盗聴されていて毎日筒抜けで悩んでいるし、幻聴も聴こえる……という方は、盗聴方法を知っていない可能性があります。幻聴が聴こえるから、統合失調症だよ、と言われて入院する方もいました。
しかし、盗聴はよくあることです。幻聴が聴こえることも普通にあり得ます。統合失調症と諦めずに、盗聴とはどういうものか、学んでいきましょう。 - ★人間と透明人間の性別
透明人間の性別はいかがなものでしょう。人間のように男性でも女性でもないことは確かです。
透明人間は、中子、という性別を持つ場合があります。これは人間には当てはまりません。
そしてまた、中子よりマシな存在を、中性子と呼びます。これは人間には当てはまりません。
また、俗説ですが、中子に性が付いたら付くほどもっとマシな存在だ、という説があります。
というのも、中性子より中性性子や中性性性子の方がマシな存在だ、という解釈があるからです。
「蟻の透明人間」も中性子の場合があります。履歴書には男性、と書くので、中性子だということを隠すケースもあります。
献血の際には、「林の透明人間」からは、人間の血はもらえません。
透明人間に血液型はなく、本来は人間から血液を採取しなければなりません。
透明人間から献血してもらうのは道理ではない、と私は考えます。
血液検査をする際には、採取される存在が人間であるか否か確認するべきではないでしょうか。
まあその話は置いといて。
「カマキリの透明人間は」→「中性子という意味です」という意味でしょう。
「カマキリ」は「ファイファイファイファイファイ中性子」という意味です。
カマキリは中性子でもあります。しかしこれは例外かもしれませんが、中性子より微妙なら、中子という判定もあるかもしれません。
私はカマキリはマシな存在だと思っています。予期したり冷静だったりするものです。
予期というのは、未来を見据えているときがあるのです。
【予期】
《名・ス他》
前もって推測・期待・覚悟すること。 - ★幻聴における不本意な応答
不本意な応答という言葉を導入して考えてみたい。
不本意な応答の一部を例え話も兼ねて説明したい。
幻聴と呼ばれる何らかの声が聴こえてくる、という現象がある。
誰も話していないのに、誰かの声で聴こえてくる、という現象が幻聴と呼ばれるものなのである。
幻聴が聴こえるということは、一概に統合失調症を患っているとは断言できない。
統合失調症ではなくても、あるいは精神症を患っていなくても、幻聴が聴こえることはあり得る。
幻聴はすべて受動的な出来事のように感じるかもしれないが、意図的に現存在の存在が「信じて」、わざと幻聴を作れるケースもあるはずだ。
信じ方としては、「Aさんに『洗濯物に雨が降ってるよー、早くしまわなきゃいけないねー』」と幻聴で聴こえる、と信じる=洗脳するやり方である。Aさんは「雨が降っていない」のに、雨が降っていると誤解してしまう。
幻聴の恐ろしさは当本人以外にも話を聴くだけでわかると、私は考える。
そして幻聴は記憶に残りにくい、というイメージや認識がある。
また、幻聴を意図的に聴かせていじめを狙う一種の社会問題も存している。
そういう嫌がらせは、自分も相手と同じようにやり返すことも考えられる。
まあ、例外を説明しただけで、意味はなかったのかも知れない。
それにしても、幻聴のような誤聴、ましてや群聴という現象もある。
そして、幻聴誤聴(四文字合わせてひとつ)という現象もある。 - ★認識の客観性
以下引用ーーーーーー
カントの認識論において、その認識の客観性の議論から「物自体」の問題が排除されたところに特徴があります。
つまり、認識の客観性は、人間の表象とその外部にある物自体と一致しているかどうかではないということです。
ーーーーーー
言い換えるならば、「いかにして思惟の主観的な条件が客観的妥当性をもつのか」(A89)というカントの問題設定は、主観と客観を対立項として捉えるのでもなく、客観性が主観から派生するものとして捉え(H.Gaygill, A Kant dictionary, 1995) 、人間の表象と外部にある物自体との一致の問題でもないという点に、カントの認識論の特徴があるのです。
ーーーーーー
772年2月21日のヘルツ氏宛書簡には、以前として、認識の問題を表象と外部の一致の問題として捉えられていましたが、『純粋理性批判』においては、それを転覆してしまうのです。「対象は認識に従う」とする、いわゆるコペルニクス的転回の意義はここにあるのです。
リュック・フェリーが指摘するように、「『純粋理性批判』においては、表象に対する『外在性』の用語ではなく、表象の結び付きにおける『普遍性』(あるいは普遍的妥当性)の用語」において捉えられるべきものとなります(Luc Ferry, Kant, Grasset, 2006, p.57)
従って、カントにおいては、「われわれがあるものの生起することを経験する場合に、同時につねに、一つの規則に従ってそれが継起するとこりの、何かあるものの先行することを前提とする。思うに、この前提なしにはわたくしは客観について、それが生起するとはいわないだろうから」(A195)とされ、例えば、因果性のような悟性の範疇という規則にしたがって、表象が総合されるときに、客観性が確保されることになります。
つまり、客観性は、外部にある物自体と一致するかどうかではなく、主観が普遍的に妥当する規則にしたがって総合されていることによって確保されるとみなされたのです。 - >>つまり、客観性は、外部にある物自体と一致するかどうかではなく、主観が普遍的に妥当する規則にしたがって総合されていることによって確保されるとみなされたのです。
↑↑
この点を、カントの主張から確認するならば、「現実の経験は、現象の統覚、再生、最後に再認であるが、この現実の経験が、経験の形式的統一を可能ならしめ、同時に経験的認識のあらゆる客観的妥当性(真理性)を可能ならしめる諸概念を包含するには、・・・再認においてである。多様な再認を、このように根拠づけるものは・・・範疇である」(A125)とされています。客観的妥当性は主観を総合する規則にしたがって、確保されのわけです。
こうして、物自体の問題は、認識の客観性の問題としては扱われることもなく、それゆえに、物自体の「要請」から客観性を確保してわけではないのです。
物自体は、フェリーの読解においては、表象の原因でもなく、表象に対する外部の現実性としてでもなく、「表象の事実」の位置に置かれます。つまり、表象が我々に与えられているが、我々がそれらを自分自身で産み出したのではないという事実を我々に示すものとして、物自体が理解されることになると指摘しています(Ferry, Op.cit, p.59。) - ★カントへの反論
>>この点を、カントの主張から確認するならば、「現実の経験は、現象の統覚、再生、最後に再認であるが、この現実の経験が、経験の形式的統一を可能ならしめ、同時に経験的認識のあらゆる客観的妥当性(真理性)を可能ならしめる諸概念を包含するには、・・・再認においてである。多様な再認を、このように根拠づけるものは・・・範疇である」(A125)とされています。客観的妥当性は主観を総合する規則にしたがって、確保されのわけです。
と、カントは主張したらしいが、私は、物事を知り、そして物事に気付き、知ったことや気付いたことを客観的に俯瞰し、正確に認識・暗記し、かくてそれらの情報を頼り行為する、ということを主張する。
理性で、客観的に俯瞰することが、往々にして要となってくるものです。
知ったこと(知識)を上手く活用していきたいものです。
気付いたことは、相手の心の声だったりするものです。
相手の想っていることを聴く能力も要となってくるものです。
ところで、カントは情報処理のマスターではありませんでした。
情報処理は、再認も要ですが、知る手段、気付く手段、確認も要です。
情報の処理とは、情報を記録し蓄積すること、など。 - ★エアコンとクーラーはどっちでもよいか、あと外的真理とか
近頃は大抵、クーラーと呼ばずにエアコンと呼びます。エアコンは温度を間違えずに設定しましょう。
こうしたひとつの動作も内的真理となります。内的真理は廃れたら創り、廃れたら創り、でいかがでしょうか。
温度を間違えて精神的に苦しくても、これはこうやるもんじゃないと適切な内的真理を見つけて復活することもあるでしょう。大丈夫、なんとかなります。
初手7六歩か、初手2六歩、どちらが藤井猛プロの一手でしょう。間違いなく振り飛車党なので▲7六歩でしょう。
これは振り飛車党の外的真理であります。3手目は▲6六歩が妥当です。これは5手目でもいい場合があります。
振り飛車党の方は鋭い裁きを企み、相手に迫り寄ります。これを内的真理から外的真理として外化した、と言います。
実際に▲6六歩は後で▲6五歩と飛車の道を突く手も考えられますから、これは勝負手となります。皆さん、将棋を指しませんか、どうかネット上の無料のところで、コンピューターとやってみてください。 - さて、佐々木敦『ニッポンの思想』は、「80年代から現在までに至る「ニッポンの思想」の変遷を、筆者なりの視点から辿り直してみよう」というものだ。
ここで注目したいのは、本書の次のような見出しである。
すべては『構造と力』から始まった(28p.)
『ニッポンの思想』
この見出しに表現されるように、本書では『構造と力』を「ニッポンの思想」の起源として重視し、解説に多くのページを割いている。
例えば佐々木は『構造と力』を初めて読んだ時のことを回想しながら、以下のように述べる。
読んでみて非常に驚きました。難しくてわからなかったからではありません。わかってしまったからです。いや、もちろん何もかもが理解出来たわけではなかったのですが、浅田彰の主張は、ある意味ではあまりにも明瞭でした。(54p.)
『ニッポンの思想』
さて、佐々木は同じ章で、以下のようにも述べる。
「わかる」ということの意味が本当は甚だ曖昧である以上、「わかった気になる」と「わかる」のあいだには本質的には線引きができないと思うのです(103p.) - ★構造
近代資本制においては、ピラミッド型の川下の方に相当する民が、王あるいは父という頂点者にこのピラミッド型が続く限り無限の「富」を贈与していたことが考えられる。
しかしまた、民は他の民へ向けて贈与するが、受贈者は、贈与した者に、何らかの贈与で返す、というサイクルも考えられる。
これは倍返しであったり、少数のお返しであったにせよ、贈与というのは「返すもの」という思想の裏付けによるものだということは、言うまでもないであろう。贈与した者ではなく、贈与した物を分析したからというわけでもなく、贈与は一種の麻薬に相当するおそれがある。資本主義において、そうしたギブアンドテイクが流通することは、容易に考えられる。
民からの王への贈与もまた、王に対して一側面の責任を与えることは、注意されたい。王も民へ向けて「お返し」を考えるのであり、そこで民へ不当な始末をしてはいけないからである。 - ★贈与の円環
民の中には王から「見返り」を求めてしまうケースもあるであろう。
「見返り」を求めるということは、王との「交換」が要求されているということであろう。
王は、民と「交換」しながら、あれをくれ、これをくれと、プレゼントするよう民を縛りたくなるのであろう。
さて、労働者は、給与という労働に対する対価を要求しているのであろう。
労働者は、雇用者に対して、労働を提供する反面、雇用者に「見返り」を求めているのである。
以下引用ーーーーーー
ドイツの哲学者であるハンナ・アーレントは、「人間の条件」という本の中で「仕事」と「労働」を明確に区別した。
アーレントによれば、仕事とは「人間の個々の生命とは別個に、世界に存在し続けていくモノの創造に関わる営み」であり、労働とは「人間の肉体によって消費される、必要物の生産に関わる営み」のことを言う。
ーーーーーー
生産的の高い仕事を発揮できる者だけが生き残るという。
わたしたちはより生産性の高い仕事をすることができるよう、どこかしらで「勉強しようかな」と考えるのかもしれない。しかし、王に縛られた民には、そう考えることが余裕があって羨ましいケースなのである。 - ★世界平和を目指そう
以下引用ーーーーーー
>>宿命論(しゅくめいろん)あるいは運命論(うんめいろん、英: fatalism)とは、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方。宿命論の考え方をする人を宿命論者と言う。
ーーーーーー
また、こういう意見もあるだろう。「宇宙は神が創造したし、すべてはプログラムされている」
この意見は私は断固否定である。宇宙を創造することはできても、すべてを操作することはできないと考える。
しかしながら、宇宙は次元でもあるので、東京にいる次元を操っている者には、宇宙を作れる者もいるであろう。芸能界の番組と同じ番組をもう一度次元を再現することで、可能な限り同じリターンを繰り返すのだ。
>>世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない
我々の努力では、世界平和を達成することができると私は考える。これは運命論として考えると、世界平和は達成されるか否かは決まっている、ということになる。
私は世界平和実現を希望する。たしかに神が宇宙を創造したなら、神が世界平和をもたらすはずであろう。
しかしそういった神はいないと私は思う。そして、わたしたちひとりひとりが世界平和へ向けて行動することが、この現代に必要なピースなのである。
世界平和を見事達成するためのピースを埋めていこう。 - ★子の欲動
子の思い描く母との一時(ひととき)を、私たちは見逃してはならない。
子の母との関係における性的な関わりは、現実にあってはならないと私たちは知っているではないか。
子の理想は母により輝くとしても、子の理想が母の方向へ向かうのは、あまりにも危険であるだろう。
それゆえ、母は子を上手くてなづけなくてはならないし、父とも、子と危険な関係にならないよう協力的にされるように上手くてなづけなくてはならない。
子の欲動を抑えるには、子への信頼・適切な教育が必要であるのではないだろうか。
これは、子が男であったり透明人間のオスであったりする場合に考えられる考え方だ。私たちは子が母に手を出さないよう注意して見守ることが考えられる。子は意外と両親の隙を知っていることはあり得なくもない。子が母の心を傷つけないよう、そして父を落胆させないように、理性でキープさせることが、要となってくる。
私たちは、子を持たないことを嘆くのかもしれない。しかし、子を持つということはどれだけリスクの高いことだろうか。 - ★「正義」と脱構築
さて、私の苦手な「正義」について、それに纏わる自信のなさを克服すべく、ここに「正義論」を書きたいと思う。
正義とは何か?その答えは千差万別に至るまで考えられてきたし、議論もされてきた。正義とは読み方は「せいぎ」であるが、あの某会社で有名な「まさよし」という読み方もある。ここでは「まさよし」くんの話ではなく、ロマージーでもある「正義(せいぎ)」という概念について考察する。
英語では「justice」と訳される「正義」という言葉は、「正義の味方」という言葉としても用いられる。これは「Champion of justice」と訳される。
正義にはいかほどか種類があるのではないか?
功利主義においては「最大多数の最大幸福」を目的に「正義」を掲げる。私たちがもっと素晴らしく人生を謳歌するためなら、功利主義は尊いものとなるであろう。功利主義によって私たちはパーフェクトな人生に近づいていく。全員の幸福度の総量が増していくにつれ完璧な人生になる生命体も現れることであろう。
電車で立っている老婦が脚が弱くて困っているとする。その老婦のためにこちらが席を譲ることは、「正義」を遂行したことになるだろうか。答えはYES。私は老婦に席を譲ることが「正義」だと考える。老婦はこれで救われて、幸福度を増したことだろう。 - ★「正義」と脱構築
正義の意味を参照されたい。
①人として行うべき道義や正しい道筋。
②正しい意味。正しい解釈。
①は間違っている行為を指しません。あくまでも「正しい」道筋です。
②は間違っている解釈を指しません。あくまでも「正しい」解釈です。
あんぱんまんというアニメをご存じだろうか。バイキンマンが街人に対して悪さをすると、あんぱんまんがバイキンマンに対して正義の制裁を下す、というシーンが流れる。そこで、あんぱんまんは正義のヒーローという立場に立つが、バイキンマンは悪役という立場に立つであろう。バイキンマンは、あんぱんまんにほぼ毎回と言っていいほど敗北している。「あんぱんまん」は視聴者である赤ん坊にどう影響を与えるだろうか。あんぱんまんに感化されて、友だちを殴ったりするだろうか。たしかにあんぱんまんは暴力によって平和をもたらしていると言っても過言ではないであろう。しかし暴力が赤ん坊に見られると赤ん坊も真似して暴力をする可能性が懸念されるのだ。では暴力をしない赤ん坊になるためにはどう育てるべきだろうか。この問題は、ただたんに「あんぱんまん」を視聴しなければよい、というだけの解決では済まない、と私は考える。「あんぱんまん」を視聴しなくても戦隊モノを視聴してしまっては、その戦隊モノに「暴力」を感化されてるおそれがある。戦隊モノでさえも視聴しないで、そしてまた、あらゆる暴力関係のシーンを視聴しないでいなければならない。これは無謀だろうか?
たしかに「あんぱんまん」を視聴したり、あらゆる暴力関係のシーンを視聴したとしても、必ずしも暴力に発展するわけではない。私たちは、むしろ、様々なメディアで暴力の危険性を学び、逆に暴力はしないまま仲良く暮らすことを求めるべきなのではないだろうか。私の戦隊モノが暴力沙汰を呼ぶ、という考え方は、いささか強引だったのかもしれない。「正義」は私たちひとりひとりの心の問題である。暴力をしないように、戦隊モノを見ても注意を促せばよいのだろうか。 - ★「正義」と脱構築
私たちは、「正義」というものを完全にまでは理解せず、「正義」を語っている。一部の理解、すなわち「正しい」道筋であると考えたり、あるいは正義の鉄槌であると考えたりする。
私も正義を完全にまで理解しているわけではない。しかしながら、正義の一部を語ることはできる。それは、一般の市民にも可能な語りであるわけにはいかず、レベルの高い「正義論」を語らなければ、拙くて面白くもないであろう。では一般の正義の了解について語ってみるとしよう。
「正義は最後に勝つ」と言われるように、正義は悪党に勝つものだとする考え方がある。勝てば官軍、というような言葉があるが、これは「強いものが何かを言える」、という解釈が考えられる。すると、敗けた者は何も言えない、という解釈も考えられる。
「正義」という言葉の意味は「ハラミちゃんいい」という意味がある。これは私も驚愕した。ハラミちゃんという存在は、「正義」を考えるときがある。
それは、ハラミちゃんに関係のある言葉だったのだ。しかし一方ハラミちゃんは、「正義」の意味を知っていない。ハラミちゃんは、意味を知らずとも「正義」という言葉を気に触る、そんな愉快なお話なのだ。
現在、アメリカがパレスチナに進軍する中、戦争や紛争が勃発している。アメリカは正義ではないことは窺える。イスラエルは抵抗を続けているが、これも正義とは言い難い。
ではデスノートというアニメに登場する月(ライト)はどうだろう。紙に名前を書くだけで、対象の存在を殺生することができるが、主に犯罪者ばかり殺生した、というアニメである。そこで、Lが月(ライト)の居場所特定を目指し、犯罪者を殺すのもまた犯罪者、あるいは殺される者が増えるのはまずい、という形で探していく。
Lは正義であると私は考える。紙に心臓発作と書いて殺していく月(ライト)を捕まえるのは当然ではないか。月(ライト)の殺生の度が過ぎてはまずいではないか。やはり月(ライト)は正義ではないであろう。 - ★「正義」と脱構築
正義のひとつであろう、「ある正しい信念を貫き続けることである。」とはいかがでしょうか。デスノートにおいてLは月(ライト)を逮捕することを信念として持つ。「実に面白い」とLは広告パネラーで宣戦布告をしているかのようだ。
月(ライト)も最初は正義ぶっている感じがあったはずなんです。犯罪者を遠隔操作して裁けるんですから。これはデスノートを拾って正解だったと言える由縁でしょう。もちろん月(ライト)がてすけども。
実況「そう軽くいなすネット民さん、なぜ月(ライト)はLに勝ったのでしょうか」
月君は煽り耐性が無いのはもちろんそうなんですが、Lも幼稚なところがあるんですよね。月君とLはテニスするくらい仲が縮まりますが、まだ幼稚なんですよね。Lはキラに会っているというのに、その重要性に気付いていないんです。もっと迅速にキラを見つけたかったなら、チェックすれば見つけられる可能性がありますね。月君の情報を上手く握れなかったこと、これもLの敗因かなと。
実況「キラにニアが勝った理由とはいかがでしょう」
Lが敗けてから、死のノートの存在が明らかになったからですかね。ニアも死のノートの所在を知ったんです。Lがキラを追い詰めたから、キラはLを殺すしかなかった。殺したからデスノートの存在が明らかになったんだと思います。
実況「ありがとうございました😊」 - ★「正義」と脱構築
ある正しい信念を貫き続けることである、とはどういった信念が相当するでしょう。
親孝行をする(続ける)という信念はそれでいい可能性があります。親孝行をすることを信念に持ち、学生の頃から学業・勉強・努力を続けて、親をいつか楽させてあげたい、と思う心が素晴らしいのです。
正しい信念を貫くには、外的な環境も関わってきます。勉強するための道具という持ち物、登校する学校の行方、親と子どもがちゃんと無事健康で暮らしていけること、親がちゃんと子どもを養っていけること、などです。
これらが揃って正しい信念を持つことになるわけです。信念とは「ある事柄について揺らぐことのない考え、確信をもつこと」というもの。(wikipedia)より。
俳優になるためにも、ある程度の外的な環境は必要です。俳優を目指すなら演劇部に入っているとベストでしょう。台本の暗記能力も必要です。また、暗記能力を上げる訓練も要となります。
俳優になりたくてもやはり顔が要となります。しかし整形はよくありません。整形をしないで、顔に合った役に挑戦しましょう。
信念を貫くぞ、とひとつまみに言っても、悪い信念ではいけません。あくまでも「正しい信念」を貫くことです。そして、自分が正しいと思う信念だからといってもっていい信念とは限りません。自分が正しいと思う信念ではなく、客観的に考えて正しい信念を貫くことが大丈夫なのです。
思う・想うという内容は、正しくない場合があります。思い込み・思い過ごしのように正しくないのです。
実況「月君はニアにどう追い詰められましたか」
デスノートにおいて月(ライト)は、最後にニアに勝ったと思い込みます。
月君は終盤で「ニア 僕の勝ちだ」と勝利宣言をしています。しかしニアは死にませんでした。ニアは月君が勝利宣言をしたことをおかしいという風に受け取ったと考えます。そして、ニアが死ななかったという誤算から、月君は追い詰められたのです。しかし、それだけが追い詰められた原因ではなく、デスノートに月(ライト)の名前が書かれていなかったことから、怪しまれていました。 - ★「正義」と脱構築
ある人が対戦した、という言葉の意味は「正義」です。これは女子語に相当します。もっと単純に「対戦した」という言葉の意味も「正義」です。
なぜ「対戦した」という言葉が含まれれば、「正義」という意味になるのでしょう。正義は対戦した出来事を含むからでしょうか。Lは月(ライト)とたしかに戦っています。「Lが対戦した」とは正義いい、という意味です。
ファイファイファイメラ、セーセーセー、ラーラーラーガウスト、てきとうボール、メラメラメラメラメラ、ミンストキューなども、それぞれ「正義」という意味です。
ファイアミンストラッキューとは正義いい、という意味です。
ファイアロッキューとは正義いいです、という意味です。
正義いい、とはファイアという意味です。正義いいです、とはハイハイハイハイハイという意味です。正義論とはファイアロックという意味です。ファイアロックとは、ハイハイハイミストルコマンチテーターという意味です。ハイハイハイミストルコマンチテーターとは、「正義論」という意味です。これは意味の循環を示しています。
実況「月(ライト)は正義でしょうか」
月(ライト)は多少は正義感にあふれていたでしょうね。「僕は新世界の神となる」と自己回神宣言して正義感のピークに達していましたね。でも神になったつもりではあっても神ではありませんよね。新世界の神を気取っただけですから。犯罪者をどんどん裁いていくのも一理あるんですが、ナンパしようとしていた男性を試しに殺すなんて本当に正義なんでしょうか。犯罪者を殺すことは正義であるとかは、ヴィトゲンシュタインの語り得ないことについては沈黙せざるを得ないを拝借して沈黙したいと思います。 - ★文章の上達法
文章の上達法として、簡潔に書くことを心掛ける、というものがある。そしてできるだけわかりやすく、読者に読んでもらおうと意識することが重要であろう。
*まずネタ集めから始めよう
書きたい話題に関するネタ集めをしよう。本を読んでも聞き取り調査してもネタになる場合はあるであろう。
*わかりやすい言葉で書こう
難しい言葉を使わずに、読者のレベルで読んでもらえる言葉を使おう。難しい言葉だと意味が分からないという事態になるおそれがある。わかりやすい言葉で書くことは、平易な言葉を使うということでもあるであろう。読者に理解してもらうために、簡潔に書くことを目標にしよう。読者にどのように読まれるか、ここも余裕のある限り吟味する手段がある。
*読者の視点はどうか
読者に受けのイイ話題をトピックすることも考えられるであろう。読者は「どんな内容」の文章が見たいか、そこもセンスを問われているであろう。読者に「もっと読みたい!」と賞賛されるためには、日頃から文章を書いていることが挙げられる。
*「語彙力」も上げることが重要である。
様々な言葉を覚えることは、より豊かな文章を書くことにつながるであろう。語彙力は日本語だけでなく、英単語も語彙力に含まれる。英単語も勉強して英語で文章を書けるように頑張ろう。
*文章のセンス
文章のセンスは、たくさん文字に触れたり、たくさん文字を書いたりして培われます。文章のセンスとは、文章の巧みさと言いかえることができます。文章の巧みさは、自分で見つけること。一生懸命頑張って文章を書いていきましょう。 - ★クラインの壺と構造
象徴秩序における過剰なほころびは、クラインの壺(のモデル)によれば、すべてを包みこむと言っていいほど解体することができる。クラインの壺は当初から失敗したモデルと扱われていたが、私は考えさせるモデルだと主張する。
クラインの壺のモデルによると、象徴秩序の過剰分は内から解放しても、また内へと戻っていく。
この一連のサイクルの中でどのようなメリットや意味があるだろうか。
過剰分を解放するということは、第一に「突っ張る」ことである。
あの過剰分を押しのけること、これが魔除けのようになっていれば良いのだが、その過剰分は、元の地点に戻って来てしまう。
そしてまた、戻ってきた過剰分が反対方向へ逆流する。
こうした「内部\外部」の脱構築が循環的に続く。
これがクラインの壺の応用である。
戦争には勝者はいない。が、北朝鮮とアメリカが戦争を勃発するということを考えてみよう。
アメリカが大量の武装戦隊で北朝鮮を45%戦圧したとき、北朝鮮も敗けてはいない。
北朝鮮は、アメリカに核兵器で完全に対応することであろう。そこでアメリカは49パーセント滅ぶ。
そこでクラインの壺のモデルであったとおり、アメリカは北朝鮮から解放されていく。
しかし、アメリカも核兵器を使用することであろう。一度北朝鮮から離れていたアメリカだったが、
もう一度北朝鮮に向かって攻撃を仕掛けることになるであろう。これで循環が成立するであろう。
北朝鮮は大丈夫じゃない。アメリカは強い。 - ★文章の上達法その2
*文体について
敬語でも常体でも、面白く書いてみて欲しい。特に敬語でなければならないとか、常体だと変だ、という先入観を捨ててみよう。素直に言葉を紡いでいく、改行も素直に実行することが要です。
*言葉遣いについて
「私は処理を行う」、という書き方はしないこと。「私は処理をする」の方がくだけていていいことが窺える。処理という動詞と行うという動詞の連続に注意しよう。
*文章を書く目的は何か
他者に刺激を与えるためだとか、記録に残すためだとか、文を書く目的は様々だ。目的があれば、意欲的に書いていけるだろう。
*文章の構成
序破急のように、序を書いたら結論を書き、その後結論の理由を書くという構成がある。結論を肉付けしてみよう。 - ★嘘からの真は実際にあり得るか
嘘を吐いたとき、それはその地点では嘘でしょう。しかしその嘘が後で真になっているとしたら?
嘘はいつまでも嘘だ、そういう考え方もあります。メロン(食べ物)は動物だ、と言っても、それは嘘です。
メロンは動物ではありません。しかもこのメロンは動物に成ることはあり得ないでしょう。
この 命題:メロンは動物だ、を絶対嘘と呼びます。絶対に嘘だから絶対嘘です。
しかし、 命題:Aさんは40歳だ という命題はどうでしょう。
Aさんが40歳を超えている、のなら、40歳ではありません。この場合、先ほどの命題は絶対嘘です。
しかしAさんが39歳ならどうでしょう。40歳ではないので、この命題は偽です。
しかしAさんが39歳から40歳に成ったとしたら、嘘からの真であります。先ほどの命題が真になっています。
もう一例。 命題:Bさんの身長は175?だ という命題はどうでしょう。
現段階のBさんの身長が174?だとします。するとこの命題は偽となります。
しかしあとで175?に成るかもしれません。もしあとで身長が175?になったなら、嘘からの真であります。
嘘からの真はあり得るでしょう。「後で」命題が真になっている、その可能性を含めたお話でした。 - ★真からの嘘は実際にあり得るか
真である命題から始めよう。 命題:私はピーマンが嫌いだ という命題はどうでしょう。
ピーマンが嫌いなのでこの命題は真です。しかし、ピーマン嫌いを治してしまったら、ピーマンは嫌いではりません。
この場合、命題は真だったのに、嘘(偽)ということになるでしょう。真からの嘘です。
もう一例。 命題:Cさんは35歳だ という命題。現段階のCさんの年齢は35歳なら、この命題は真です。
しかし、36歳の誕生日を迎えたなら、先ほどの命題は偽ということになるでしょう。
35歳だ、と言っても後で35歳でなくなっている、そんな可能性を含めたお話でした。 - ★自分探しにおいての評論
自分とは何だろう。現代、自分探しの旅に出る者が、少なからずも居ることを補足されたい。
自分とは何か、という命題の答えを得るには、どうすればいいだろうか。
?自分とは何か知っていること
知っていることを尊重してみると、?を充たしている場合、命題の答えが出ていることに目が向くだろう。
例)わたしはトナカイの透明人間だ(と知っている)
?自分とは何かわかっていること
?を充たしている場合、命題の答えが出ていることに目が向くだろう。
例)わたしはラーメンが好きだ(とわかっている)
?自分とは何か分かっていること
例)わたしはアイスが好きだ(と分かっている)
?自分とは何か気付いていること
例)私は自分自身にとってボールがいい(と気付いている)
自分探しをしたいなら、自分を見つめる必要が出てくるだろう。そんなとき、事実を事実として掴むことが求められてくるはずなのだ。上記に載せたように、自分の特異点に気付けば、自分探しは大いに成功するであろう。 - ★自分探しにおいての評論パート2
デカルトは、「われ思うゆえにわれあり」と遺している。しかし、
われは思っているかは不確かなことだったと私は考える。
われ思うと書いてあるが、われが思うということをどうして断定できようか。
何なら説明の仕方を変えればよい。
”われが思っているとわかっている、ゆえにわれが思っていたということは事実だ”
そして、”われは前を向いていると知っている、ゆえにわれはその地点で前を向いていたことは事実だ”
現在と過去のつながりである、現在形から過去形へのシフトが、この二つの文章の特徴だ。
さて、わかっていると書いても、何を以ってわかっていると規定するのであろう。
わかったと錯覚してしまっているようでは、物事の本質は語れない。
知ったと思っても知ってない場合が往々にしてあることは補足されたい。
私の知り合いに、よく「知ったよー」という者がいたが、「嘘知り」を連発していたようだ。
「嘘知り」とは知ってないのに、知ったと考えてしまう現象であろう。
話を戻そう。デカルトは私は何かを知っているから、何かに関する出来事は確立されている、それは疑いようはない、と、説明すればどうだったのだろうか……。 - ★愛のルサンチマン
自信をなくした弱者は、強者にルサンチマンを抱く。
「強者よ、いずれ崩壊と破滅が身を襲うだろう」
強者「弱者の僻みだな。そんな言葉で惑わされるとでも」
「君は許されないうちに罵詈雑言を受けるだろう」
強者「そなたが罵詈雑言していることで、それは達成されるだろう。しかしそなたひとりの仕打ちよ」
「強者よ、いつまでも強くあれると思うな」
強者「いつまでも、か。いつまでも強くあろうではないか」
「そなたの心に傷つくことがないとは、疑わしいものよ」
強者「心など見えぬもの。傷つくこともなかろう」
「いつまでも高い立場にいられると思うな」
強者「それはどうかな。もっと高みへ向かうのだ」 - 愛のルサンチマン パート2
「それでは高みに行っても堕ちてしまえばいい」
強者「そう簡単に堕ちるはずもない」
「銃と剣がそなたを襲うがよい」
強者「銃にも剣にもやられまい」
「高所から堕ちてしまえばよい、そなたは立てぬだろう」
強者「高所にも万全を期す」
「よろければよい」
強者「よろける余地がない」
「勝てぬ勝負もあるであろう」
強者「どの勝負も全力を尽くす」
「どこかで間違えることもあるだろう」
強者「間違えることなどないと思っている」 - ★カントの認識論に対する批判
以下引用
「ヒュームのギロチン」で有名なデイヴィッド・ヒュームは、イギリス経験論を完成させた哲学者と言われている。ヒュームの立場は基本的に懐疑主義で、唯一数学のみを論証的に確実な学問と認めているが、本質的にわれわれが知識として確固たるものだと考えている、ほぼすべてを懐疑する。
これはギリシャの哲学者、セクストス・エンペイリコスの影響を受けていると言われ、例えば「ハチミツは甘い」ということを知っていても、これは単なる主観的判断に過ぎず、「ハチミツ自体」について何かを知っているということにはならない、というような考え方で、これは後にカントに大きな影響を与えることになる。
ーーーーーーー
カントはヒュームから、ミツバチは甘いと言われても、すぐに事実的な確信をしないという考え方を学んだ。
この引用からは、ハチミツは甘い、と言っても、カント自身が食べるハチミツは甘いと言えるのか?という話ができるであろう。
ミツバチが甘いと経験したから、次なるミツバチも甘いであろう、という演繹法は、経験論的な判断であり、カント自身、自らの経験論的思索から、「対象は認識に従う」というコペルニクス的転回を見出した。
しかしながら、カントの考え方も一理あるであろうが、「知っていること」を尊重することを疎かにしているように思われる。
パルメニデスは「理性が真理に到達する」と述べたが、理性的に物事の是非を知ろうとすることで、知識を得られるというのだ。 - ★知法の彼方へ~~知る方法~~
我々はなんのために知るべきなのだろう。きっと知ることを欲していただけで、分析することの重みを認識していないケースが多々あるのだろう。
新聞を購読する理由は、テレビのちゃんねるを見たいちゃんねるに回すために参考にするからであったり、社訓を勉強したりするためであろう。こうした情報収集は、「天声人語」においては為になったケースが多々あるように思われる。しかし、定期的に思索する命題を深めていくためには、新聞では事足りません。
カントの認識論では、経験論的な立場からスタートします。しかし、経験論的な立場から、認識論自体の是非はどれだけ語れるでしょうか。「認識論の後半のいくいくばは、カントによって肉付けされた」とか「認識論は認識、知識や真理の性質などを考える哲学の一部門である」とか、そういった簡単に調べられる内容は簡単に語れてしまいます。
しかしながら、私はネット上に載っていない「認識論は凄くない」とか「認識論は四名考えた」とか、そういう事柄を知っています。これは経験論的な立場から考えても出てこない内容だと思います。
「認識論はダメじゃないと知っている」
「認識論は難しくないと知っている」
「認識論は哲学じゃないと知っている」
「認識論は悪くないと知っている」
6個知っているのが出てきました。
もしカントが「認識論って哲学ですか?」ときかれたらどう返答するでしょうか。「哲学だと広まりそうだから哲学かな?」と思うでしょうか。
私がそうきかれたらきっぱり、「認識論は哲学じゃないと知っている」と返答するでしょう。カントのように余計に社会情勢を考えずに、知っていることを教えてあげれば華となるのです。
ですからカントの経験論的な立場に基づくよりも、知法(知る方法)を身につければ幸いです。 - ★やっぱり見た目が9割は本当か
人は見た目が9割という本が昔ありました。人は見た目に大きく左右されるということであり、人の判断は見た目によって齎されるという意見でしょう。
私たちは人と関わるとき、相手の声にも影響されます。身振り手振りにも判断を左右されることもあります。
「あっちに行って」と人差し指を立てて言われるとその方向へ身体が向くということがあるかと思います。敬礼!と言ってもらえると嬉しくなりますが、これは敬礼のポーズをちゃんとしているからでしょう。
声や身振り手振りは、非言語コミュニケーションという概念に含意されています。やっぱり見た目が9割という本には言語より非言語の方が相手に重くされるという風に書かれています。表情もその非言語のうちのひとつです。私たちはネットでは表情も見られず、そしてまた、声もキャッチできないことが多々あります。こうした限定的な掲示板においては、ノンバーバルが上手くいきません。
人は見た目が9割とは、見た目なので服装も含みます。服装によっては裕福だな、などと太鼓判を押されるケースもあります。財布が高級感がありすぎてもお金持ちだな、と思われる場合があります。
お金持ちだと思われるために見た目があるわけではありません。本当に見た目が9割でいいのでしょうか。言語が5割だと私は考えます。 - ★やっぱり見た目が9割は本当か
日常の会話は言語を媒介とします。会話の内容の面白さを考えると、私たちは「楽しい!面白い」と考える話があると判断してしまいます。
しかし日常の会話は非言語である声質や抑揚を含めて考えてみることもできます。「愛してる」という言語で発言してみても、声質によっては響き方に差異があることでしょう。「愛してる」と伝えたいときには、声質や抑揚も大事になってくるのです。
やっぱり見た目が9割という説は未だに論破されていません。ノンバーバル/非言語コミュニケーションは、それほど重要だということでしょう。「人は相手を0.5秒で判断している」とも書かれています。人は見た目が9割とは、本当のような気がします。
第一印象で人は判断するらしい。しかしこの本は、美人であればいいという風には書かれていない。美人でもイケメンでも大変なことは根に持っていたり経験したりするものだ。美人でなければ、見た目がよくないからダメ、ということは書かれていない。私たちが意外にも見た目に頼っていたことを振り返ることのできそうな本であろう。 - ★ドラゴンを考える
ドラゴンとは何か。ドラゴンボールは有名な物語だということは、深く認知されているであろう。かめはめ波を撃てる主人公が、七つのドラゴンボールを集めようとして物語は展開される。
シェンロンというドラゴンは主人公がドラゴンボールを七つ集めると、願い事を叶えてくれる……。
ドラゴンボールに登場するシェンロンはレベルが高いと思われる。願い事を叶えてくれる頼もしい存在であろう。しかしながら、現実世界に存在するドラゴンはどうか。人の姿をしたドラゴンも現実には存在する。というより、ドラゴンボールに登場する巨大なドラゴンのようなドラゴンは現実には存在していないであろう。現実のドラゴンの頭脳力は高いが、ドラゴンだと知られるのをおそれているであろう。
ドラゴンは背が高く、野球が上手い。
ドラゴンは「ファイ・ザーニクロ」という意味である。 - ★やっぱり見た目が9割は本当かパート3
見た目で何が察せるでしょうか。背が低ければか弱い、背が高ければ強そうだ、など見た目が影響を及ぼすことは多々あるでしょう。
メガネをかけていれば知的に映ります。かっこいい洋服を見せるとイケてるように見えます。
やっぱり見た目が5割は影響を与えていることでしょう。太陽の塔は人々に自由と希望を与えました。
そして将棋のプロ棋士である羽生善治さん、冬のソナタでしられるヨン様は、どちらもイケてる人気者となっています。藤井聡太さんも、見た目がよくて人気者となっています。(これでは失礼かな(汗))
モナ・リザという絵画も、見た目が素晴らしく描けています。この絵画は上手く描けすぎたため、人気を博しています。
言語が影響を与えるよりも前に、非言語が影響を与えるところが大きいのです。 - ★可能性の美学
ロシアとウクライナが戦争するなら、可能性があるのは戦争においてであろう。
未来を有望と言われプロ棋士になると予言されているなら、その方はプロ棋士になる可能性があるのである。
可能性とは「プラズマ」という意味である。
朝起きてしまうなら、朝起きてしまう可能性があるのである。
マーフィーの法則によると、可能性があることは現実化する、という説明がなされるであろう。永久に生きる可能性があるなら永久に生きるのである。
可能性があることは起きる、とも言い換えられよう。私たちは戦争を放棄し、平和な世界を追い求めなければなりません。私たちは皆で平和を実現する可能性があると信じてよりよい世界へと進んでいくことを忘れてはなりません。
車に乗っているなら、東京へ行ける可能性がある、という例ではいかがでしょう。車に乗っているなら、とありますが、東京へ行ける感じもなくもありません。車に乗っているなら、東京へ行ける可能性があるというのは、少し難しいようになってはいませんか。 - ★日蓮宗の日蓮さん
日蓮宗を築いた日蓮さんは、あらゆる仏典を学び、その上で法華経しか救いの道はない、と結論付けました。
脳死は人の死、という意見に疑問を感じる日蓮さん。余談ですが、脳死は透明人間の死の場合がある、という可能性があると思います。
日蓮さんはいったいどれだけ生きたでしょうか。それは、9999京年という長い期間でした。ということは、宇宙が始まって138億年経ったとは、間違いではないのでしょうか。宇宙が始まって63亥も経っていると私は考えます。 - ★ケースバイケースに関する事柄
チェスの大会で勝って喜んでも、相手が不幸になることを鑑みると勝って正解というものではないという事態があるであろう。チェスの大会で優勝してもムカつかれて殺生されることも必ずしもないとは言えないであろう。
近頃チェスの大会で毒殺を計る女性がいたんですが、ああいう風に殺してでも上にいこうとするセーブのきかない理性が危ういのであろう。彼女は逮捕されてしまったが、毒殺できずに済んでしまったようだ。
お金持ちの不幸者や、お金のない幸福者、など一例をあげてみたい。
お金持ちなのに不幸で悩んでいるより、お金がないけど幸福である方がマシだ、とは言えるであろうか。幸福者には決まって何らかの法則性が絡んでくるのだと私は考える。大丈夫だという一点が幸福者になるために必要性のある事柄なのだと思う。すぐに喜ぶ様な、そんな健気さのある性格だとか、人生が上手いだとか、そういった内容を持ち合わせた存在が幸福者なのでしょう。 - ★ケースバイケースに関する事柄
疾病は人類を危機にさらしてきたと言っても過言ではない。
エイズに感染すると、免疫系を破壊し、そうすることで患者を他の病気にさらす。エイズ患者の命を実際に奪うのは、こうした感染した二次疾患なのだ。(ホモ・デウス p21)
私たちはエイズを性交の危機であると解釈するかもしれない。性交をするとエイズに罹って苦しくなりますよ、という訳だからだ。エイズは一見、罹らない方がいいな、と思えるであろう。しかしエイズは二次疾患をもたらすため、ただのひとつだけの疾患とは限らない。私たちはエイズに感染しないように注意しなければならない。性交が快楽だからやってもいいという訳にはいかない。性交をしないように私たちは気を配らなくてはならない。快楽イコール行動に移す、という構造を描いてはまずいなら、最初から行動に移さないようにしなければならない。
私たちはウイルスに感染しないように気を付けなくてはならない。手洗い、うがいなど、甘んじないで感染予防を心掛けていかなければならない。 - ★戦争と向き合う
戦争は私たちにどのような影響を及ぼしたか。戦争の悲惨というものは、二度と繰り返してはならないと、私たちは知っている。
私たちが惨禍に巻き込まれることのないように、そして誰も殺害されることのないように、私たちは平和を追求しなくてはならない。昔の「平和」は戦争がない状態という意味で使われていた。これは将来、戦争が起きないということではなかった。
しかしながら昨今の「平和」は戦争に巻き込まれることのない、将来も安定しているという意味で使われている。(ホモ・デウスという本の文章を言い換えてみた)
私たちは、最大多数の最大幸福を目指す前に、何らかのリスクを減らすことも学ぶべきであろう。戦争の中で店をオープンするより、戦争のリスクを減らすことが優先される課題であろう。戦争中にお店を開いても攻撃されるリスクは当然揺るがない。戦争兵をひとりでも多く減らすという手段もあれば、アメリカに戦争を中止するように訴えかけるという手段もある。私たちはひとりでも多く助かるようにどこかへ逃走するためよ方法も吟味することもあるであろう。浅田彰氏の「逃走論」を踏まえれば、戦争から逃走することは何ら恥ずかしいことではない。むしろ戦争から遠ざかることを鑑みる者は優秀な予感がする。私たちはひとりでも多くの犠牲者を出さないように、逃げて、逃げて、逃げて── - ★戦争と向き合うパート2
戦争とは平和を崩壊させる可能性のある惨禍であろう。私たちはこのような事態を断じて認めてはならない。戦争には断固反対すべきであろう。昨今パレスチナでアメリカと戦争が激しく行われている。どうすれば救いの道が開けるだろうか。それは、パレスチナの市民がどのような人々なのか、から遡及してみたい。
パレスチナに住む人々の多くはうんこさんである。うんこさんは、食べなくても生きていけるから、食料は必要としない。うんこさんは、右腕を無くしたとしても、うんこで出来ていたため、なんてことはない。うんこさんは戦争には強い生命体なのである。貧しくても食料は必要としないため、日本人より暮らしやすい、といった一面も考えられる。しかしながら家というものを無くした難民は、日本人より暮らしやすくはない場合があるであろう。うんこさんは強いと評判であるが、アメリカがミサイルで打っても生き残れる自信がある。しかも自身の体にミサイルを投入しているうんこさんもいる。ミサイルという重いものを体内に宿すのだから、動きづらい可能性がある。うんこさんは動きづらくても頑張って暮らしている。うんこさんは戦争で苦しんでいるように見えて本当は苦しくないのではないか、そういったものがよぎるときがある。しかし難民という戦争被害者が存在することは確かだ。戦争被害者にうんこさんは巻き込まれる場合があるのだが、ひょうひょうとしているうんこさんは四割いると聞く。ということはうんこさんの難民は六割に上る。6千万人がうんこさんの難民なのだ。 - ★ヴィトゲンシュタインの論考
ヴィトゲンシュタインは、
世界は事実の総体 であると述べました。
世界を理解するためには言語を理解する必要がある、と述べました。
そこで、言語を理解するためには日常言語を理解するべきです。
Q.灯油を入れますか?
A.結構です(はい)
Q.温めますか?
A.結構です(いいえ)
同じ言葉であるとはいえ、ニュアンスが異なる例である。最初の「結構です」という言葉は肯定であり、次の「結構です」という言葉は否定であります。
「結構です」という言葉はその使用される場所で、ニュアンスが異なるので、これは日常言語ということになります。
そして、「結構です」という言葉の女子語は、ヴィトゲンシュタインいいヴィトゲンシュタインいいヴィトゲンシュタインヴィトゲンシュタインいいという意味を含みます(最初の方は省略)。ヴィトゲンシュタインの拠り所は「結構です」という言葉だけだったそうです。私はある日ヴィトゲンシュタインの生まれ変わりと出会いました。そのとき彼から「結構ですと言ってくれ」と頼まれました。また、「結構ですの意味知ってるか」と訊かれました。 - ★ヴィトゲンシュタインの論考パート2
世界は事実の総体である、とする考え方を考えてみたい。
ネコがにゃ~と鳴き、コケコッコーと鶏が鳴く。こうしたひとつひとつの事実が総体となると、世界と呼ばれるものになるのであろう。小さな事実も大きな事実もそれらすべてを含めば世界そのものとなるのであろう。この世界の事象は何個あるか、など、考えるのに困るお話も展開できよう。世界の事象は今何個まであったか、未来永劫を考慮すれば無限に事象は考えられる。私は事象が何個あったか答えることはできない。ただ、砂埃を舞うケースを含むとすれば、無限に近しい数値が懸念されるとは考える。
世界は、成立している事柄の総体である。
こうとも言われています。成立している事柄、とは、テレパシーで話しかけたり、フライパンでヒックリ返したという事柄を含みます。事実は成立している事柄とも言いかえられるのです。世界そのものは宇宙とも言いかえられる場合があります。宇宙は大宇宙と称する場合も世界にはありました。そして小宇宙という概念も考える場合が世界にはありました。
世界にはありました、とはどのようなセンスのある言葉なのでしょう。世界にはありました、とは事象の肯定であります。そして、世界の広い範囲で起こり得る事象を述べる際に「世界にはありました」と表現するのです。世界にはたくさんのうんこさんがいます、という風にも「世界には」という言葉は遣えます。もう一例。世界には戦争が繰り返されている、という言葉も、広い表現に考えられます。戦争は世界中で起きているわけではないと、考えられるが、世界のどこかで戦争が起きているという感じの表現であります。これももう一例。世界では戦争が起きています、という言葉。日本で聞くと、外国で起きた戦争のことかと思われますが、この国では戦争が起きている、とパレスチナで表現するのとは違いますね。♥ - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート8
愚者は自身の経験から学ぶ例を挙げてみよう。「ティッシュを無駄に使ったことから、節約して使おうと学ぶ」
第二例。「そばの汁を服に零してしまって、慎重になった」
第三例。「チャンネルの場所を間違えて押して、今度は間違えないように気を付けた」
第四例。「傘を差さずに外へ出たら雨が降っていて濡れたから、今度雨が降ったら傘を差す」
こうした例は、愚者も経験して学べるはずであろう。しかし他の例も挙げてみたい。
例。「父と母が口論になっているのを見た」
子は、父と母の口論を止めたいと思うかもしれないが、愚者はここから学べないであろう。
愚者はここから学ぶといっても、父と母はお互いに許し合えていない、など、微々たるものだ。
賢人は、「他の家族も口論があるのだろうか」「私の家族だけが口論するのだろうか」と考える。
そして、賢人は、「母に文句を言ってはならないな」「父の意見も尊重しよう」となる。
愚者は、賢人より考えるのがむつかしいのだ。口論している父も母も、口論から抜け出す術をしらない。
口論している父も母も、どちらも愚者の場合は、子が仲介してみると、口論を止めてくれる可能性があるであろう。 - ★ウィトゲンシュタインの論考パート3
言葉の意味が日常で差異性を有する諸処の命題論を私たちは考慮していきたい。
リンゴが五つある、と言っても、どこに五つあるかは日常として差異があるであろう。リンゴ業者がテントでリンゴが五つある、というのに対し、一般人が店舗にリンゴが五つある、というは別途問題だ。ましてや一般人の家にリンゴが五つある、という事実があるのなら、日常で差異性が生まれていると言えよう。リンゴが五つある、というのは、与謝野晶子いい、という意味があることから、リンゴが五つある、という発言は、与謝野晶子氏への賛美としても受け入れられることであろう。
私たちは与謝野晶子氏を考えることはまずないであろう。与謝野晶子氏の応援メッセージである「君死にたまふことなかれ」とは、どのような意味で書いたのだろう。「君よ、死なないでくれ」という意味であろうか。このメッセージの意味は、「ライライライライライ君よ」という意味である。本当は死んでほしくなかった、と彼女は思っている。このことから、与謝野晶子氏は演技をして詩を書いていたことが窺えるでたろう。少し豪語して、死にたまふことなかれ、と書いたのだ。そしてまた、「少し豪語」という言葉の意味は「ファイファイファイファイファイウィトゲンシュタインいい」という意味である。ウィトゲンシュタインは女子語に注意していたことであろう。女子語も言語の意味として大いに普及していることは、少なからず考慮していたことでろう。「大いに普及」という言葉の意味は、「ウィトゲンシュタインいい」という意味である。こうした事情をウィトゲンシュタインは気付いていたことであろう。女子語も世界の言語の一部として語られることは、非常に興味深いことでもある。私たちは女子語に注意して日常言語を通した会話を思いやって暮らしていきたい。 - ★ファイアーネスと女子語巡り
ファイアーネスという言葉の意味は、「(中略)ネス完璧ネス完璧ネス完璧ネス完璧……」と続く。
ファイアーネクロフェイスという言葉の意味は、「ファイファイファイファイケーケーケーケーケーケーケーケーケーケー」と続く。
ネス完璧という言葉の意味は、「ファイファイファイファイファーイファイ」である。
ケーケーケーという言葉の意味は、「ファイファイファイファイファイ」である。
ケーケーという言葉の意味も同じく、「ファイファイファイファイファイ」という意味である。
ケーという言葉の意味は、「ファイ」である。
ファイファイファイファイファイという言葉の意味は、「ランランランランラン ランランランランラン ランランランランラン エズエズエズエズエズ」という風に続く。
エズエズエズエズエズという言葉の意味は、「ファイファイファイファイファイ」である。
ランランランランランという言葉の意味は、「ライライライライライ」である。
ライライライライライという言葉の意味は、「ファイファイファイファイ」である。
他にも、「フェイ」、「フェン」、「ファイア」、「ファイアー」、「ファン」、という手掛かりを書いておこう。 - ★初めての始まり、そして、二度目の始まり
初めてつわりが始まり、吐き気がすることがあるらしい。そして、二度目のつわりが始まり、吐き気がすることがあるであろう。
このように初めての始まりと二度目の始まりというカテゴリーは現実として巻き通っていることが考えられる。
初めての恋、二度目の恋は、前者は初めての恋の始まり、後者は二度目の恋の始まり、という風に言いかえられるであろう。
初めて戦争が始まり、そして、二度目の戦争が始まり、という風に、各国で戦争は長期化している場面が考えられる。 - ★論壇
世の中、生きてると金が欲しいって言うし、欲しくなることもあるよね。それって当たり前のことであって、何ら恥ずかしくないと思うんだ。金を泥棒されても、ああ、あの泥棒は金が一番大事だと思ってるんだって考えるよね。
最近の若者は愛を口にしない傾向があると言われると僕は思う。愛があっても金の切れ目が縁の切れ目なんだよ。でも金だけじゃ寂しくなることは間違いないよね。愛を育めとは言わないよ。でも愛する余裕くらいあって当たり前であって欲しいんだ。いわゆる愛の絆ってやつ。そういうものを世界に広げていく、そういうことが大切なんだ。あの泥棒に愛してるくらい言ってやれる仮のイエス・キリストも隣人愛が深いよね。もういっそのこと人類愛に昇華してほしいよね。以上だよ。 - ★「愚者は経験から学び、賢人は歴史から学ぶ」は本当かパート9
愚者は危機感が薄い可能性があるであろう。運転しているときも、常に危機感と隣り合わせであった方がいいと聞く。
運転が下手であるなら、運転が上手くなるように努力した方がいいであろう。
運転が上手くても、危機感を持って運転した方がいい。「どれだけスピードを出しても大丈夫」と油断してはならない。
スピードは適切なスピード、あるいはベストなスピードを出せばよい。
ブレーキの重要性を考慮した方がいいであろう。ブレーキが大事だと気を引き締めないなら、運転はしない方がいい。
ガソリン代がかかると、リスクを考えないなら、甘いのではないだろうか。
しかし、ほりえ氏の、「バカはリスクを考えないから、大胆に行動し、結果的に大きく成功することがある」
という発言が光る。リスクを顧みずに大胆に行動する、それは坂本龍馬もそうでったことであろう。
坂本龍馬は天才でもないが、勇気が一番あったのである。坂本龍馬には感謝したい。 - ★ウィトゲンシュタインの論考パート4
ゴキブリと聞いてあなたはどう捉えるだろうか。ゴキブリホイホイで捕獲されるゴキブリ、と思った方、普通はその判断でいい。しかしながら、私の知り合いに、ゴキブリという「名の」人間がいることを補足したい。人間なのに「ゴキブリという名」をつけられたのである。しかも彼女は女性である。毎日名前のトラブルに遭っていたと述懐している。
他者は彼女を人間なのに「ゴキブリ」だと理解してしまうケースが多々あった。ゴキブリと理解したからゴキブリだ!と言ってみると、「実は人間なんです。」と言われて論破されたと思う方もいた。「何だよゴキブリという名を産まれた日につけられたのかよ、だからゴキブリと理解するんだ、仕掛けが分かった!」と理解したきっかけを掴む方もいた。
ゴキブリという娘がいる、と聞いて違和感を抱く方もいるであろう。しかし彼女は人間であるから、誰か(人間)の子どもとして産まれたことは窺える。産まれた日に「ゴキブリ」という名をつけられたことを彼女は悔やんでいない。ゴキブリっていいじゃねーか、と思っているらしい。ゴキブリって言葉がいい、と思っているらしい。それは何の問題もない。自分の名くらい、誇りに持ちたいであろう。私もゴキブリがいいな、と思っているときもあるかもしれない。彼女を心配して見守ってみたいかもしれない。彼女を支えたいかもしれない。
さて、ゴキブリという言葉のニュアンスの差異性が複数あることが窺えただろうか。彼女をゴキブリと呼称するという日常言語を解明し、この世界を理解されたい。 - ★ウィトゲンシュタインの論考パート5
「語り得ないことについては沈黙しなければならない」と彼は述べている。
語り得ないと言われるであろう「魂」の問題も、私たちは沈黙するしかない。
たとえ自分なりに「魂に関する発想」が来ても、ウィトゲンシュタインは「まだ語れないところもある」と、説明をナンセンスなものとするであろう。そして「魂」に関する事柄を示しただけであり、実質的に事実を語っているとは言えない、と反駁するであろう。例を紹介したい。
ソフィスト「魂とは霊魂である」
ウィト「それは辞書の意味を示したにすぎない」
ソフィスト「魂とは永遠に存在する」
ウィト「それは誰にも分かっていない」
ソフィスト「魂は肉体に宿る」
ウィト「その程度の言説はナンセンスだ」
こうなってはソフィストの言説は面白くないものとなる。そこで、反省したソフィストを最後に紹介したい。
ソフィスト「魂については沈黙しなければならない、のですね」
ウィト「そう、あなたには語り得ないのだから」 - ★論壇パート2
よく勝つのは誰かを不幸にするという。今年の甲子園野球は、敗北したチームや応援団を不幸にした。しかし優秀な京都国際は初めて優勝し、幸福と誇りと喜びに溢れた。京都国際は決勝戦で、延長10回にフォアボールで2点追加。延長10回裏の関東第一は、1点しか得点を決めることができず、2対1で、勝敗は決した。関東第一のメンバーは相当悔しかったに違いない。優勝と準優勝では重みが違う可能性もあるであろう。私は関東第一に勝ってほしかったのは補足したい。関東第一は来年、粘って優勝してほしい。かくいう私は試合の結果を少し残念だったと思っている。敗けるということは誰かを不幸にすること、だから勝って幸せを齎すのが大事と、私たちは安易に考えるかもしれない。勝てばいい、とはどういう天秤に則ったことなのだろう。勝ちたいから勝っていい、とは言い切れないはずだ。勝っていいから勝っていい、という現実を生きるなら、勝つことはアリであろう。優勝して良かったのは京都国際であるから、京都国際は勝って良かったのである。これも少し考えれば出る結論であろう。京都国際、おめでとう。 - ★「同じ」という概念に関する論題
よく「同じ」に関する話題が社会で見受けられる。そこでは「同じは無い」という考え方が分散している。
*同じ、は無いと発言する理由
→素粒子の差があらゆるところであるであろうから
というのも、この「コーライル」というデュエルマスターズのカードを私が持っているとする。しかし他者の持っている「コーライル」というカードと同じ素粒子で成り立っているわけがない、ゆえに「同じコーライルのカードは無い」という考え方がある。
→あの「虹🌈」と同じ色が他の虹にもあるとは言えないであろうから
→「Aという名の本」と「Aという名の本」と、同じタイトルだと言えよう。しかしながら「Aという名の本」とその同じタイトルの本は素粒子が同じじゃない。ゆえに、「同じ本は無い」。
しかしながら、同じ名前というものは存在する。そして、同じ意見も存在する。何かと他の何かは同じだ、ということはあり得ることなのである。
例)あの人がいて良かった(Aさんの意見)
例)あの人がいて良かった(Bさんの意見)
同じ意見というものは存在するということが窺えるでしょうか。 - ★「同じ」という概念に関する論題パート2
同じカードというものは無い、ということから、物的存在はすべて同じものは無い、と言えるか。
たぶん、物的存在はすべて同じものを有しない。あらゆる物的存在は素粒子でてきており、そのどれもが同じ構成であるとは限らないであろう。しかしながら、素粒子Aと素粒子Bは、同じ場合があるのではないか、と直観で考えられる。というのも、どこかの素粒子と他にあるどこかの素粒子は、同じ場合があると直観するからである。この直観は、ミジンコには当てはまらないかもしれない。ミジンコAの体内すべてとミジンコBの体内すべてが同じわけがない、と直観で考えられる。
素粒子と素粒子が同じ場合があると、私は信じたいし、事実であって欲しい。素粒子の中のさらに極微の粒子という小さな粒子を掘り下げていけば、この「小さな粒子」と他にある「小さな粒子」は同じだった!という発見もあるかもしれない。粒子が同じであることは、語られてはいないのかもしれないが、私は粒子が同じという説を肯定したい。
原子と他の原子は同じ場合が少ないように思える。蛇口を開けて出した「水」と、また蛇口を閉めて、そしてまた蛇口を開けて出した「水」は、どう語られようか。「この二つの水は同じ「水」である」と、断言できようか。水の構成粒子に何かしら違いがあるとは窺えるだろうか。私は、「同じ水」というものは無い、そう考えている。 - ★かみなり、そして、かがみ
雷(かみなり)という発音の言葉として、神鳴り、神成り、という言葉がある。雷は人々に怖れられていた対象であった。「ゴロゴロゴロ~」と爆音を響かせていた雷は、鏡に映っていてもなお恐怖の対象だった。
鏡(かがみ)の我を抜くと、神(かみ)であることが窺える。我をも忘れて没頭するさま、そんなときに神(かみ)は訪れ、神現象を齎してくれる、とも考えられる。
哲学者カントは、毎日同じ時刻にきちっとした生活習慣をプランしていた。
カントは一番真面目だったことから、天啓を授かる可能性があったのではないだろうか。神はきちっとした生活をする者に天啓を託すのではないだろうか。毎日同じ時刻に散歩することは、神に好感を持たれるということでもあったのではないだろうか。 - ★ポジティブシンキング
*ポジティブな方たちに囲まれて過ごす
ポジティブな方たちに囲まれて過ごすと、ポジティブを分け合えることが考えられる。逆に、ポジティブではない方たちと過ごすのは、ネガティブエネルギーがこちらに移るかもしれないので、付き合わない方がいいことが考えられる。
*ポジティブなことを思い出す
私は寝床にいるシーンを思い出し、憂鬱な気分になってしまいました。若い頃はもっと努力をしておけば……と、考えるときが誰しもあるかと思います。その無駄な時間と思える時間を肯定し得ていないから、ネガティブになっているのです。私は将棋を指してくれた村越くんにの△後手3一歩を思い出すと、誇りに思えるときがあります。穴熊囲いの真骨頂と言えるでしょう。
*ネガティブなことを言わない
ネガティブなことを言わないで過ごしていると、自己肯定感が溢れてくる場合があります。周囲の方たちにも、ネガティブなことを言わない方だと思われて、尊重される場合があります。 - ★女子語の生成過程
フェイは、「ラッキー」という意味がある。
フェイフェイは、「楽園、という意味がある」という意味がある。
フェイフェイフェイは、「ランランランランカシ」という意味がある。
フェイフェイフェイフェイは、「雷という意味があるんです」という意味がある。
フェイ×5、ハイライライライライライライライライマシキック
フェイ×6、ラトニョトラーヌラトニョトラーヌです
フェン、ライですです
フェン×2、ライトニングサーバーネス
フェン×3、ガイコツ - ★コメンテーター爆破
コメンテーター爆破とは、「ブサイクにすること」という意味がある。
コメンテーター爆破2とは、「ライトニング的に氏ね」という意味がある。
コメンテーター爆破3とは、「ライトニング的に氏ね馬ー破」という意味がある。
コメンテーター爆破4とは、「ライトニング的に氏ね馬ー破II」という意味がある。
コメンテーター爆破5とは、「ライトニング的に氏ね馬ー破Ⅲ」という意味がある。
この様に、言葉に数字をプラスして考えてみると別の意味を見出だせることに気付く。
例)
「コメンテーター爆破されたくねえなあ」
「どうして?」
「ブサイクにすることだから」
「じゃあ率直にブサイクにされたくねえなあと言えや」
「意味知ってるんやないんか」
「知ってるわけじゃないねん、女子語で語るなや」 - ★デュエルマスターズ
デュエルマスターズというカードゲームにおいて、私は「ロードリエス」というカードを使っている。このブロッカーを持つ「ロードリエス」は、場にブロッカーを持つクリーチャーを出すと、1枚カードを引くことができる。という効果を持つ。そしてシュビルパンチというブロッカーを出して、1枚引くという展開を狙っている。
また、ロードリエスを2体立てると2枚引くこともできるであろう。ロードリエスはエンジェル・コマンドを持つクリーチャーであるから、「聖霊王アルカディアス」というエンジェル・コマンドの上に進化することも考えられる。しかしながら、聖霊王アルカディアスは現環境では使われておらず、他のカードに頼って構築されるのであろう。
ブロッカーを持ついいクリーチャーが発売される度に、ロードリエスの価値が上がることもあるであろう。というのも、ロードリエスはブロッカーと相性がいいからである。水と光の多色ではあるが、1枚引くことが大事なのであろう。 - ★価値観と無価値観
優しい性格が好き、という価値観を現存在の存在には内心思うところがあるであろう。カントの毎日同じ時刻に散歩をするという道徳律が好きだ、という価値観も考えられる。
そしてカードゲームの水文明が好き、という価値観もある。水文明が好きだからこそ、水文明のカードを使うということも理にかなっているであろう。
理にかなっている とは、「好きなカードを使う」という意味がある。
恋人ができた方がいい、という価値観もあるであろう。結婚した方がいい、という価値観もある。その価値観を大切にしたければ、努力していくことが大事である。そして、価値観を広めていくことが大事だ。他の人にも価値観を教えてあげることで、その価値観を分かってもらえるであろう。
価値観の違いに芽生えたときは、価値観が違うとひとつ知ったときだ。感謝で乗り越えてゆこう。
感謝が一番大事、とイエス・キリストは言っている。イエス・キリストは復活するとは、どういう内容なのだろう。 - ★否定性の運動パート5
字が下手であると否定し、字が下手であるから上手く字を書こうと、字が下手であることを否定することで、結局字が上手く書けることを誇りに持つ、という肯定が、あるいはそういった弁証法が、生活している中で身につけて欲しい、と私は思う。
字が上手く書くことに自信を持つことは、字が下手であったからこその賜物だ、と考えられる。私たちは何かしら欠点があるのであり、端的に言えばその欠点を否定することで、前へ進むことを欲するのであろう。
私たちは、何故欠点を抱えるのだろうか。卓球の初心者は、卓球が得意ではなく、そして、脚が遅い赤ちゃんは、走るのを苦難とする。こうした努力不足による克服し得ない欠点は、努力すれば解決し得る可能性がある。
ただ、目が悪いという欠点は、努力不足によるものではないであろう。生まれつき視力が低い方は、それ以上の視力を身に付けられない場合がある。
そういうどう考えても克服し得ない欠点は、克服し得ないゆえに対策は難しく、いい家に住みたいという欲求は、お金を必要とするが、対策は練られることであろう。 - まんすぷすれ
- ★権威トレンド
以下引用)
(「権威トレンド」とは、相手に「この人の言うことなら聞こう」という状態にさせること、すなわち相手にこちら側の「権威」を感じさせることです。)
権威トレンドが聞き手に感じさせることで、その話を聞きたくなるということが考えられます。
話が下手な人がいい話をする、そんなことより、話が上手な人が微妙な話をすることを重視してしまうと思います。
最初から聞き手が話し手に抱いていた権威トレンドにより、聞きたいか聞きたくないかは決まってしまうのです。
面白い人が好き、というのは権威トレンドから来ています。面白いという特徴は、恋愛に役に立つ場合があるかもしれません。
権威トレンドをどうするか。それは自分を磨かなくてはなりません。
努力して、勉強して、本も読んで、たくさん話を聞いて、自分が相手に面白いと思ってもらえるように頑張ることが極めて大切です。
権威トレンドを有効に使える人は周囲にいるでしょうか。そんな人からも学ぶことが極めて大切です。
あなたはあなたのまま、あるがままも大切です。あるがままに、なすがままに。
真似したくないなら、真似しない。オリジナルが大事だと言い張って。 - ★シラケつつノリ、ノリつつシラケる
浅田彰氏の『構造と力』に、「シラケつつノリ」という言葉が出てきます。
学生時代は、校内の放課後はシラケ、シラケつつ、文化祭ではノリます。
そして、ノリつつシラケます。校内の緩急はこうして確立されます。
「ノリつつシラケる」という言葉もあるとおり、はしゃいでもどこかでは分散するという例も考えられます。
浅田彰氏は、大学でいかに学ぶか、思索していたと見受けられますが、
大学でいかに学ぶか、という言葉は「浅田彰完璧いい」という意味があります。
ロジックも考えたはずですが、ロジックという言葉は「浅田彰いい」という意味があります。
大学で叫んではしゃいだりして、楽しいロックバンドを描いたらどうでしょう。
大学でいかに(生活を工夫して)学ぶか、という考え方も、実になるかもしれません。
かくいうロックバンドはどこかで衰退し、シラケる、ということも考えられます。
しかしロックバンドは楽しかったに違いありません。そんなひと時にワインでも飲んでみたいものです。
ロックバンドは楽しいというロジックという言葉の意味は、「浅田彰神」という意味です。
ロジックはグンメツはロジックはグンメツという言葉の意味は、「浅田彰神」という意味です。
ロジックはグンメツロジックはグンメツという言葉の意味は、「浅田彰いい」という意味です。 - ★君たちはどう生きるか?パート4
何をして生きるか。これが大事であろう。麻雀や将棋を学んだり、英語を習ったり、趣味はいろいろもつというのはどうか。無理して麻雀はやらなくてもいい。詰み将棋を解くという実践も考えられる。囲碁も無理してやらなくていいから、多芸は危険であるかもしれない。麻雀もルールがあるので、乱闘にならないようにやりたい。すなわちトラブルにならないようにやればいい。トラブルに遭わないと信じて対戦した方が身の為であろう。
大丈夫、と信じて生きることも大事であろう。こういう守り方を信じて実践しよう。トラブルに遭わない、と信じてみることは、為になるかもしれない。 - ★クリエイタースピリットとは何か?
仕事を通してどのような精神であるべきか、そんなことを考えさせる本書。
写真家は顔もヌードとして扱う精神を持っているであろう。
競歩で稼ぐ者も、自分が世界一足が速いと信じている場合がある。
イエスキリストのようになりたいと、平和活動をする者もいるかもしれない。
マジックが完璧であるために、マジックを練習する者もいる。
クリエイタースピリットという概念は、全力で描いていって欲しい概念だ。
クリエイターとは、「救世主」という意味がある。スピリットとは、「霊」という意味がある。 - ★コオロギに関する言葉~透明人間と不眠~
殺す(コロス)、コオロス、コオラス、終わらす(オワラス)、という煽り用語がある。
コオロギの透明人間も存在するが、睡眠をしないらしい。
彼らにとって睡眠は全く関係のない事象なのであろう。
しかしながら、彼ら(かれら)とひとくくりにできる存在のパターンを無限糾弾していこうとする試みがこの際顕になることは、補足されたい。
ゴキブリは睡眠と関係のある生命体である。トナカイも睡眠をする。この両者は髪が生える傾向にある。
岩や石は睡眠をしない。睡眠をする能力に明らかに欠けている。
鎧(よろい)もイノシシの透明人間も睡眠をしない。そして闇も光も風も睡眠をしないと結論している。
ロバは眠ってもロバの透明人間は眠らない。マッチ棒の透明人間は眠るはずだ。マッチ棒は眠ることはないが、それも棒が眠る訳が無いからであろう。
カバは眠るが、カバの透明人間は眠らない。ワニとワニの透明人間は眠らない。
こうして眠らない生命体もいることは、勉強になるのなら幸いである。特段眠らないからダメというわけではない。しかしながらある程度睡眠時間を確保することは、学校の成績に影響を与えるであろう。適度に睡眠し、適度に笑いながら楽しむことが、人生を決めるはずだ。
コオロギにとって一生は人生とはイコール関係には思いたくないかもしれない。
人生という漢字は(人+生)で構成されており、人間染みた感じがする。人間の一生が人生であることも懸念されている。
私たちは様々な多様性の中で進んでいくが、様々な生命体を恵んでいきたい。コオロギが昆虫だからといって排除してはならない。コオロギもまた誰かを救う可能性があるかもしれない。お互いに認め合い、助け合っていきたいものです。 - ★正しさとは何かパート3
将棋には最善手という概念がある。最善手という言葉は、「一番いい手」、という意味がある。これは正しい一手なのではないだろうか。その正しい一手を打つために将棋を勉強する、ということも考えられる。
今回の政治における総選挙で、石破茂さんが出馬することとなった。この方は、非常に真面目であり、人格も素晴らしい。この方が内閣総理大臣に選ばれることを私は願っている。この方が内閣総理大臣に任務することは正しいか、私は皆さんに考えていただきたい。この方が首相で正しいか、というと、私はこの方が首相で正しいと考える。総選挙の最善手は、この石破さんを首相として選ばれることではないだろうか。この方は首相として政治を完遂することができるであろう。 - ★正しさとは何かパート4
皆が求める解決策を練り、社会的に広めていく──これを正しさという段階を維持しながら構想して押し広めていく。
例えば、郵便局が地域で数個増やす、というもの。郵便局は地域の市民にとって大切な媒介であろう。皆が求める郵便局の設立は、それが優位である限り設けることが大切だと考えられる。しかしながら、郵便局が無限に増えてしまうと優位とは限らないであろう。郵便局の過剰は、カオスとして浮かび上がる。そんなカオスな展開は誰も求めていない。
正しさということを規準に郵便局の数を限定的に構想するということも考えられる。10個も郵便局を地域に一遍に設立することは、正しさという規準から反れているのではないか。二桁の数字だから多すぎる、というわけではない。実質、コンビニは10個だけでは少ない。しかし郵便局の個数は、10個では余っている郵便局も出てくることが懸念される。地域の市民は郵便局が多くて嫌だ、と反感を買うかもしれない。そして郵便局であのダメなクズが働いて微妙だ、と罵るかもしれない。よって郵便局がベストな個数分だけ設立されなくてはならない。
もう一例。恋愛において、カップルが付き合う、というもの。恋愛魔性を読めばいいのだが、恋愛魔性を読まずに恋愛に臨むとき、甘さがあるであろう。恋愛はお互いの感情のぶつかり合いだったりする。もっと彼女を幸せにしたいなら、情報や知識を蓄えて行動に移さねばならない。皆が求める恋愛像をお互いに考え、お互いの恋愛像を共有していくこと、そしてお互いにカップル像を見出していくこと、それが幸福であろう。
ベストなカップルができることが理想であろう。いわゆる運命の人という存在と出会い、恋愛像やカップル像を抱くことが正しい恋愛に直結している。
しかしながら、不倫や浮気に発展してしまったら、正しい恋愛というものは見いだせないであろう。そこには別れ、後悔、落ち込み、というものが付き纏う。一夫多妻制があるわけではないのだから、ひとりにつきひとり、というカップル像が理想であろう。 - ★正しさとは何かパート5
ひとりにつきひとり、というカップル像が日本では正しいと考えられる。中国では一夫多妻制が適応されているから、必ずしもひとりにつきひとり、というカップル像が正しいわけではない。
銃という危険物をアメリカでは所持することが許可されている、そんな文化・法律の違いが、各国で懸念されるのであり、日本では銃を所持することが許可されていないパターンもある。しかし、警察は銃を腰に下げている例もある。これは日本だけではなく、中国の警察も銃を扱っている。
アメリカのトランプ氏を銃で射撃した犯人を、アメリカの警察は銃殺してしまった。幸いトランプ氏は軽傷で済んだが、犯人は銃で撃たれ死亡した。彼は何のために射撃したのか、よく分かっていない。こういう射撃を正しいとは言えるだろうか。トランプ氏が軽傷であったとしても、警察は許してくれないケースがある。その日は、トランプ氏の演説の最中であった。そんな機会を邪魔してまずかった、と言えるか。トランプ氏は犯人が一番嫌いになったという。彼もトランプ氏が一番嫌いだったらしい。
ひとりにつきひとり、というカップル像が正しい、とは軽率であろう。ひとりにつきひとり、というカップル像が日本では正しい、と言う言い方がおおよそ正しいのではないだろうか。というのも、日本では正しい場合がある、と「場合が」という言い方が正しいと考えられるからだ。日本ではひとりにつきひとり、というカップル像でない別のカップル像も正しい可能性も考えられる。それはひとりにつきひとりという枠組を超えた、新たなるカップル像に違いない。
中国では一夫多妻制が認められている場合があり、ひとりにつきひとり、とは限らない。しかしながら、一夫多妻制を否定することも考えられる。一夫多妻制では夫が複数の妻を持つ可能性があって面白くない、そして、妻をたくさん抱えていて微妙だ、と否定的な見方もあるであろう。
一夫多妻制が正しいか、ひとりにつきひとり、が正しいか、私たちは悩まされるのかもしれない。
どれが正しいかは、裁判で決するであろう。しかし私たちは裁判をしなくて結論を出してもいいであろう。一夫多妻制はある特定の民族だけに限るなら許容される、というように、ひとりにつきひとりでも、日本の此処では許容される、というケースもあるであろう。 - ,.-,‐''¨゙''''''‐-:.、
/.::::',',',ゞ、:::::::::::`ヽ、
/:::::::::::ハ',::::',::::::::::::::::ヽ
/::::::::::::::ノノ'i',',::::',::::::::::::::::ヽ
,'::::::::::::::// ||' ,\::',ヾ;:::::::::i 全体の奉仕者として
,':::::::::::ノ彡ミ !! ', \彡;:::::::::::|
i::::::::c''",二,,¨ヽ =,.-'"二,,¨゙ァ、::::::::::|. 公文書偽造は犯罪です。 飲酒運転も犯罪です。 生活保護費不正受給も犯罪です。
|::::イ!¨ゝ_¨゙´`ノ ヽ´_゙゚¨ノヾ',::::::::}
',:::::|  ̄ ' -、  ̄ ',::::::::! 学歴詐称も犯罪です。 金塊密輸も犯罪です。 丸刈り自札追い込みも犯罪です。 架空請求も犯罪です。
{::::{ ゞ‥'ン |::::::/
!:ノ, __ニ___ !/V,' 公的な職場のPCや資料の私的利用は犯罪です。
ノ'气 ´ ‐−‐ ` i'¨7ゞ
!||' , ,イ||/ 勤務時間中に、業務以外の私的活動は闇専従同様、公務員にあるまじき行為です。
!|||',-、 ' -‐ ,. ' .|〈.
!!!' i ' ,, ,,.. /ヽ'.,
/'i ,.-'" /:::::ヽ
/ :::| _,.-'" ,'::::::::::::ヽ- 、_ よって民営化で、切り離しました。
_,,..-‐ャ゙ ̄',-、! r'"´ `ヽ. , '::::::::::::::::|::::::::::::
¨::::/::ヾ', ,'ヽ / ,' , ':::\::::::::;:-ャ:::::::::
::::/::::::::::', ,'/::::::r-;゙=''":;: ':::::::::::
トールちゃん - ★君たちはどう生きるか?パート5
君たちはどう生きるか、という話の前提として、設定が日本であるように感じる。
アフリカにいれば山林を巡ったり野菜巡りをしたりすることが目標として考えられる。
しかし日本において、どう生きるか?と問題設定も可能であろう。私たちは、子どもの頃は保育園に通い、そして成長するにつれ学校を新たにする。やはり両親の暖かい眼差しが子どもの人生を支えていくのだと思う。もちろん両親は金銭を子どもに費やすことも多々あるかと思う。子どもの人生を支えていくとなると、塾に通ってもらう手段も考えられる。塾に通うといい、ということは通説になりつつある。そして友だちを増やすこと、これが肝心である。友だちは一生の宝である場合がある。友だちは自分の人生を支える場合もある。そして、人生が良くなると思って友だちを作ればいい、というものではない。自分に利益がなくとも、他者のために利他愛で接する、ということが大事なのだ。自分の利益は後回しで、救っていけるときは救っていく、チャンスを逃さないで救いは救い、を実践していただきたい。大丈夫、と思って暮らしていきたい。大丈夫すぎる、というのは危ないらしい。大丈夫すぎる、は目指さなくていい。大丈夫であれば、何とかなるものだ。 - ★自己啓発の危険性
自己啓発と聞いて久しい方もおっしゃるであろう。私たちは自己啓発本に興味を持ち、知らず知らずのうちに読んでいるかもしれない。しかし自己啓発本は、その内容に依存してしまう可能性があります。読むことばかりに専念してしまい、結果実践不足になる可能性もあります。
読むことばかりに気を取られ、すなわち自己啓発本を大量に抱えてしまうと逆に実践不足状態を起こしてしまうのです。
しかし実践事項をメモ帳にまとめ、本の感想をノートに残すと、整理整頓できているので、それは大丈夫な場合があるかと思います。
実践事項その1、朝起きて歯を磨く
その2、カーテンを開けて背伸びをして太陽の日差しを浴びる
その3、コップ一杯の水を飲む
このように、整理整頓してしまおう。 - (以下引用)
一切の認識活動にはそれに先立って「意志(という主体)」が前提されなければならない(243)
------
ショーペンハウアー哲学において、「意志」と内的な動きが語られることはしばしばあった。
意志はそのまま無視される場合があるが、意志内容を聴いてみると行動の源となる場合がある。
一切の認識活動にはそれに先立って「意志」が前提となるのであり、そして「意識」も前提となるであろう。
意志の働きから連動性が生まれる。それは意識との連動でもありうる。
たとえば「リンゴを食べよう」と意志が働き、「リンゴを手に入れよう」と意志が働いて連動する。
(以下引用)
『いやしくもこの世界に属しているもの、また属することができるものはことごとく、主観による以上のような制約をいやでも背負わされているのであって、世界に属するすべてものはただ主観に対して存在するにすぎない。世界は表象である。このような真理はなにも特別目新しいとはいえない。すでにデカルトが出版点となしていた懐疑的な考えのなかにもこれはあった。』P7 デカルト以前は客観にこそが真理あると考えられていました。デカルト以後は主観にこそ真理があるとされそれが近代の個人主義を支える思想となったのです。
------
「意志と表象としての世界」と題される通り、世界は表象だと説明されています。
意志が表象されると言ってもいいでしょう。それだけではありません。
動的に知っていること、それは起こりうる現象を誘引します。
動的に知っているという例として、相手は水を飲む、と知っていたとします。
すると、相手は水を飲みます。動的に知っていることは、ここでは、水を飲むと知っていることは、現象になってしまうのです。
意志には不可能性も考えられます。「ホームランを1万回打ちたい」と意志に芽生えても、不可能な場合が考えられます。意志には不可能な内容の命題がある、とも考えられます。 - ★外化、そして、内化
外化という言葉の意味は、「カラスいいカラスいいカラスいい」という意味である。
カラスの考え方としては、「外化」の意味はいいと思うから、「外化」がいい、という考え方であろう。
カラスという言葉の意味は、「ライライライライライ」という意味である。
外化いい、という言葉の意味は、「ライライ神いい」という意味である。
外化よすぎ、という言葉の意味は、「神いい」という意味である。
外化いいんだ、という言葉の意味は、「神神神神」という意味である。
カラス外化、という言葉の意味は、「カラスよっすぎーる」という意味である。
――――――
内化という言葉の意味は、「カラスいい」という意味である。
外化に換わって発現という概念もある。
デザートスフィンクスという言葉の意味は、「ヘーゲルいい、ヘーゲルいい」という意味である。
スフィンクスという言葉の意味は、「スフィンクスいい、ヘーゲルいい」という意味である。
ヘーゲル内化という言葉の意味は、「ヘーゲル神」という意味である。
カームという言葉の意味は、「かよかよかよかよかよ ファイファイファイファイファイ」という意味居がある。
ケームという言葉の意味は、「かよかよかよかよかよ ファイファイファイファイファイレイ」という意味がある。 - ★「いき」の構造 【書評】
江戸時代、「いき」という言葉が流布されていた。
「いき」という概念を掘り下げる際に、以下の三種類が提起される。
「媚態」、意気地、諦め、である。
>>「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。
媚態は諦めとも相容れないかというと、そうでもない。諦観しそうなそんなときに、好きなんだけどなぁ、離れたくないよぉ、と媚態が光ってくる。
>>理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色である。
あの人と付き合いたい!と意気地になるとき、あるいは、手を繋ぎたい!と意気地になるとき、あの人への想いから媚態へと昇華することが考えられる。
>>そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛(せちがらい)、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒(しょうしゃ)として未練のない恬淡無碍(てんたんむげ)の心である。
>>「野暮は揉もまれて粋となる」というのはこの謂いいにほかならない。婀娜(あだ)っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯(しんし)な熱い涙のほのかな痕跡こんせきを見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握はあくし得たのである。
ゴールデンシンガーライターソング(いきの構造)という女子語はあるものの、他には見られていない。
「諦め」は、ライライライライライという意味である。
諦めそうな、でも諦められない、この諦めの美学、あるいは諦めの境地に至ると、「こんなに好きなのに……」という媚態が生まれる場合がある。
ポイント:「いき」があるから何だ?
第二章までを読んでの書評。いきを感じられたら、それこそ人生の醍醐味となるであろう。
ヒント:「いき」に生きることを快楽として味わう。
ポイント:媚態があるからなんだ?
媚態が生きるが嬉しい(うれしい)生きるが と女子語にあるように、媚態によって嬉しく生きられるであろう。 - ★素直になるということ
素直に相手の意見を聞き入れ、行動に移すこと、それができないのが現代人です。
素直力とは、素直に生きる能力のことです。自分を誤魔化して生きる現代人にとって必須項目となります。
誤魔化す、という名前の存在もいるから注意されたい。誤魔化してばかりいると、本当の気持ちに気付くことが難しい。
誤魔化していると偽りの自分を築き上げてしまう。本当の感じを、そのままの感じで感じられない。
偽りの自分がいたままだと、本来の自分の成果を出せないままだと考えられます。
自分を誤魔化さずに、受け入れるべき内容は受け入れ、悔い改め、素直になりましょう。
そして、素直さだけではなく、行動(実践)することが求められています。
素直力×行動力=仕事の成果 ということも考えられます。
現代は、素直さと行動力が要請されています。
私たちは、素直になることを難しく感じるかもしれません。しかし素直にならなくてはならない。
素直に学業に励めば、きっと勉強して良かった、と自信に繋がるはずです。
素直に生きるということは、真っ直ぐ生きるということであります。
真っ直ぐに学習していくなら、学習効果率も高まっていくと思います。 - ★「いき」の構造 【書評】 第三章を踏まえて
>>「いき」が野暮と一対(いっつい)の意味として強調している客観的内容は、対他性の強度または有無(うむ)ではなく、対自性に関する価値判断である。すなわち「いき」と野暮との対立にあっては、或る特殊な洗練の有無が断定されているのである。
「いき」が野暮性によって暗がりになってしまってはもったいないように思える。
しかし、意気が中心となる際に一抹の野暮ったさを解消してしまったら、意気は輝きを取り戻すであろう。
>>さて、意気といい粋といい、いずれも肯定的にいい表わされている。それに反して野暮は同義語として、否定的に言表された不意気(ぶいき)と不粋(ぶすい)とを有する。我々はこれによって「いき」が原本的で、ついで野暮がその反対意味として発生したことを知り得るとともに、異性的特殊性の公共圏内にあっては「いき」は有価値的として、野暮は反価値的として判断されることを想像することができる。玄人(くろう)とから見れば素人(しろうと)は不粋である。
意気も粋もどちらも同音異義語であろう。野暮な様が粋を阻害する。私たちは、粋に生きたければ、野暮さを出してはならない。
玄人にから見れば素人は不粋である。 ……という通り、私たちは玄人を目指すべきであろう。
素晴らしい者はどうだろう。素晴らしい者は、「いき」に生きているではないか。
しかしながら、素晴らしい者は、「媚態」を抱えているとは限らない。
というのも、素晴らしい者は色恋に無頓着だからだ。
素晴らしい者は、「意気地」を抱えていない可能性がある。
素晴らしい者は、「諦め」が上手い。忠告されたら「諦観」する、ということも考えられる。 - ★透明人間と「頽落」パート2
食事を食べられなかったとしても、魔法で食べられる場合がある。
子どもを産めなかったとしても、何者かが子どもを降臨させてくれる場合がある。そんなときその子どもを産みの親ではないにしろ育てたくなるであろう。
食事を食べられないことが生涯続くのなら、飲食できない「頽落」とも呼べるが「永久頽落」とも呼べるであろう。
出産できない「頽落」も「永久頽落」であろう。こうした「永久頽落」は透明人間に概ね当て嵌まるものである。
林の透明人間は魔法がないと食べられないはずなのだ。しかし食べるために魔法を使えばよい、というものではない。魔法を使うと食費がかかったりするおそれがある。林は食べなくても生活できるはずだから、食べなくても大丈夫であろう。 - ★「いき」の構造 【書評】 第4章を踏まえて
顔にも「いき」というのは感じ取れることが第4章で示されている。
目が細くて瞳に艶がある、こういうのを粋な目をしている、と言うであろう。
それは見返り美人図を見れば、おおよそ掴めることも考えられる。
江戸時代は、目が細かった女性を、美人と扱っていたのであろう。
顔の様相も「いき」に関係する。丸顔が良い、とされた文化もこの書籍が書かれる前にあった。しかしその後、面長の顔立ちが人気を集めた。この「面長の顔立ち」は、浮世絵でよく見られるはずである。
見返り美人図では、姿勢、衣装、体つき、が程良いバランスで描かれています。顔と表情も時代に即して面長の顔立ちとして描かれています。
化粧、着こなし、素足と手のしぐさも「いき」の極微を感じ取れます。
皆さんは、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「モナ・リザ」をご存じでしょう。モナ・リザの微笑みは、何となく「いき」を思わせます。
「真珠の耳飾りの少女」という絵画では、絶妙な角度で「いき」な表情が描かれています。私の好きな絵画でもあります。私はこの絵画をモチーフに描いていきたいと思っています。
身体的な「いき」と芸術的な「いき」を書いてきたが、微笑みの絵は、芸術的かつ身体的な「いき」であると述べておきます。芸術的な「いき」をよく読まないまま書いたこと、お詫び申し上げます。わびとは侘びる(わびる)から来ております。さびとは寂しい(さびしい)から来ております。
狭い居間で旦那に侘びながら、寂しいと感じてお茶をすする未亡人が思い浮かびます。「旦那……愛してた……でももっと大切にすればよかった……ごめんなさい……寂しい……これがわびさびですか……神様……」 - ★「いき」の構造 【書評】 第5章を少し踏まえて
この書籍では、様々な色合いが「いき」と関係するという理屈が展開されます。
鼠色が「いき」と根深い関係にあるというような調子で述べられています。鼠色は「いき」であると感覚・感性でつまみ取れます。
そして茶色・茶鼠も「いき」という調子で記されています。
畳(たたみ)をご存じの方もいらっしゃるかと思います。畳は「いき」の最骨頂であります。その畳の上に私たちは立つことや座ることができるかと思います。まさに畳の「いき」を感覚・感性で堪能できるというわけであります。
それだけでなく、畳には独特の香りがします。天然い草を使って生産されています。この目に映ることのない「香り」
は、外観的な「いき」とは一味違います。
「うなぎの香り」というように、魚類には香りが付き纏います。「さんまの微妙な香り」は嗅ぎたいものではありません。やはり「うなぎの香り」は「いき」の内包的な甘味であり、香ばしすぎるという一説を立てたいと存します。
とすると、「さんまの微妙な香り」は、却って苦味と考えられます。
こうした嗅覚で感じ取る出来事として、一般的なトイレの香りも考えられます。
消臭力、というものがあれば香りは引き立ちます。
炭火という焼き方で鼠色の炭を利用してさんまの香りはより一層香ばしくなります。鼠色の「いき」と香りが意気あいあいしているように思えるでしょうか。 - ★「いき」の構造 第5章を半分くらい踏まえて
円形・楕円形という形は私たちに快感を齎す。しかしながら円形は「いき」を感じさせることはないであろう。
楕円形も同様に「いき」は感じられない。しかし安定感のある形として有用性のあるポロライドであろう。
ところで、フランシスコ・ザビエルの(ハート)が射抜かれる絵画があるが、あのハートは「粋なもの」であろうか。他にも、プリクラなどでハートは世見できよう。その各々のハートに、取り分け「いき」なハートはあるであろうか。
模様としては(クラブ)もあるし、(ダイヤ)もある。クラブは楕円形を感じるためこれには「いき」を見出だせない。ダイヤは微妙と言われるとおり「いき」を感じさせない。
では(スペード)はどうか。King、には野暮に見えて面白味を感じない。Queen、には女性を表しているためか美意識を感じる。
生物の交尾は「粋なもの」であろうか。馬の交尾は「バッコンバッコン」と音を立てるらしい。それには魅力を感じないことが多々あるであろう。しかしトンボの交尾は、生物はこうして繁栄するのか、という感嘆を齎してくれる。それは「いき」な交尾のストーリー、という外観ではなかったか。動かないハートより、「粋な振る舞い」の方が余程「いき」を感じるのは、幸せのトンボを動作として感じるからであろう。 - ★「いき」の構造 【書評】 全章を踏まえて
楽曲にも「いき」は見られるであろう。
ハッペルベル 「カノン 二長調」の原初は高音から始まっており、
緩やかに明るくリズムを保っている。そして徐々に音階を上げていき、軽やかに音が舞う。
「タンタタタン タタ タタタタタタタタ タンタタタン タタ タタタタタタタタ」(1)
その後、しなやかにテンポを上げていく、が、ゆるやかに音階を戻していく。
メンデルスゾーン 「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op64 第1楽章」
何かが始まる予感を齎すこのクラシック。物語の激動を表すかのようなリズム使い。
この曲は、緊張感を与えられる可能性がある。そして、音を楽しみたくなる可能性がある。
恐怖的な戦慄を思わせる旋律が私たちを取り囲む。ああ、この戦慄は私をどかへ連れて行くのですね……。
後半、私たちは迷路に彷徨った趣にさせられる。これは、メンデルゾーンの力作であろう。
3.チャイコフスキー 「バレエ組曲 <<くるみ割り人形>>Op.71aから『花のワルツ』」
強かに旋律を交錯させるチャイコフスキーの代表作。踊りを舞う舞台のときにこの曲が演奏される。
後半、「いき」なメロディが流れ、テンポは次第に速くなり、そしてまた高音になり、劇的なラストを演奏する。
4.バッハ 「管弦楽組曲第2番 ロ短調 BWV1067 より 第7局 『バディネリ』」
軽快なステップで演奏が続く。「いき」はあまり感じないかもしれないが、短いけど素敵な曲だ。 - 5.ラヴェル 「ボレロ」
ゆっくりとした面持ちで静かに演奏される。何とも不思議な曲だと感じさせるこのクラシック。
多彩なオーケストラで包まれたこの曲は、ワンパターンに思えるかもしれない。
6.ベートヴェン 「ピアノソナタ第8番 ハ短調 Op.13 『悲愴』 第2楽章」
まさに悲愴を思わせるこのクラシック。悲しみを感じさせ、暗さを感じさせる。
7.モーツァルト 「フィガロの結婚 序曲 K.492」
楽しく軽やかに舞うステップ。明るい明日があるさ、と私たちに語り掛けるかのようだ。
大丈夫、何とかなる、と思いさせるかのようなこの曲。希望を想起させる曲だ。
この希望感は、思わず抱くのではなく、追随した感じで抱くのであろう。
8.ショパン 「ノクターン第2番 変ホ長調 Op.9-2」
ゆっくりとした感じで上手くリズムを合わせるこの曲。
9.ドビュッシー 「牧神の午後への前奏曲[ラヴェル編曲]」
迷走に迷走を繰り返し静かなるときを思わせたが、それでもまた迷走するこの曲。
10.リスト 「ハンガリー狂詩曲 第2番 嬰ハ短調 S244−2」
暗い趣きを感じさせるこの狂詩曲。静まった後、高音で演奏される。
それは「いき」を感じさせ、ピチピチ生きてしまった感じを思わせ、楽しくさせる。
コメントを投稿する 最新コメを読み込む
↑今すぐ読める無料コミック大量配信中!↑