まだ感動する自分がいる。
昔は本が好きで集めていたが、自分が好きなものを自分が独り占めしていたら、好きなものが広がって行かないじゃないかと思い、自分の好きなものほど人にあげるようになった。手放したらなくなると思っていたが、手放すほど、残った。手元にあるとまた読めばいいかとなる。手元に残らないから、何回も反芻する。人との出会いも似ていて、また会えると思うより「これが最後かも知れない」と思うと、本質的になる。人生は何度でもやり直せる。それは嘘ではないとは思うが、人生は取り返しのつかないことの連続だと思った方が、瞬間に真剣になる。
呉勝浩の「爆弾」と夕木春央の「方舟」という小説を立て続けに読んだ。どちらも推理小説で人間の悪の部分が描かれている。悪よりは美に触れていたいと思うが、美しい人とは、醜さとは無縁の人ではなく、醜さを知っている人のことだと思う。善と悪も似ていて、善人とは、悪と無縁の人ではなく、悪を知っている人のことだと思う。醜さがない人が美しいのではなく、醜さを自覚している人が、美しくなるのだと思う。小説の面白さは、善や悪、美や醜の価値基準が揺らぎ、わからなくなることだ。途中、怖くて何回も震えた。どちらの作品も人がどんどん死ぬ。普通、人が死ぬことは悪いことだとされる。だが、それがよくわからなくなるのだ。わかることと言えば「死にたくない」と思う自己中心的な思いだけ、自分のエゴだけである。
私には五歳年上の姉と、四歳年上の兄がいる。小学六年生の時に、姉から「これを読め」と言われて、我孫子武丸の殺戮にいたる病と、澁澤龍彦の快楽主義の哲学を読まされた。兄からは「これを読め」と言われて、完全自殺マニュアルと人格改造マニュアルを読まされた。純粋だった私の魂はしっかりと汚され、傷つき、人間の底知れなさに震えた。だが、それ以上に「面白い」と思った。知らない世界を知ることは面白い。そして、世界にはまだまだ自分の知らないことがたくさんある。本は、私にとって、知らない世界を教えてくれる代表的な存在になった。知っていることを確認するためではなく、知っている世界を壊してくれるのが本だった。
さくらももこと鳥山明が好きで、コジコジのシュールな世界観や、ペンギン村やカプセルコーポレーションのポップな世界観にときめいた。姉や兄に壊された幼少期の自分が、回復した。宮本常一の「忘れられた日本人」にある土佐源氏に度肝を抜かされたり、奥田英朗の「サウスバウンド」を読んで格好よさに涙を流したり、福岡伸一訳の「ドリトル先生航海記」を読んで世界を旅しているような気持ちになったり、隆慶一郎の「一夢庵風流記」を読んで俺も素戔嗚尊のように生きようと思ったり、ソローの「森の生活」を読んで家そのものを断捨離したり、色々な影響を受けた。私は馬鹿だから、影響を受けるとすぐに真似をする。読むだけじゃなくて、自分の人生に反映したくなる。知識を得ることが嬉しいと言うよりも、まだ、自分の中に感動する心があったことが嬉しいのだと思う。
先日動物園に行った。動物園に行くと複雑な気持ちになる。珍しい動物を見れることは嬉しいが、俺は一体何を見ているのだろうかと思う。山の中で野生動物と遭遇したら、絶対に怖い。檻の中にいる動物を見て、怖さを感じることはない。彼らは、もう、自分で餌を取る必要がない。それが幸せなことなのかどうかはわからない。わかることは「怖くない」と言うことだ。怖くないから、安心して見ることができる。安心とは何か。動物園の檻が突然開放されたら、私は、恐怖を感じるだろう。その恐怖こそ、リアルだと思う。山の中にあって、動物園にないもの。それは「リアル」だと思う。やるかやられるかの、命のやり取りだと思う。命のやり取り。物騒だけど、これ以上の触れ合いはない。怖いけど、やりたい。怖いけど、読みたい。それは、やっぱり面白いからだと思う。呉勝浩の「爆弾」と夕木春央の「方舟」という本を、ご希望される方に無料でお譲りいたします。欲しい方はご連絡ください。一緒に震えましょう。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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